A.潤沢だったコモン
人が地球上で生きていくために不可欠な空気、水、太陽光といったものは、普通の自然環境の中では潤沢に存在していて、人間が技術で作り出すものではないから、商品にはならない。人が食料にする魚や動物、コメ、麦、トウモロコシなどは土地を耕し栽培しなければできないが、これも近代以前は地域社会内で必要な分を生産し、互に分け合ったり交換したりして賄っていた。それが、売買され利益を生むことを目的に人の技術で商品化されたのが、資本主義の世界である。いまや、水はペットボトルで買うものになり、空気も汚染された場所では空気清浄機を備える必要が出てしまった。あらゆるものがお金を出さないと手に入らなくなったのが資本主義という経済システムである。
人間が生きて平和に暮らすための基礎的な「使用価値」をもつものを「コモン」と呼ぶというところから、マルクスを読み直すと、空気や水や太陽光のようなものはもちろん、食糧や土地、住居のような基本となる「コモン」が潤沢にあった世界から、資本主義は労働による生産を貨幣に換算する「価値」へと変えることで、商品が市場で好感される世界へと変えてしまった。ぼくたちが今生きている社会は、もうお金がなければ、「コモン」から遮断される世界になっている、というのがここでの斎藤幸平氏の主張のようだ。
「石炭や石油は河川の水と異なり輸送可能で、なにより、排他的独占が可能なエネルギー源であった。この「自然的」属性が、資本にとっては有利な「社会的」意義をもつようになったというのである。
水車から蒸気機関へと移行すれば、工場を河川沿いから都市部に移すことができる。河川沿いの地域では労働力が希少であるがゆえに、資本に対して労働者が優位に立っていた。けれども、仕事を渇望する労働者たちが大量にいる都市部に工場を移せば、今度は資本が優位に立つことができ、問題は解決する。
資本は、希少なエネルギー源を都市において完全に独占し、それを基盤に生産を組織化した。これによって、資本と労働者の力関係は、一気に逆転したのだ。石炭は本源的な「閉鎖的技術」だったのである。
その結果、水力という持続可能なエネルギーは脇に追いやられた。石炭が主力になって生産力は上昇したが、街の大気は汚染され、労働者たちは死ぬまで働かされるようになった。そして、これ以降、化石燃料の排出する二酸化炭素は増加の一途をたどっていったのだ。
▼コモンズは潤沢であった
ここで重要なポイントは、本源的蓄積が始まる前には、土地や水といったコモンズは潤沢であったという点である。共同体の構成員であれば、誰でも無償で、必要に応じて利用できるものであったからだ。
もちろん、好き勝手に使っていいわけではない。一定の社会的規制の下で利用しなければならなかったし、違反者には罰則規定もあった。だが、決まりを守っていれば、人々に開かれた無償の共有財だったのだ。
さらに、コモンズにおいては、共用財産であるからこそ、人々は適度に手入れを行っており、また、利潤獲得が生産の目的ではないため、過度な自然への介入もなく、自然との共存を実現していた。第四章で見たマルク協同体のもつ持続可能性がここにもあった。
ところが、囲い込み後の私的所有制は、この持続可能で、潤沢な人間と自然の関係性を破壊していった。それまで無償で利用できていた土地が、利用料(レント=地代)を支払わないと利用できないものとなってしまったのである。本源的蓄積は潤沢なコモンズを解体し、希少性を人工的に生み出したのだ。
かつての入会地は私有地になった。私有制のもとでは、貨幣を使って、いったん土地を手に入れてしまえば、誰からも邪魔されることなく、好き勝手にその土地を使用することができる。すべては所有者の自由というわけだ。その自由のせいで、その他大勢の人の生活が悪化しようと、土地がやせ細ろうと、水質が汚染されようと、誰も所有者の好き勝手を止められない。
そして、その分だけ、残りの人々の生活の質は低下していったのである。
▼私財が公富を減らしていく
実は、この矛盾は、すでに十九世紀に論じられていた。十九世紀初頭に活躍した政治家・経済学者ローダデール伯爵が、その著作『公共の富の性質と起源』(1804年)で、この問題を論じていたのだ。
それゆえ、この矛盾は、現在では「ローダデールのパラドックス」と呼ばれている。その内容を一言で要約すれば、「私財(private riches)の増大は、公富(public wealth)の減少によって生じるという逆説である。
ここでいう「公富」とは、万人にとっての富のことである。ローダデールはそれを「人間が自分にとって有用あるいは快楽をもたらすものとして欲するあらゆるものからなる」と定義している。
一方、「私財」は私個人だけにとっての富のことである。それは、「人間が自分にとって有用あるいは快楽をもたらすものとして欲するあらゆるものからなるが、一定の希少性を伴って存在するもの」として、定義される。
要するに、「公富」と「私財」の違いは、「希少性」の有無である。
「公富」が万人にとっての共有財なので、希少性とは無縁である。だが、「私財」の増大は希少性の増大なしには不可能である。ということは、多くの人々が必要としている「公富」を解体し、意図的に希少にすることで、「私財」は増えていく。つまり、希少性の増大が「私財」を増やす。
他人を犠牲にして私腹を肥やすような行為が正当化されるとは、にわかには考え難いが、それこそまさに、ローダデールの目前で行われていた行為だったのだ。いや、これこそが資本主義の本質だ。そして、この問題は現在まで続いている。
例えば、水は潤沢に存在していることが、人々にとっては望ましいし、必要でもある。そして、そのような状態では、水は無償である。それこそが「公富」の望ましいあり方である。
一方、なんらかの方法で水の希少性を生み出すことができれば、水を商品化して価格をつけられるようになる。人々が自由に利用できる無償の「公富」は消える。だが、水をペットボトルに詰めて売ることで、金儲けができるようになり、「私財」は増える。それによって、貨幣で計測される「国富」も増える。
そう、ローダデールの議論は直接には「私富」の合計が「国富」であるというアダム・スミスの考えに対する批判とみなすことができるのだ。
つまり、ローダデールに言わせれば、「私富」の増大は、貨幣で測れる「国富」を増やすが、真の意味での国民にとっての富である「公富」=コモンズの減少をもたらす。そして、国民は、生活に必要なものを利用する権利を失い、困窮していく。「国富」は増えても、国民の生活はむしろ貧しくなる。つまり、スミスとは異なり、本当の豊かさは「公富」の増大にかかっているというのである。
ほかにも、ローダデールはいろいろな例を挙げている。例えば資本は、タバコの収穫量が多すぎる場合にあえて収穫物を燃やしたり、ワインの生産量を減らすために法律でワイン用のブドウ畑の耕作を禁じたりすることによって、タバコやワインの希少性を作り出しているというのである。本来であれば、収穫が多いことは喜ぶべきことだろう。だが、過剰供給は価格を下げてしまうので、価格を維持するために、わざと破棄されるのだ。
潤沢さが減り、希少性が増える。これこそが、「公富」の減少によって、「私財」が「増大」していくという、「ローダデールのパラドックス」である。
▼「価値」と「使用価値」の対立
ただし、ローダデール自身は、このパラドックスをそれ以上展開していない。それに対して、マルクスが商品の根本的矛盾として展開しようとしたのは、まさにこの財産(private riches)と富(public wealth)の矛盾そのものだといっていい。
マルクスの用語を使えば、「富」とは、「使用価値」のことである。「使用価値」とは、空気や水などがもつ、人々の欲求を満たす性質である。これは資本主義の成立よりもずっと前から存在している。
それに対して、「財産」は貨幣で測られる。それは、商品の「価値」の合計である。「価値」は市場経済においてしか存在しない。
マルクスによれば、資本主義においては、商品の「価値」の論理が支配的となっていく。「価値」を増やしていくことが、資本主義的生産にとっての最優先事項になるのである。その結果、「使用価値」は「価値」を実現するための手段に貶められていく。「使用価値」の生産とそれによる人間の欲求の充足は、資本主義以前の社会においては、経済活動の目的そのものであったにもかかわらず、その地位を奪われたのだ。そして、「価値」増殖のために犠牲にされ、破壊されていく。マルクスはこれを「価値と使用価値の対立」として把握し、資本主義の不合理さを批判したのである。
▼「コモンズの悲劇」ではなく「商品の悲劇」
もう一度、水を例にとって考えてみよう。少なくとも日本では、水は潤沢である。また、生きていくためにあらゆる人が必要とする、「使用価値」が水にはある。だから本来誰のものでもなく、無償であるべきだ。ところが、水はすっかりペットボトルに入った商品として流通するようになった。商品である水は、貨幣で支払いをしないと利用できない希少財に転化しているのだ。
水道事業でも同じことが起きている。水道が民営化されると、企業が利益を上げることが目的となるため、システム維持に最低限必要な分を超えて水道料金が値上げされる。
水に価格をつけることは、水という限りある資源を大切に扱うための方法だという考え方もある。無料だったら、みんなが無駄遣いをしてしまう。それが、生態学者ギャレット・ハーディンが提唱したことで有名な「コモンズの悲劇」の発想である。
だが、水に価格をつければ、水そのものを[資本]として取り扱い、投資の対象としての価値を増やそうとする思考に横滑りしていく。そうなれば、次々と問題が生じてくる。
例えば、水道料金の支払いに窮する貧困世帯への給水が停止される。運営する企業は、水の供給量を意図的に減らすことで、価格をつり上げ、より大きな利益を上げようとする。水質の劣化を気にせず、人件費や監理・維持費を削減するかもしれない。結果的に、水というコモンズが解体されることで、普遍的アクセスや持続可能性、安全性は毀損されることになる。
ここでも、水の商品化によって「価値」は増大する。ところが、人々の生活の質は低下し、水の「使用価値」も毀損される。これは、もともとはコモンズとして無償で、潤沢だった水が、商品化されることで希少な有償財に転化した結果なのだ。だから、「コモンズの悲劇」ではなく、「商品の悲劇」という方が正しい。
▼新自由主義だけの問題ではない
ところで、マルクス主義地理学者のデヴィッド・ハーヴィーは、本源的蓄積を「略奪による蓄積」と定義し、資本家階級が国家を使って、労働者階級から富を巻き上げていく過程こそ、新自由主義の本質だとみなした。そして、マルクスが「略奪による蓄積」を資本主義の「原初の段階」に限定してしまっているのは、ハーヴィーの方だ。
マルクスは「本源的蓄積」を単なる資本主義の「前史」としてとらえているわけではけっしてない。マルクスが指摘しているのは、コモンズの解体による人工的希少性の創造こそが、「本源的蓄積」の神髄であるという点である。資本主義の発展を通じて継続し、拡張する、本質的過程として「本源的蓄積」を見ているのだ。
新自由主義の緊縮政策は近いうちに終わるかもしれない。しかし、新自由主義であろうがなかろうが、資本主義が続く限り、「本源的蓄積」は継続する。そして、希少性を維持・増大することで、資本は利潤を上げていく。そのことは99%の私たちにとっては、欠乏の永続化を意味しているのだ。
▼希少性と惨事便乗型資本主義
これまでの議論をまとめておこう。コモンズとは、万人にとっての「使用価値」である。万人にとって有用で、必要だからこそ、共同体はコモンズの独占的所有を禁止し、協同的な富として管理してきた。商品化もされず、したがって、価格をつけることもできなかった。コモンズは人々にとっては無償で、潤沢だったのだ。もちろん、この状況は、資本にとっては不都合である。
ところが、なんらかの方法で、人工的に希少性を作り出すことができれば、市場はなんにでも価格をつけることができるようになる。そう、「囲い込み」でコモンズを解体して、土地の希少性を作り出したように。そうすれば、その所有者は、レント(利用料)を徴収できるようになるのだ。
土地でも水でも、本源的蓄積の前と後を比べてみればわかるように、「使用価値」(有用性)は変わらない。コモンズから私的所有になって変わるのは、希少性なのだ。希少性の増大が、商品としての「価値」を増やすのである。
その結果、人々は、生活に必要な財を利用する機会を失い、困窮していく。貨幣で計測される「価値」は増えるが、人々はむしろ貧しくなる。いや、「価値」を増やすために、生活の質を意図的に犠牲にするのである。
というのも、破壊や浪費といった行為さえも、それが希少性を生む限り、資本主義にとってはチャンスになるからだ。破壊や浪費が、潤沢なものを、ますます希少にすることで、そこには、資本の価値増殖の機会が生まれるのである。
気候変動が、ビジネスチャンスになるのもそのためだ。気候変動は水、耕作地、住居などの希少性を生み出す。希少性が増えれば、その分だけ、需要が供給を上回り、それが資本にとっては大きな利潤を上げる機会を提供することになる。
これが、惨事のショックに便乗して利を得る「気候変動ショック・ドクトリン」である。金儲けだけを考えるなら、人々の生活を犠牲にしてでも、希少性を維持するのは「合理的」でさえある。
同じく惨事便乗型資本主義の類型である「コロナショック・ドクトリン」に際して、アメリカの超富裕層が、2020年に資産を62兆円も増大させた出来事を思い起こせばいいだろう。「使用価値」を犠牲にした希少性の増大が私富を増やす。これが、資本主義の不合理さを示す「価値と使用価値の対立」なのである。」斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書、2020,pp.241-252.
まさに今1年半続いても収まらないコロナ・パンデミックのもとで、「惨事便乗型」で稼ぎまくるハイエナのような資本主義が跳梁したうえに、オリンピックという悪の華を添えたのが日本ということになる。

B.「イエ社会」はなくなっていない!
「嫁」という言葉、「主人」という言葉は、今の日本でも廃れることなく若者でも使う日常語として生き残っている。とくに親族や近隣で交わされる挨拶などで「お宅のお嫁さん」「お宅の御主人は…」「うちのヨメ」「うちの主人」といった言葉は、当事者にはなんの疑問もなく使われているようだ。ぼくは昔から、男子学生に自分の妻のことを「ヨメ」と呼ぶのはやめた方がいい、と言ってきた。テレビのお笑い芸人などが使い始めてから、それまでの「家内」や「細君」は古すぎるし、「うちのヤツ」とか「うちのカミサン」もなんだか垢ぬけないから、「うちのヨメが…」というのが一種の新しいイメージとして若い男に普及したようだ。でも「ヨメ」という言葉の持つ「イエ社会」の男性優位を保存した言葉だということを、知らないし考えたこともないから、こういう使い方が出てきたのだと説明すると、わかったようなわかんないような顔をされた。ただ若い女性たちが「ヨメ」と呼ばれることを喜んでいるとは思えない。もはや「イエ社会」自体は過去のものだから、親戚の集まりなどの場面で母たちが「ヨメ扱い」されるのを見て、女の子たちはなんか「ヤな感じ」はしたことがあるのだろう。しかし、男たちは年齢世代にかかわりなく、そういうことにきわめて鈍感な人が多い。男の子にとって、「イエ」はかつての父の権威において考えるよりも、より強く母との依存関係という情緒的要素は生き残っているからかもしれない。そこで新妻は「ヨメ」にされてしまう。
「フォーラム 嫁、主人、家はいま:結婚後はパートナーとバラ色の新生活――。というのが理想かもしれませんが、実際は2人を取り巻く周囲との関係などで、うまくいかない場合もあるようです。アンケートには「嫁」「主人」という、性別による役割分担に関する悩みが多く寄せられました。
朝日新聞デジタルのアンケート 2021年8月16~30日14時 計467回答
*結婚後、「嫁」や「主人」としてのふるまいを求められたり、「嫁」や「主人」として扱われたりしていると感じることがありますか? ⇒ある(346回答)、ない(121)
*「ある」を選んだ方へ。それは主にどのようなときですか?(三つまで選択可) 家事(191)、育児(130)、夫の親との同居(33)、妊娠・出産(68)、介護(34)、親戚や地域の集まり(163)、帰省するとき、夫の家が優先される(81)、夫の家の墓に入ること(68)、実家を守ること(27)、その他(53)、「ない」を選択した(118)。
【回答者の性別】女性366人、男性85人、その他(どちらでもない、決めたくない)16人。
【回答者の年代】10代5人、20代52人、30代99人、40代117人、50代114人、60代59人、70代20人、80代1人。
根強い家制度の名残 立命館大教授 二宮周平さん
家を制度として制定したのは1898年の明治民法です。政治的な目的の一つに、天皇制の国家体制を支えることがありました。家長である戸主と家族の関係を天皇と国民の関係になぞらえたのです。天皇は国の家長である、と。こうした考えは、親孝行などを説く教育勅語などを通じて浸透していきました。
戦後の民法改正で家制度は廃止されました。それなのに、いまも慣習などに「家」という意識が残っているのは、戦後改革で民主主義の徹底が不十分だったからでしょう。戦後、GHQからは家制度の廃止を求められましたが、政治家や資産家の中には強い抵抗がありました。彼らを説得するために、ある民法学者は「制度としての家はなくなるが、家族の共同生活は存続し、家族は同じ氏を名乗る」と説明しています。氏が家と同じ役割をするから大丈夫だ、ということです。当時、ある憲法学者はこのことを見抜いて、「家破れて氏あり」と批判しました。
その結果、氏は個人の呼称になったはずなのに、実態は男系の氏の継承という家制度の名残として存在し続けています。選択的夫婦別姓に反対する人たちの中に、「国のあり方が変わる」という意見があります。家制度が廃止された以上、国のあり方と氏を結びつける合理的根拠は何もないのに、そうした感覚は脈々と続いています。女性は結婚すると男性の家に入るという意識も残っています。今は結婚すると夫婦の新しい戸籍を作るのに、「入籍」という言葉はなくなりません。心理的支配や従属関係が続いています。
家制度のもとで、国民に家父長制的な意識が浸透してしまったことも大きいでしょう。明治民法では妻は「無能力者」とされ、働くには夫の許可が必要でした。家制度の廃止に伴い、新しい家族像とされたのは、対等な夫婦を中心とする家族でした。ところが、女性の働く場所は保障されず、高度成長期には性別役割分業が固定化されました。経済的に自立できなければ、どうしても立場は弱くなります。対等な夫婦関係を実現するためには、社会の制度も変えなければいけなかったのです。
「呪い」断ち個人を尊重 作家・翻訳家 松田青子さん
私の両親はともに地方の出身で、私自身も地方で育ちました。小さな頃から親戚の集まりなどで、女性だけが台所で働いていて、男性たちはあぐらをかいてお酒を飲んでいる光景を見てきましたが、ずっと違和感がありました。
昔は結婚後の女性が子どもができなかったら実家に帰される、といった話が当たり前のようにあり、そうした話があまりにひどかったので、「結婚」というものにいいイメージを持ったことがありませんでした。なので、自分自身も結婚せずに事実婚のまま子どもを産みました。そのときに感じた社会への違和感をまとめたのが、最新のエッセー集「自分で名付ける」(集英社)です。
ただ、都会が先進的かと言えばそうでもなく、度重なるセクハラやパワハラなどの問題もあります。
いずれにせよ、こうした違和感の背景には、根強く残る家父長制があると感じます。現代の家族の形はさまざまなのに、男性が仕事・女性が育児を担うという形が「普通」です。現政権もそれを「普通」にしたいがため、実際に生活をしている人たちそれぞれの「普通」を認めていないことが、生きづらさの大きな原因だと思います。
そうした生きづらさを断ち切るには、政治がやるべきことをやるのが不可欠だと思います。選択的夫婦別姓、同性婚、一人で生きることを選んだ人へのサポートなど、国がさまざまな生き方を認め、福祉を含む制度を抜本的に変えなければならないのではないでしょうか。
個人としては、社会にはびこる(家父長制や男女の役割意識といった)「呪い」を断ち切って、下の世代がそれを再生産せずに生きていけるように気をつけていく。当人たちの意思に反して、周囲が「嫁」「主人」などのカテゴリーに押し込め、そのカテゴリーへの固定観念通りに扱っていいと考えるのは雑すぎます。
個人個人の意思を尊重し、それぞれがその場にいやすい形を模索することにもっと心を砕いた方がよいし、それぞれの生き方にあった選択をするのが当たり前になることが大切だと思っています。」
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