A.本居宣長のしごと
江戸時代中期、武士は腰に刀を差して、いざ戦になれば主君のために命を捨てる、と言っていたものの、実際に戦が起ることはなく、武芸に励んでも趣味のスポーツみたいになり、武士が出世するには行政官僚として文治の才が求められた。しかし、中国や朝鮮王朝のように科挙で、難関を突破した知的エリートが社会の支配者になるのではなく、徳川幕藩体制は、武力闘争の勝者の子孫が権力を握っていて、儒教や仏教の「学問」を極めても、国家試験があるわけではなくせいぜい私塾を開いて弟子に教えるか、うまくいけばどこかの大名の顧問のような地位に恵まれれば、大成功という存在でしかなかった。
出家して僧侶になり、大寺院の学僧になれたら地位は安定するが、下級の武士で「学問」にすぐれても、浪人したら食べる者にも事欠く生活。むしろ京都や大坂の富裕な町人の息子の方が、気楽に楽しく「学問」をしてユニークな思想を展開する可能性がある。落語「暁烏」は学問好きの若旦那が遊郭に連れ出されるという噺だが、町人の若旦那にそういうタイプがいただろうと思わせる。幕府が公式学問としたのは朱子学で、武士が学ぶべき倫理道徳を説くが漢文を読み四書や歴史書に通じないといけないから、どうしても堅苦しくなる。そこで、「国学」である。契沖、荷田春満、賀茂真淵と続く和歌やかな文芸の研究から、古事記・日本書紀に遡る「国学」が、儒学や仏教とは異なる日本独自の思想になるのは、伊勢松坂の木綿商家に生まれ、医者になるために京都に出て学んだ本居宣長のしごとであった。
「国学の大成者は、本居宣長(1730〔享保15〕年~1801〔享和元〕年)である。宣長は、伊勢の松坂で木綿商を営んでいた小津家に生まれたが、商人としての人生は宣長には向いていなかった。二十三歳の時に医者となるために上京し、あわせて堀景山(1688〔元禄元〕年~1757〔宝暦七〕年)について学んだ。
景山は、惺窩の門人であった堀杏庵(きょうあん)の曾孫(そうそん)で、家学としての朱子学を旨としながら、徂徠との書簡の遣り取りもあって、徂徠の方法論(古文辞学)を支持した学者であった。「中華より伝たる古聖賢の書は、皆中華人の語也。古聖賢はことごとく中華人なれば、中華人の語勢と字義とを通達せずしては、何を以て古聖賢の語意を合点すべきぞや。(『不尽言(ふじんげん)』)という景山の議論は、まさに徂徠そのものである。そしてまた、同じ書の中で「ひたすらに武威を張り輝(かが)やかし、下民をおどし、推しつけへしつけ帰服させ」るものとして「武家」を批判し、「日本も王代の時分には、今のように武威を張りし様子にてはなし」と述べている。武家政治に対して批判的な京都人の感覚を、若い日の宣長は身近に知った。
京都時代の宣長は、徂徠と契沖を知り、『排蘆小船(あしわけおぶね)』を著している。五年間の京都遊学を終えて松坂に帰った宣長は、昼は町医者として開業しながら、医業を終えれば『源氏物語』や『伊勢物語』の講義を行い、歌論をまとめ、『紫文要領(しぶんようりょう)』や『石上私淑言(いそのかみのささめごと)』にその成果を著した。よく知られるように、宣長は一度だけ松坂で真淵と直接に面会し、真淵の勧めで『古事記』の注釈に着手する。こうして35年を費やして、大著『古事記伝』がなった(完成は69歳、全44巻のうち、巻17までが生前に刊行されている)。
契沖は「古の人の心に成(る)」ことを説いたが、宣長は、真淵を引きながら、それをまず言葉の問題として捉え返している。
其説(真淵)に古の道をしらんとならば、まず古の歌を学びて、古風の歌をよみ、次に、古の文を学びて、古ぶりの文をつくりて、古言をよく知て、古事記・日本紀(『日本書紀』)をよくよむべし。古言をしらでは古意はしらでは、古の道は知がたかるべし。(『初山踏(ういやまぶみ)』)
また、「大かた人は言(ことば)と事(わざ)と心と、そのさま大抵相(あい)かないて似たる物にて」とも述べて、「古風の歌」や「古ぶりの文」を作ることで、つまり「古」の言語世界に身を浸すことで、「古」の「心」に接近できるとした。
その時、予見なしに「古」の世界にどっぷりと入ることが大事で、後世ぶりの理解や学者間の通念、とくに理知の力ですべてを割り切っていこうとする発想(宣長はそれを「漢意(からごころ)」と呼んで。その傲慢を嫌う)を捨てることが説かれる。
道を学ばんと心ざすともがらは、第一に漢意儒意を清く濯(すす)ぎ去て、やまと魂をかたくする事を要とすべし。
「やまと魂」は、素直で柔らかな心、おおらかな古来の日本人の姿というほどの意味であろうか。
「もののあわれ」を知る
宣長の思想には、大きく二つの核があるとされる。一つは、『源氏物語』や和歌の研究から導かれた「もののあわれ」論であり、もう一つは、神道に関わって「古道」論と言われる。「もののあわれ」論は、儒教や仏教のような道徳的・宗教的な規範を前提に文学を論じることを戒め、文学の本質が、人間の感情表現にあることを説いたものである。勧善懲悪の立場から『源氏物語』を淫乱の書として排撃したり、最終的には因果応報の理に思いを致して仏教の教えに導くために『源氏物語』が書かれたというような議論が通用していた時代に、宣長の主張は画期的であった。
「もののあわれ」という表現は早くから用いられるもので(『土佐日記』に見え、『新古今和歌集』の歌人である藤原俊成の歌にも「恋せずば人は心もなからまし物の哀も是よりぞしる」とある)、宣長だけのものではない。では、「もののあわれ」と言う時の「もの」とは何か。これは難しい問題で、宣長自身もはっきりと説明はしていない。「もの」とは「個人の力では変えることのできない『不可変性』を核とする」もので、「運命、動かしがたい事実、世間的制約」などのことだとする指摘があるが(大野晋「モノとは何か」『語学と文学の間』岩波現代文庫、2006年)、傾聴すべき見方だと思われる。
そして宣長は、人間感情の最も深いところから湧き出る身を切るような表現を、恋に見出した。理知的・意志的で自信に満ちた人間であっても、実はその奥には、女々しく、おどおどした、好色で愚かな実情が潜んでいるのが人間の本当の姿であり、自分にもどうにもならない弱さ・愚かさに翻弄されるのが恋であって、恋において、人は最も深くしみじみと「もののあわれ」を知る。こう宣長は捉えた。誰かを美しいと思い、心から好きになってしまうという〈動かしがたい事実〉、その事実を前にしての、驚き・不安・喜び・悲しみ・恐れ……そこに「もののあわれ」がある。
恋の歌の多きはいかにといえば、これが歌の本然のおのずからあらわるる所也。すべて好色の事ほど人情のふかきものはなき也。仙人万人みな欲するところなるゆえに恋の歌は多き也。(『排蘆小舟』)
こうして文学は、「もののあわれ」を描き、「人情のふかきもの」を伝える。背徳の主人公を描いても、そこに人間としての深い真実(「もののあわれ」)が描かれていれば、読者は心を動かされる。なぜ心を動かされるのかといえば、それが自分と無縁の世界のことではないから、つまり、現実の自分はそこにいなくとも、それが、そうあるかもしれない自分、そうありたい自分であることを読者が知っているからである。
仏教では「恋」は煩悩(執着)そのものであろう。儒教では、男女が求めあうことは天地陰陽の自然として肯定されるが、なぜ私がこの人を好きになるのかには答えられないし、答えようともしない。つまり「恋」は問題にならない。例えば人妻との恋は、背徳である。人妻が、男を恋しく思うのも背徳であろう。僧侶が恋心を懐くとすれば、それも許されることではない。しかし「あいがたし人のゆるさぬ事のわりなき中は、ことに深く思いいりて哀のふかき物なり」(『紫文要領』)と宣長は言う。そういう「わりな(い)」恋の切なさ・もどかしさにおいて、その想いを訴えずにいられない時、心を打つ歌が生まれる。それは背徳(裏切り)かもしれないが、抑えようのない恋心の哀切にこそ「もののあわれ」の神髄があって、その「もののあわれ」を「知る」ことが、人間らしい共感なのである。
人の哀なる事をみては哀と思い、人のよろこぶをききては共によろこぶ、是すなわち人情にかなう也、物の哀をしる也。(『紫文要領』)
『葉隠』は「忍ぶ恋」を称えたが、宣長はそうではない。なぜ、人を好きになるのか。なぜ、恋心を伝えずにはいられないのか。なぜ、それを歌として表現しようとするのか。儒教や仏教がおよそ問題としなかったこと、あるいは次元の低いこととして正面から見なかったことを、宣長は問い続けた。ここに、他の国学者とも違った宣長の真価がある。『源氏物語』を読むということは、「もののあわれ」を「知る」ことで、作者や作中の人物、連綿とそれを読み継いできた人々と共感して深く繋がることなのである。人と人は、理知の力などではどうにもならない、なすすべのないその弱さ・愚かさにおいてもっとも深く繋がる。
不可思議でおおらかな神々
宣長は、こう述べている。
すべて神の道は、儒仏などの道の、善悪是非をこちたくさだせるようなる理屈は、露ばかりもなく、ただゆたかにおおらかに、雅たる物にて、歌のおもむきぞ、よくこれにかなえりける。(『初山踏』)
あるいは、
そもそも天地のことわりしも、すべて神の御所為にして、いともいとも妙に奇しく、霊しき物にしあれば、さらに人のかぎりある智りもては、測りがたきわざなるを、いかでかよくきわめつくして知ることのあらむ。(『古事記伝』)
とも言われる。ここで宣長は、神のはたらきが、人間の知恵(理性)を超えたものであることを言っている。理知の延長線上に神々を置いてはならない。善行・正直・誠実に答えて福徳や恩恵をもたらしてくれるもの、寄進・喜捨に応じて幸いを与えてくれるもの、そういうものとしては神を認めない。当時「正直の頭に神が宿る」とは広く言い習わされていたが、宣長の考える神々は、そういうものではない。人間の行為に帳尻の合った形で、神の恵みや罰を捉えることはできない。人間的な世界(道徳や規範)から完全に切り離されて、不可思議なるもの、霊妙なるものとして神々はある。
その意味では〈絶対の他者〉として神々はあって、人間はそういう神々に包まれて生きる。天地世界のすべては不可思議で霊妙なのであって、人間はその中の小さな存在である。これは「誰も誰も心をかがみのごとくせば、吾心則天御中主尊(わがこころすなわちあめのみなかぬしのみこと)・天照大神(あまてらすおおんかみ)に同じからんか」「一心の理の外に異なる神はなし」(渡会延佳(わたらいのぶよし)『陽復記』。延佳は伊勢神道を江戸期に再興した人物)、「心の外に別の神なく別の理なし」(林羅山『神道伝授(しんとうでんじゅ)』。羅山は朱子学の立場から神道を理論化した)と言われるような、自己の心を正しく保つことで神々との合一に至るという、それまでの道徳的な神観念との大きな違いである。
さて凡て迦微(かみ)とは〔中略〕人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐい海山など、其余何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云なり。(『古事記伝』)として、さらに「すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさお)しきことなどの優れたるのみを云に非ず。悪きもの奇しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云なり」と説明を加えている。
しかし単に理知を超えた不思議さを言うだけではなく、宣長は、それを「ただゆたかにおおらかに、雅たる物にて、歌のおもむきぞ、よくこれにかなえりける」としていた。人間は、神々の豊かさ・おおらかさ・雅なさまを実感し、それを称え、不思議がり、受け取っていく。神々の「御所為」がなぜそうなのかは、人間にはわからない。賢くなるということは、往々、事物(神々)の「奇しく、霊しき」さまを受け取る感性が乾燥してしまうことでもあって、「歌のおもむき」に浸るのは、その乾燥から抜け出すことでもあるのだろう。
ニヒリズム
宣長は、
人は死候えば善人も悪人もおしなべて、皆黄泉の国へゆくことに候。善人とてよき所へ生れ候ことはなく候。〔中略〕さて其黄泉(よみ)の国は、きたなくあやしき所に候えども、死ぬれば必ゆかねばならぬことに候故に、此世に死する程悲しきことは候わぬ也。(『鈴屋答問録(すずのやとうもんろく)』)
と述べている。『古事記』は、火の神(カグツチ)を生んで死んでしまったイザナミが、黄泉国に赴いたという話を伝えている。イザナギはこれに怒って火の神を殺し、イザナミを連れ戻そうとして、暗く汚い黄泉の国で、腐乱していくイザナミに会うのであった。
宣長はここから、人間も誰であれ、その死後の霊魂は「きたなくあやしき所」としての黄泉国に赴くのだとする。善人が、浄土であれ天国であれ、善人に相応しいところに行けるという帳尻合わせはない。悪人でもまた同じである。あるいは儒教が説くように、気を連続させる子孫によって誠敬を尽くして祭られることで、子孫との交感が叶うのでもない。想像するさえ不快な黄泉国に、善人も悪人も「必ずゆかねばならぬ」のである。人間にできるのは、それを「悲しきこと」として受け止めることだけである。
霊魂の行方について、宣長の中にも揺れがあったのかもしれない。というのは、宣長は遺言で、本居家の宗旨である浄土宗の檀那寺で仕来り通りの葬儀をすることとともに、かねて気に入っていた山室山の頂近くにひっそりと奥津城(墓)を造り、そちらに遺骸を埋葬して、好んでやまなかった山桜を植えるように命じた。これは、自身の霊魂が山室山で安らぐことを望んだものと思われ、黄泉国のイメージと離れてしまう。
おそらく宣長の中には、人間の実存に関わって、深刻な問題が底流にずっと横たわっていたのではないだろうか。宣長は死の問題についても、どうしようもない〈もの〉の前に無力なありようを見つめている。人間は、自分の恋心ひとつさえ、どうにもならない。生においてそうなら、死においてもそうである。道徳や規範、善人であり義人であることは、その前では何の意味ももたない。
ここには、ある種のニヒリズムの問題が潜んでいる。もちろんそれは、日々の生活における道徳や規範、人々の誠実さに不信を向けさせるようなものではない。ただ、弱さや愚かさを抱えながらの、その無力なありように目を凝らせば、人間の実相は、道徳や規範に守られることもなく、頼るべき神の教えなどというものもなく、自身を弁護し正当化する何の言葉ももたずに、ただ一人で〈動かしがたい事実〉の前に立つ、それ以外のものではない。
神々の大きな力に包まれているのが人間であり、神々の計らいは、人間の観念や理性、思慮の及ばない霊妙不可思議なものとしてあると宣長は言う。それは、別に日本だけのことではなく、普遍的な姿として、人間はそういう大きな計らいの中で生きている。ところが、人間は自らの観念や理性によって、世界を解釈し説明し了解しようとする。仏教の教理も、儒教の道徳も、結局は同じことをしようとしているに過ぎない。
幸い日本には、そういう解釈以前の、神々に包まれた人間の真実を伝える伝承がある。
そもそも此道は、天照大御神道にして、天皇(すめらみこと)の天下(あめのした)をしろしめす道、四海万国にゆきわたりたる、まことの道なるが、ひとり皇国(すめらみくに)に伝われるを、其道はいかなるさまの道ぞというに、此道は、古事記書紀の二典(ふたみふみ)に記されたる、神代上代の、もろもろの事跡のうえに備わりたり。(『初山踏』)
『古事記』や『日本書紀』の伝える神々の物語は、宣長によれば、狭く日本の誕生を説くものではなく、天地(世界)の生成と秩序を明らかにしている。
まず皇国には、天地の判(わか)れし始よりして、国土日月万物の始などまで、其事の詳(つまびらか)に伝わりきぬるは、天照大御神の御生坐(みあれませ)る御国(みくに)として、万物に勝れ、人の心も直かりしゆえ、且は中古迄、中々に文字という物のさかしらなくして、妙なる言霊の伝えなりし徳ともいいつべし。外国(とつくに)は〔中略〕上古の伝え事もさだかならざる也。(『くず花』)
そういう真実は、人々の心が素直で、「文字という物のさかしら」がなく、ただ「妙なる言霊の伝え」として受け継がれてきたから、日本に残っている。文明の優越を誇った中国は、観念や説明の過剰(さかしら)によって、本来なら伝えられていたであろう「上古の伝え事」が、逆に分からなくなってしまったのである。
こうして宣長は、「天照大御神の御生坐る御国」としての日本を「皇国」と呼び、「外国」「異国」との差異を強調していく。
皇国は〔中略〕此四海万国を照らさせたまう天照大御神の御出生ましましし御本国なるが故に、万国の元本大宗たる御国にして、万の事異国にすぐれてめでたき〔中略〕格別の子細と申すことをも知るべきなり。(『玉くしげ』)
ちなみに「万の事異国にすぐれてめでたき」の例として『玉くしげ』がまず挙げるのは、太陽(アマテラス)の恵みを受けた米の旨さである。それはともかく、「皇国」が「万国の元本大宗たる御国」であるのは、忠孝という普遍の道徳律が中国よりも現実に発揮されたから優れているのでもなく、天壌とともに無窮の皇室があるから尊いのでもない。神仏の加護によって国土が守護されているというのでもない。通俗神道家が説くような、男女和合の国だからよいというのでもない。アマテラスの生まれた国として、天地のありよう、神々と人とのありよう、あるべき「人の心」、それらが「古」のままに伝えられているから尊貴なのである。天壌とともに無窮の皇室があるのは、その結果としてのことである。
「委任」論の誕生
徳川将軍の権力が、何に正統性の根拠を置くのかは、実ははっきりしていなかった。並びない武威、公儀のご威光、内乱の時代に終止符を打って泰平をもたらしたという圧倒的な事実、おそらくそれらが、それ以上の根拠を問う必要性を人々に感じさせなかったのだろう。
かつて西川如見は、将軍を天皇の「名代」(『町人蘘』)と見立てたが、白石や徂徠・春台などは、徳川の支配を実質的な新しい王朝の成立と見ていた。闇斎は、地上世界を平定した「金気武徳の神」(スサノヲ)の功業に擬えて徳川体制を称えたが、その門人の佐藤直方(1650〔慶安三〕年~1719〔享保四〕年)は、白石や徂徠と同じように、そこに儒教の教える易姓革命(天の意志として、残忍不徳の王朝を有徳の王者が打倒して新王朝を開くこと)に通じるものを認め、同門の浅見絅斎(1652〔承応元〕年~1711〔正徳元〕年)は、京都の朝廷が日本史を貫く唯一の主上だと捉えていた。
こうした中、宣長ははっきりと、徳川将軍の権力がアマテラスの計らいとして、朝廷から委任されたことで成り立っていると説いた。
さて今の御世と申すは、まず天照大御神の御はからい、朝廷の御任によりて、東照神御祖命(家康)より御つぎつぎ、大将軍家の、天下の御政をば、敷行わせ給う御世にして〔中略〕天下の民は、みな当時これを、東照神御祖命御代々の大将軍家へ、天照大御神の預けさせ給える御民なり。国も又天照大御神の預けさせたまえる御国なり。(『玉くしげ』)
将軍も大名も、朝廷からの委任によって領土領民を支配しているのだが、その朝廷(天皇家)もまたアマテラスからの「事よさし」(委任)によって朝廷たりえていると宣長は捉えている。「此道は、天照大御神の道」とされ、「天照大御神の御出生ましましし御本国」だからこそ「皇国」だとされたように、あらゆる政治秩序の根元にあるのは、ただアマテラスなのである。こうして生まれた「委任」論が、おそらく宣長の想像もしなかった役割を、十九世紀の政治史・思想史の中で発揮することになる(権力を「委任」されたという前提がなければ、大政の「奉還」も版籍の「奉還」もありえない)。」田尻祐一郎『江戸の思想史 人物・方法・連関』中公新書2097、2011年。pp.135-149.
小林秀雄の晩年の名著といわれる『本居宣長』は、確かに宣長論として「もののあはれ」の神髄を語って、いかにも小林秀雄らしいしごとだった。

B.トランプ新政権
トランプの第2次政権が発足した。歓迎する人もいるかもしれないが、何をするか予測できない人物の再登場で世界に大きな不安が漂う。日本の大手メディアは、とりあえず日本にどんな要求が突きつけられるか怯えていて、石破首相が早くトランプに会わないと冷たくされる、みたいな話になる。でも、対米従属をながく続けてきた自民党は、ここで冷静にトランプとどういう距離をとるか、石破首相にはよく考えてほしい。
「時事小言:頼れぬ米 模索する連携 藤原帰一
(前略)第一の政策は移民の排斥だ。トランプは軍を動員して移民の越境を排除し、米国に居住する「不法移民」を米国で生まれた子どもと共に国外に送還しようとしている。就任初日には米国出生による国籍取得を認めない大統領令に署名した。
第二の政策は多様性・公平性・包摂性(DEI)の否定である。人種・性別・民族による差別の排除が白人と男性への逆差別を生み出したという認識を背景とするDEI否定は連邦政府ばかりか各州に及び、学校教育を変え、私企業にまで影響が及ぶだろう。米国社会における女性とマイノリティ―の立場が弱まることは避けられない。
第三が環境・エネルギー政策の変更だ。第1期政権は地球温暖化に関するパリ協定から離脱した。その後、米国は協定に復帰したが、第2期政権は再度の離脱を決定した。脱炭素政策は後退し、エネルギー生産への諸規制も撤廃されるだろう。
では外交はどうか。既存の条約や合意にとらわれない対外政策が進められるほかには、わかることが少ない。予測できない行動をとるのがトランプの特徴だからだ。
友好国に対して関税引き上げと防衛費拡大が求められるのはほぼ確実だ。米国への譲歩を最も期待できる相手は対立する国ではなく、相互依存関係が高いうえに米国より経済的・軍事的に弱い友好国である。通商協定や同盟が米国に負担を強いてきたと訴えてきたトランプは、自国のために他国を犠牲とする近隣窮乏化と、安全保障の対価の要求レントシーキングを進め、途方もない規模の関税と防衛費拡大を要求するだろう。
では軍事的に対立する国との関係はどうか。トランプの泣き所は、ここにある。
北朝鮮政策に見られるようにトランプは核兵器使用を含む最大限の圧力を加えて譲歩を求めてきたが、戦争を始めたことも、終わらせたこともない。最大限の圧力を加えても譲らない相手にはどうすべきか、トランプに答えはない。
トランプは関税引き上げや大規模な経済制裁によって中国に圧迫を加えるだろう。しかし、これらの施策は中国から譲歩を引き出す手段に過ぎない。何よりもトランプは中国を米国への直接の脅威と考えておらず、米国の安全を脅かしてまで台湾を支援する意思が乏しい、中国が武力行使に訴えても米国が軍事力で対抗しない可能性がある。
ウクライナの戦争では、米国主導の停戦はほど遠い。米国が軍事支援を中止すると脅してもウクライナがロシアに譲歩する可能性は低い。米国が対ロ経済制裁を拡大し、軍事的に威迫したところでロシアが戦争を断念することは期待できない。 〔中略〕
ヨーロッパだけではない。トランプ政権の誕生は世界各国が米国に頼ることのできない状況をつくりだした。では日本は、米国に頼ることができない状況のなかで日米韓豪比5カ国連携をどう進めるのか。中国への抑止と外交をどう両立させるのか。日米関係だけでは答えを得ることができない課題はここにある。
(順天堂大学特任教授・国際政治)」朝日新聞2025年1月22日夕刊、2面。
江戸時代中期、武士は腰に刀を差して、いざ戦になれば主君のために命を捨てる、と言っていたものの、実際に戦が起ることはなく、武芸に励んでも趣味のスポーツみたいになり、武士が出世するには行政官僚として文治の才が求められた。しかし、中国や朝鮮王朝のように科挙で、難関を突破した知的エリートが社会の支配者になるのではなく、徳川幕藩体制は、武力闘争の勝者の子孫が権力を握っていて、儒教や仏教の「学問」を極めても、国家試験があるわけではなくせいぜい私塾を開いて弟子に教えるか、うまくいけばどこかの大名の顧問のような地位に恵まれれば、大成功という存在でしかなかった。
出家して僧侶になり、大寺院の学僧になれたら地位は安定するが、下級の武士で「学問」にすぐれても、浪人したら食べる者にも事欠く生活。むしろ京都や大坂の富裕な町人の息子の方が、気楽に楽しく「学問」をしてユニークな思想を展開する可能性がある。落語「暁烏」は学問好きの若旦那が遊郭に連れ出されるという噺だが、町人の若旦那にそういうタイプがいただろうと思わせる。幕府が公式学問としたのは朱子学で、武士が学ぶべき倫理道徳を説くが漢文を読み四書や歴史書に通じないといけないから、どうしても堅苦しくなる。そこで、「国学」である。契沖、荷田春満、賀茂真淵と続く和歌やかな文芸の研究から、古事記・日本書紀に遡る「国学」が、儒学や仏教とは異なる日本独自の思想になるのは、伊勢松坂の木綿商家に生まれ、医者になるために京都に出て学んだ本居宣長のしごとであった。
「国学の大成者は、本居宣長(1730〔享保15〕年~1801〔享和元〕年)である。宣長は、伊勢の松坂で木綿商を営んでいた小津家に生まれたが、商人としての人生は宣長には向いていなかった。二十三歳の時に医者となるために上京し、あわせて堀景山(1688〔元禄元〕年~1757〔宝暦七〕年)について学んだ。
景山は、惺窩の門人であった堀杏庵(きょうあん)の曾孫(そうそん)で、家学としての朱子学を旨としながら、徂徠との書簡の遣り取りもあって、徂徠の方法論(古文辞学)を支持した学者であった。「中華より伝たる古聖賢の書は、皆中華人の語也。古聖賢はことごとく中華人なれば、中華人の語勢と字義とを通達せずしては、何を以て古聖賢の語意を合点すべきぞや。(『不尽言(ふじんげん)』)という景山の議論は、まさに徂徠そのものである。そしてまた、同じ書の中で「ひたすらに武威を張り輝(かが)やかし、下民をおどし、推しつけへしつけ帰服させ」るものとして「武家」を批判し、「日本も王代の時分には、今のように武威を張りし様子にてはなし」と述べている。武家政治に対して批判的な京都人の感覚を、若い日の宣長は身近に知った。
京都時代の宣長は、徂徠と契沖を知り、『排蘆小船(あしわけおぶね)』を著している。五年間の京都遊学を終えて松坂に帰った宣長は、昼は町医者として開業しながら、医業を終えれば『源氏物語』や『伊勢物語』の講義を行い、歌論をまとめ、『紫文要領(しぶんようりょう)』や『石上私淑言(いそのかみのささめごと)』にその成果を著した。よく知られるように、宣長は一度だけ松坂で真淵と直接に面会し、真淵の勧めで『古事記』の注釈に着手する。こうして35年を費やして、大著『古事記伝』がなった(完成は69歳、全44巻のうち、巻17までが生前に刊行されている)。
契沖は「古の人の心に成(る)」ことを説いたが、宣長は、真淵を引きながら、それをまず言葉の問題として捉え返している。
其説(真淵)に古の道をしらんとならば、まず古の歌を学びて、古風の歌をよみ、次に、古の文を学びて、古ぶりの文をつくりて、古言をよく知て、古事記・日本紀(『日本書紀』)をよくよむべし。古言をしらでは古意はしらでは、古の道は知がたかるべし。(『初山踏(ういやまぶみ)』)
また、「大かた人は言(ことば)と事(わざ)と心と、そのさま大抵相(あい)かないて似たる物にて」とも述べて、「古風の歌」や「古ぶりの文」を作ることで、つまり「古」の言語世界に身を浸すことで、「古」の「心」に接近できるとした。
その時、予見なしに「古」の世界にどっぷりと入ることが大事で、後世ぶりの理解や学者間の通念、とくに理知の力ですべてを割り切っていこうとする発想(宣長はそれを「漢意(からごころ)」と呼んで。その傲慢を嫌う)を捨てることが説かれる。
道を学ばんと心ざすともがらは、第一に漢意儒意を清く濯(すす)ぎ去て、やまと魂をかたくする事を要とすべし。
「やまと魂」は、素直で柔らかな心、おおらかな古来の日本人の姿というほどの意味であろうか。
「もののあわれ」を知る
宣長の思想には、大きく二つの核があるとされる。一つは、『源氏物語』や和歌の研究から導かれた「もののあわれ」論であり、もう一つは、神道に関わって「古道」論と言われる。「もののあわれ」論は、儒教や仏教のような道徳的・宗教的な規範を前提に文学を論じることを戒め、文学の本質が、人間の感情表現にあることを説いたものである。勧善懲悪の立場から『源氏物語』を淫乱の書として排撃したり、最終的には因果応報の理に思いを致して仏教の教えに導くために『源氏物語』が書かれたというような議論が通用していた時代に、宣長の主張は画期的であった。
「もののあわれ」という表現は早くから用いられるもので(『土佐日記』に見え、『新古今和歌集』の歌人である藤原俊成の歌にも「恋せずば人は心もなからまし物の哀も是よりぞしる」とある)、宣長だけのものではない。では、「もののあわれ」と言う時の「もの」とは何か。これは難しい問題で、宣長自身もはっきりと説明はしていない。「もの」とは「個人の力では変えることのできない『不可変性』を核とする」もので、「運命、動かしがたい事実、世間的制約」などのことだとする指摘があるが(大野晋「モノとは何か」『語学と文学の間』岩波現代文庫、2006年)、傾聴すべき見方だと思われる。
そして宣長は、人間感情の最も深いところから湧き出る身を切るような表現を、恋に見出した。理知的・意志的で自信に満ちた人間であっても、実はその奥には、女々しく、おどおどした、好色で愚かな実情が潜んでいるのが人間の本当の姿であり、自分にもどうにもならない弱さ・愚かさに翻弄されるのが恋であって、恋において、人は最も深くしみじみと「もののあわれ」を知る。こう宣長は捉えた。誰かを美しいと思い、心から好きになってしまうという〈動かしがたい事実〉、その事実を前にしての、驚き・不安・喜び・悲しみ・恐れ……そこに「もののあわれ」がある。
恋の歌の多きはいかにといえば、これが歌の本然のおのずからあらわるる所也。すべて好色の事ほど人情のふかきものはなき也。仙人万人みな欲するところなるゆえに恋の歌は多き也。(『排蘆小舟』)
こうして文学は、「もののあわれ」を描き、「人情のふかきもの」を伝える。背徳の主人公を描いても、そこに人間としての深い真実(「もののあわれ」)が描かれていれば、読者は心を動かされる。なぜ心を動かされるのかといえば、それが自分と無縁の世界のことではないから、つまり、現実の自分はそこにいなくとも、それが、そうあるかもしれない自分、そうありたい自分であることを読者が知っているからである。
仏教では「恋」は煩悩(執着)そのものであろう。儒教では、男女が求めあうことは天地陰陽の自然として肯定されるが、なぜ私がこの人を好きになるのかには答えられないし、答えようともしない。つまり「恋」は問題にならない。例えば人妻との恋は、背徳である。人妻が、男を恋しく思うのも背徳であろう。僧侶が恋心を懐くとすれば、それも許されることではない。しかし「あいがたし人のゆるさぬ事のわりなき中は、ことに深く思いいりて哀のふかき物なり」(『紫文要領』)と宣長は言う。そういう「わりな(い)」恋の切なさ・もどかしさにおいて、その想いを訴えずにいられない時、心を打つ歌が生まれる。それは背徳(裏切り)かもしれないが、抑えようのない恋心の哀切にこそ「もののあわれ」の神髄があって、その「もののあわれ」を「知る」ことが、人間らしい共感なのである。
人の哀なる事をみては哀と思い、人のよろこぶをききては共によろこぶ、是すなわち人情にかなう也、物の哀をしる也。(『紫文要領』)
『葉隠』は「忍ぶ恋」を称えたが、宣長はそうではない。なぜ、人を好きになるのか。なぜ、恋心を伝えずにはいられないのか。なぜ、それを歌として表現しようとするのか。儒教や仏教がおよそ問題としなかったこと、あるいは次元の低いこととして正面から見なかったことを、宣長は問い続けた。ここに、他の国学者とも違った宣長の真価がある。『源氏物語』を読むということは、「もののあわれ」を「知る」ことで、作者や作中の人物、連綿とそれを読み継いできた人々と共感して深く繋がることなのである。人と人は、理知の力などではどうにもならない、なすすべのないその弱さ・愚かさにおいてもっとも深く繋がる。
不可思議でおおらかな神々
宣長は、こう述べている。
すべて神の道は、儒仏などの道の、善悪是非をこちたくさだせるようなる理屈は、露ばかりもなく、ただゆたかにおおらかに、雅たる物にて、歌のおもむきぞ、よくこれにかなえりける。(『初山踏』)
あるいは、
そもそも天地のことわりしも、すべて神の御所為にして、いともいとも妙に奇しく、霊しき物にしあれば、さらに人のかぎりある智りもては、測りがたきわざなるを、いかでかよくきわめつくして知ることのあらむ。(『古事記伝』)
とも言われる。ここで宣長は、神のはたらきが、人間の知恵(理性)を超えたものであることを言っている。理知の延長線上に神々を置いてはならない。善行・正直・誠実に答えて福徳や恩恵をもたらしてくれるもの、寄進・喜捨に応じて幸いを与えてくれるもの、そういうものとしては神を認めない。当時「正直の頭に神が宿る」とは広く言い習わされていたが、宣長の考える神々は、そういうものではない。人間の行為に帳尻の合った形で、神の恵みや罰を捉えることはできない。人間的な世界(道徳や規範)から完全に切り離されて、不可思議なるもの、霊妙なるものとして神々はある。
その意味では〈絶対の他者〉として神々はあって、人間はそういう神々に包まれて生きる。天地世界のすべては不可思議で霊妙なのであって、人間はその中の小さな存在である。これは「誰も誰も心をかがみのごとくせば、吾心則天御中主尊(わがこころすなわちあめのみなかぬしのみこと)・天照大神(あまてらすおおんかみ)に同じからんか」「一心の理の外に異なる神はなし」(渡会延佳(わたらいのぶよし)『陽復記』。延佳は伊勢神道を江戸期に再興した人物)、「心の外に別の神なく別の理なし」(林羅山『神道伝授(しんとうでんじゅ)』。羅山は朱子学の立場から神道を理論化した)と言われるような、自己の心を正しく保つことで神々との合一に至るという、それまでの道徳的な神観念との大きな違いである。
さて凡て迦微(かみ)とは〔中略〕人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐい海山など、其余何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云なり。(『古事記伝』)として、さらに「すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさお)しきことなどの優れたるのみを云に非ず。悪きもの奇しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云なり」と説明を加えている。
しかし単に理知を超えた不思議さを言うだけではなく、宣長は、それを「ただゆたかにおおらかに、雅たる物にて、歌のおもむきぞ、よくこれにかなえりける」としていた。人間は、神々の豊かさ・おおらかさ・雅なさまを実感し、それを称え、不思議がり、受け取っていく。神々の「御所為」がなぜそうなのかは、人間にはわからない。賢くなるということは、往々、事物(神々)の「奇しく、霊しき」さまを受け取る感性が乾燥してしまうことでもあって、「歌のおもむき」に浸るのは、その乾燥から抜け出すことでもあるのだろう。
ニヒリズム
宣長は、
人は死候えば善人も悪人もおしなべて、皆黄泉の国へゆくことに候。善人とてよき所へ生れ候ことはなく候。〔中略〕さて其黄泉(よみ)の国は、きたなくあやしき所に候えども、死ぬれば必ゆかねばならぬことに候故に、此世に死する程悲しきことは候わぬ也。(『鈴屋答問録(すずのやとうもんろく)』)
と述べている。『古事記』は、火の神(カグツチ)を生んで死んでしまったイザナミが、黄泉国に赴いたという話を伝えている。イザナギはこれに怒って火の神を殺し、イザナミを連れ戻そうとして、暗く汚い黄泉の国で、腐乱していくイザナミに会うのであった。
宣長はここから、人間も誰であれ、その死後の霊魂は「きたなくあやしき所」としての黄泉国に赴くのだとする。善人が、浄土であれ天国であれ、善人に相応しいところに行けるという帳尻合わせはない。悪人でもまた同じである。あるいは儒教が説くように、気を連続させる子孫によって誠敬を尽くして祭られることで、子孫との交感が叶うのでもない。想像するさえ不快な黄泉国に、善人も悪人も「必ずゆかねばならぬ」のである。人間にできるのは、それを「悲しきこと」として受け止めることだけである。
霊魂の行方について、宣長の中にも揺れがあったのかもしれない。というのは、宣長は遺言で、本居家の宗旨である浄土宗の檀那寺で仕来り通りの葬儀をすることとともに、かねて気に入っていた山室山の頂近くにひっそりと奥津城(墓)を造り、そちらに遺骸を埋葬して、好んでやまなかった山桜を植えるように命じた。これは、自身の霊魂が山室山で安らぐことを望んだものと思われ、黄泉国のイメージと離れてしまう。
おそらく宣長の中には、人間の実存に関わって、深刻な問題が底流にずっと横たわっていたのではないだろうか。宣長は死の問題についても、どうしようもない〈もの〉の前に無力なありようを見つめている。人間は、自分の恋心ひとつさえ、どうにもならない。生においてそうなら、死においてもそうである。道徳や規範、善人であり義人であることは、その前では何の意味ももたない。
ここには、ある種のニヒリズムの問題が潜んでいる。もちろんそれは、日々の生活における道徳や規範、人々の誠実さに不信を向けさせるようなものではない。ただ、弱さや愚かさを抱えながらの、その無力なありように目を凝らせば、人間の実相は、道徳や規範に守られることもなく、頼るべき神の教えなどというものもなく、自身を弁護し正当化する何の言葉ももたずに、ただ一人で〈動かしがたい事実〉の前に立つ、それ以外のものではない。
神々の大きな力に包まれているのが人間であり、神々の計らいは、人間の観念や理性、思慮の及ばない霊妙不可思議なものとしてあると宣長は言う。それは、別に日本だけのことではなく、普遍的な姿として、人間はそういう大きな計らいの中で生きている。ところが、人間は自らの観念や理性によって、世界を解釈し説明し了解しようとする。仏教の教理も、儒教の道徳も、結局は同じことをしようとしているに過ぎない。
幸い日本には、そういう解釈以前の、神々に包まれた人間の真実を伝える伝承がある。
そもそも此道は、天照大御神道にして、天皇(すめらみこと)の天下(あめのした)をしろしめす道、四海万国にゆきわたりたる、まことの道なるが、ひとり皇国(すめらみくに)に伝われるを、其道はいかなるさまの道ぞというに、此道は、古事記書紀の二典(ふたみふみ)に記されたる、神代上代の、もろもろの事跡のうえに備わりたり。(『初山踏』)
『古事記』や『日本書紀』の伝える神々の物語は、宣長によれば、狭く日本の誕生を説くものではなく、天地(世界)の生成と秩序を明らかにしている。
まず皇国には、天地の判(わか)れし始よりして、国土日月万物の始などまで、其事の詳(つまびらか)に伝わりきぬるは、天照大御神の御生坐(みあれませ)る御国(みくに)として、万物に勝れ、人の心も直かりしゆえ、且は中古迄、中々に文字という物のさかしらなくして、妙なる言霊の伝えなりし徳ともいいつべし。外国(とつくに)は〔中略〕上古の伝え事もさだかならざる也。(『くず花』)
そういう真実は、人々の心が素直で、「文字という物のさかしら」がなく、ただ「妙なる言霊の伝え」として受け継がれてきたから、日本に残っている。文明の優越を誇った中国は、観念や説明の過剰(さかしら)によって、本来なら伝えられていたであろう「上古の伝え事」が、逆に分からなくなってしまったのである。
こうして宣長は、「天照大御神の御生坐る御国」としての日本を「皇国」と呼び、「外国」「異国」との差異を強調していく。
皇国は〔中略〕此四海万国を照らさせたまう天照大御神の御出生ましましし御本国なるが故に、万国の元本大宗たる御国にして、万の事異国にすぐれてめでたき〔中略〕格別の子細と申すことをも知るべきなり。(『玉くしげ』)
ちなみに「万の事異国にすぐれてめでたき」の例として『玉くしげ』がまず挙げるのは、太陽(アマテラス)の恵みを受けた米の旨さである。それはともかく、「皇国」が「万国の元本大宗たる御国」であるのは、忠孝という普遍の道徳律が中国よりも現実に発揮されたから優れているのでもなく、天壌とともに無窮の皇室があるから尊いのでもない。神仏の加護によって国土が守護されているというのでもない。通俗神道家が説くような、男女和合の国だからよいというのでもない。アマテラスの生まれた国として、天地のありよう、神々と人とのありよう、あるべき「人の心」、それらが「古」のままに伝えられているから尊貴なのである。天壌とともに無窮の皇室があるのは、その結果としてのことである。
「委任」論の誕生
徳川将軍の権力が、何に正統性の根拠を置くのかは、実ははっきりしていなかった。並びない武威、公儀のご威光、内乱の時代に終止符を打って泰平をもたらしたという圧倒的な事実、おそらくそれらが、それ以上の根拠を問う必要性を人々に感じさせなかったのだろう。
かつて西川如見は、将軍を天皇の「名代」(『町人蘘』)と見立てたが、白石や徂徠・春台などは、徳川の支配を実質的な新しい王朝の成立と見ていた。闇斎は、地上世界を平定した「金気武徳の神」(スサノヲ)の功業に擬えて徳川体制を称えたが、その門人の佐藤直方(1650〔慶安三〕年~1719〔享保四〕年)は、白石や徂徠と同じように、そこに儒教の教える易姓革命(天の意志として、残忍不徳の王朝を有徳の王者が打倒して新王朝を開くこと)に通じるものを認め、同門の浅見絅斎(1652〔承応元〕年~1711〔正徳元〕年)は、京都の朝廷が日本史を貫く唯一の主上だと捉えていた。
こうした中、宣長ははっきりと、徳川将軍の権力がアマテラスの計らいとして、朝廷から委任されたことで成り立っていると説いた。
さて今の御世と申すは、まず天照大御神の御はからい、朝廷の御任によりて、東照神御祖命(家康)より御つぎつぎ、大将軍家の、天下の御政をば、敷行わせ給う御世にして〔中略〕天下の民は、みな当時これを、東照神御祖命御代々の大将軍家へ、天照大御神の預けさせ給える御民なり。国も又天照大御神の預けさせたまえる御国なり。(『玉くしげ』)
将軍も大名も、朝廷からの委任によって領土領民を支配しているのだが、その朝廷(天皇家)もまたアマテラスからの「事よさし」(委任)によって朝廷たりえていると宣長は捉えている。「此道は、天照大御神の道」とされ、「天照大御神の御出生ましましし御本国」だからこそ「皇国」だとされたように、あらゆる政治秩序の根元にあるのは、ただアマテラスなのである。こうして生まれた「委任」論が、おそらく宣長の想像もしなかった役割を、十九世紀の政治史・思想史の中で発揮することになる(権力を「委任」されたという前提がなければ、大政の「奉還」も版籍の「奉還」もありえない)。」田尻祐一郎『江戸の思想史 人物・方法・連関』中公新書2097、2011年。pp.135-149.
小林秀雄の晩年の名著といわれる『本居宣長』は、確かに宣長論として「もののあはれ」の神髄を語って、いかにも小林秀雄らしいしごとだった。

B.トランプ新政権
トランプの第2次政権が発足した。歓迎する人もいるかもしれないが、何をするか予測できない人物の再登場で世界に大きな不安が漂う。日本の大手メディアは、とりあえず日本にどんな要求が突きつけられるか怯えていて、石破首相が早くトランプに会わないと冷たくされる、みたいな話になる。でも、対米従属をながく続けてきた自民党は、ここで冷静にトランプとどういう距離をとるか、石破首相にはよく考えてほしい。
「時事小言:頼れぬ米 模索する連携 藤原帰一
(前略)第一の政策は移民の排斥だ。トランプは軍を動員して移民の越境を排除し、米国に居住する「不法移民」を米国で生まれた子どもと共に国外に送還しようとしている。就任初日には米国出生による国籍取得を認めない大統領令に署名した。
第二の政策は多様性・公平性・包摂性(DEI)の否定である。人種・性別・民族による差別の排除が白人と男性への逆差別を生み出したという認識を背景とするDEI否定は連邦政府ばかりか各州に及び、学校教育を変え、私企業にまで影響が及ぶだろう。米国社会における女性とマイノリティ―の立場が弱まることは避けられない。
第三が環境・エネルギー政策の変更だ。第1期政権は地球温暖化に関するパリ協定から離脱した。その後、米国は協定に復帰したが、第2期政権は再度の離脱を決定した。脱炭素政策は後退し、エネルギー生産への諸規制も撤廃されるだろう。
では外交はどうか。既存の条約や合意にとらわれない対外政策が進められるほかには、わかることが少ない。予測できない行動をとるのがトランプの特徴だからだ。
友好国に対して関税引き上げと防衛費拡大が求められるのはほぼ確実だ。米国への譲歩を最も期待できる相手は対立する国ではなく、相互依存関係が高いうえに米国より経済的・軍事的に弱い友好国である。通商協定や同盟が米国に負担を強いてきたと訴えてきたトランプは、自国のために他国を犠牲とする近隣窮乏化と、安全保障の対価の要求レントシーキングを進め、途方もない規模の関税と防衛費拡大を要求するだろう。
では軍事的に対立する国との関係はどうか。トランプの泣き所は、ここにある。
北朝鮮政策に見られるようにトランプは核兵器使用を含む最大限の圧力を加えて譲歩を求めてきたが、戦争を始めたことも、終わらせたこともない。最大限の圧力を加えても譲らない相手にはどうすべきか、トランプに答えはない。
トランプは関税引き上げや大規模な経済制裁によって中国に圧迫を加えるだろう。しかし、これらの施策は中国から譲歩を引き出す手段に過ぎない。何よりもトランプは中国を米国への直接の脅威と考えておらず、米国の安全を脅かしてまで台湾を支援する意思が乏しい、中国が武力行使に訴えても米国が軍事力で対抗しない可能性がある。
ウクライナの戦争では、米国主導の停戦はほど遠い。米国が軍事支援を中止すると脅してもウクライナがロシアに譲歩する可能性は低い。米国が対ロ経済制裁を拡大し、軍事的に威迫したところでロシアが戦争を断念することは期待できない。 〔中略〕
ヨーロッパだけではない。トランプ政権の誕生は世界各国が米国に頼ることのできない状況をつくりだした。では日本は、米国に頼ることができない状況のなかで日米韓豪比5カ国連携をどう進めるのか。中国への抑止と外交をどう両立させるのか。日米関係だけでは答えを得ることができない課題はここにある。
(順天堂大学特任教授・国際政治)」朝日新聞2025年1月22日夕刊、2面。
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