考えごとの家日記。

一人暮らしのつもりの考えごとの家が8年経って一気に三人暮らしに?そして今や4人暮らし!?

母が無事退院

2014-02-05 20:29:12 | 生活
なんと、8月から入院していた母が半年近く経った1月末に、無事退院しました。心配いただいたりお見舞いをと気にしてくださっていた方々にはお礼とご報告申し上げます。

実は1月に入ってから、「間質性肺炎を起こしているみたいだから、今の治療は続けられない」と主治医に言われ、PETを撮りに行くように言われていました。その時の話では、今の治療は続けられないので、別の治療を一からするので、また半年近くかかるとも。
え? ま、まじで?
しかも、間質性肺炎というのが、調べてみると、あまりよくないことがいろいろ書かれてあり、まさか最悪の事態も想定しなければならないのではと、緊張がはしりました。
PET検査は入院している病院でできないので、タクシーで専門病院へ行くという。私も行くべきかと思いましたが、仕事も休みづらく、叔母がつきそうから大丈夫という言葉に甘え、お願いしました。
結果を聞くときは兄貴も東京から行くというし、私も都合つきそうだったので、出掛ける計画をしていました。
するとその前に主治医から、光ってるところがないですね。と言われたとのこと。あともう少し詳細な解析をしてからまた結果をお知らせしますとのこと。すると、その翌日、もうがんも寛解しているし、肺炎などもないので退院してくださいとのこと。。
え? ま、まじで?
喜ぶべきところが、つい前の週まで、あと半年近くかかるか?と心配してあたのに。治った?ホントに?と、信じられないことに。
すぐに退院と言われても、実家が東京になったので、東京にいける段取りをしないとすぐに動けないし。ということで、病院には一週間ほど待ってもらいました。
東京から兄貴も迎えにくるし、叔母にも東京まで付き添ってもらうことに。
私は退院のお手伝いと母や元実家の様子を見にだけ、日帰りで大阪に行きました。天気のよい日で暖かく、退院日和でした。
母の姿を直接見るまでは、本当に退院できるだけ元気になっているのか、私も半信半疑でしたが、 実際会って、歩く姿を目にしたら、案外半年も入院していた人にしたらしゃんとした歩きっぷりだし、しっかりとしているなと、ようやく少しほっとしました。

また、私の車に乗せて、最後の元実家を訪れたときは、母は、降りないと。兄貴は、今の持ち主から鍵も借りて、最後のお別れに清めのお酒も用意していました。もうあと数日で解体されるのを待つだけの家に、本当に最後のお別れでした。母は、悲しい現実を見たくないのもあったのでしょう。「私はもう後ろは振り返らず、前だけ向いていくから。。」とのこと。父や家族との思い出がつまりすぎたこのからっぽの家を見るのは、母には酷だったのかもしれません。私だって、寂しいことには変わりないし、まだ信じられない気持ちもどこかにありました。でも、兄貴の方が、私よりもそんな気持ちは強かったかもしれません。引越し荷物だって、古い思い出のつまってるものほど、できるだけもっていこうと必死なようでした。また、解体時には床柱をもらうと、買主の工事業者にお願いしていました。降りないという母に対して、兄貴は「もう最後やで。本当にええんか?」と。「母は、もういいから。」と、頑なな返事に対して、兄貴も「見て思いっきり泣いたらええやんか。降りてよ。本当に最後やで。」とのこと。しかし、母はきっぱりもういからと。母の覚悟もわからないでもないし、私は間でいいんやねと確認だけして、私は兄貴と最後のお別れに入りました。一応、もう忘れたものはないかなど、各部屋みてまわったり。。

もうそこにはない神棚の場所に向かって、いつものくせで手を合わせ、ありがとう、またねと拝みました。
兄貴は、神棚のあった和室から日本酒で清めていき、父が亡くなった風呂場の浴槽まで。ひととおり部屋を見ましたが、引越ししたあの日からなにひとつ変わることなく、時間は止まっていました。庭も最後に慌てて、鉢植えをひっくりかえし、鉢を廃棄したので、ひっくりかえした中身がそのままの状態で残っていました。しかし、雑草やそこに植わっていた植物は、なんの手入れもされずとも芽吹いているものもあり、嬉しいような、でもそのまま解体でどうにかなってしまうなら、申し訳ないような。。目に焼き付けつつ、最後に兄貴と玄関前で、それぞれの記念撮影をしました。

小さい頃、私たちは、よく玄関前に立って、父にこんな風に写真撮ってもらったよねと。毎年正月は、門の前に並んで記念撮影してもらっていましたが、父は、家族もこの家も大切だったんだよなあと本当に思います。
私も早く子供たちのために新居をたててやらないとと思います。ま、今の家も狭いながら、楽しい部分もいっぱいありますが。。
さて、そんな元実家との時間もすぎ、私は三人を新大阪まで車で送りました。新大阪には、道中電話があった父の教え子の方が、新大阪に私も行きますからとのこと。父の教え子は何十年と教員をしていたから、何百人?いや千人以上いるでしょうが、やはり始め頃の教え子は父も若くて熱い教員だったのでしょう。慕ってくださる方がたくさんいて、父にとってもかわいい教え子たち。そんな中でも、新大阪に送りに来てくださった方は、学生の時いろいろ苦労もあったようで、卒業が難しかったのを、父は、絶対卒業せんといかん!!と、必死にその方をサポートしたようです。そんなことから、卒業してからも、父にずっと慕いつづけ、父も可愛がっていたのでしょう。父が亡くなってからは、我々家族にもいろいろ気を使っていただき、できることは何でもしますから言ってくださいね~と。お言葉に甘え、兄貴は時々車を借りたり、何かとお世話になりました。そして、新大阪へは、一人仕事着のまま、花束持って立っていらっしゃいました。母への退院のお祝いと、お別れの挨拶と。なんともありがたい限りです。また父の一周忌される時は教えてくださいね。とのこと。父がどれほど目をかけていたかわかります。
さて、母たちは、東京に向けて、無事に出発しました。全く新しい地での母の生活が始まるわけですが、病み上がりで高齢の母なので、しばらくは兄貴のマンションでお姉さんにお世話になりながら、少しずつ母たちの新マンションでの自立した生活ができるよう慣らしてもらいます。
私はもはや遠くから思い願うだけになるので、なんだか巣立っていく子供を見送るような気分になりました。
とにかく、無事に退院し、東京に行きました。


その後、一週間ぐらいたったときの様子では、世話になりっぱなしだけどといいながらも、孫たちとの生活など楽しんでいるようでした。孫といっても、大学生の娘と、中学の息子なんで、すっかり大きいし。また彼らも頼れる存在ですね。

というわけで、自立までの慣らしと、施設に入っている姉が自宅に帰って生活できるように、兄貴たちはさらなる手立てをあれこれと。
兄貴には、本当に頭が上がりません。今回のことで、家族の絆はますます強まったし、家族のありがたみはいやというほどわかりました。
私たちも、そんな家族になりたいなと思いました。