A.人殺しのプロフェッショナル
銃や刀剣で人を殺傷するというような行為は、ふつうの状況ではやらないし、やる必要もない。やれば重大な犯罪で警察に逮捕される。それは誰でも知っている。しかし、やむを得ず合法的に殺人が認められる場合がある。ひとつは、自分が相手に殺されそうな切迫した事態で、自分を守るために武器を振るった場合、いわゆる正当防衛。もうひとつは、国家が行う戦争で軍事作戦上の任務として敵を狙撃殺傷するような場合である。敵と向き合う戦場では生命の危険は日常化しているから、正当防衛か任務遂行かの区別は難しいかもしれないが、そこでの殺人は合法的行為で、うまく達成すれば勲章を受けたり栄誉を与えられることもある。しかし、やはり生きている人間を殺すわけだから、そんなに簡単にできる行為ではないし、実際米軍でヴェトナムなど地上戦で戦った兵士は殺人への精神の重い負担や、後遺症としてのPTSDに陥る人が多かったという。そこで、心理学を使う専門家が登場する。
「インタビュー:戦場に立つということ 戦場の心理学の専門家 デーブ・グロスマンさん
人殺し拒む本能 訓練で耐性つけ 兵士の心を変える:戦場に立たされたとき、人の心はどうなってしまうのか。国家の命令とはいえ、人を殺すことに人は耐えられるものか。軍事心理学の専門家で、長く人間の攻撃心について研究してきた元米陸軍士官学校心理学教授、デーブ・グロスマンさんに聞いた。戦争という圧倒的な暴力が、人間にもたらすものとは。
――戦場で戦うとき、人はどんな感覚に陥るものですか。
「自分はどこかおかしくなったのか、と思うようなことが起きるのが戦場です。生きるか死ぬかの局面では、異常なまでのストレスから知覚がゆがむことすらある。耳元の大きな銃撃音が聞こえなくなり、動きがスローモーションに見え、視野がトンネルのように狭まる。記憶がすっぽり抜け落ちる人もいます。実戦の経験がないと、わからないでしょうが」
――殺される恐怖が、激しいストレスになるのですね。
「殺される恐怖より、むしろ殺すことへの抵抗感です。殺せば、その重い体験を引きずって生きていかねばならない。でも殺さなければ、そいつが戦友を殺し、部隊を滅ぼすかもしれない。殺しても殺さなくても大変なことになる。これを私は『兵士のジレンマ』と呼んでいます」
「この抵抗感をデータで裏付けたのが米陸軍のマーシャル准将でした。第二次大戦中、日本やドイツで接近戦を体験した米兵に『いつ』『何を』撃ったのかと聞いて回った。驚いたことに、わざと当て損なったり、敵のいない方角に撃ったりした兵士が大勢いて、姿の見える敵に発砲していた小銃手は、わずか15~20%でした。いざという瞬間、事実上の良心的兵役拒否者が続出していたのです」
――なぜでしょう。
「同種殺しへの抵抗感からです。それが人間の本能なのです。多くは至近距離で人を殺せるようには生まれついていない。それに文明社会では幼い頃から、命を奪うことは恐ろしいことだと教わって育ちますから」
「発砲率の低さは軍にとって衝撃的で、訓練を見直す転機となりました。まず射撃で狙う標的を、従来の丸型から人型のリアルなものに換えた。それが目の前に飛び出し、弾が当たれば倒れる。成績がいいと休暇が3日もらえたりする。条件付けです。刺戟―反応、刺戟―反応と何百回も繰り返すうちに、意識的な思考を伴わずに撃てるようになる。発砲率は朝鮮戦争で50~55%、ベトナム戦争で95%前後に上がりました」
――訓練のやり方次第で、人は変えられるということですか。
「その通り。戦場の革命です。心身を追い込む訓練でストレス耐性をつけ、心理的課題もあらかじめ解決しておく。現代の訓練をもってすれば、我々は戦場において驚くほどの優越性を得ることができます。敵を100人倒し、かつ我々の犠牲はゼロとような圧倒的な戦いもできるのです」
「ただし、無差別殺人者を養成しているわけではない。上官の命令に従い、一定のルールのもとで殺人の任務を遂行するのですから。この違いは重要です。実際、イラクやアフガニスタン戦争の帰還兵たちが平時に殺人を犯す比率は、戦争に参加しなかった同世代の若者に比べてはるかに低い」
――技術進歩で戦争の形が変わり、殺人への抵抗感が薄れている面もあるのでは?
「ドローンを飛ばし、遠隔操作で攻撃するテレビゲーム型の戦闘が戦争の性格を変えたのは確かです。人は敵との距離があり、機械が介在するとき、殺人への抵抗感が著しく低下しますから」
「しかし接近戦は、私の感覚ではむしろ増えています。いま最大の敵であるテロリストたちは、正面から火砲で攻撃なんかしてこない。我々の技術を乗り越え、こっそり近づき、即席爆弾を爆破させます。最前線の対テロ戦争は、とても近い戦いなのです」
――本能に反する行為だから、心が傷つくのではありませんか。
「敵を殺した直後には、任務を果たして生き残ったという陶酔感を感じるものです。次に罪悪感や嘔吐感がやってくる。最後に、人を殺したことを合理化し、受け入れる段階が訪れる。ここで失敗するとPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症しやすい」
「国家は無垢で未経験の若者を訓練し、心理的に操作して戦場に送り出してきました。しかし、ベトナム戦争で大失敗をした。徴兵制によって戦場に送り込んだのは、まったく準備のできていない若者たちでした。彼らは帰国後、つばを吐かれ、人殺しとまで呼ばれた。未熟な青年が何の脅威でもない人を殺すよう強いられ、その任務で非難されたら、心に傷を負うのは当たり前です」
「PTSDにつながる要素は三つ。①幼児期に健康に育ったか②戦闘体験の衝撃度の度合い③帰国後に十分なサポートを受けたか、です。たとえば幼児期の虐待で、すでにトラウマを抱えていた兵士が戦場で罪のない民を虐殺すれば、リスクは高まる。3要素のかけ算になるのです」
――防衛のために戦う場合と、他国に出て戦う場合とでは、兵士の心理も違うと思うのですが。
「その通り。第2次大戦中、カナダは国内には徴兵した兵士を展開し、海外には志願兵を送りました。成熟した志願兵なら、たとえ戦場体験が衝撃的なものであったとしても、帰還後に社会から称賛されたりすれば、さほど心の負担にはならない。もし日本が自衛隊を海外に送るなら、望んだもののみを送るべきだし、望まないものは名誉をもって抜ける選択肢が与えられるべきです」
「ただ、21世紀はテロリストとの非対称的な戦争の時代です。国と国が戦った20世紀とは違う。もしも彼らが核を入手したら、すぐに使うでしょう。いま国を守るには、自国に要塞を築き、攻撃を受けて初めて反撃することではない。こちらから敵の拠点をたたき、打ち負かす必要がある。これが世界の現実です」
――でも日本は米国のような軍事大国と違って、戦後ずっと専守防衛でやってきた平和国家です。
「我々もベトナム戦争で学んだことがあります。世論が支持しない戦争には兵士を送らないという原則です。国防長官の名からワインバーガー・ドクトリンと呼ばれる原則です。国家が国民に戦えと命じるとき、その戦争について世論が大きく分裂していないこと。もしも兵を送るなら彼らを全力で支援すること。これが最低限の条件だといえるでしょう」
――気になっているのですが、腰につけたふくらんだポーチには何が入っているのですか。
「短銃です。私はいつも武装しています。いつでも立ち上がる用意のある市民がいる間は、政府は国民が望まないことを強制することはできない。武器を持つ、憲法にも認められたこの権利こそが、専制への最大の防御なのです」
――でも銃があふれているから銃撃事件が頻発しているのでは?
「日本の障害者施設で最近起きた大量殺人ではナイフが使われたそうですね。我々は市民からナイフを取り上げるべきでしょうか」
――現代の戦争とは。
「戦闘は進化しています。火砲の攻撃力は以前とは比較にならないほど強く、精密度も上がり、兵士はかつてなかったほど躊躇なく殺人を行える。志願兵が十分に訓練され、絆を深めた部隊単位で戦っている限り、PTSDの発症率も5~8%に抑えられます」
「一方で、今は誰もがカメラを持っていて、いつでも撮影し、ネットに流すことができる時代です。ベトナム戦争さなかの1968年、ソンミ村の村民500人を米軍が虐殺した事件の影像がもしも夜のニュースで流れていたら、米国民は怒り、大騒ぎになっていたでしょう。現代の戦争は、社会に計り知れないダメージを与えるリスクも抱えているのです」
Dave Grossman 1956年生まれ。米陸軍退役中佐。陸軍士官学校・心理学教授、アーカンソ―州立大学・軍事学教授をへて、98年から殺人学研究所所長。著書に「戦争における『人殺し』の心理学」など。」朝日新聞2016年9月9日朝刊、15面オピニオン欄。
戦争は特定の政治的目的を実現するための手段である、というクラウゼヴィッツ「戦争論」に拠れば、実際に戦闘行為を行う軍隊の兵士は、機械のような組織の末端の手足にすぎない。これが効率的・効果的に動いてくれないと作戦は失敗する。したがって、兵士は念入りに訓練される必要があり、とくに前線で敵を殲滅する行為に疑いやためらいを持たないように鍛える必要がある。そこで専門家が登場し、たんなる武器のあつかいや身体訓練ではなく、殺傷への心理的な抵抗感を感じないところまでもっていく。米軍にはこのグロスマン中佐のようなプロフェショナルが何人もいるのだろうが、自衛隊にもいるんだろうか?いたとしても、実際に世界各地の戦場で人殺しの場数を踏んでいる米軍と、敵を撃ち殺す場に一度も立ったことのない日本の自衛隊員では、やっぱり心構えは違うだろうな。だから自衛隊も心理学で殺人が平気でできるように鍛えた方がよい、などとぼくには思えない。

B.コッホとメチニコフ
医学の研究というものが、19世紀半ばになると西欧各地でさかんになるが、多くは個人がほそぼそといろんな病気、いろんな患者の観察や実験を行っていた。研究者は必ずしも医者とは限らない。ある発見や学説を見出した研究者は、それをいきなり医学専門誌に論文という形で発表するのではなく、まずその知見の価値を判断できると思える学者を直接訪ねて行って、意見を求め、そこから芋づる式によい評価が得られれば、データを整え練り直してその報告を学術誌に発表して、世間に知られるようになる、というプロセスをとったと考えられる。たとえば、細菌と結核について大きな仕事をしたコッホの場合。
「ローベルト・コッホ(1843~1910)は鉱夫の家の出身だった。ゲッチンゲンで数学と自然科学を学び、医学生となり、ヘンレの弟子の一人になった。
一八七二年、コッホはヴォルシュタイン(現ポーランドのウォルスチン)という町の衛生技師になった。かれは自宅の粗末な実験室で研究を始めた。かれはまず、その地域の家畜に流行していた脾脱疽に取り組み、その原因を解明した。かれはブレスラウへ行き、分裂菌学者コーンの意見を求めた。病理学者コーンハイムとワイゲルトも同席した。コーンは観察の正しさを認め、コッホの報告を一八七六年、『植物生物学雑誌』に掲載した。
この研究で明らかになったのは、感染症の起炎菌は特異的、つまり特定の細菌はつねに特定の病気をおこす、ということであった。細菌が病気の原因と見なされるのは、その病気の時、つねにその菌の存在が証明され、その菌が生体外で人工的に培養され、混じり気なしの純培養を健康な動物に注射すると元の病気が再現される、こういう場合である。のちに「コッホの三原則」といわれるこの原理を、コッホは早くから理解していた。
コッホは一八七六年七月、ベルリン帝国衛生院の所員になり、八〇年から、ベルリンの研究室で仕事をした。二人の若い軍医、ガフキーとレフラーが助手になった。
一八八二年三月二十四日、コッホはベルリン生理学会で、結核菌の発見を報告した。その日、デュ・ボア・レイモンが座長でヘルムホルツの姿もあったが、ウィルヒョウはいなかった。すでに一八六五年、ヴィーユマンが結核は感染症だということを証明していたが、いま、最終的な確認を与えられた。「これからは、結核症かどうか、その決定の基準は結節の構造でも巨細胞の存在でもない。染色または培養による結核菌の証明である」。かれはこう言い、さらに感染が成立するための、生体側の条件にまで説き及んだ。
一八八四年にはエジプト、インドに出張してコレラ菌の分離に成功した。人間への伝播が主に水の媒介によることを発見したのもコッホであった。
細菌の研究には染料化学が大きな助けになった。アニリン染料の合成は、リービッヒの弟子ホフマン(1818~92)に始まる。七〇年代の後半になると、組織や細菌はアニリン色素で染められて、見やすいものになった。七〇年代以後、八〇年代末までの時期は、細菌(および原虫)の発見があいつぐ。一八七九年、ナイセルは淋菌を、次の年、エーベルトとガフキーはチフス菌を、ハンゼンはらい病の病原体を、ラヴランはマラリアの病原体を見つけた。「微生物の狩人」時代、日本人も探索に加わっていた。名を上げたのは北里柴三郎(1852~1931)、志賀潔(1870~1957)である。
一八八五年コッホはベルリン大学の衛生学教授、衛生学研究所の所長に任命された。しかし、一八九一年かれは教授と所長を辞任し、伝染病研究所の所長になり、一九〇四年に引退するまでその職にあった。一九一〇年五月、かれの生涯は終わった。
シゲリストは語る。――パストゥールとコッホ、そしてかれらの弟子によって、感染性疾患は、恐怖の多くを失った。もうそれは見えざる敵ではなく、差し向かいの中で見ることができるようになった。敵を知れば敵の力を恐れる理由はずっと減る。ブルゴーニュの皮なめし職人の息子と北ドイツの鉱夫の息子が、人類に限りない恩恵をもたらした。」梶田昭『医学の歴史』講談社学術文庫、2003.pp.262-265.
19世紀末までに、パストゥールとコッホが切り開いた細菌が病原体であるという認識は、多くの感染性疾患を減らし防ぐことに成功するが、それでも20世紀半ばまで、結核は死の病といわれた。今日では結核は治癒可能な病気になっていることは言うまでもない。
「イリヤ・イリッチ・メチニコフ(1845~1916)は、元素の周期法則を発見したメンデレーエフ(1838~1907)とともに、十九世紀ロシアが生んだ、国際的な科学者である。メチニコフはハリコフ県に生まれた。三人の兄があり、次兄は社会活動家で明治初年に来日、『回想の明治維新』(渡辺雅司訳、岩波文庫、1987)を著した。
イリヤはハリコフ大学理学部を卒業、ヘリゴランド島(北海)の研究所、ギーセン大学、ナポリの臨海実験所などで無脊椎動物の発生学を学んだ。プラナリア(渦虫類)で細胞内消化を観察したことは将来の食細胞説につながった。ナポリでは発生学者コワレフスキー、生理学者セーチェノフと知り合った。ダーウィンの『種の起源』についで、ドイツのヘッケル(1834~1919)が「個体発生は系統発生を繰り返す」という反復説(生物発生原則)を唱え、発生学への関心は高まっていた。帰国したメチニコフはオデッサ大学の教授になるが、一八八二年に辞職、シチリア島のメッシナへ行って、ヒトデの幼生で間葉細胞の食作用を観察した。これは私たちの白血球が細菌の進入から体を守っているのと同じものだ。これこそ『免疫』だ。こうしてメチニコフは「突然、病理学者になってしまった」(ポール・ド・クライフ『微生物の狩人』秋元寿恵夫訳、岩波文庫、1980)。旅行中メッシナへ立ち寄ったウィルヒョウは、かれの実験や標本を見て激励した。
一八八七年、メチニコフはヨーロッパを旅行し、パストゥールやコッホに会った。ベーリングら、コッホの学派は抗血清の開発に成功して意気が上がっていた。免疫の担い手は血清、すなわち体液成分であって食細胞などではない、とかれらは言った。パストゥールはメチニコフに好意を寄せ、研究所に迎え入れた。メチニコフは一八八八年からニ十八年間、つまり死に至るまでパリで過ごした。のち、ルー所長の下で副所長をつとめた。有名な『炎症の比較病理学講義』(邦訳タイトル『メチニコフ炎症論』輪島宗一・角田力弥訳、文光堂、1978)は一八九一年に出版された。一九〇八年、かれはエールリヒとともにノーベル賞を与えられた。
『近代医学の建設者』(宮村定男訳、岩波文庫、1968)、『人の生と死』(八杉龍一訳、新水者、1991)なども日本に紹介されている。かれはヤースナヤ・ポリャーナにトルストイを訪問し、「生と死」を語り合った。徳富蘆花がトルストイを訪れた一九〇六年の三年後である。」梶田昭『医学の歴史』講談社学術文庫、2003.pp.265-267.
ロシアの片隅に生まれた青年が、無脊椎動物の発生学、などというものに興味を持ち、その関心を追求するためにヘリゴランド島へ行き、ナポリへ行き、シチリアへ行き、ヨーロッパ各地を歩いて名のある学者を訪ねているうちに、気がついたら病理学者になっていて、「免疫」の仕組みを解明し、パリに腰を据えてついにノーベル賞を取る。こういうことが可能になったのが、19世紀末から20世紀初めの西洋で、そこにはアジアの島国、明治日本からの留学生も参加していた。
銃や刀剣で人を殺傷するというような行為は、ふつうの状況ではやらないし、やる必要もない。やれば重大な犯罪で警察に逮捕される。それは誰でも知っている。しかし、やむを得ず合法的に殺人が認められる場合がある。ひとつは、自分が相手に殺されそうな切迫した事態で、自分を守るために武器を振るった場合、いわゆる正当防衛。もうひとつは、国家が行う戦争で軍事作戦上の任務として敵を狙撃殺傷するような場合である。敵と向き合う戦場では生命の危険は日常化しているから、正当防衛か任務遂行かの区別は難しいかもしれないが、そこでの殺人は合法的行為で、うまく達成すれば勲章を受けたり栄誉を与えられることもある。しかし、やはり生きている人間を殺すわけだから、そんなに簡単にできる行為ではないし、実際米軍でヴェトナムなど地上戦で戦った兵士は殺人への精神の重い負担や、後遺症としてのPTSDに陥る人が多かったという。そこで、心理学を使う専門家が登場する。
「インタビュー:戦場に立つということ 戦場の心理学の専門家 デーブ・グロスマンさん
人殺し拒む本能 訓練で耐性つけ 兵士の心を変える:戦場に立たされたとき、人の心はどうなってしまうのか。国家の命令とはいえ、人を殺すことに人は耐えられるものか。軍事心理学の専門家で、長く人間の攻撃心について研究してきた元米陸軍士官学校心理学教授、デーブ・グロスマンさんに聞いた。戦争という圧倒的な暴力が、人間にもたらすものとは。
――戦場で戦うとき、人はどんな感覚に陥るものですか。
「自分はどこかおかしくなったのか、と思うようなことが起きるのが戦場です。生きるか死ぬかの局面では、異常なまでのストレスから知覚がゆがむことすらある。耳元の大きな銃撃音が聞こえなくなり、動きがスローモーションに見え、視野がトンネルのように狭まる。記憶がすっぽり抜け落ちる人もいます。実戦の経験がないと、わからないでしょうが」
――殺される恐怖が、激しいストレスになるのですね。
「殺される恐怖より、むしろ殺すことへの抵抗感です。殺せば、その重い体験を引きずって生きていかねばならない。でも殺さなければ、そいつが戦友を殺し、部隊を滅ぼすかもしれない。殺しても殺さなくても大変なことになる。これを私は『兵士のジレンマ』と呼んでいます」
「この抵抗感をデータで裏付けたのが米陸軍のマーシャル准将でした。第二次大戦中、日本やドイツで接近戦を体験した米兵に『いつ』『何を』撃ったのかと聞いて回った。驚いたことに、わざと当て損なったり、敵のいない方角に撃ったりした兵士が大勢いて、姿の見える敵に発砲していた小銃手は、わずか15~20%でした。いざという瞬間、事実上の良心的兵役拒否者が続出していたのです」
――なぜでしょう。
「同種殺しへの抵抗感からです。それが人間の本能なのです。多くは至近距離で人を殺せるようには生まれついていない。それに文明社会では幼い頃から、命を奪うことは恐ろしいことだと教わって育ちますから」
「発砲率の低さは軍にとって衝撃的で、訓練を見直す転機となりました。まず射撃で狙う標的を、従来の丸型から人型のリアルなものに換えた。それが目の前に飛び出し、弾が当たれば倒れる。成績がいいと休暇が3日もらえたりする。条件付けです。刺戟―反応、刺戟―反応と何百回も繰り返すうちに、意識的な思考を伴わずに撃てるようになる。発砲率は朝鮮戦争で50~55%、ベトナム戦争で95%前後に上がりました」
――訓練のやり方次第で、人は変えられるということですか。
「その通り。戦場の革命です。心身を追い込む訓練でストレス耐性をつけ、心理的課題もあらかじめ解決しておく。現代の訓練をもってすれば、我々は戦場において驚くほどの優越性を得ることができます。敵を100人倒し、かつ我々の犠牲はゼロとような圧倒的な戦いもできるのです」
「ただし、無差別殺人者を養成しているわけではない。上官の命令に従い、一定のルールのもとで殺人の任務を遂行するのですから。この違いは重要です。実際、イラクやアフガニスタン戦争の帰還兵たちが平時に殺人を犯す比率は、戦争に参加しなかった同世代の若者に比べてはるかに低い」
――技術進歩で戦争の形が変わり、殺人への抵抗感が薄れている面もあるのでは?
「ドローンを飛ばし、遠隔操作で攻撃するテレビゲーム型の戦闘が戦争の性格を変えたのは確かです。人は敵との距離があり、機械が介在するとき、殺人への抵抗感が著しく低下しますから」
「しかし接近戦は、私の感覚ではむしろ増えています。いま最大の敵であるテロリストたちは、正面から火砲で攻撃なんかしてこない。我々の技術を乗り越え、こっそり近づき、即席爆弾を爆破させます。最前線の対テロ戦争は、とても近い戦いなのです」
――本能に反する行為だから、心が傷つくのではありませんか。
「敵を殺した直後には、任務を果たして生き残ったという陶酔感を感じるものです。次に罪悪感や嘔吐感がやってくる。最後に、人を殺したことを合理化し、受け入れる段階が訪れる。ここで失敗するとPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症しやすい」
「国家は無垢で未経験の若者を訓練し、心理的に操作して戦場に送り出してきました。しかし、ベトナム戦争で大失敗をした。徴兵制によって戦場に送り込んだのは、まったく準備のできていない若者たちでした。彼らは帰国後、つばを吐かれ、人殺しとまで呼ばれた。未熟な青年が何の脅威でもない人を殺すよう強いられ、その任務で非難されたら、心に傷を負うのは当たり前です」
「PTSDにつながる要素は三つ。①幼児期に健康に育ったか②戦闘体験の衝撃度の度合い③帰国後に十分なサポートを受けたか、です。たとえば幼児期の虐待で、すでにトラウマを抱えていた兵士が戦場で罪のない民を虐殺すれば、リスクは高まる。3要素のかけ算になるのです」
――防衛のために戦う場合と、他国に出て戦う場合とでは、兵士の心理も違うと思うのですが。
「その通り。第2次大戦中、カナダは国内には徴兵した兵士を展開し、海外には志願兵を送りました。成熟した志願兵なら、たとえ戦場体験が衝撃的なものであったとしても、帰還後に社会から称賛されたりすれば、さほど心の負担にはならない。もし日本が自衛隊を海外に送るなら、望んだもののみを送るべきだし、望まないものは名誉をもって抜ける選択肢が与えられるべきです」
「ただ、21世紀はテロリストとの非対称的な戦争の時代です。国と国が戦った20世紀とは違う。もしも彼らが核を入手したら、すぐに使うでしょう。いま国を守るには、自国に要塞を築き、攻撃を受けて初めて反撃することではない。こちらから敵の拠点をたたき、打ち負かす必要がある。これが世界の現実です」
――でも日本は米国のような軍事大国と違って、戦後ずっと専守防衛でやってきた平和国家です。
「我々もベトナム戦争で学んだことがあります。世論が支持しない戦争には兵士を送らないという原則です。国防長官の名からワインバーガー・ドクトリンと呼ばれる原則です。国家が国民に戦えと命じるとき、その戦争について世論が大きく分裂していないこと。もしも兵を送るなら彼らを全力で支援すること。これが最低限の条件だといえるでしょう」
――気になっているのですが、腰につけたふくらんだポーチには何が入っているのですか。
「短銃です。私はいつも武装しています。いつでも立ち上がる用意のある市民がいる間は、政府は国民が望まないことを強制することはできない。武器を持つ、憲法にも認められたこの権利こそが、専制への最大の防御なのです」
――でも銃があふれているから銃撃事件が頻発しているのでは?
「日本の障害者施設で最近起きた大量殺人ではナイフが使われたそうですね。我々は市民からナイフを取り上げるべきでしょうか」
――現代の戦争とは。
「戦闘は進化しています。火砲の攻撃力は以前とは比較にならないほど強く、精密度も上がり、兵士はかつてなかったほど躊躇なく殺人を行える。志願兵が十分に訓練され、絆を深めた部隊単位で戦っている限り、PTSDの発症率も5~8%に抑えられます」
「一方で、今は誰もがカメラを持っていて、いつでも撮影し、ネットに流すことができる時代です。ベトナム戦争さなかの1968年、ソンミ村の村民500人を米軍が虐殺した事件の影像がもしも夜のニュースで流れていたら、米国民は怒り、大騒ぎになっていたでしょう。現代の戦争は、社会に計り知れないダメージを与えるリスクも抱えているのです」
Dave Grossman 1956年生まれ。米陸軍退役中佐。陸軍士官学校・心理学教授、アーカンソ―州立大学・軍事学教授をへて、98年から殺人学研究所所長。著書に「戦争における『人殺し』の心理学」など。」朝日新聞2016年9月9日朝刊、15面オピニオン欄。
戦争は特定の政治的目的を実現するための手段である、というクラウゼヴィッツ「戦争論」に拠れば、実際に戦闘行為を行う軍隊の兵士は、機械のような組織の末端の手足にすぎない。これが効率的・効果的に動いてくれないと作戦は失敗する。したがって、兵士は念入りに訓練される必要があり、とくに前線で敵を殲滅する行為に疑いやためらいを持たないように鍛える必要がある。そこで専門家が登場し、たんなる武器のあつかいや身体訓練ではなく、殺傷への心理的な抵抗感を感じないところまでもっていく。米軍にはこのグロスマン中佐のようなプロフェショナルが何人もいるのだろうが、自衛隊にもいるんだろうか?いたとしても、実際に世界各地の戦場で人殺しの場数を踏んでいる米軍と、敵を撃ち殺す場に一度も立ったことのない日本の自衛隊員では、やっぱり心構えは違うだろうな。だから自衛隊も心理学で殺人が平気でできるように鍛えた方がよい、などとぼくには思えない。

B.コッホとメチニコフ
医学の研究というものが、19世紀半ばになると西欧各地でさかんになるが、多くは個人がほそぼそといろんな病気、いろんな患者の観察や実験を行っていた。研究者は必ずしも医者とは限らない。ある発見や学説を見出した研究者は、それをいきなり医学専門誌に論文という形で発表するのではなく、まずその知見の価値を判断できると思える学者を直接訪ねて行って、意見を求め、そこから芋づる式によい評価が得られれば、データを整え練り直してその報告を学術誌に発表して、世間に知られるようになる、というプロセスをとったと考えられる。たとえば、細菌と結核について大きな仕事をしたコッホの場合。
「ローベルト・コッホ(1843~1910)は鉱夫の家の出身だった。ゲッチンゲンで数学と自然科学を学び、医学生となり、ヘンレの弟子の一人になった。
一八七二年、コッホはヴォルシュタイン(現ポーランドのウォルスチン)という町の衛生技師になった。かれは自宅の粗末な実験室で研究を始めた。かれはまず、その地域の家畜に流行していた脾脱疽に取り組み、その原因を解明した。かれはブレスラウへ行き、分裂菌学者コーンの意見を求めた。病理学者コーンハイムとワイゲルトも同席した。コーンは観察の正しさを認め、コッホの報告を一八七六年、『植物生物学雑誌』に掲載した。
この研究で明らかになったのは、感染症の起炎菌は特異的、つまり特定の細菌はつねに特定の病気をおこす、ということであった。細菌が病気の原因と見なされるのは、その病気の時、つねにその菌の存在が証明され、その菌が生体外で人工的に培養され、混じり気なしの純培養を健康な動物に注射すると元の病気が再現される、こういう場合である。のちに「コッホの三原則」といわれるこの原理を、コッホは早くから理解していた。
コッホは一八七六年七月、ベルリン帝国衛生院の所員になり、八〇年から、ベルリンの研究室で仕事をした。二人の若い軍医、ガフキーとレフラーが助手になった。
一八八二年三月二十四日、コッホはベルリン生理学会で、結核菌の発見を報告した。その日、デュ・ボア・レイモンが座長でヘルムホルツの姿もあったが、ウィルヒョウはいなかった。すでに一八六五年、ヴィーユマンが結核は感染症だということを証明していたが、いま、最終的な確認を与えられた。「これからは、結核症かどうか、その決定の基準は結節の構造でも巨細胞の存在でもない。染色または培養による結核菌の証明である」。かれはこう言い、さらに感染が成立するための、生体側の条件にまで説き及んだ。
一八八四年にはエジプト、インドに出張してコレラ菌の分離に成功した。人間への伝播が主に水の媒介によることを発見したのもコッホであった。
細菌の研究には染料化学が大きな助けになった。アニリン染料の合成は、リービッヒの弟子ホフマン(1818~92)に始まる。七〇年代の後半になると、組織や細菌はアニリン色素で染められて、見やすいものになった。七〇年代以後、八〇年代末までの時期は、細菌(および原虫)の発見があいつぐ。一八七九年、ナイセルは淋菌を、次の年、エーベルトとガフキーはチフス菌を、ハンゼンはらい病の病原体を、ラヴランはマラリアの病原体を見つけた。「微生物の狩人」時代、日本人も探索に加わっていた。名を上げたのは北里柴三郎(1852~1931)、志賀潔(1870~1957)である。
一八八五年コッホはベルリン大学の衛生学教授、衛生学研究所の所長に任命された。しかし、一八九一年かれは教授と所長を辞任し、伝染病研究所の所長になり、一九〇四年に引退するまでその職にあった。一九一〇年五月、かれの生涯は終わった。
シゲリストは語る。――パストゥールとコッホ、そしてかれらの弟子によって、感染性疾患は、恐怖の多くを失った。もうそれは見えざる敵ではなく、差し向かいの中で見ることができるようになった。敵を知れば敵の力を恐れる理由はずっと減る。ブルゴーニュの皮なめし職人の息子と北ドイツの鉱夫の息子が、人類に限りない恩恵をもたらした。」梶田昭『医学の歴史』講談社学術文庫、2003.pp.262-265.
19世紀末までに、パストゥールとコッホが切り開いた細菌が病原体であるという認識は、多くの感染性疾患を減らし防ぐことに成功するが、それでも20世紀半ばまで、結核は死の病といわれた。今日では結核は治癒可能な病気になっていることは言うまでもない。
「イリヤ・イリッチ・メチニコフ(1845~1916)は、元素の周期法則を発見したメンデレーエフ(1838~1907)とともに、十九世紀ロシアが生んだ、国際的な科学者である。メチニコフはハリコフ県に生まれた。三人の兄があり、次兄は社会活動家で明治初年に来日、『回想の明治維新』(渡辺雅司訳、岩波文庫、1987)を著した。
イリヤはハリコフ大学理学部を卒業、ヘリゴランド島(北海)の研究所、ギーセン大学、ナポリの臨海実験所などで無脊椎動物の発生学を学んだ。プラナリア(渦虫類)で細胞内消化を観察したことは将来の食細胞説につながった。ナポリでは発生学者コワレフスキー、生理学者セーチェノフと知り合った。ダーウィンの『種の起源』についで、ドイツのヘッケル(1834~1919)が「個体発生は系統発生を繰り返す」という反復説(生物発生原則)を唱え、発生学への関心は高まっていた。帰国したメチニコフはオデッサ大学の教授になるが、一八八二年に辞職、シチリア島のメッシナへ行って、ヒトデの幼生で間葉細胞の食作用を観察した。これは私たちの白血球が細菌の進入から体を守っているのと同じものだ。これこそ『免疫』だ。こうしてメチニコフは「突然、病理学者になってしまった」(ポール・ド・クライフ『微生物の狩人』秋元寿恵夫訳、岩波文庫、1980)。旅行中メッシナへ立ち寄ったウィルヒョウは、かれの実験や標本を見て激励した。
一八八七年、メチニコフはヨーロッパを旅行し、パストゥールやコッホに会った。ベーリングら、コッホの学派は抗血清の開発に成功して意気が上がっていた。免疫の担い手は血清、すなわち体液成分であって食細胞などではない、とかれらは言った。パストゥールはメチニコフに好意を寄せ、研究所に迎え入れた。メチニコフは一八八八年からニ十八年間、つまり死に至るまでパリで過ごした。のち、ルー所長の下で副所長をつとめた。有名な『炎症の比較病理学講義』(邦訳タイトル『メチニコフ炎症論』輪島宗一・角田力弥訳、文光堂、1978)は一八九一年に出版された。一九〇八年、かれはエールリヒとともにノーベル賞を与えられた。
『近代医学の建設者』(宮村定男訳、岩波文庫、1968)、『人の生と死』(八杉龍一訳、新水者、1991)なども日本に紹介されている。かれはヤースナヤ・ポリャーナにトルストイを訪問し、「生と死」を語り合った。徳富蘆花がトルストイを訪れた一九〇六年の三年後である。」梶田昭『医学の歴史』講談社学術文庫、2003.pp.265-267.
ロシアの片隅に生まれた青年が、無脊椎動物の発生学、などというものに興味を持ち、その関心を追求するためにヘリゴランド島へ行き、ナポリへ行き、シチリアへ行き、ヨーロッパ各地を歩いて名のある学者を訪ねているうちに、気がついたら病理学者になっていて、「免疫」の仕組みを解明し、パリに腰を据えてついにノーベル賞を取る。こういうことが可能になったのが、19世紀末から20世紀初めの西洋で、そこにはアジアの島国、明治日本からの留学生も参加していた。
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