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円地文子訳「雨月物語」蛇性の淫の結末。 個人の名前のこと

2019-03-15 18:12:31 | 日記
A.「蛇性の淫」の結末
 円地文子さんの現代語訳で「雨月物語」のなかのひとつ「蛇性の淫」を読んでみたのだが、この物語によって上田秋成はなにが言いたかったのだろう、と考える。別にポジティヴに何かがいいたかったのではなく、ただ読者がおもしろがってくれればいいだけ、というエンタメ解釈もあり得る。しかし、荒唐無稽ともみえる怪異譚も、そこには作者の一定の世界観、宗教観のようなものが現れていて、そこが中世の仏教説話や平家物語や太平記のような語り物とも違うのだが、国学をバックボーンとするといっても宣長とは違うだろう。
 近世文学史の上では、上方で西鶴が活躍した元禄期と、江戸文化が栄え山東京伝や曲亭馬琴に代表される化政期の間、安永・天明期の、流行が浮世草子から転換しつつあった初期読本の代表が「雨月物語」で、建部綾足の「西山物語」などと同じ系列になる。ここでの特徴は、中国の白話小説から大きな影響を受けていて、「雨月物語」もその翻案による作がいくつもある。秋成の文は和漢の古典を踏まえた流麗な和文で、独自の創作部分を混ぜて構成している。 中国白話小説というのは、元代から明代の四大奇書と呼ばれる三国志演義、西遊記、水滸伝、金瓶梅、清代の紅楼夢などで、それに明末までの白話から40編を選んで刊行された『今古奇観』は江戸時代の日本でもよく読まれた。孫悟空が活躍する西遊記をはじめ、三国志や水滸伝はいまのマンガやテレビなどの大衆娯楽作にも取り入れられ、広く知られているが、もとはこの白話小説である。
 この前、東京都美術館で開催中の「奇想の系譜展」というのを覗いたが、岩佐又兵衛から歌川国芳まで、江戸時代の絵師のうち主流の狩野派や丸山派などに比べ評価の低かった八人を、新たな作品も含めとりあげていた。中でも近年人気の伊藤若冲(1716~1800)は、まさに上田秋成の同時代人である。京都と大阪という上方で暮らした点も共通する。でも、実際に交流があったかどうかは調べてないのでわからないが、可能性はある、これも「奇想の系譜」につながるか?
 「蛇性の淫」では、主人公のイケメン男豊雄が蛇の化身である美女真女子(まなこ)にとりつかれて、一度目は故郷の紀州、二度目は姉の嫁ぎ先である大和で再会、そして三度目はさらに恐ろしい目に遭うのだが、まずは二度目の終りから。
 豊雄の姉は大和国石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市三輪付近)の商人、田辺金忠の家に嫁いでいた。そこに行った豊雄は、近くの長谷寺に詣でる人混みで、あの真女児が侍女まろやとやって来る。恐れる豊雄に真女児は、自分が化物ではなくやむを得ずああなったと説明し、安心させた。そして、納得した金忠夫婦の仲介もあって、ついに豊雄は真女児と結婚し、仲良く暮らすことになる。三月、金忠が豊雄夫婦と一緒に、吉野へ花見の旅を計画。真女児は持病を理由にはじめ拒んだけれども、とりなしもあって了解した。旅は楽しく、吉野離宮の滝のそばで食事をとっていると、大倭神社に仕える翁がやってきて、たちまち真女児とまろやの正体を見破ると、二人は滝に飛び込み、水が湧き出て姿を消した。翁は、あのまま邪神と交われば、豊雄は死んでしまうところだった、豊雄が男らしさをもてば、あの邪神を追い払えるから、心を静かにもちなさい、と教える。

「父や母、太郎夫婦は大和での恐ろしかったことを聞いて、いよいよあの女のことが豊雄の過ちでなかったとわかり、一方では豊雄を憐れみ、一方ではあの妖怪の執念深さを恐れて、こうしていつまでも一人住みさせるのも困ったことだ。妻を迎えさせようといろいろ相談をした。
 芝の里に芝の庄司というものがあった。娘が一人あったが京都の御所(ごしょ)に采女(うねめ)(朝廷で雑事を行う女官)に参っていたのが、こんど暇(いとま)をたまわって来るというので、豊雄を婿にどうであろうかと仲人(なこうど)を立てて大宅の家に話に来たので、それは良縁であるとさっそく約束した。そうして都にも迎えの人を上らせたので、采女の富子は喜んで帰って来た。年ごろの宮仕えに慣れているので、万(よろず)の行儀から姿などもはなやかに、田舎人のなかには美しく立ちまさって見えた。豊雄はここに迎えられて見ると富子の眉目麗しく、よく気がつくのに、あの大蛇の化身が自分に思いをかけた時の様子などが、あれこれと思い出される様子であった。はじめの夜は事もなかったからなにも書かない。二日目の晩になって、よい気もちに酔って来たので、豊雄はたわむれて富子に話しかけた。
「あなたは何年も都の御所に仕えていられたこととてさぞ田舎者は気がきかなく思われるでしょう。御所ではなんの中将とかなんの宰相の君などという男と恋を語られたことでしょうね。それを思うといまさら嫉(ねた)ましくなりますよ」
などと言ってみると、富子は顔をあげてじっと豊雄を見、
「古い縁をお忘れになって、こんなどうと言って取柄のない人をちやほやなさるあなたこそ、いっそう嫉ましゅうございます」
と言う様子は、形こそかわれまさしく真女子の声である。聞くより身の毛のよだつほど恐ろしく、ただあきれ驚いていると、女はにったり笑って、
「わが背の君、なにもふしぎにお思いになることはありますまい。山に誓い、海に誓った睦言(むつごと)をつれなくお忘れになっても、定まった縁であってみればまたもお会いもうしましたものを、よそのいいかげんな人たちの言うことを誠とばかり思ってひたすらに私を遠ざけようとなさると、それこそきっと恨みを報いずにはおきませぬ。紀州の山々がどれほど高くとも、あなたの血で峰から谷まで灌(そそ)ぎくだすのもたやすいことです。あたら御身をむなしくなさいますな」
と言うのに、ただ震え震えいまにも命をとられそうで、半ば死んだようになっている。その時屏風のうしろから、
「豊雄さま、たいそうおむずかりなさいますこと、めでたいお契りではありませんか」
と出て来たのはまろやであった。それを見るともう一度肝が飛ぶようで、目を閉じ伏(うつ)向(む)けに臥し倒れてしまった。二人してなだめたり、おどかしたり、かわるがわるうち臥した豊雄にものを言いかけるけれども、まるで死んでしまったようで、そのうちに夜が明けてしまった。ようよう閨(ねや)を逃れ出て庄司にむかって、
「このような恐ろしいことがあります。この難をどうして避けたらよいか、よく考えてくださいまし」
  〔 中 略 〕
豊雄はすこし心をおちつけて、
「これほど効験あらたかな僧さえ祈ることができぬほど、執念深くまといつく物の怪であれば、天地のあいだに私があるかぎりはきっと探し求めるでしょう。私の命一つのために人々に苦しみをかけるのは正しいことではありません。いまは他人に相談はいたしますまい。心安くお思いください」
と言って閨(ねや)に行くのを、庄司の家の人々は、
「これは狂気なさいましたか」
と止めるがさらに聞かぬ顔で、閨に入って行った。戸を静かにあけると騒がしい様子もなく、富子とまろやが向いあってすわっていた。富子は豊雄にむかって、
「あなたはどんな恨みがあって私を捕らえようと他人に相談なさるのです。こののちも仇をしようとなさるなら、あなたの身ばかりではなく、この里の人々にもすべて苦しい目を見せますよ。ひとすじに私の思う心をうれしいと思って、うつり気をお持ちになってはいけません」
と媚(こび)をふくんで言うのが、なんとも堪えがたいのであった。
世の諺(ことわざ)にも言うではないか。人はかならずしも虎を害する気はないけれども、虎はかえって人を害すと。そなたも人間でない心からわり出して、私にまといついていくたびもひどい目に会わせたことさえあるのに、ちょっとしたことにもそんなふうに恐ろしい報いなどと言うのは、あまりきみの悪いことだけれども、私を慕う心は世の常の人とはかわりないことゆえ、ここにいて人々に嘆きを見せるのはいたわしい。この富子の命一つは助けてやってくれ、そのうえで私をどこにでも連れて行くがいい」
と言うと、たいへんうれしそうにうなずいていた。また立ち出でて、庄司にむかって、
「こんなあさましいものが添っている身で、いつまでも、ここにいて人々を苦しめるのは申し訳ないことです。ただいまお暇をいただいたならば、富子の命は恙(つつが)ないでしょうから」
と言うのを、庄司はさらに聞かないで、
「私も武家の血筋を引いているものでありながら、そんなに言いがいないことでは、あなたの実家の方々にたいしてもはずかしい。なおなお計略をめぐらしましょう。小松原の道成寺に法海和尚といって、尊い祈禱をなさる聖人がいられます。いまは年老いて部屋の外には出ないと言っておられますけれども、私の家のためにはなんとか見捨てずに来てくださるでしょう」
と言って、馬でいそいで出かけた。道がはるかであったから真夜中に寺についた。老和尚は奥の間からいざり出て、この物語を聞き、
「それはさぞあさましいことに思われるだろう。わしもいまは老い朽ちて祈りにしるしがあるとは思われないけれども、あなたの家の災いを黙ってはいれらない。あなたも早くお帰りなさい。私もすぐに行きましょう」
と言って芥子(けし)の香のしみた袈裟(けさ)をとりだして庄司に与え、
「その妖怪を騙しすかして、この袈裟を頭にうちかけ、力を出して押しふせなさい。力が弱かったならば逃げ去るでしょう。よく仏を念じて押さえつけるように」
と細やかに教えてくれた。庄司は喜んで馬を飛ばして帰って、豊雄をひそかに招いて首尾よくはかるようにと言って袈裟を与えた。豊雄はこれを懐に隠して閨に来た。
「庄司もいまは暇をくれると言った。さあ出立しよう」
と言うと、富子の形をした真女子はたいへんうれしそうにいそいそ立ち上がるところをこの袈裟をとり出してさっと頭にうちかけ力をきわめて押しふせると、
「ああっ苦しい。どうしてあなたはそんななさけないことをするのです。ちょっとここをゆるめてください」
と言うのを、なお力にまかせて押しふせていた。法海和尚の輿(こし)がやって来た。庄司の家の人々に助けられてこの部屋にこられたが口のなかでぶつぶつとなにか念じながら、豊雄をのけて、その袈裟をとってみると、富子が正体もなくうち臥している上に、三尺あまりの白い蛇がとぐろを巻いて動きもせずにいた。老師はそれを捕えて弟子のささげている鉄(てつ)鉢(ばち)に入れられた。なおなにか念じていられると、屏風の後から1尺ばかりの小蛇がするすると這い出て来たのを、これもとって鉢のなかに入れ、その袈裟でよく封じ、そのまま輿に乗られた。人々は掌(たなごころ)を合わせ涙を流して敬った。寺に帰られた後、法海和尚は堂の前を深く掘らせてその鉢をそのまま埋めさせ、永劫(えいごう)にこの大蛇が世に出ることを封じたもうた。いまもなお大蛇の塚がこの寺にはあるそうである。庄司の娘富子は、しかしついにその後病に染んでむなしくなってしまった。豊雄はかえって命つつがなく生きながらえたと伝えられている。」上田秋成「春雨物語」円地文子訳、河出文庫,2008。pp.140-149.

 「蛇性の淫」だけではないが、魔性の女、悪霊の化身として現れる美女という形象と、その扱いは「ミソジミー」(女性嫌悪)の視線が強いといわれても当然だろう。西洋でも、サロメとか、ルルとかファム・ファタールという悪女、魔女という表象は繰り返し現れている。いずれも男をセクシャリティで誘惑し、つきまとって破滅に追い込もうとする魔女の造形である。「蛇性の淫」では、真女子は人間ではなく大蛇の化身ということで、最後に高僧によって退治され鉄鉢に入れて埋められる。道成寺の僧ということで、能の「道成寺」の元となった紀州道成寺に伝わるとされる安珍・清姫伝説に結びつく。若く美形の僧安珍に一目惚れした美女清姫が、約束は反故にされ追いかけては避けられ、ついに怒りは蛇になって梵鐘に隠れた安珍を取り巻き焼き殺すという物語である。
 そういえば子どものときぼくは、親に同行して映画館で「安珍と清姫」(市川雷蔵と若尾文子主演)を見たことがあって、なんで美女が蛇になってしまうのか不思議だったが、女の恋の情熱というのはもの凄く怖いのか、と思った記憶がある。でも男にとってどこまでも追いかけてくる美女というイメージは吉川英治の「宮本武蔵」では聖女お通にもつながり、それが美女である限り結構悪くない気分が裏に貼りついている気がする。逆に、女にとってこの真女子にせよ清姫にせよ、想う男への燃える情熱をあれこれはぐらかされ、嘘までつかれて逃げられたあげく、最後は蛇にされて毒虫のように退治されるなんて、あんまりヒドいじゃない!と思っても不思議でない。要するに、秋成は男の視点で男たちが読むものとしてこれを書いた、と言われそうだが、真女子のセリフなどをみると、円地文子さんはそれも分かった上で現代語訳を工夫しているように読める。



B.下のお名前のこと
 中華文明圏の東アジアでは、人の名前は姓が先に来て個人名が後に来る。誰の子でどんな系譜の家に生まれたか、所属の一族や家系が当人の身分を決める社会では、出自が重視される。西洋キリスト教文明圏でも、出自は身分や名声に大きな意味を持っていたが、名前の順序は個人名がファーストネームで、その後に親の名や土地の名をつけるのが一般的だ。しかもキリスト教の聖人からとるのが一般的なので、ジョン(ヨハネ)とかポール(パウロ)とかメアリ(マリア)なんかがいっぱいいて、その下の姓は人種や民族や出身地にからんでいるから、たとえばマヤコフ・スキーはロシア系、ヒンデン・ブルクならゲルマン系、トスカ・ニーニならイタリア系とかとすぐわかる。ユダヤ系だと捕まって殺されるような時代には名前も変える必要があるかもしれず、逆に日本統治下の朝鮮民族は名前まで日本名に変えさせられた。日本の差別は名前だけではわからなくても、居住地で分かってしまうとすれば、いずれにせよ個人情報は差別の危険がある。名前は確かに人の識別とアイデンティティにとって第一の指標だ。インド人の名についてこんな記事が載っていた。

 「名字 いつか堂々と ◆ニューデリー  特派員メモ
 「この取材先はあなたが直接電話してほしい」。取材のアポ入れの際、インド人の同僚が言った。
 インド人は大抵、名字で属するカーストがわかる。取材先の名字は同僚と同じ商人カーストだった。同じカーストは仲間意識が強い一方で、互いを競争相手とみることがある。同僚は、自分が電話するとアポが取れなくなると心配したらしい。
 インドではカーストのせいか、自己紹介はファーストネームだけのことが多い。カーストは歴史的に職業を規定してきた。現在でも経済界には商人カーストの成功者が目立つ。商人カーストの知人は「カーストは神からの贈り物。私には商売の才能が与えられた」と感謝する。
 上位層の知人は「社会の調和を保つため、役割分担としてカーストは必要」と語り、底辺層の知人は「前世の行いで今の身分になった」と諦めに似た思いを抱く。
 カーストは紀元前から続いてきた。脈々と続く慣習を変えるのは容易ではない。でもいつか、誰もが初対面から堂々と名字を名乗れる日が来てほしい。 (奈良部健)」朝日新聞2019年3月14日朝刊、12面国際欄。

 たしかにインドでは人の名字はそのままカースト指標だから、生れから職業まで影響する。しかし、今の日本では赤ん坊に名前をつけるにあたって、使える漢字制限以外はほとんどないに等しく、その読みはまったく自由だ。何もわからない赤ん坊は一生その名で生きていかなければならないとしたら、場合によっては悪しき宿命になるかもしれない。

 「米国のミュージシャン、プリンスの名は芸名のようだが、やはり音楽家だった父親が自分の果たせなかった夢を託して付けた本名だそうだ。音楽の王子様になれ▼その名は世界的に有名になるが、一九九三年、プリンスの名義はもう使いたくないと名前の代わりに奇妙なシンボルマークを使いはじめる。発音もできないマークでメディアやファンは「かつてプリンスと呼ばれたアーティスト」とやむなく呼ぶことに。当時の日本のファンには「元プリ」なる呼び名が懐かしいか▼プリンスはその後、本名に戻して活動したが、日本の「かつて王子様と呼ばれた若者」にはその気はなかったらしい。山梨県の高校三年、赤池肇さん(18)。親から付けられた、「王子様」という名を改めたいと甲府家裁に申し立て、最近、許可された▼お母さんが「唯一無二の王子様のような存在」と付けたそうだが、本人にはいろいろ差し障りがあった。想像に難くない。改名は奇抜なキラキラネームへの子どもの側からの「待った」であり、名前に悩む子どもに一つの選択肢を示した形になるだろう▼肇の名は経済学者の河上肇から取ったそうだ。「恵まれない人々の目線に立つ姿勢に共感した」▼お母さんは改名を快く思っていないそうだ。お気持ちは察するが、おおいに自慢すべきではないか。「元王子様」は自分で考え、判断する若者に成長した。」東京新聞二〇一九年3月13日朝刊1面「筆洗」。

 「王子様」と名付けられてしまった子は、それだけでかなり厄介な事態を日常化されると思われる。だから改名が認められたのだろう。ずっと昔は子の命名は親が考えるよりは、慣習や伝統の知識に立って縁起の良い名を選ぶ年長の知恵者、一族の長老とか寺の住職とか学校の校長とかに頼むことも多かった。さらに昔は、元服という区切りがあって、子どものときの名前から大人の名前に取り換える習わしもあった。竹千代とか鶴松とかは子供用で、元服して元信とか忠邦とかに変える。現役を引退したら自分で玄斎だとか鷗外だとか好きな号を名のるのもあった。本人が好きな字を選んで名のるのも悪くないが、明治に戸籍制度を作るときに、勝手に改名されると行政上支障があるので戸籍上の名はひとつだけ、「イエ制度」が前提だから嫁入り、婿入りしたら姓は変えろ、となって夫婦別姓はできないとした。もしその時代に「王子様」を届けたとしたら、「不敬」で処罰されたかもしれない。日本で「王子」を名乗れるのは、皇室の血を引く者のみ、それに「様」などという尊称を勝手に使うだけでも畏れ多いと考えられた。それが常識だった時代は窮屈だが、今はあまりにも野放図で、タレントや有名人の名を真似たり、流行りの漢字にどうみても苦しい読みをつけるキラキラネームがあふれている。大学で学生の名簿を見ると、この子たちが生まれた頃の流行がどんな感じだったかわかるし、本人たちは必ずしも喜んでいるとも思えない名もある。
 母親が産んだ子を「私の王子様よ!」と思うのはおかしくないが、出生届にそれを書くのはやっぱりおかしい。それを使って社会で生きる子の将来を考えたとは思えない。
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