忘備録の泉

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パレスチナ③

2019-09-01 08:51:19 | 読書
かつて西欧によって「中近東」と呼ばれた地域と、アジア、アフリカ、太平洋とをめぐってドイツ、ロシア、イギリス、フランスなどの諸国に日本も参加して、争奪戦をするために引き起こされたのが、第一次世界大戦だ。
そしてその戦争のさなかに、パレスチナを含む「中東」の多くの部分の分け前配分は、イギリスとフランスとの間で話がついていた(「サイクス・ピコ協定」1916年)。
それによるとイギリスは、現在のイラク南部、ヨルダンにあたる部分とパレスチナを支配し、フランスは現在のレバノン、シリア、イラク北部などにあたる部分を支配することになっていた。
もちろん、これはそこに住む人々のあずかり知らぬ話であった。
終戦後はこの秘密の取り決めに沿って、国境線が引かれていくのである。
パレスチナ地方を支配するためにイギリスは、ヨーロッパで迫害にあっているユダヤ人たちのパレスチナ入植を支援し、現地のパレスチナ人と対立させようと考えた。
「バルフォア宣言」の裏にはそんな思惑も隠れていたのである。

第一次大戦中、メッカの首長フセインは、イギリスに対してアラビア半島からトルコ南部までの地域をアラブ国家として独立させるために協力を求めた。
これにはパレスチナも入っていた。
イギリスとしては、アラブ人を反トルコの戦いに参加させる必要があったので、アラブ人の独立を承認するという書簡を送った(フセイン・マクマホン書簡)。
これを受け取ったフセインは、イギリスの要請を受け、トルコに対する「アラブの反乱」にふみ切り、アラブの民衆はトルコを打倒する。
そして、パレスチナを含む全アラブの独立と、反シオニズムをかかげ、1920年3月に「アラブ王国」樹立を宣言した。
しかし、このときすでにイギリスはフランスとの秘密協定によって、アラブの分割統治のシナリオを完成させていた。
終戦後の処理を決める「サンレモ会議」で秘密協定に即したアラブの分割が決まって、アラブ独立の夢はついえてしまった。
イギリスの裏切りに怒ったアラブ側は反乱を企てたが、フセインの息子たちにヨルダンやイラクを与えると提案し、反乱は収まる。
イギリスは当初ヨルダン川の東西にまたがる部分をパレスチナとして委任統治しようとしていたが、アラブ側との取引によりヨルダン川西側だけをパレスチナと決めた(1921年)。
シオニスト主流派はこれを受け入れたが、右派は修正を求めて反発した。
その後、イギリスによるパレスチナの委任統治が始まった。

「分割して統治する」をモットーにするイギリスは、基本的にはユダヤ人移民を歓迎した。
イギリスの委任統治が始まると、ユダヤ人はパレスチナへ怒涛のように押し寄せた。
彼らと現地パレスチナ人との間には当然のように激しい摩擦が起きていく。
1929年にエルサレムの「嘆きの壁」にユダヤ人移民がシオニストの旗を飾ったことから、パレスチナ人とユダヤ人の大規模な衝突が起こった。
衝突は他地域にも広がり、10日間のうちにユダヤ人133人、パレスチナ人116人の死者が出る。
パレスチナ人は独立を求める反英ゼネストを展開し、このゼネストは6ヵ月間も続いた。
その後の闘争も3年間続き、イギリスは統治能力を失っていく。
進退窮まったイギリスは、パレスチナ一部独立案や10年以内にパレスチナ国家を樹立するなどの提案をするが、10年という約束が信用できないとするアラブ側から拒否される。
一方、ユダヤ人側からはイギリスの裏切りと反発されて、テロも頻発するようになっていく。
この混乱は第二次世界大戦の勃発とともに下火になっていく。
パレスチナ人は方向を見失い、アラブ最高委員会は「敵の敵は味方」という論理で、イギリスの敵であるナチスを支援した。
イスラエルのユダヤ人はイギリスとともにナチスと闘って、イギリスの勝利とともにパレスチナで力を持つようになった。
しかもナチスによるユダヤ人大虐殺のことが明るみに出るにつれ、世界中の国々はユダヤ人が国を持つ権利を認めるようになってきた。
(つづく)


コピーの学校
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今はずっと
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