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山形のホリデイマタギ日記

山菜とキノコと魚を採って遊ぶ年寄りの冷や水日記

食事のリハビリ?

2025年03月13日 | 日記

 手術から約2週間が過ぎた。

 今回は食道と気管の大きな手術だったので、とにかく、命をつなぐことが最優先。

 息ができること。栄養が補給できること。

 それさえできるなら、なりふり構わないという感じだった。

 おかげ様で、声が出ないことは勿論だけど、飲食は一切なし。

 腸からと喉からの栄養補給ルートを確保し、そこからひたすら栄養を補給し続けてきた。

 しかし、ここまできて、

「どうも炎症は起きていないようだし、移植縫合部分に異常も見られないから、透視検査してみますね。」

という話。

 透視検査というのは、実際にものを飲み込んでもらい、それが途中でもれ出したりせずにきちんと胃腸まで届くかどうかを像映剤で確かめるものらしい。

 で、レントゲン室に入って変な味のする薬を飲み込まされた。

しばらくすると、

「大丈夫ですね。順調に来ているようです!」

お医者さん、とても嬉しそう。

 こちらも笑顔で答える。

 「じゃあ、今夜から液体で、明日からはゼリーを使って食事のリハビリを始めていきましょうか。」

 ええ? 食事にリハビリなんているの?? こんな当たり前のことに、と思った。

 まあ、何はともあれ、食事ができるというのは、超嬉しい改善だ。

 言いつけに従って、そのリハビリとやらをやってみましょう。

 ここまで、まともに書いてこなかったけれど、今回(2回目)の入院では、手術後、一切の飲食が禁止されてきた。

 ちょっと想像していただければ分かると思うのだが、これって、かなり厳しい仕打ちなんです。

 24時間、一切飲み食いすることなくひたすら時を過ごす日々の何と空しいことか。

 そこから解放されるんだったら、どんな言いつけにでも従います!

 そういう心境にさせられます。

 そうして、その日の夜、出されたのが、

       大嫌いな液体栄養ドリンク

 でも構いませんよ。

 いままで封印してきた『飲む』という人間の根源的な生命活動ができるんですから。

 そうして一口、口に含む。

 !!!

 あああ、何という快感! なんという美味しさ! 

 飲むって、こんなに素晴らしいことなんでしたっけか。

 今まで、超不味いと思い込んでいた経口補水液が、魔法の薬のように口からのどを潤していくのが分かる。

 喜んで二口め。

 ちょっと力を入れて飲み込んだら、違和感とともに、液体が鼻から噴き出してきた。

 なんじゃこれは!!

 なんで素直に胃に送られないの?

 慎重に3口目。

 なんとなく、胃に向かうルートと鼻に向かうルートがあることは感じられるが、その先がよく分からない。

 間違いないのは、何も考えずにグビッと飲むと、鼻からドバっと出てくること。

 こりゃあ、一筋縄ではいきませんがな。

 結局、かなりの量を鼻から噴き出しつつ、久しぶりに『飲む』快感に浸ることができた。

 そうして翌朝。

 個体を出すというから、何が出てくるのかと思っていたら、

       小さなゼリーが1パック

 たったこれだけなんだけど、液体よりも更に飲み込むのが厄介

 なるほど、これは確かに『食事のリハビリ』だ。

 これまで当たり前だったことのはずなのに、2週間休んだだけで、こんなに退行してしまうんだ。

 でも、これは乗り越えるしかないよね。

 早く乗り越えて、『食べる楽しみ』を取り戻さなければと心に誓うマタギなのでした。

       窓の外におらほの山(月山)

 この山が見えるようになったということは、冬型が緩んだということ。

 ああ、もう一つの春が待ち遠しいマタギです。


人はそれを未熟者と呼ぶ

2025年03月11日 | 日記

 「お任せします。よろしくお願いします。」

お医者様の入院計画書に署名したのはマタギ本人である。

 今回のような病気の治療や回復のためには、自分勝手な思い込みや生兵法は禁物。

 先生の出してくれる処方に身を任せて過ごすべきなのだ。

       関係ないけどドクターヘリ

 ところが、時が進むにつれてじっとしていられなくなってくるんですね。

 手術が終わって、日数を経るにしたがって、自分の体調が変わってきたことに気付くと、うずうずし始めるんですね。

 「あらあ、手術の痕も綺麗になってきましたね。」

とか、

「なんだか、すごく順調に回復しているみたいですよ。」

なんて言われる。 

 自分自身にも、なんとなくそういう実感がある。

 そうなると、じゃあ、次は何をすればいいんだろうと、勝手に思考が働き始めてしまうのだ。

 ところが、先生はそんなに慌てない。

 だったら次は、という一手を語ってくれないのだ。

「マタギさんの経過は良好ですね。私も、マタギさんに関しては全く心配していませんので。」

ここまでは語ってくれる。

       毎日1回ぐらいは飛び立っていきます

 つまり、「マタギさんは心配だったと思うけど、もう心配いらないからね。」というメッセージに留まっているのだ。

 こっちとしては、せっかく傷口が塞がったんだから、次はもう一歩踏み出して食事とか運動とかの計画が変わってくるはずだよな、みたいなことを考え始めている。

 でも、先生の方は、患者の変化に気付いても軽々には動いてくれません。

 治療なんて、生き物、良い日もあれば悪い日だってあるだろうし、目先のことに目を奪われていたら、誰が舵を取るんだというところだろう。

 ついでに言うと、マタギの経過を見てくれる先生方も嬉しそうなんですよ。

 でも、迂闊に口を滑らせたりしない。

 そりゃあ、そうだよね。只今治療の真っ最中。ここで方針や計画を転換させて、あとで落胆させてしまったら、お互いの信頼関係に大きなひびが入ってしまうってもんだ。

       結構スマートで格好いいです

 こっちとしても、頭では分かっているつもり。

 でもねえ、これだけ拘束の多い生活を送っている中で、自分の身体に明るい兆しが見えたら、心が浮き立ってきてしまいます。

 ・・・それでも、

 粛々と

 任せたからには、信じ切る。

 それが大人の対応ってものよのう。

 でも、なんだか言い出しそう。

 「それなら、次は?」

       みんながんばっているんだよなあ

 未熟者よ  慌てずに。  落ち着いて、落ち着いて


痛いの嫌い

2025年03月09日 | 日記

       なごり雪の舞い降りた山形

 病気やケガが大きくなると、治療も大掛かりになってくる。

 その代表が、入院であったり手術であったりする。

 時間をかけて丁寧に状況を把握し、疾病に応じた適切な対処の仕方を検討する。

 経過を見ながらより良い処方を選び、完治なり寛解なりを目指す。

 大変にありたがいことなのだが、その治療を素直に受け入れたくないものもある。

 その一つが手術

 今回の入院で、現在までに3回手術を行っている。

 1回目が、患部の組織採取と安全確保のための下ごしらえみたいなもの。

 2回目が本番で、今回の入院・治療の山場に当たるところだ。

 この手術は、文字通り朝から晩までかかる大きなもので、病院の4つの『科』の先生方が協力して治療に当たってくれた。

 手術後の話や、自分の状態を点検してみると、大掛かりなことは勿論なのだが、大変気を遣う手術でもあったらしいことが分かってくる。

 今回の病気は癌で、手術では、患部の摘出が中心になるのだが、転移が心配されるリンパ節の除去も大変だったらしい。

 「たいへんだったんですよ。」

 という先生の話は聞いたのだが、何が大変だったのかが分からない。

 終わってから、色々読んでいるうちに、この手術は、一つ間違えると神経なり副神経なりを痛めてしまい、身体が思い通りに動かせなくなってしまうことが少なからずあることが分かってきた。

 その点、リハビリ担当の先生に言わせると、『大変良い状態』なのだそうだ。

 この辺が、先生の大変さに結果が結びついているところなのかもしれない。

 改めて感謝。

 ところで、この大手術、全く記憶に残っていない。

 「はい、横になって、腕を固定しますよ。・・・」

いつの間にか意識を失い、気が付いたら日付けをまたいでおり、集中治療室に寝ていた。

 『全身麻酔』だ。

 この治療方法は、気づいたときにはほとんど全てが終わっていて、なにが行われたのかなんて、終わってからの人の話や自分の身体を見て想像するくらいしかできない。

 あっけないと言えばあっけないのだが、それ以上にありがたい方法だと思う。

 話に聞けば、とてつもなく恐ろしいことや高度なことをやってのけているのだが、その大変さとダメージが本人にはほとんど残っていないのだから、本当に感謝するしかない。

 それだけ先生方も大変さが分かっているし、物心両面の備えをして臨んでくれたのだろう。

 だけどね、その前後の小さな手術については、んんん?と思うようなこともあるんですよ。

 手抜きとは言わない。

 だけど、改善の余地があるんじゃないか?という気持ちにもなったんで、失礼とは承知の上で感想を残しておく。

 大掛かりな手術は、書いたように『全身麻酔』で行われる。

 全身の感覚がなくなり、意識もない状態で行うことになる。

 これに対して、小さな手術で使われるのは、『区域麻酔』と言うそうで、治療部分のみにかけた状態で手術を進める。

 だから、意識も残ったまま手術が行われる。

 今のところ、1回目と3回目の手術がこれに当たるやつだ。

 利点は、短時間で開始と終了ができることだろう。

 終わった後も、すぐに歩きだすことができたりする(今回は買い物もしてきた)。

 ただし、いいことだけではない。

 正直に言うと、苦痛で仕方がないのだ。

 「はい。今から喉を切りますね。」

(言わなくていい)

「切り口ちょっと狭いか?一回り大きなはさみ出して。」

(言わなくていいってば)

「ちょっと痛いかもしれないけど、遠慮なく知らせてね。」

(誰が遠慮するか、だけど・・・)

 遠慮なく知らせたら、その分、処置の数が増えて、この苦痛の時間が長くなるじゃないか。

 それならば、多少痛くても我慢して、早く終わった方が”まし”ってものだ。

 で、終わると、

「マタギさん、我慢強いですねえ。立派だ!」

・・・我慢強いんじゃなくて、計算高いの。

 この辺の感覚、分かってくれているかなあ。

 これも失礼を承知の上で書かせてもらうと、看護師さんの方がお医者様よりも気配りが深いと思う。

 当然のことなのだが、お医者様の方が最前線で治療に向き合ってる分だけ、失敗が許されない。

 言い換えると、他のことに気を回す余裕は少ないのではないだろうか。

 まあ、仕方がないよな。

 そんなことを思いながら、事前に渡された『麻酔のしおり』なる冊子を読んでいたら、次のようなことが書かれていた。

 『小児では通常、(小手術でも)全身麻酔で手術を受けていただきます。手術に対する不安や恐怖心を取り除き、眠っている間に手術が終わるようにするためです。・・・』

 ええ~!?この感情って、子供だけでなく大人も同じじゃないの?

 手術に対する不安や恐怖心なんて、大人でも子供でも感じますよ。

 でも、子供の場合は、やってくれるんだ。

 いわゆる『男なんだから・・・』とか『女なんだから・・・』みたいなバイアスの一つだね、これ。

『大人なんだからバイアス』でものを考えているように思えてきましたぞ。

       なごり雪の翌朝は春霞に

 だったら、ちょっと考え方を柔らかくして、大人にも選択の余地をくれてもいいんじゃない?

 「全身麻酔にしますか?それとも区域麻酔で?」

みたいな感じにさ。

 もちろん、パンデミックとか災害時には無理だと思うんだけど、出来る余裕があるんだったら、せめて選べるぐらいにしてくれると嬉しいなあ。

 何と言ってもマタギは、痛いのはもちろんそんな苦痛にさらされているのは好きじゃないからね。

 きっとマタギ以外にも、喜ぶ人が増えると思うんだけどなあ。


ナースのゴメンね

2025年03月07日 | 日記

       少しずつ春の気配に変わろうとしている病院

 自分自身に動きの少ない生活を送り続けていると、今まで見逃していたことが見えてくることもあるようだ。

 しかし、これがなかなか面白いものだと感じ始めたので、ちょっとまとめておこうと思う。

 本日は、そのうちの一つ。

 身体中をいろんなものに繋がれて病室に籠り続けていると、接する人間の幅がグンと狭くなる。

 具体的には、診察をしてくれる医師さんたちと、その補助を担ってくれる看護師さん達との接触が殆どになっている。

 で、そろそろ入院が1週間目に入るとあることに気付いたのだ。

 それは、看護師さんたちのセリフに、やたら「ゴメンね。」という言葉が多いこと。

 「ありがとう。」という言葉もすごく多いと思う。

 普通の仕事で、こんなに「ごめんね」と「ありがとう」が多用される職業って、そんなに多いものではないように思う。

 さらに詳しく観察していくと、ベテランの看護師さんほどこのセリフが多いし、自然に口から発せられている気がする。

 もっと上級者になると、「・・・だからゴメンね、××してくれる?いい?」とか、「・・・してくれてありがとう。××助かったわ。」みたいに、理由が分かりやすくついてくるようになる。

 で、考えてみると、ナースの方々の心の動きとか考え方の変遷みたいなものが想像されるから面白いのだ(こんなことを言ったら失礼か)。

 このお仕事、人の健康を守るために、自分の役割を果たすという崇高な使命を帯びて行われるものだ。

 だから、最優先されるのは、患者の健康と安全

 ところが、そのために行われる医療行為には、患者に苦痛をもたらすものや、なぜそんなことをさせられるのか分からず、不安にさせられるもの少なくない。

 だとすると、こうなんじゃないかな?

 この職に就いたばかりの若い頃には、兎にも角にも使命を全うするために、一生懸命に与えられた仕事をこなすしかない。

 しかし、慣れてくるにしたがって、患者さんの健康安全もさることながら、その心を支えるのがナースさんの大きなお仕事だということに気付いてくるし、気を配れるだけの余裕が生まれてくるのではないだろうか。

 行う行為は、患者の命を守るためのものだから、自分勝手に進めるわけにはいかない。

 じゃあ、どうやって患者さんを支えていくのか。

 そう考えていくうちに、この「ゴメンね。」と「ありがとう。」の言葉に、絶大な効果があることに気付いていくのではないのだろうか。

 この言葉をかけられた患者さんの表情が和む。

 安心して身を任せてくれるようになる。

 多分、ナースさん一人で身に付けるのではない。

 職場の雰囲気を感じ取り、先輩方の後ろ姿を見ながら気づき、身に付けてきたのではないだろうか。

 これは、今私が入院している病院のもつ素晴らしい文化なのではないかなとさえ思う。

 

 先日、「入院・診療計画書」なるものが手渡され、患者側からの要望を書くように指示された。

 「そんなもの、ないよ。」

と答えると、

「それだと、書類の不備を指摘されてしまう。」

との返事。

 じゃあ、ということで書いた言葉が、

 『お任せします。よろしくお願いいたします。』

 というもの。

 これは、自分自身にとっても正直な気持ちだと思っている。

 そうして、その気持ちは、お医者さんの力もさることながら、この病院の「ゴメンね。」「ありがとう。」文化が引き出してくれたのだとも感じている。

 この病院には、もうしばらくお世話になると思うんだけど、これまでありがとう。

 これからも、よろしくお願いいたします。


剥けたのは外皮かな?

2025年03月05日 | 日記

 手術してから1週間近くが過ぎようとしている。

 自分の人生を大きく変えてしまう程の出来事。

 そんなふうに考えたいたのだが、今現在、そんな実感は全くない。

 確かに、しゃべることはできなくなった。

 手術前に職場に退職願を提出し、受理された。

 客観的に見れば、大きな出来事だし、自分でも、もう少し精神的なダメージを受けるのかなあと予想していたのだが、意外なほど平静でいる。

 家族とは、平常と変わらないコンタクトをとっている。

 仲間や親戚とも、それなりに無事であることを伝えたりして、喜びを分かち合っている。

       なかなか便利なWriting boad

 集中治療室から出ることができた日、昨年末に壊してしまった陸上競技の精密機器の修理の手続きを完了することができて、ホッとした。

 マタギに代わって手続きを進めてくれた事務局のT氏には、懇ろに礼を伝えさせていただいた。

 別れ際に、今年度最後の理事会資料と新年度の役員名簿を受け取った。

 もちろん、新しい名簿にマタギの名前はない。

 ただ、それだけなのである。

「それじゃあ、お元気で。」

「はい。ありがとうございました。(筆談)」

笑顔を交わして、再会を約束する。

 何のことはない、マタギとT氏との間に築かれてきた信頼関係に、いささかの変化もない。

 ただ、立場と接し方とが少々変わっただけなのだ。

 お医者さんや、看護師さん達からは、随分回復が早いと驚かれ、ちょっと嬉しくなっている昨近。

 自分でも、思ったように身体を使えるようになってきていることを実感している。

 

 こうしてみると、自分を覆っていた殻が2~3枚剝れただけである。

 さあ、あとは、できることがどんどん増えていくぞ。

 これから先の楽しみに心を弾ませる最近のマタギなのでした。

 

 あらためて、ご心配いただいた皆さんにお礼を申し上げます。

 ありがとうございました。