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保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

大枝山に棲む酒呑童子を探しに・・・

2020-06-29 09:36:51 | シリーズ・京都を歩く
スポーツ新聞を読んでいると「原田龍二、自宅で怪奇現象続々!」という記事が目に留まりました。
TV「世界の何だコレ、ミステリー」で座敷わらし調査始めてから、頻繁に不思議な現象が起こるとのこと。

近年の人々が妖怪や怪異への関心は異常に強くなっています!
このミステリーチェイサー原田龍二さんが探索する妖怪・座敷わらしシリーズもTVの人気コーナーです。

そんなご時世ですが、私の地元亀岡と西京区の境に位置する大枝山の頂上には、
つい先日まで日本妖怪研究の第一人者・小松和彦先生が大将を務めた
国際日本文化研究センターがあるのも何かの因縁でしょうか?

そう、この大枝山の老ノ坂峠には、昼でも不気味な霊気が漂う「首塚大明神」が祀られています。
ここに祀られているのが、日本三大妖怪と呼ばれる「酒呑童子」です。
平安時代に丹波大枝山を棲み家としていた伝わる酒呑童子。
夜な夜な都に現れては金銀財宝を強奪し、婦女子をかどわかすなどの
悪行三昧で、当時の都人を恐怖に陥れていました。
そこで武勇に長けた源頼光率いる四天王に酒呑童子討伐の命が天皇から発せられ、
源頼光らは大江山千丈ヶ嶽に攻め上り、苦心の末、酒呑童子とその一派を征伐しましたとさ。
平安の世の都人は日本海に繋がる西の方角に対して、神経質なほど恐れを抱いていたといわれてます。

妖怪伝説も多く伝承されているのです。そういえば保津川の流れも西から都へ注がれていますね。
「最先端の技術や情報も、邪悪なものも、西から訪れる~」

今度は原田龍二さんと一緒に、京都や丹波の妖怪ミステリーを探訪する企画をしたい~
これまで見えなかった‘何か’が見えるてきたりして・・・

川ごみにまみれる連休初日。

2019-11-03 14:12:36 | プロジェクト・保津川
今年も保津川大橋下で「海ごみ探偵団」の活動が行われました。

これは「川と海つながり共創プロジェクト」の環境教育・啓発活動の一環で、
亀岡市内の小学生を中心に川のごみと海のごみの調査を通じて、
その関係性を実践活動で理解していこうというもの。

今年は舞鶴の海岸のごみ調査を夏に、保津川調査を秋に実施し、7年目となる活動です。

条件のいい年は、保津川下りの船で保津峡内で現地調査をしているのですが、
今年は昨年来の度重なる台風・洪水の影響で、足場の悪い箇所もあるので工程を変更し、
平坦で川ごみの拾い易い、河原で行いました。

それでも、先日の台風19号や20号の大雨で漂流してきた、
ペットボトルや食品トレイなどプラスチック系のごみが多く点在していました。

回収したごみの中には、海でマイクロプラスチックになる農薬の玉が多くあり、
子どもたちは「こんな小さな玉になったら拾い集めることは無理や~」などと
問題意識を持った感想を話していたことに、この活動の主旨が確かに浸透してきている手応えを感じた次第です。

亀岡市はこのように、もう10数年前から、川に漂着するプラスチックごみの問題について、
地域を挙げて、地道に取り組んできました。

2012年には日本の内陸部(海に面しない市町村)で
初めて「海ごみサミット・亀岡会議2012」を開催し、
「川のごみ」と「海のごみ」の関連性から、
協力して課題解決へ向かう活動を実施してきました。

だからこそ昨年の「プラスチックごみゼロ宣言」発令へとつながっているのです。

今後とも亀岡市内はもちろん、嵐山など流域の地域とも連携して、
世界規模の重要問題を、地道な足元の活動を通して、アプローチしていきたいです。

命を賭ける仕事とその遺産

2019-09-16 16:21:03 | 保津川下りものがたり
「人生は50年ともいう。もう、いつ命が尽きてもおかしくない歳になった。


しかし・・・まだ、自分は人生で成すべき目的を果たしていない気がしてならない。

否、自分はその目的を果たすことができるのに、力を出し尽くしていない!」

朱印船貿易に成功し、商売、一家を潤わせたにもかかわらず、
50歳を前にした角倉了以は日々、自問していた。


「今ならできる。前人未到の大事業を!いや、今やらねば、死して後悔を残す。」


立ちはだかる断崖絶壁、行く手を遮る巨岩や奇岩、うねり落ちる滝。険しい大峡谷へ挑んだ了以以下角倉一党。

岩の除き、川底を掘り、川の流れを変え、新しい航路をつくり、天下人ですらなし得なかった巨大プロジェクトに成功し、
和船通行を可能にし、地域を潤わせ、国を潤わせた。

あれから413年、昨日も世界各国から2000人の観光客が、了以の作った川の路を下っていた。

前人未到の偉業・・・今も保津川の流れとともに。

先人の思いを乗せ~保津川筏再現イベント

2019-09-15 13:44:33 | 保津峡・桂川のりもの物語
保津川の筏流し再現イベント。

「保津川(桂川)流域の象徴として」筏を復活する!

2007年、私の発案により始まった保津川の筏流し。

まだ、存命でおられた筏士さんの家を訪ね、
その玄関先で「復活に賭ける意義とその思い」を熱く説き、何度も足を運んだ。

とうとう、根負けされた筏士さんに認めて貰った。

筏を復活することで筏の組み方や流し方を教わることはもちろん、
山国庄の上流から嵯峨嵐山や梅津、桂など下流地域と繋がる「産業記憶」を甦らせたかった。

それは戦前に筏を流していた亡き祖父への思いもあった。

それが今も、引き継がれていること。嬉しく思う。

1300年の歴史ある「川と人の記憶」

技術だけでなく、その厳しい自然に対峙した人たちの精神も含め、日本の遺産として、これからも途切れることなく、次世代へ受け継いでほしい。

筏を見るたびに、颯爽と筏を流す祖父を姿を思う。

"2億年の地層が迫る京都最大の峡谷・保津峡‘

2019-08-04 09:57:27 | 保津川下りものがたり
"2億年の地層が迫る京都最大の峡谷・保津峡‘’


三畳記からジュラ紀にかけて、海底で層状された
地層が隆起し、激流に侵食されて生まれた大深谷だ。



悠久の時を刻む地球の歴史と繋がる地層の壁岩に、
400年間、竹竿を差し続けた船頭たちが削った「棹の跡」


その深さは10cmにも満たない。

保津峡・・・それは・・・


地球の自然と人が織りなす、歴史・b景観に他ならない。


桂川水運・裏ものがたり

2019-04-19 09:50:46 | 桂川(大堰川・保津川)裏ものがたり
明治34年(1901)の1月、京都千本三条の交差点南側の家に
「千本組」という金看板が掲げられた。

正業は「材木運送業兼人夫出し業」つまり桂川(保津川)の筏流しと運搬業務、それに関わる人夫手配業だ。

以来、約40年に渡り京都の運送業や土木業界にその名を刻み、確固たる地位を築いた千本組。

千本組は博徒の一家となり季節労働者や日雇い労働者などを束ねる。つまりはかたぎやくざだ。

かたぎやくざは町内の治安を守り、消防団も兼ね、祭も仕切っていた。
全盛期には祇園祭の御輿を3基も任されていた。

この千本組の組長・笹井末三郎。

この末三郎率いる千本組が後に日本映画の黎明期に重要な役割を果たすことになる。



江代々の檀家であった嵯峨の法界寺が廃寺になっているので、詳細な家系図等は
残ってないだ、江戸時代・文化・文政の頃、すでに嵯峨で手広く材木運搬業を営んでいたといわれる。
主に車屋という屋号を持ち、格式ある業者だったようだ、

この材木業の千本組と笹井末三郎の桂川水運との関係を追っていくと、意外なつながりが出て来る。

嵯峨嵐山と千本三条。明治の激動の時代。桂川水運からみえる裏京都の歴史を浮き彫りしてみたい。




亀岡市が国内で初めて「プラスティックごみゼロ宣言」!レジ袋の使用禁止へ。

2018-12-18 09:52:00 | プロジェクト・保津川
12年前、雄大な保津峡の片隅で、たった2人から始めた小さな、小さな動きが、
日本をガラリと変えるかもしれない。

そんなニュースが12月13日、亀岡市から発信された。

川のごみを拾っても世の中は変わらない!自分の仕事場を掃除するのは当たり前!
イタチごっこ、いつまで続くやら…生活ごみの処理でも大変なのに、わざわざ川のごみまで拾って…

川の漂着するごみを回収する活動をボランティアで始めた時の
周囲から聞こえてきた冷ややかな声。

大量の漂着ごみをいくら回収しても、目に見えて減ることがない、
川ごみの前にして、立ちすくみ、
こんな活動していて、いつか報われる時がくるのかな…??

いつも自問自答しながら、悪臭を放つごみを川から掬い上げていた日々。

しかし、そんな小さな私達の活動を見捨てず、支えて下さった方々の手により、
川ごみの大半を占める、使い捨てプラスティックごみのゼロ宣言が発せられた。

まずはレジ袋の使用を禁止する条例の制定を、2020年までに策定するとしている。

確かに世の中が動いたのだ!

世界では2015年までにプラスチックごみの全廃を目指している。

さあ、本番はこれからだ。

秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか? 宝筐院

2018-11-29 12:11:28 | シリーズ・京都を歩く
嵯峨嵐山で一番、紅葉がきれい!と呼び声高い宝筐院。

平安時代に白河天皇の祈願によって建立された勅願寺で建立当初の名は善入寺といいいました。 #

鎌倉時代までは代々皇族が住職を務める寺院でしたが、南北朝時代に南朝と北朝の争いに巻き込まれ、
廃寺同然に。その後、夢窓疎石の高弟・黙庵周諭禅師(もくあんしゅうゆぜんじ)が
臨済宗の寺院として復興させました。

黙庵に深く帰依していた室町幕府・二代将軍の足利義詮は、寺院の伽藍再興整備に尽力しました。

また、同寺に、四条畷の合戦で北朝の大軍と戦って討ち死した楠木正行(くすのきまさつら)が
眠っていることを知り、政敵ではあったが、人柄を尊敬していた義詮は、
自分の死後、正行の隣に葬って欲しいと遺言を残します。

その遺言はかなえられ今も並んで境内に眠っています。

赤に朱、橙など色とりどりの紅葉を回遊式庭園で巡ることができるほか、
障を開けて額縁絵で見る紅葉は見事です。

美しい紅葉と武将同士の友情と宿命に、思いを馳せて訪れるのも嵯峨野流ですね。

秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか? 愛宕念仏寺

2018-11-28 16:27:11 | シリーズ・京都を歩く
愛宕とかいて「おたぎ」とよむこのお寺は、奈良時代末期、聖武天皇の娘・称徳天皇が
京都・東山の地に愛宕寺として創建しました。

しかし、平安時代初期に近くを流れる鴨川の洪水ですべてが流失し、
廃寺になっていたものを醍醐天皇の命により
天台宗の千観内供(伝燈大法師)が復興しました。

いつも念仏を唱えていた千観は民衆から「念仏聖人」と呼ばれていたことから「愛宕念仏寺」となりました。

空也上人との邂逅を得て「何ごとも身を捨ててこそ、仏道」との言葉を授かり、
その後、民衆の苦難に対し、身を捨てて救済にあたりました。

お寺は大正時代に嵯峨の地に移築されました。

その寺の再興を祈念して「境内を阿羅漢の石像をで満たそうと、
昭和54年から信徒や参拝者からの寄贈により、10年かけて1200体の阿羅漢を集め、
平成3年に「千二百羅漢落慶法要」を厳修しました。

様々な表情をする小さくて可愛い阿羅漢の石仏が「インスタ映え」すると、奥嵯峨人気のお寺となっています。

秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか? 大覚寺 

2018-11-27 07:38:17 | インバウンド
平安時代初期、嵯峨の地をこよなく愛した嵯峨天皇が、成婚を期にこの地に「離宮嵯峨院」を建立した大覚寺。

鎌倉時代にはここで政治を執行したこともあり「嵯峨御所」と呼ばれています。

弘法大師・空海を宗祖とする真言宗大覚寺派の本山で、
以来、代々天皇や皇族が門跡(住職)を務めてきた格式高い寺院です。

境内にある大沢池は、約1200年前に造られた日本最古の人工池で、
月が綺麗に見える池ことから「日本三大名月鑑賞池」として有名です。

最近では時代劇の撮影現場としてもお馴染みです。

室町時代に角倉了以の本家が大覚寺境内で土倉(金融)を営み、
後年にその勢力を嵯峨一帯に拡大していく拠点となったのもこのお寺です。

いけばなの家元でもある雅な風前と近世の経済構造の変革に大きく寄与した活力が混在する大覚寺。

紅葉の美しさと嵯峨の歴史を感じて下さい。