A.休憩
「音の記憶シリーズは、今出張中なのでお休みさせていただきます。」

B.鷗外の「史伝」について
「近代とは何であったのか?」というかなり大かがりな問いを、ぼくは大学の卒業論文を書くころからずっと、マックス・ヴェーバーの本を手がかりに断続的に考えてきたのだが、それは西欧の16世紀以後の歴史を多様な領域、複眼的な視点で見渡して比較考察することで、ある程度ひとつの同方向の流れとして把握することができるだろうと思っていた。それは21世紀の現在に対しても、中長期的な展望を与えてくれるはずだ。とするのだが、岩波新書の新刊で政治外交史家、三谷太一郎氏の『日本の近代とは何であったのか』はまさにタイトル通り、日本にとって課題としての近代、あるいは「近代化」という問題はあまりに自明のことのように思われながら、実は自明でも当然でもない、まだ未解明の問題なのだと改めて思う。三谷氏の見解には多少疑問を感じる個所もあるのだが、これを読んでおや、と気がつかされた論点があった。
第1章なぜ日本に政党政治が成立したのか、のなかのある場所で、三谷氏はハーバーマスの『公共性の構造転換』にある「市民的公共性」の議論の中の「文芸的公共性」ということばを引いて森鷗外の「史伝」をもってきている。
「ヨーロッパにおける「政治的公共性」の前駆としての「文芸的公共性」は、日本では、一八世紀末の寛政期以降、幕府の漢学昌平黌が幕臣のみならず、諸藩の陪臣や庶民にも開放されるとともに、全国の藩に採用された昌平黌出身者を中心として横断的な知識人層が形成されました。彼ら相互間に儒教のみならず、文学、医学等を含めた広い意味の学芸を媒介とする自由なコミュニケーションのネットワークが成立したのです。それは非政治的な、ある種の公共性の概念を共有するコミュニケーションのネットワークでした。それは当時「社中」と呼ばれた、さまざまの地域的な知的共同体を結実させ、それら相互のコミュニケーションを発展させていったのです。
そのような知的共同体の、あるいはそれら共同体相互間のコミュニケーションの実態を、驚くべき綿密さをもって、主として書簡によるコミュニケーションの追跡を通じて実証的に再現したのが、森鴎外晩年の「史伝」といわれる作品群です。
鷗外の「史伝」には、澁江抽斎、伊澤蘭軒、北條霞亭などの個人が題名として冠されていますが、「史伝」の実質は、それら個人というよりも、それら個人によって象徴される知的共同体そのものなのです。これら学者個人に対する鷗外の評価は別として、彼らの知名度が同時代の、同一分野の学者・文人のなかでは必ずしも高くなかったことは、「史伝」が事実上対象としたものが何であったかを考えれば、偶然とはいえません。
「史伝」の核心を偉大な個人に求めようとする者は、しばしば失望します。「史伝」の読者たらんとする者の多くが味わう失望感(あるいは退屈感)がそれです。ショウペンハウエルは、著作がもたらす退屈を「客観的」と「主観的」との二種類に分け、前者を著者に原因するもの、後者を読者に原因するものと説明しています。そして「主観的退屈」は「読者がその主題に対して関心を欠くために生まれて来る。しかし関心を持てないのは読者の関心に何か制限があるためである」(「著作と文体」)と言います。たとえば、和辻哲郎の『澁江抽斎』批判にはそれが表れています。『澁江抽斎』が発表された当時、気鋭の学者として才筆を振るっていた和辻は、「私は部分的にしか読まなかった」と断った上で、「私は『澁江抽斎』にあれだけの力を注いだ先生〔鷗外〕の意を解し兼ねる。私の憶測し得る唯一の理由は、「掘り出し物の興味」である」と断じているのである。
「彼の個人としての偉大さも文化の象徴としての意義も、先生のあれだけの労作に値するとは思へない」というのが、『澁江抽斎』に対する当時の和辻の評価でした。それはおそらく終生変わらなかったでしょう。しかもこうした否定的評価は、和辻に限られませんでした。当時の多くの学者・知識人ら(おそらく永井荷風のような例外を除いて、文人をも含めて)は、「史伝」の価値に疑問を持ったのです。また後年の石川淳のように、「史伝」の文学的評価を高く評価する者も、個々の作品の優劣を、題名として掲げられた個人の優劣に帰着させる傾向がありました。『澁江抽斎』と『北條霞亭』とを対比した石川は、「人がこれを何と評そうと、『霞亭』が依然として大文章だということには変りがない」と評価しながらも、霞亭個人を「俗情満満たる小人物」と断じ、「最後に霞亭という人物に邂逅したのは鷗外晩年の悲劇である。かかる悲劇がかつて『抽斎』に於て演じられなかったのは、抽斎と霞亭との人間の出来具合の際に因る」という結論に達しています。
このように石川淳の場合でさえ、「史伝」の各作品の文学的価値が各作品の題名となった各個人の人格的価値(さらに学者的価値)に還元されているのです。たとえば石川は、北條霞亭と比べて、学者的価値において、はるかに優った同時代の松崎慊堂や狩谷棭斎が、鷗外の「史伝」の対象とならなかったことを慨嘆しています。」三谷太一郎『日本の近代とは何であったか ――問題視的考察』岩波新書、2017.pp.51-54.
これに続けて三谷氏は、1941年ゾルゲ事件に連座して死刑になったジャーナリスト尾崎秀實が獄中で鷗外の「史伝」を読んだ感想を引用したあとこう書いている。
「敗戦後『北條霞亭』に言及した尾崎の獄中書簡が公表され、それを読んだ作家宇野浩二は「鷗外の小説――最高級の小説」(『鷗外全集』岩波書店、第四巻、月報二、一九五一年七月)という一文の中で次のように書いています。「尾崎秀實といふ人が極刑に処せられて獄中にゐる時、その家族に注文した本のなかに……『北條霞亭』があったので、私は、正宗白鳥とその事について語り合った時、『北條霞亭』を読むといふことだけで、この人は文学の観照の奥の院にはひったといふべきですね」と、いつた事である。さうして白鳥先生も私の言葉にうなづいたことであつた」。宇野浩二は鷗外の三つの「史伝」をいずれも高く評価しながら、「しひていへば、私は、『北條霞亭』をとる」と断言しているのです。それゆえに死刑の執行を遠からぬ将来に予期していた尾崎秀實が獄中で読んだ「北條霞亭」に深く感銘を受けた事実に共感したのです。(宇野浩二の一文のコピーは政治しか今井清一氏から供与されました。)
たとえ各個人の人格的価値(また学者的価値)の間に優劣があろうとも、それぞれが属する知的共同体そのものの間には必ずしも優劣があるとはいえません。それらはいずれも、身分や所属を超えた「文芸的公共性」を共有する成員間の平等性の強い知的共同体でした。そこでは身分制に基づく縦の形式的コミュニケーションではなく、学芸を媒介とする横の実質的コミュニケーションが行われていたのです。
蘭軒や霞亭が、著名な詩人で創立者である菅茶山を通して、直接・間接に深く関わった備後神辺の廉塾等はその典型です。鷗外の『伊澤蘭軒』や『北條霞亭』は、廉塾という山陽道の一宿駅を拠点とする、ささやかな知的共同体が及ぼした全国的なコミュニケーションのネットワークを、飛躍を伴わない徹底した考証学的方法――これは鷗外が敬愛して止まなかった澁江抽斎の学問的方法ですが――によって描破したのです。北條霞亭の専任者として、一時期菅茶山の委嘱を受け、廉塾塾頭を務めた頼山陽の『日本外史』その他の著作は、「文芸的公共性」の一つの結実です。それが幕末の政治的コミュニケーションを促進する媒体の役割を果たしたことはいうまでもありません。
幕末の開国時の外交を担った奉行川路聖謨は、対露外交交渉のため、長崎へ赴く途次、気づかずに山陽道に面した廉塾を通過し、そのことを後で知り、日記中に廉塾を看過したことに対する深い悔恨の記事を遺しています。廉塾がもたらした「文芸的公共性」のネットワークが幕府官僚の中枢にまで及んでいたと見ることができるでしょう。日本の場合もまた、ヨーロッパの場合と同じように「政治的公共性」は「文芸的公共性」に胚胎したのです。
また北條霞亭の出身母体である伊勢の山田詩社も単なるローカルな文芸結社ではなく、そのコミュニケーションのネットワークには当時の卓抜した先進的な外科医である華岡青洲を含んでいました。青年期に医を学んだ霞亭は、華岡青洲を「古今の神医」として尊敬し、実弟碧山をはじめ若い医師たちに対し、紀伊在住の華岡の下で研修することを勧めます。実弟碧山は実際に紀伊の華岡を訪ねています。また逆に華岡青洲の子雲平は茶山が創立し、霞亭が塾頭として主宰していた廉塾に学びました。青洲六一歳の寿の祝に際しては、茶山も霞亭も共に青洲のために寿詩をおくっています。鷗外は霞亭の子孫の許に残されていた書簡を通して、華岡青洲を点描し、当時の知的共同体がいかに豊かなものであったかを深く印象づけているのです。そこにはまぎれもなく、「政治的公共性」の前段階としての「文芸的公共性」が機能していました」三谷太一郎『日本の近代とは何であったか ――問題視的考察』岩波新書、2017.pp.56-58.
なるほど、ぼくも30歳ごろ、鷗外の「史伝」を読んでみようと思って『澁江抽斎』と『北條霞亭』を買って、読みかけたことがあったが、歯応えがありすぎて途中でやめてしまった。この江戸時代のある学者とその周辺を、細密に描いていく文章は、小説や文学というものを読む愉しみ、娯楽という興味で考える限り、この「史伝」には、ほかの作家の歴史小説のような面白味はほとんどないと思って、読むのをやめたのだと思う。たとえば同時期の知識人を扱った小説でも、『渡辺崋山』なんかであれば、そもそもその人の名前と生涯はすでに多くが確固たるイメージで知られており、ぼくらもそれに沿って興味深く異同を確かめればいい。しかし、鷗外の「史伝」の主人公についてぼくらは日本史の知識として皆無に等しく、その仕事もどこに意味があるのか定かでない。
鷗外ともあろう人が、どうしてこんな人物に強い興味をもって作品化したのか、その文脈がわからない。三谷氏によれば、ほとんどの日本人、とくに文学者や評論家は、みなそのように思ったようだ。だが、これを社会科学の視点で読むと、江戸後期の読書階級の間に幅広い「文芸的公共性」が成立しており、その知的世界のありようを、明治以降の「近代化」過程を身をもって生きた晩期の鷗外が、大きな問題意識で眺めてこれを書いた、という視点で読んでみると、まったく別の読み方ができるのかもしれない。
つまり、丸山眞男の「日本政治思想史研究」の流れで、江戸後期の知識人ネットワークの創造性を、断絶した過去としてではなく、ひとつの連続性、つまりどうして西洋世界とはまったく別の知的伝統をもっていた日本が、近代化に成功できたのか、という問いへのひとつのヒントになる、というわけだ。鷗外の「史伝」をもう一度読み直す必要があるな。
「音の記憶シリーズは、今出張中なのでお休みさせていただきます。」

B.鷗外の「史伝」について
「近代とは何であったのか?」というかなり大かがりな問いを、ぼくは大学の卒業論文を書くころからずっと、マックス・ヴェーバーの本を手がかりに断続的に考えてきたのだが、それは西欧の16世紀以後の歴史を多様な領域、複眼的な視点で見渡して比較考察することで、ある程度ひとつの同方向の流れとして把握することができるだろうと思っていた。それは21世紀の現在に対しても、中長期的な展望を与えてくれるはずだ。とするのだが、岩波新書の新刊で政治外交史家、三谷太一郎氏の『日本の近代とは何であったのか』はまさにタイトル通り、日本にとって課題としての近代、あるいは「近代化」という問題はあまりに自明のことのように思われながら、実は自明でも当然でもない、まだ未解明の問題なのだと改めて思う。三谷氏の見解には多少疑問を感じる個所もあるのだが、これを読んでおや、と気がつかされた論点があった。
第1章なぜ日本に政党政治が成立したのか、のなかのある場所で、三谷氏はハーバーマスの『公共性の構造転換』にある「市民的公共性」の議論の中の「文芸的公共性」ということばを引いて森鷗外の「史伝」をもってきている。
「ヨーロッパにおける「政治的公共性」の前駆としての「文芸的公共性」は、日本では、一八世紀末の寛政期以降、幕府の漢学昌平黌が幕臣のみならず、諸藩の陪臣や庶民にも開放されるとともに、全国の藩に採用された昌平黌出身者を中心として横断的な知識人層が形成されました。彼ら相互間に儒教のみならず、文学、医学等を含めた広い意味の学芸を媒介とする自由なコミュニケーションのネットワークが成立したのです。それは非政治的な、ある種の公共性の概念を共有するコミュニケーションのネットワークでした。それは当時「社中」と呼ばれた、さまざまの地域的な知的共同体を結実させ、それら相互のコミュニケーションを発展させていったのです。
そのような知的共同体の、あるいはそれら共同体相互間のコミュニケーションの実態を、驚くべき綿密さをもって、主として書簡によるコミュニケーションの追跡を通じて実証的に再現したのが、森鴎外晩年の「史伝」といわれる作品群です。
鷗外の「史伝」には、澁江抽斎、伊澤蘭軒、北條霞亭などの個人が題名として冠されていますが、「史伝」の実質は、それら個人というよりも、それら個人によって象徴される知的共同体そのものなのです。これら学者個人に対する鷗外の評価は別として、彼らの知名度が同時代の、同一分野の学者・文人のなかでは必ずしも高くなかったことは、「史伝」が事実上対象としたものが何であったかを考えれば、偶然とはいえません。
「史伝」の核心を偉大な個人に求めようとする者は、しばしば失望します。「史伝」の読者たらんとする者の多くが味わう失望感(あるいは退屈感)がそれです。ショウペンハウエルは、著作がもたらす退屈を「客観的」と「主観的」との二種類に分け、前者を著者に原因するもの、後者を読者に原因するものと説明しています。そして「主観的退屈」は「読者がその主題に対して関心を欠くために生まれて来る。しかし関心を持てないのは読者の関心に何か制限があるためである」(「著作と文体」)と言います。たとえば、和辻哲郎の『澁江抽斎』批判にはそれが表れています。『澁江抽斎』が発表された当時、気鋭の学者として才筆を振るっていた和辻は、「私は部分的にしか読まなかった」と断った上で、「私は『澁江抽斎』にあれだけの力を注いだ先生〔鷗外〕の意を解し兼ねる。私の憶測し得る唯一の理由は、「掘り出し物の興味」である」と断じているのである。
「彼の個人としての偉大さも文化の象徴としての意義も、先生のあれだけの労作に値するとは思へない」というのが、『澁江抽斎』に対する当時の和辻の評価でした。それはおそらく終生変わらなかったでしょう。しかもこうした否定的評価は、和辻に限られませんでした。当時の多くの学者・知識人ら(おそらく永井荷風のような例外を除いて、文人をも含めて)は、「史伝」の価値に疑問を持ったのです。また後年の石川淳のように、「史伝」の文学的評価を高く評価する者も、個々の作品の優劣を、題名として掲げられた個人の優劣に帰着させる傾向がありました。『澁江抽斎』と『北條霞亭』とを対比した石川は、「人がこれを何と評そうと、『霞亭』が依然として大文章だということには変りがない」と評価しながらも、霞亭個人を「俗情満満たる小人物」と断じ、「最後に霞亭という人物に邂逅したのは鷗外晩年の悲劇である。かかる悲劇がかつて『抽斎』に於て演じられなかったのは、抽斎と霞亭との人間の出来具合の際に因る」という結論に達しています。
このように石川淳の場合でさえ、「史伝」の各作品の文学的価値が各作品の題名となった各個人の人格的価値(さらに学者的価値)に還元されているのです。たとえば石川は、北條霞亭と比べて、学者的価値において、はるかに優った同時代の松崎慊堂や狩谷棭斎が、鷗外の「史伝」の対象とならなかったことを慨嘆しています。」三谷太一郎『日本の近代とは何であったか ――問題視的考察』岩波新書、2017.pp.51-54.
これに続けて三谷氏は、1941年ゾルゲ事件に連座して死刑になったジャーナリスト尾崎秀實が獄中で鷗外の「史伝」を読んだ感想を引用したあとこう書いている。
「敗戦後『北條霞亭』に言及した尾崎の獄中書簡が公表され、それを読んだ作家宇野浩二は「鷗外の小説――最高級の小説」(『鷗外全集』岩波書店、第四巻、月報二、一九五一年七月)という一文の中で次のように書いています。「尾崎秀實といふ人が極刑に処せられて獄中にゐる時、その家族に注文した本のなかに……『北條霞亭』があったので、私は、正宗白鳥とその事について語り合った時、『北條霞亭』を読むといふことだけで、この人は文学の観照の奥の院にはひったといふべきですね」と、いつた事である。さうして白鳥先生も私の言葉にうなづいたことであつた」。宇野浩二は鷗外の三つの「史伝」をいずれも高く評価しながら、「しひていへば、私は、『北條霞亭』をとる」と断言しているのです。それゆえに死刑の執行を遠からぬ将来に予期していた尾崎秀實が獄中で読んだ「北條霞亭」に深く感銘を受けた事実に共感したのです。(宇野浩二の一文のコピーは政治しか今井清一氏から供与されました。)
たとえ各個人の人格的価値(また学者的価値)の間に優劣があろうとも、それぞれが属する知的共同体そのものの間には必ずしも優劣があるとはいえません。それらはいずれも、身分や所属を超えた「文芸的公共性」を共有する成員間の平等性の強い知的共同体でした。そこでは身分制に基づく縦の形式的コミュニケーションではなく、学芸を媒介とする横の実質的コミュニケーションが行われていたのです。
蘭軒や霞亭が、著名な詩人で創立者である菅茶山を通して、直接・間接に深く関わった備後神辺の廉塾等はその典型です。鷗外の『伊澤蘭軒』や『北條霞亭』は、廉塾という山陽道の一宿駅を拠点とする、ささやかな知的共同体が及ぼした全国的なコミュニケーションのネットワークを、飛躍を伴わない徹底した考証学的方法――これは鷗外が敬愛して止まなかった澁江抽斎の学問的方法ですが――によって描破したのです。北條霞亭の専任者として、一時期菅茶山の委嘱を受け、廉塾塾頭を務めた頼山陽の『日本外史』その他の著作は、「文芸的公共性」の一つの結実です。それが幕末の政治的コミュニケーションを促進する媒体の役割を果たしたことはいうまでもありません。
幕末の開国時の外交を担った奉行川路聖謨は、対露外交交渉のため、長崎へ赴く途次、気づかずに山陽道に面した廉塾を通過し、そのことを後で知り、日記中に廉塾を看過したことに対する深い悔恨の記事を遺しています。廉塾がもたらした「文芸的公共性」のネットワークが幕府官僚の中枢にまで及んでいたと見ることができるでしょう。日本の場合もまた、ヨーロッパの場合と同じように「政治的公共性」は「文芸的公共性」に胚胎したのです。
また北條霞亭の出身母体である伊勢の山田詩社も単なるローカルな文芸結社ではなく、そのコミュニケーションのネットワークには当時の卓抜した先進的な外科医である華岡青洲を含んでいました。青年期に医を学んだ霞亭は、華岡青洲を「古今の神医」として尊敬し、実弟碧山をはじめ若い医師たちに対し、紀伊在住の華岡の下で研修することを勧めます。実弟碧山は実際に紀伊の華岡を訪ねています。また逆に華岡青洲の子雲平は茶山が創立し、霞亭が塾頭として主宰していた廉塾に学びました。青洲六一歳の寿の祝に際しては、茶山も霞亭も共に青洲のために寿詩をおくっています。鷗外は霞亭の子孫の許に残されていた書簡を通して、華岡青洲を点描し、当時の知的共同体がいかに豊かなものであったかを深く印象づけているのです。そこにはまぎれもなく、「政治的公共性」の前段階としての「文芸的公共性」が機能していました」三谷太一郎『日本の近代とは何であったか ――問題視的考察』岩波新書、2017.pp.56-58.
なるほど、ぼくも30歳ごろ、鷗外の「史伝」を読んでみようと思って『澁江抽斎』と『北條霞亭』を買って、読みかけたことがあったが、歯応えがありすぎて途中でやめてしまった。この江戸時代のある学者とその周辺を、細密に描いていく文章は、小説や文学というものを読む愉しみ、娯楽という興味で考える限り、この「史伝」には、ほかの作家の歴史小説のような面白味はほとんどないと思って、読むのをやめたのだと思う。たとえば同時期の知識人を扱った小説でも、『渡辺崋山』なんかであれば、そもそもその人の名前と生涯はすでに多くが確固たるイメージで知られており、ぼくらもそれに沿って興味深く異同を確かめればいい。しかし、鷗外の「史伝」の主人公についてぼくらは日本史の知識として皆無に等しく、その仕事もどこに意味があるのか定かでない。
鷗外ともあろう人が、どうしてこんな人物に強い興味をもって作品化したのか、その文脈がわからない。三谷氏によれば、ほとんどの日本人、とくに文学者や評論家は、みなそのように思ったようだ。だが、これを社会科学の視点で読むと、江戸後期の読書階級の間に幅広い「文芸的公共性」が成立しており、その知的世界のありようを、明治以降の「近代化」過程を身をもって生きた晩期の鷗外が、大きな問題意識で眺めてこれを書いた、という視点で読んでみると、まったく別の読み方ができるのかもしれない。
つまり、丸山眞男の「日本政治思想史研究」の流れで、江戸後期の知識人ネットワークの創造性を、断絶した過去としてではなく、ひとつの連続性、つまりどうして西洋世界とはまったく別の知的伝統をもっていた日本が、近代化に成功できたのか、という問いへのひとつのヒントになる、というわけだ。鷗外の「史伝」をもう一度読み直す必要があるな。
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