忘備録の泉

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パレスチナ②

2019-08-31 10:35:46 | 読書
地中海の東の端に、四国と広島県を足したくらいの広さの「パレスチナ」と呼ばれる土地がある。
しかし、地図をいくら探しても、パレスチナという文字は見つからない。
かわりに「イスラエル」という国名が書かれている。
イスラエルが1948年に誕生するまで、この地域は大シリアの南部にあたる「パレスチナ地方」と呼ばれていた。

パレスチナがオスマン帝国の支配下に置かれた1516年以降、この地方は比較的平穏だった。
しかし19世紀後半になると、ヨーロッパ列強諸国が世界中を植民地化しようと触手をのばし始める。
フランスがアルジェリアを支配したのは1830年のことだった。
1881年にはフランスはチュニジアを占領し、イギリスは1882年にエジプトを占領する。
このころパレスチナは老朽化したオスマン帝国の支配下にあり、そこをイギリスとフランスは虎視眈々と狙っていたのである。

1880年代初めから、ロシアではユダヤ人虐殺(ポグロム)の嵐が吹き荒れていた。
ユダヤ人の青年活動家たちは大富豪ロスチャイルドの支援を受けて、パレスチナに送り込まれていき約20の入植地をつくった。
ロスチャイルド家は西欧に経済的、政治的影響力をもつユダヤ系大資本家である。
彼らにとってパレスチナへの移送は、ユダヤ人の救出と、植民地主義的野心の双方が満たされる願ってもない方法であった。
送り込まれたユダヤ人たちは、現地でパレスチナ人を雇って農園を広げていった。
ユダヤ人移民は、植民地主義諸国の利益にかなうように働き、現地住民を低賃金で働かせ、搾取していった。

こうした動きのあとに、もっと組織的なシオニズム運動が起こってきた。
「シオニズム」とは、エルサレムのシオンの山に語源をもち、パレスチナにユダヤ人国家をつくろうという運動である。
1897年にスイスのバーゼルで第1回世界シオニズム会議が開かれる。
この会議はシオニズムの目的を「公法で保障されたユダヤ人のホームランドをパレスチナに築くこと」と決定した。
シオニズムたちは、ヨーロッパ植民地諸国の支援を求めて活発に運動した。
やがてイギリスは、その運動の後ろ盾となる約束をする「バルフォア宣言」を出す。
この宣言と引き換えに、ユダヤ人の第一次大戦での協力を得たのである。
(つづく)


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