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遠山一行という人と、能面と暗い日曜日

2014-12-14 21:37:45 | 日記
A.遠山一行さんのこと
 衆議院選挙投票日の今日、遠山一行氏の訃報が新聞の片隅に出ていた。音楽評論家、文化功労者、遠山一行の名は、一部の音楽関係者、それもクラシック音楽に関わる人にはよく知られているはずだが、一般にはどういう人なのかさほど知られていないだろう。とりあえず、朝日新聞の記事では・・・。
 「10日午後9時12分、脳梗塞のため、東京都内の自宅で死去した。92歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主はピアニストの妻慶子さん。父は日興証券創業者の遠山元一さん。後日お別れの会を開く予定。連絡先はカメラータ・トウキョウ。1922年東京生まれ。東大で美学を専攻。24歳の時、毎日新聞の音楽評論を手がけるように。文学で「評論」のジャンルを確立した小林秀雄らの精神を継ぎ、吉田秀和さんとともにクラシック音楽評論の第一人者となった。51年にパリ留学。フランス文化への深い造詣を生かし、「ショパン」(毎日芸術賞)や「マチスについての手紙」などを執筆。「実演家より聴衆の視座に立った評論」を訴え、自ら実践した。
 67年には芸術総合誌「季刊芸術」を文芸評論の江藤淳、美術評論の高階秀爾とともに創刊。山田耕筰や武満徹の自筆譜など、日本の音楽資料を収集保存する日本近代音楽館設立の音頭をとり、2010年の閉館(資料は明治学院大学図書館付属日本近代音楽館に寄贈)まで私費を投じて守り続けた。83年には民間初の東京文化会館長となり、注目された。」となっていた。

 ぼくが遠山さんの文章をはじめて読んだのは、「季刊藝術」だった。大学生の頃、かならず買っていた雑誌が「朝日ジャーナル」と「季刊藝術」だった。週刊誌である「朝日ジャーナル」は安くて薄っぺらいが、どんどん溜まって行った。「季刊藝術」は年に4回しか出ないから、書棚にずらっと並ぶのに5,6年かかった。内容も形式も両者は対照的で、一方は時事的な記事や論文で、左翼学生に好意的な論調。やがて筑紫哲也が編集長を務めた頃から、ニューアカ路線を推進した。一方の「季刊藝術」は、執筆者は厳選されて連載が多く、内容は高尚で政治的には保守的な立場の論者も多かった。1970年に「プレオー・8(ユイット)の夜明け」で芥川賞を取った古山高麗男が専任の編集長で、江藤淳と高階秀爾、そして遠山一行の連載は実に教えられるところが多かった。当時クラシック音楽の評論といえば、まず吉田秀和だったが、吉田の文体はまるで小林秀雄そっくりで、ぼくにはしっくりこなかった。遠山さんは、たんなるあればいい、これは悪いという批評ではなく、近代音楽の神髄と限界について読む者に考えさせる文章だった。芸術批評というものの価値を知らしめたという点で、「季刊藝術」は飛びぬけた雑誌だったと思う。
 「美学」などというものを自分の仕事にしようなどと、ふつう思うものではない。芸術には興味はあるけれども、その実作者や演奏家などになるのは必死の技術修業をしなければならないし、食べて行かれるか怪しい。それよりは趣味の娯楽、ときたま鑑賞者になって疲れを癒し気を休めれば十分だ、と思うのが当たり前である。でも、芸術の批評も立派な仕事なのだ、ときには芸術作品を作り出すよりも重要な仕事かもしれない、と思わせる「美学者」はいる。ご冥福を祈る。
 最低の投票率で自民党圧勝という、この国の暗雲と国民の迷妄を見ずに亡くなられたのがせめてもの幸いか。



B.面(おもて)をつけて演じること
 能は仮面劇という特徴をもつ。わずかな登場人物のうち、主役のシテは面をつけて歌舞を演じ、聞き役のワキはふつう面をつけない。仮面はおそらく飛鳥時代、仏教とともに中国大陸から渡来したようだ。ということは、大陸ではもっと早くから仮面をつけた舞踊や劇があったと思われる。しかし、外来文化が日本で定着する過程で、つねに「和様」に変形していく歴史は仮面の場合も同様で、外の歌舞音曲を渡来人経由でそのままもちこんだ伎楽や舞楽は、宮中の一部で儀礼的に伝えられる一方で、鎌倉以後の武家社会では新たな芸能として申楽を生んだ。これは音楽をともなう仮面劇の形に洗練されていった。

「仮面が日本に将来されたのは、七世紀頃といわれています。仏教とともに渡った伎楽と舞楽に用いる面で、法隆寺や正倉院のものは有名ですが、他の神社やお寺にも沢山残っているのをみると、よほど盛んに行われたに違いありません。
 彫刻的にいっても、それらは見事な芸術ですが、いくら外国から習ったといっても、急激に発達したのは、それを取り入れるだけの準備が此方にあったからでしょう。が、古代の遺品としては、呪術に使ったと思われる小さな土器の面が残っている程度で、特別仮面を用いたという、形跡はありません。正倉院には、布作面といって、布に人の顔を描いたものがありますが、もしかすると、そのようなもので、顔を覆っていたのかも知れません。お能の獅子舞でも、面をつけない場合は、白い布で顔をかくしますし、ほおかむりとか覆面といったような習慣は、私たちの生活の中に未だ沢山残っているのです。
 何れにしても、仮面劇というものに、異常な関心を示したことは間違いなく、伎楽はまたたく中に一世を風靡しましたが、舞楽の方は少し遅れて、平安朝になるまで流行を見ませんでした。
 これは大変面白いことです。何故なら伎楽は、どちらかと云えば、大衆的な物真似で、舞楽の方は、源氏物語などに描写されているような、優雅な音楽をともなう舞踊だったからです。前者が寺や神社の庭で公けに行われたのに、後者は宮廷貴族の間でもてはやされた。と云えば、私が何をいおうとするかおわかりと思いますが、この外来の舞踊劇も、大和申楽の物真似に、近江申楽の幽玄が重なったのと、まったく同じ発展の仕方をしたのです。
 一国の文化とは、いつもそういう風に、同じ模様を描いて発達するのかも知れません。が、具体的な物真似から、次第に象徴的な美をもとめるのは、きわめて自然な要求で、別に珍しいことではありません。私が注意したいのは、そのことではなく、呪術的な芸能をもたなかった未開の地に、外国の文化が根をおろし、七百年の歳月を経て、よく耕された土壌の中から、はじめて民族の芸術が開花した、その十字路に生れたのが、世阿弥だったということです。

 申楽の歴史は、はっきりわかっていません。名前だけでも、伎楽・舞楽と同時に渡来した、散楽と呼ぶ雑芸の音便であるともいい、物真似を主にした所から、猿楽と名づけたともいい、また実際に猿の真似をしたこともあったと聞きます。その頃の申楽はかなり猥雑な演技をしたらしく、滑稽なものであったことは、枕草子その他の書物にも記してありますが、世阿弥の時代になると、そうした要素は影をひそめ、起源もずっと古い神代に求めるなど、万事につけて、勿体ぶった考え方をするようになりました、卑賤なものの常として、それも仕方のないことでしたが、そういう風に考えるより、室町時代の申楽には、もう昔の面影がみとめられぬ程、美しく成長していたと受けとるべきでしょう。
 たとえば花伝書の「神儀云」では、申楽のはじまりを天岩戸の前で、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が神がかりして踊った所におき、その時の「神楽」の神の字のヘンをとって、「申楽」と名づけたとありますが、鈿女命の別名が、猿女命であり、猿女命という呪術を司る家が存在したのをみても、まんざら申楽と無関係ではなさそうです。古すぎるということを別にすれば、この伝説を疑う根拠はどこにもない。まして世阿弥にとっては、心からそう信じていたに違いなく、また信じる理由もあったのです。
「神儀云」の一節を、かいつまんで申しますと、――先ずはじめに、天岩戸の踊があった。一方印度では、釈迦の説法の座を静める為に、色々な音楽や物真似劇が行われた。これが上宮太子の時に、秦河勝によって、日本に伝わり、神楽に対して、申楽と呼ばれたが、それには「楽しみを申す」という意味も含まれていた。
 次に、平安朝に入って、村上天皇の御宇に、河勝の子孫、秦氏安に命じて、宮中で、六十六番の申楽を行うことになった。が、一日に六十六番はつとめがたいとあって、氏安は、その中から、稲積の翁、世継ぎの翁、父尉の三つを代表に選んだ。これが後の式三番――つまり今の翁の能であり、金春流はその氏安の子孫にあたる、と記しています。(花伝書-神儀云)
 荒唐無稽といえば、この中の一つとして、信頼のおける史実はありません。吉田東伍氏は、それ故この「神儀云」の部分を、後世の偽作とされましたが、伝説にはまた伝説の読み方といったものがある筈です。たとえば、神代の物語にしても、舞踊が日本民族とともに古くからあった、という風に解するなら、一向さし支えはないでしょうし、そういう伝統があった所へ、西の方から外国の物真似が入って来た。上宮太子も、時代的には合っていますし、それを伝えたのが、帰化人の秦氏であるというのも、極めてありそうな話です。また、村上天皇の時、宮廷で行われたという、伝説も申楽がその頃非常にはやったことを思えば、氏安を取締りのような立場に置かれたのかも知れません。
 さすがに、翁の能については正確なようですが、六十六番を三番に圧縮したのは、自然に発生した芸能が、諸国にちらばって、思い思いの演技をしていたのが専門化され、次第に集団を形づくるとともに、一定の形式らしいものが出来上がった。そういう風に解釈すれば、少しも不自然なことはないと思います。
 ここにいう翁は、現行の翁の能の前身で、現在では、稲積の翁がシテ、代継の翁が三番叟、そして父尉に代って、若い男の千歳がツレになっているのです。三番申楽が、更に一番にちぢめられたわけですが、小書(特殊演出)の場合は、古式に則って、三人の翁が出ることもあり、いつ頃からそういう形に変ったのか不明ですが、たぶん徳川時代に入ってからではないかと思います。
 三人の翁の名前をみてもわかるように、それらは豊穣と平和を祈る、農村の祭りから出たものでした。おそらく村の長老が、神様に扮して舞ったのでしょう。今でも東北の黒川能では、冬籠りの期間に、その年の当番にあたる老人の家で能が行われますが、それは古代の生活を目のあたり見るような、素樸で美しい習慣です。
 この三人の翁は、釈迦三尊をかたどったものであるとか、法、報、応の三身を象徴したものともいわれています。が、黒川能ばかりでなく、地方に残っている翁舞をみると、それは後世のこじつけで、のんびりした雰囲気には、仏教的な匂いはなく、むしろ古代の自然宗教というか、祖先崇拝のお祈りみたいなものがあるだけです。それは、はるかに洗練されたお能の翁にしても同じことで、例のトウトウタラリという囃子詞に、「天下泰平、国土安穏」といったような、祈りの言葉に終始しており、演劇というより、舞踊をともなう儀式に近い。」白洲正子『世阿弥』講談社文芸文庫、1996(原著は1864、宝文館出版)pp.135-139.

 歴史的な考証は、何しろ古代のことなので、よく分からない点が多いが、白洲正子はそこにこだわらなくてもいいだろうと云う。能は封建時代を通過して現在まで伝承されるなかで、多分に純粋化すると同時に秘儀化され、ある意味では伝統芸能としての生命を失いかねないほど形骸化された。だから、白洲正子はそれを嘆き、能の本質はどこにあるのかを世阿弥の心に寄り添って考える。世阿弥の申楽は、もっと自由で愉しいものであったはずだと。その古式の風儀をたたえるものが翁の能であり、翁の面なのだと。

「そうして舞い終わった後、元の座に返り、面をとって、再び箱におさめ、千歳と二人で退場するのですが、荘重な気分とか、謎めいた動作に左右されなければ、だまってするこうした仕草の中に、お能のすべてが語られていることに気がつきます。申楽の本質は、舞歌二曲を元とすること、面をつけて舞うものであること、逆にいえば舞う為には仮面を必要とすること、拍子を踏むのは、天地を耕すと同時に、地霊を鎮める意味をもつこと、あげればきりはありませんけれども、象徴的なお能の中でも、翁ほど象徴的な曲はないといっていいのです。

 つづいて登場する三番叟も、その例を洩れません。狂言は、お能の幕間で、筋書きの説明をしたり、独立した喜劇を演じますが、はじめはやはり申楽の一派で、平安朝にはやった滑稽な物真似は、むしろこの方に受けつがれているようです。これが「狂言」として、申楽から分離したのは、鎌倉期から南北朝へかけてで、世阿弥の頃には、もう完全に独立した演技をもち、囃子方などと同じように、狂言方も、申楽の一座に附属していた。申楽から出て、再び申楽に戻ったというわけです。
 それは三番叟の場合も同じことで、翁の能の一部ではあるが、翁ではない。滑稽な動作で、翁の厳粛な雰囲気を柔らげるとともに、シテの演技の説明もかねることで、次の能との幕間を埋めている。たとえば翁の足拍子は、三番叟ではもっとこまかに、農耕の動作を思わせますし、鈴をふりながら舞う舞は、種蒔のように見えないこともない。面も、翁と同型でありながら、はるかに粗野な表情で、真黒く塗ってある所から、黒式尉と呼ばれるなど、すべての点で、翁とは、対照的につくられているのです。
  そういう所から、翁を地主に、三番叟を小作人にたとえた人もありますが、もう一歩飛躍して、シテを神、狂言を巫女と考えてもいいのではないかと思います。その場合、父尉は、人間の立場で、「祖先」を象徴したかも知れません。翁の形式が出来上がった平安朝はちょうど神像なども生まれた時代で、学者はそれを神仏混合と呼んで片づけていますが、これは決して神仏がくっついたという単純な思想ではなく、民族の中に根強くはびこっていた古代の信仰が、外来の仏の形を借りて復活した、――信仰というより、生活力とでもいいたくなるような、大変興味ある一時期です。美術の上でも「和様」があらわれ、木彫の美しさも発見されました。仮面もその頃、外国の影響からはなれ、日本人の表情を見出したのですが、一番はじめに造ったのは、おそらく翁の面でした。
 長い間の忍従と経験が、老人の朗らかな笑いに凝結したのは、そのこと自体、象徴的ですが、そういう風に考えるなら、世阿弥が申楽の起源を神代に求めたのも、「はじめに還る」という舞踊の体験から、直感的に信ぜざるをえなかったのでしょう。お能はよく神秘的な芸術といわれますが、ただいたずらに神秘的なのではない。物のはじめの無垢な姿を、いかにして舞台に再現するか、その工夫と技巧が、謎めいた様相を与えているにすぎません。神秘化したのは、むしろ後世の人々の罪で、勿体づける為に、ことさら秘密主義にしたのですが、世阿弥の秘事や口伝には、そんな虚栄めいたものはなく、あるいは初心、あるいは花と名づけて、ひたすらその純粋性を守ろうとした。」白洲正子『世阿弥』講談社文芸文庫、1996(原著は1864、宝文館出版)pp.140-142. 

 無垢で清浄な精神を申楽の発生に見ようとすれば、さかのぼって神代に行ってしまう。そこはもう実証的にどうこう言える世界ではない。神に捧げ、神のために舞うのは神楽であり、能もまたそのような神聖な儀式を指向する芸能に端を発するのかもしれない。でも、他方で能と狂言は、人間である多様な聴衆を前に歌い舞う演劇でもある。能が堅苦しく秘密主義めいてしまったとすれば、それは聴衆に身分の垣根を設け、権力者のための遊芸に堕したからではないのだろうか。
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