忘備録の泉

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高野房太郎伝(7)

2016-11-12 09:42:05 | Library
帰国した房太郎はゴンパーズとの連絡を重ねつつ、横浜の英字新聞の翻訳記者に採用されるが、数ヶ月すると1892年に帰国していた城常太郎や沢田半之助らとともに労働運動家として立つことを決断する。
運動の第一歩として、労働組合法制定の国会請願を企画するが、第2次世界大戦前の日本で団結権を認めさせることは極めて困難な課題であった。
結局、労働組合法制定運動は断念せざるをえなかったが、そんな彼を支援してくれたのは、ゴンパーズらアメリカの友人たちの声と、職工義友会の仲間たちであった
房太郎は家計を成り立たせるために、アメリカの労働組合機関誌に英文通信を送り、原稿料を得ていたが、1897年「職工義友会日本支部」の再建の検討を始める。
そして1897年4月、「東京工業協会」総会の席上で講演を行う。
その時に参加者に配布されたパンフレット「職工諸君に寄す」が、日本初の労働組合結成呼びかけの文章であった。
その文章の最終部分にはこのようなことが書かれてあった。
「立て諸君。立って組合を組織し、以てその重大な責務とその男子たる面目を保つを務めよ」
これに続けて、労働者に対し不正、不徳の行為をしないよう心がけることを訴えている。
「労働者が社会的地位の向上をはかるためには、一般社会に受け入れられるよう、正道を歩み、社会的尊敬をかちとるように心がけねばならない」

房太郎らはこれに続いて「演説会」を計画する。
そのために各界著名人のスポンサー集めに奔走、これに賛同した面々の中に片山潜がいた。
片山潜は25歳で渡米し、苦学してアイオワ大学で文学修士、エール大学で神学士を修め、帰国してキリスト教布教の一環として社会事業を始めていたが、この演説会に弁士として参加したことから労働運動家へと転身した。

第1回演説会は1897年6月25日、成功裡に開催され、席上で房太郎は「労働組合期成会」を組織化することを提案する。
これに共鳴した労働者71人で、7月5日「労働組合期成会」発起会を開き、高野房太郎、城常太郎、沢田半之助を仮幹事に決定する。
仮幹事は規約に基づく役員選出までの運営を委ねられ、8月1日には正式に「第1回会合」が持たれた。
この会合で高野房太郎、沢田半之助、片山潜ら5人の幹事を決定するが、発起会開催後に暴徒に襲撃されて大けがを負った城の名前は残念ながら消えていた。

「労働組合期成会」とは名前の通り「労働組合の成立を期する会」なので、労働組合運動に関する宣伝啓蒙活動を中心に展開した。
「労働組合期成会」は短期間に急速な発展を遂げた。
7月の発起会の時は参加者71人であったが、そのわずか1~2ヶ月後には会員300人に達し、11月には1100人を超える。
期成会が組織を拡大するための主たる宣伝手段は演説会であり、演説会のたびに100人、200人と入会者があった。
また入会した労働者が自発的に仲間を勧誘してきた。

(つづく)

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