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オルテガ『大衆の反逆』を読む 4 スペインの王家 BLM運動

2020-06-26 14:51:47 | 日記
A.20世紀が始まった頃のスペインを想像する
 オルテガが生きた19世紀末から20世紀初めのスペインの王政と共和制について少しお勉強してみた。
 女王イザベル2世が1868年に反対派のクーデターで亡命・退位した後、サヴォイア家から迎えられたアマデオ1世が即位したが政治的混乱が続き、わずか3年後の1873年2月に退位、スペイン史上初の共和制が成立した。共和国となったスペインの統治はいっこうに安定せず、大統領が短期間に次々と変わり、1874年にはカンポス将軍主導のクーデターが発生し、共和制は2年に満たない短命に終わった。スペインは王政復古に国の安定を託すことになり、イサベル2世の息子アルフォンソ12世が国王に即位することで、スペインは再びボルボン家の王政国家となった。1885年肺結核でアルフォンソが亡くなるまでの11年間は、立憲君主制として内政は安定して米西戦争を切り抜けた。王の死後に生まれた唯一の男子アルフォンソ13世は、出生と同時に国王即位。オーストリア帝室出身の母の王太后が摂政となり、成人後は親政をとって英王室の血を引く貴族の娘ビクトリア・エウヘニアと1906年に結婚。これが第1次世界大戦で、スペインが双方に中立の立場をとるもととなった。
 アルフォンソ13世はしばしば社会改革の努力を行うものの、途絶えることのないテロの中で政府高官は次々に暗殺され、統治の形態はますます旧来の抑圧へ傾斜を深めた。また、社会不安に混沌とする国内を鎮めるため、イタリアに倣い、1923年にはプリモ・デ・リベーラ将軍を登用し、権威主義体制による王権維持を目指した。プリモ・デ・リベーラ失脚後の1931年4月に行われた自治体選挙の結果、国王は国外亡命に追い込まれ第二共和政となる。後にアルフォンソ13世は亡命先のローマで死の直前に退位し、名目上の王位を四男のフアンに譲ったが、スペインが王政復古したのはアルフォンソ13世の亡命から44年後の1975年であり、フアンの息子フアン・カルロスが王位に就いた。
第二共和政は、左翼的な新憲法の下、貧困層救済を重視した政策を展開したが、早々から政治的対立に起因する治安の悪化を招いた。失業者の一部は急進的な労働組合に所属し、激しいデモやテロを繰り返した。また、政教分離を進めた結果、敬虔なカトリックである民衆の支持を失った。政治は迷走を繰り返し、政権の退陣も頻繁に発生した。これらの政治的混乱は議会制民主主義への失望を招き、ファシズム政権の樹立を待望する主張が日増しに強まっていった。1936年2月16日に人民戦線(1936-39年にマヌエル・アサーニャを首班とする社会主義連合政権)が政権を獲得すると左派と右派の対立は決定的となり、7月、フランシスコ・フランコ将軍率いる反乱軍がスペイン領モロッコのメリリャでクーデターを起こし、スペイン各地で反乱が頻発。ここからスペイン内戦へと突入した。(以上は主としてWikipediaによる)
 1883年マドリード生まれのオルテガ・イ・ガセットは、この最後の王アルフォンソ13世より3歳年長だが、ほぼ同世代を生き、『大衆の反逆』出版の1930年の翌年、国王亡命、第二共和政となるわけで、この文章を書いているオルテガがどのような時代を生きてきたかを想像することは、とても意味があると思う。
オルテガの父親は高名なジャーナリスト、ホセ・オルテガ・イ・ムニーリャ(es:José Ortega Munilla 1856-1922年)、母親はドローレス・ガセット。父親は当時有力紙であったエル・インパルシアル紙(El Imparcial)で評論を展開しており、後にオルテガ自身も多くの論説を紙上に投稿するようになる。オルテガは早熟でもあり、7歳ですでにミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』を暗唱することができたという。14歳までマラガ近郊のイエズス会の経営の学院で学び、1898年からマドリード大学で学び、1902年に学士号を取得。1904年に「紀元千年の恐怖」(Los terrores del año 1000)で哲学の博士号を得る。他にエル・インパルシアル紙に幾つもの論評を発表した。
1905年から1907年までドイツへ留学し、ライプツィヒ、ベルリン、マールブルクでカント哲学を研究。特にマールブルク大学では、新カント派のヘルマン・コーエンや、パウル・ナトルプから強い影響を受ける。他にフッサールの現象学、ディルタイの哲学からも影響を受けた。1910年にスペインへ帰国後、マドリード大学で形而上学の教授に就任。スペイン王制崩壊の前夜、知識人からなる政治結社「共和国奉仕団」を結成し、1931年にスペイン第二共和政が成立すると制憲議会の議員となり、新憲法制定まで議員として活動する。フランコの攻勢によってスペインは内戦となり、オルテガは亡命することになる。 

 「今日では、以前とまったく違うことが起こっている。大衆の勝利が大きくもたらされた地中海沿岸の国々の社会生活を観察するなら、政治的にはその日暮らしであるという驚くべき事実を目の当たりにするだろう。この現象は実に奇妙な現象である。社会的権力が大衆の一代表の手に握られている。大衆は、考えられる限りすべての反対勢力を消滅させてしまうほど強力なのである。歴史上これ以上に絶大な政治的力を持つ状況はあり得ないほど、文句の付けようのない最上級の形で、大衆は社会的権力の所有者となった。
 それにもかかわらず社会的権力、つまり政府は、その日暮らしをしているのだ。将来像を率直に描くこともしないし、未来を明確に告知するものでもなく、これからどう発展し進展してゆくかを想像できるような何かの始まりを告げるものでもない。要するに生の設計も計画も持たずに生きているのだ。どこに行くかが分からないのは、そもそもどこにも行かないから、前もって定められた道、先取りされた軌道を持っていないからである。
 この社会的権力が自己正当化を試みようとするとき、未来についてはいっさい触れず、むしろその反対に、現在の中に引きこもって実にあっけらかんと「当方は諸々の環境によって押しつけられた変則的な統治形態にすぎません」などと吐くのである。つまり将来を見越してではなく、当面の緊急措置としての社会的権力というわけである。したがってその行動はその時どきの紛争を回避するだけに留まる。つまり争いを解決するのではなく、とりあえず逃げるのだ。そのためには、たとえ次の局面では事態がさらに悪化する危険があるような手段であっても、それを用いる。大衆が直接行使する時の社会的権力はこれまでいつもそうだった。つまり全能でありながら一時しのぎなのだ。大衆化した人間とは、その生が計画性を欠いている人間、成り行きまかせの人間である。そのため彼らは、その可能性や権力がとてつもなく大きいにもかかわらず、何事をも構築しないのだ。
 私たちの時代は、こうしたタイプの人間が意思決定をしている。だから私たちは、大衆化した人間の性格を分析してみなければならない。
 この分析の鍵は、本試論の初めに立ち返って、次のように自問すれば見つかるだろう。「いま歴史の舞台を満たし、溢れているこれらの群衆は、いったいどこから来たのか」。
 数年前のことになるが、偉大な経済学者ヴェルナー・ゾンバルト[ドイツの経済学者・社会学者。1863-1961]が、ある極めて単純なデータに注意を促した。現代の諸問題に関心を寄せる人の誰の念頭にもなかったデータだが、それはいかにも奇妙なことである。このきわめて単純なデータは、それだけで現代ヨーロッパに関する私たちの視点を明らかにするのに充分である。いや充分でないとしても、問題解明のための手がかりを与えてくれる。データとは次のものである。すなわち六世紀にヨーロッパの歴史が始まって1800年に至るまでの十二世紀の長きにわたって、ヨーロッパの人口が一億八千万以上に達したことはない。ところが、1800年から1914年の間つまりわずか一世紀の間に、ヨーロッパの人口は一億八千万から何と四億六千万に上昇した!
 私としては、この二つの数字を対比して、ここ一世紀間の驚くべき繁殖能力に関しては、疑問をさし挟む余地は無いと推測せざるを得ないのだ。三世代のうちに圧倒的な人的土台が生産され、歴史の境界になだれ込み、奔流となって決壊した。繰り返すが、このデータは、大衆の勝利を、そしてそこに反映し告知されているすべてのことを理解するのに充分だろう。さらに付言すると、このデータは、先に明らかにした生の増大に関する、最も具体的な数字として追加されるべきである。
 しかし同時にこのデータは、私たちがアメリカ合衆国のような新興国の成長ぶりを強調する際の誉め言葉が、根拠のないものであることを示している。私たちはたかだか一世紀の間に一億の人口増加に至ったアメリカの急成長ぶりに感嘆するが、しかし感嘆すべきはむしろヨーロッパの人口増加の方なのだ。ここには、ヨーロッパがアメリカ化されたと想定する幻想を修正するもう一つの理由がある。アメリカを最も特徴づけるものと思われる人口増加の早さでさえ、実はアメリカ独自のものではないのだ。ヨーロッパは前世紀にアメリカを遥かに超える勢いで成長した。いうなればアメリカはヨーロッパのおこぼれでできあがったのである。
 ヴェルナー・ゾンバルトが計量したデータがしかるべき認知を受けていないとしても、目覚しい形でヨーロッパの人口が増加したという混乱を呼ぶような事実は隠しようも無いほど顕著である。つまり私が引用した数字で気になっているのは、人口の増加という点ではなく、その大きな対比のおかげで増加の目まぐるしいほどの速度が浮き彫りになっている点なのだ。私たちにとって今重要なのは、まさにこの点である。なぜならこの目まぐるしいまでの速度は、ものすごい数の人間が歴史の舞台に次々と打ち上げられたのは言いが、彼らを伝統文化で満たすことは難しくなっていることを意味しているからである。
 事実、現在のヨーロッパ人の平均的タイプは、前世紀のヨーロッパ人よりもっと健全で強靭な、しかし同時にもっと単純な魂を持っている。時には古色蒼然たる文明の真ん中に突如出現した原始人の印象を与えるのはそのためである。前世紀にとって、あれほど自慢の種だった学校は、大衆に対して近代生活の技術を教えることはできたが、教育することはできなかった。つまり力強く生きるための道具は与えたが、大事な歴史的責務に対する感受性は与えなかった。したがって彼らは精神とは一切の関係を持とうとはせず、新世代は、世界がまるで先人たちの足跡も無ければ、申し送られた複雑な問題も無い天国であるかのようにして、世界を手中に収めようとしていた。
 したがって、歴史の表面に巨大な群衆を解き放った栄光と責任は前世紀のものである。まさにそうだから、以上の事実は前世紀を公平に裁定するための最も適切な視点を与えてくれる。前世紀の環境の中で人間と言う果実がそこまで実り豊かであったことについては、そこに何らかの法外なもの、比較を絶するものがあったに違いない。まずこの驚くべき事実についてよく理解し、それを消化しようとしたことを示さずして、過去の別の時代に霊感を与えた諸原理を安易に持ち出すとしたら、それは軽薄滑稽の誹りを免れることはできないだろう。これまでの歴史全体は、いわば植物のように「人間」の生育を促す社会生活の定理を手に入れるために、およそ考えられる限りのあらゆる実験がなされた、あたかも巨大な実験室のようなものだった。ありとあらゆるこじつけの実験を繰り出したあと、私たちの手もとに残されたのは、次のような実験結果、すなわち人間という種を自由主義的デモクラシーと技術という二つの原理による操作に委ねる条件下で、わずか一世紀の間にヨーロッパ種が三倍にもなるというものだった。
 私たちが愚かなままでいることを望まないならば、かくも多くの事実は私たちに次のような結論を出すことを否が応でも求めるはずである。まず第一に、技術的創造に基づく自由主義的デモクラシーは、これまで知られた社会的生の最高水準の形式である。第二に、たとえこの様式の生が想像しうる最上のものではないにしても、私たちがより良いものと考える様式は、前述の原理の本質的なものを保持しているはずである。第三に、十九世紀の生の様式より劣ったものへ戻ろうとするすべての意図は自殺行為である。
 以上のことが、事実それ自体の要求するあらゆる明白性をもって認められたなら、次は十九世紀に対して、はっきり対抗姿勢を固める必要がある。
 前世紀の中にどこか法外なもの、どこか比較を絶するものがあることが明らかだとしても、それ以上に明らかなのは、生が拠り所としている原理そのものを一触即発の危機に陥れる人間たち――反抗的な、大衆化した人間――がいて、そういった血統を産み出していることからして、いくつか根本的な欠陥と構造的不備を抱えていたはずであるということだ。もしそうしたタイプの人間がヨーロッパを相変わらず支配し、絶対的な決定権を行使し続けているとするなら、私たちの大陸が野蛮な時代に逆戻りするのに三十年とはかからないだろう。法的技術や物質的技術などというものは、いままで何度となく製法上の秘密が失われたのと同じくらい容易に雲散霧消してしまうだろう。生は収縮するだろう。今日の潜在能力の豊かさ過ぎる程の可能性は、実質的な衰退と欠乏、そして苦悩の色濃い無力さへと、つまりは掛け値なしの没落へと変わってしまうだろう。なぜなら、大衆の反逆とは、とりもなおさずラーテナウが「蛮族の垂直的侵略」と呼んでいたものと同一のものだからだ。
 だから最大の善と最大の悪の可能性そのものを孕んだこの大衆化した人間を、根底から理解する必要があるのだ。」オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』佐々木孝訳、岩波文庫、2020年.pp.116-123. 

 共和制と立憲君主制は、ヨーロッパの19世紀に革命と戦争やクーデターによって成立した政治制度として、人民が選択可能なものとなった。王や皇帝などいなくても国家は立派に存続する、という事実は、フランス革命以後の世界にイギリスは立憲君主制を維持したが、フランス、イタリア、スペインなどは王政の打倒と復活を繰り返し、ドイツ帝政とオーストリア=ハンガリー帝国は第1次大戦で崩壊した。ロシアの帝政も革命によって消滅した。日本の明治帝国は、こうしたヨーロッパ立憲君主制を学習しながら、その未来が安定したものではないことに自覚的だったと思う。スペイン王政の崩壊を目の当たりにしていたオルテガが、「大衆」として語った存在は、王政を倒した力でもあるが、王政を支えた第1次大戦後のスペイン現代人でもあった。


B.アメリカの病理?
 コロナ危機なんかインフルエンザより軽くて自粛なんか必要ない、経済が優先だ!というような言説が、都知事選候補者にもちらほら叫ばれている。科学的、ということは、時間と手間のかかる研究が必要で、未知の事態には簡単に判断しないという基本が危うくなっている。派手な言葉、短く刺激的な主張が、政治的にインパクトがあり注目される、という点だけに敏感な人が、都知事選にはとくに多く出てくる。しかし、アメリカ合衆国ではコロナ感染が相変わらず拡大するなか、ある意味ではもっと大事な問題が出てきているのかもしれない。

「肌の色が生死分ける米の構造 黒人らを標的 大量収監や投票権剥奪も :竹沢泰子 京都大教授(文化人類学)
 米ミネアポリスで黒人男性ジョージ・フロイドさんが警官に首を圧迫され死亡した事件。1人の勇気ある黒人女子高生の撮影が、未曽有の規模の抗議運動「黒人の命を粗末にするな」と世界的な反人種差別運動を引き起こした。今この問題に「沈黙」することは不正義への加担であり、人種間を横断する大きな連帯の波は、今こそ変革に自分も参加しなければならないという強い意思の表明である。
 そんなさなか、アトランタでも黒人男性が警官に撃たれ命を落とした。また、昨秋と今年3月に起きた黒人女性の射殺事件も注目され、これまで人種とジェンダーの両面から看過されてきた多くの黒人女性犠牲者にも光が当たりつつある。
 「黒人の命を粗末にするな」運動の発端となったのは、フロリダ州で黒人高校生を射殺した自警団員に対して、2013年に下された無罪判決であった。
 この種の事件は日常茶飯事だ。ポケットから携帯を取り出そうとして銃だと勘違いされ撃たれる。歩いているだけで止まれの声が聞こえなければ、すぐに射殺される。大半は「正当防衛」による無罪である。
 「ワシントン・ポスト」紙のデータベースによると、武器を所有せずして警察によって殺された黒人は、人口比でいうと白人の4倍以上である。3年前、ある警官が車内でおびえる白人女性に、「我々が殺すのは黒人だけだ」と吐露したように(映像は世界に流れた)、フロイド事件は構造的なヘイト犯罪である。
 さらには同じ黒人のなかでも、肌の色が濃く、鼻が低いといったステレオタイプ的特徴をもつ黒人は、そうでない黒人よりも、同程度の犯罪でも、死刑判決を受ける率が約2.4倍高いというスタンフォード大の研究結果がある。つまり黒人であるか否かで、皮膚の色が濃いか否かで、生死が分かれる命の問題なのだ。
 黒人に対する警察の暴力には、奴隷制時代にさかのぼる長い歴史が影を落としている。奴隷所有者は懲罰により奴隷を死なせても法的に守られていた。巡視隊は、過酷な労働から逃亡した奴隷を捕まえ、暴行を加えて所有者に連れ戻した。
 それは、形を変えて現代も続いている。ニクソン政権時代に始まった、麻薬所持の黒人らを標的とした大量収監は、その後拡大した。ごく最近改革が進んでいるが、多くの州では状況次第で、麻薬や窃盗等で一度有罪となると一生投票権が剥奪されてきた。これが過去の大統領選で共和党に有利に働いてきたとされる。また急増する刑務所は、囚人たちの労働搾取と、建設、警備、食事等の大量発注により、一大ビジネスと化している。黒人らの大量逮捕・収監は、政治化され商業化された社会構造と密接に結びついているのである。
 こうした白人中心の社会構造が、黒人の様々なステレオタイプを人びとの心に植え付けてきた。残念ながら日本にいる私たちの多くも、多様性に寛容ではない伝統をひきずりつつ、主流社会の価値観を内在化させてきた。
 それでは、社会構造と人々の偏見の双方がもたらす負のスパイラルを断ち切るために、何ができるだろうか。人が他者を分類する時、あらゆる社会カテゴリーのなかで、人種とジェンダーが最もステレオタイプを抱きやすい要素となることが知られている。同時に、それに意識的であること、上司や組織、社会環境が差別を許さない態度を見せることで、差別や偏見が緩和することも報告されている。今世界で様々な変革が始まっているように、日本社会も、差別解消のための意識改革・制度改革に一緒に取り組めるはずだ。」朝日新聞2020年6月24日夕刊2面、寄稿。

 正直、このBlack Lives Matter運動が出るまで、なんとなくアメリカはもう過去の人種差別は大筋克服して、オバマ大統領がトップに立つほど黒人の権利は認められている、ような気がしていた。しかし、どうも全然そうじゃない、ということが分った。警察官には黒人はいないのだろうか?どうして黒人にだけ暴力が安易に使われるのか?日本もいろいろ差別や偏見はあるけれど、こんな人種による暴力はさすがにない、とほっとする。
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