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パトリオティズムとオリンピック 政治思想史助走

2018-08-01 13:31:20 | 日記
A.日本思想史への助走
 庄内鶴岡に通うことになって、先日は藩政時代から明治初年の資料展示がある致道博物館に行き、帰りに鶴岡市の図書館に寄った。その書棚にあった橋爪大三郎『丸山眞男の憂鬱』(講談社選書メチエ、2017.9)をみつけ、東京に戻ってから購入した。これは丸山の『日本政治思想史研究』(東京大学出版会 1952)および「闇斎学と闇斎学派」の読解と、もうひとつ山本七平の『現人神の創作者たち』(文藝春秋 1983)を組み合わせて、丸山が提示した江戸思想の徂徠学に対して山崎闇斎学派の検討を通じて、丸山政治学を批判的に読み解くことを試みているという。一般には、あまり話題になりそうもないテーマだが、ぼくにはとても興味深いものに思われた。橋爪氏が書いているように、そこには師と仰ぐ小室直樹の丸山への傾倒が、丸山政治思想史再検討の動機になっている。そこで、これを読み始めたのだが、何しろ江戸の朱子学の話だからすいすいとは読めない。そこに行く前に、これもふらっと立ち寄った文庫本専門の書店でみかけた中公文庫、佐伯啓思『日本の愛国心 序説的考察』2015 (原著はNTT出版2008.3)を買って、こちらは一日で読んでしまった。パトリオティズムがテーマだが、日本の近代化をどう考えるかという点で、オーソドックスな見解がごく簡潔に整理されている。

 「繰り返すが、福澤は、近代日本の枢要の課題は、西欧列強のアジア植民地化の圧力を回避し、日本の独立を保つことだとした。独立を保つとは、「人民独立の気風」を作ることであり、そのことによって「一身独立」を保つことである。「一身独立の気風」を作ることであり、そのことによって「一身独立」を保つことである。「一身独立」とは何か。それは、ひとりひとりの人間が、他者に依存したり、判断を他者に委ねるのではなく、自ら考え、自ら知徳を磨くことである。こうした国民が報国心をもって、国のありように対して責任をもつことである。
 近代の思想家としては当然のこととして、福澤は「ナショナリスト」であった。注意する必要があるのは、「国家主義者」ではなく「国民主義者」であった、ということである。むろん、対外的に強固な国家形成を目指すという意味では間違いなく国家主義者でもあったが、しかし、何よりもまず、国力は国民の精神(気風)によって作られるという意味で国民主義者(ナショナリスト)であった。そして、国民とは「自ら支配し、他の政府の制御をうくるを好まず、禍福共に自ら担当して独立するものをいうなり」(『文明論之概略』)といったとき、福澤は、西欧思想史における「共和主義」へときわめて接近している。
 ところが問題はそこから発生する。なぜなら、そもそも共和主義の精神が存在しない日本にあって「人民独立の気風」を作り出すにはどうすればよいか。それは、西欧の思想を学ぶところから始めるほかないのである。こうして、日本の近代化はその最初から大きなディレンマを抱えることとなった。それは、日本の独立を保つには、日本は西欧化するほかないというのであるが、それはとりもなおさず日本のアイデンティティを犠牲にするということだからである。ここに近代日本のいかんともしがたいディレンマがあり矛盾がある。
 むろん、福澤はその困難によく気づいていたのであり、だからこそ、「文明の外見」だけを受け入れて文明国となったような錯覚に陥ることを戒めたのである。西欧のまねをしているうちに、日本人の独立の気風が失われることを恐れたわけである。
 しかし、このディレンマから逃れることは容易でない。たとえば福澤より三十三歳年下の夏目漱石にとっては、このディレンマはいっそう深刻なものとなる。自身が英文学者であり、イギリスへの留学によってかの国のもつ「力」をいやというほど知らされた漱石にとっては、このディレンマから逃れる道はなかった。帰国後のいくつかの講演において、漱石は、西欧を模倣することで西欧列強の一員という文明国になろうとする「外発的開化」ではなく、日本のありように即しつつ日本独自のやり方で進歩するという「内発的開花」を説いたり、また、借り物の知識によって生きるのではなく、あくまで自分自身で自分の生き方を決める「自己本位」を説いたりするようになる。
 「開化」というものは、一直線のまっすぐ伸びた線のように進行するものではなく、いくつもの「弧線」が重なり合って波動を描くように進行する、と漱石は述べる。その波動が、ひとつがまた次のものを生み出し。それがまた次を生み出す、というように進めばよいのだが、今日の波動を生み出しているものは「西洋の潮流」であって、日本の内部からの波動ではない、という。これが「外発的な開化」なのである。「こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念をいだかなければなりません。それをあたかもこの開化が内発的であるかの顔をして得意でいる人のあるのは宜しくない」(「現代日本の開化」)というのだ。
 この「開化」、すなわち日本の近代化から降りるわけにはいかない。西欧の模倣から始まった日本の近代化を逆転させるわけにはいかない。とすればどうすればよいのか。漱石は、少なくとも、この「開化」が「外発的なもの」であることを自覚することこそが大切であり、間違ってもそれを内発的と考えて得意がってはならない、という。そして、その場合に、いわば「外発的な自己」から身を引き離して「内発的な自己」へ向かおうとする意思を「自己本位」と呼んだのであった。
 漱石の「自己本位」は基本的には福澤の「独立心」と同じことであるが、西欧の共和主義的な政治精神を学ぶことで「独立心」を比較的楽観的に唱えることのできた福沢に比較すると、漱石の「自己本位」はもっと切羽詰まったペシミスティックな調子を帯びている。「自己本位」といっても、その「自己」という観念そのものがきわめて西欧的なものなのである。自己の自立という考え方そのものが西欧思想の伝統に属するのである。日本の知識人の自己意識はどうしても西欧哲学や西欧思想の影響をくぐっている。それをいまさら取り外すことは決してできない。
 とすれば、彼らが自己を意識すればするほど、その意識は自己から離れてしまう。つまり、いわゆる近代化の中で近代的な自我意識を覚醒しようとすればするほど、自我は空虚なものとして意識されざるをえなくなる。どこか借り物で頭でっかちの「自己」でしかない。漱石がいうように「空虚の感」が広がってゆく。
 この矛盾は、西欧思想をある程度身につけた知識人であればあるほど深刻なものとなるであろう。彼らは、自己を見つめるとき、西欧哲学という「他者」の言葉で語るほかないからである。したがって、このディレンマから逃れるには、さしあたってその「自己」を無にするほかない。漱石が最終的に「則天去私」に救いを求め、禅へ逃げ込んで無視へたどりつこうとするのも当然なのである。また、多くの日本知識人が、西欧を経由したあげく、仏教や東洋的精神なるものへと回帰してくるのも、ただ西欧に対抗するために東洋を持ち出したというわけではなく、自我を極小化する作業が、「無」という観念へと行き着くからであろう。西欧と直面した近代日本の知識人が、西欧的な自我を「無化」することと、日本的精神の中にある「無私」がひとつに収斂してゆくのである。しかし、「無私」あるいは「去私」にたどりつくことで漱石が救われたかどうかはきわめて怪しい。
 しかし、ここで問題の所在はかなり明確にはなるだろう。
 日本における自我や自己意識、すなわちセルフ・アイデンティティの問題は、最初から深刻なディレンマを含んでいたといってよい。「自我」や「自己」という観念そのものが「日本」というアイデンティティを崩壊させる可能性を孕むものだったからである。福沢諭吉は、まだ、「一身独立、一国独立」といい、人が自己という確かな存在を自覚して自立できると信じることが可能であった。個人が自立すれば日本は自立できるとして、比較的簡単にこの二つはもはや容易に調整のつくものではなくなっていた。日本という一国の独立を保つには、日本は西欧化しなければならない。だが、日本が西欧化すれば、個人は「日本人」という自己意識を大きく揺り動かされ、もはや「自立した個人」ではなくなってしまうのである。西欧と互角であろうとすれば、個人主義であれ。自由主義であれ、共和主義であれ、「他者(西欧)の概念で彩られた自己」を立ち上げなければならないという矛盾に直面することになったのである。
 ではこの矛盾の克服は不可能としても、かろうじて回避するにはどうすればよいのだろうか。ひとつは、その種の「自己意識」というものから手を切ることである。「日本人」である「私」が、西欧的な意味での近代的自己意識を自覚するという矛盾のもとを断つということである。「自我」や「自己」を消滅させる、つまり今しがた述べたように、「無我」や「無私」へと向かうのである。近代日本の小説や詩や哲学において、こうした思想が生み出されてくるのは当然であった。漱石の「則天去私」についてはふれたが、鷗外の「形」や封建社会への回帰にせよ、また、後に中世の「無用者」へと視点を移動してゆく唐木順三にせよ、そこには「私」を「無化」するという観念が強く響いている。
 そして、重要なことは、この「無私」や「無我」という自己滅却、自己放棄、言い換えれば「無」への志向こそ、実は日本的な精神の核心に触れることであった。ここで、彼らは、西欧的、近代的自我から逃れる道は同時に、日本的な精神へとたどりつく遍歴にほかならないことを改めて知る。近代的な自我や自己から逃れることは、ただ「私」ひとりの社会からの逃走なのではなく、もっと積極的に日本的な精神への回帰であり、その再発見でもあるというのである。
 むろん、この再発見は、ある種の挫折を伴ったものである以上、ある種の虚しさを含みもったものであろう。実際には、「無」や「空」というほど澄み切った境位などではない。それどころか、むしろ「虚無」であり「空虚」というべきものであったろう。たとえば萩原朔太郎の次の一節はその典型である。

 かつて「西洋の図」を心に描き、海の向こうに蜃気楼のユートピアを夢見て居たとき、僕等の胸は希望に充ち、青春の熱意に溢れて居た。だがその蜃気楼が幻滅した今、僕等の住むべき真の家郷は、世界の隅々を探し廻って、結局やはり祖国の日本より他にはない。しかもその家郷には幻滅した西洋の図が、その拙劣な模写の形で、汽車を走らし、電車を走らし、至る所に俗悪なビルディングを建立して居るのである。僕等はその一切の物を喪失した。 (「日本への回帰」)

 前橋の富裕な医者の家に生まれた朔太郎にとっては、西洋的生活は幼い時からなじんだものであった。「少し以前まで、西洋は僕等にとっての故郷であった」。しかしその幻想は今ではふき飛んでしまった。「人々は長い間の西洋心酔から覚醒し、漸く自己の文化について反省して来た」。しかしすでに時は遅すぎたと彼はいう。「僕等はあまりに長い間外遊していた。そして今家郷に帰ったとき、すでに昔の面影はなく、軒は朽ち、庭は荒れ、日本的たる何物の形見さえなく、すべてが失われているのを見て驚くのである」というのだ。
 萩原は「一切を喪失した」という。「空無」であり「虚無」である。だが、中には、この「空無」の背後にあったはずの「日本的精神」をもっと積極的に表現しようとする思想家もでてくる。内村鑑三の『代表的日本人』にしても、新渡戸稲造の『武士道』にしても、西欧人向けに西欧の言葉で書かれたものであるが、そのさいに彼らが「日本人」の基調においたものは、「無私」であり、義や礼節につく態度であった。「無私」「義」「礼節」、こうした価値規範こそが、西欧の近代と対比させられ、時には類比されられ、また対峙させられるべきものとも思われたのであった。
 のちに小林秀雄は「近代的自我へ詰め腹を切らせる」という。きわめて西欧的なセンスをもった自我意識から出発した小林秀雄の自己批判は、何よりまずその自我意識に向けられ、しかもその自我意識との対決において彼がたどりついたのは、「無常」や「もののあはれ」といった観念を軸にする日本の古典であった。彼の「無常といふこと」への傾斜は、西欧的な主体の哲学とは全く対極の方向を求めたものであった。
 ところがここにもうひとつ別の道がある。
それは、西欧的な論理にのっとり、しかも「日本」独自の形で、「日本」という「主体」を立ち上げようという強固な試みであった。この「主体」となるものはいうまでもなく「天皇」であった。「天皇」はここでは、一方で日本の歴史と文化、宗教(神道)を一身に背負った祭司的存在であると同時に、西欧の君主にも模せられる。世界へ向けた天皇の表の顔は「立憲君主」であり、裏の面は日本の歴史と宗教性を背負った祭司なのである。
 ヤヌス的な相貌をもったこの独特な「主体」のもとに、西欧的なグローバル世界の中に「日本」という国家を投げ入れるというのが、明治から昭和にかけての日本の近代であった。天皇を軸とする万世一系という民族的血筋を明らかにすることで、天皇という「主体」は同時に、「日本人」という民族的主体に返還されるのである。
 こうして、「主体」を無化することによって、むしろ日本的精神を守るという道筋と、逆に「日本」という「主体」をある意味では過剰なほどに演出することで、グローバルな世界における日本を立ち上げようとする動きと、この両者がでてくる。「脱主体化」と「超主体化」という相異なった逆のベクトルが近代日本以降、ともに作用するのである。しかも、昭和にはいり戦争の足音が急接近するにつれ、このベクトルの方向は一致してくる。もともとは、「脱主体化」であるはずの「無私」「無の精神」「純粋性」「清らかさ」、こうした日本的精神と、「超主体化」である天皇国家としての「皇国」という日本的国家構造、すなわち「国体」が重ね合わせられてゆく。
 どうしてこうなったのか。そのもっとも基本的な理由は、そもそも両者がともに福沢諭吉が垣間見た「近代日本のディレンマ」の中で生み出されたからである。
 アジアの植民地化という帝国主義時代の列強支配の中で日本の独立を保つこと。そのためには、西欧近代国家を模した形で日本という「主体」を立ち上げなければならない。これはまぎれもなく近代日本という主権国家に与えられた課題であった。しかし、そのことは、下手をすれば「日本」のアイデンティティを自ら放棄し、真の意味での「主体」を放棄するという逆説的な「主体化」となりかねない。
 ここに、一方では、西欧的な意味での文明化を目指すうえで不可欠な「主体化」を放棄することこそが日本的精神であり、東洋的理想である、という志向がでてくる。しかし他方では、日本の独自性を西欧的な表現において世界に打ち出すことによって改めて日本を「主体化」すべきとするもうひとつの志向もでてくる。この矛盾する二つの方向はともに、近代日本が必然的に生み出したものであった。」佐伯啓思『日本の愛国心 序説的考察』中央公論社、2015.pp.316-325.

 西欧モデルを学びモダンな国家を追求した明治以来の日本には、脱亜入欧と日本回帰のナショナル・アイデンティティの矛盾、分裂がつきまとう。それはこれまでずっと問題化されてきたが、ここでは「主体化」という言葉で語られている。これがひとつの入口か。


B.ナショナリズムとオリンピック
 今年の夏の猛暑は、熱中症の死者が続出しているように、エアコンの中にいなければ生命の危険もともなうような異常気候である。2年後の7月に東京でオリンピックが開催される予定で、国を挙げて準備しているわけだが、なぜ1年で最も暑い時期にスポーツ大会をやらなければならないか、酷暑にあえぐ日本人の常識としても合理的理由はないだろう。アメリカなど競技を報じるメディアの都合だと説明されるが、ようするにオリンピックを金銭損得で測っているだけだろう。せめて前回のように10月に時期をずらすという声は起こらないのか?政府も東京都も国威発揚と経済効果という妄想の奴隷になっている。

 「こちら特報部:東京五輪 学生ボランティア催促通知
 文部科学省とスポーツ庁は7月26日、東京五輪・パラリンピックのボランティアへの学生の参加を促すため、全国の大学と高等専門学校に授業や試験期間について「適切に対応」するよう求める通知を出した。通知はボランティアの意義を強調する。しかし、それが学業よりも優先されるべきものなのか。さらにボランティアの自発性が「動員」される危険はないか。疑問の声が上がっている。(大村歩、中沢佳子)
 大会組織委員会が三月に発表したボランティア募集要項案は当初「十日以上、一日八時間程度」の無償の活動を求めていた。宿泊費も会場までの交通費も、自己負担という内容だった。
 これに対し「ブラックボランティアだ」といった批判が起き、六月に決定された要項では連続の活動日は五日以内としたり、交通費相当の物品を提供するなどと変更された。人数は組織委で八万人、都が別に募集する「都市ボランティア」が三万人募集される。
 狙いは国威発揚? 反対封じる同調圧力
 こうしたボランティア募集の狙いについて、人権問題に詳しい猪野亨弁護士は「無償労働力」の確保以上に「国威発揚」を挙げる。
 「国威発揚のために五輪開催に高揚感を持ち、自発的にやってもらうのが国家の狙い。1936年のベルリン五輪に国民を動員したナチスと似ている」
 ファシズムに詳しい京都大の池田浩士名誉教授の著した「ヴァイマル憲法とヒトラー」などによれば、33年に誕生したナチス政権は「自発的労働奉仕(ボランティア)」を推奨した。自国が休場から脱出するには国民の社会貢献精神の発揮が必要と説かれ、青年らは次第にそれを義務であるとともに、誇りと感じるようになったという。
 これは後に「帝国労働奉仕制度」として義務化される。この労働奉仕により、アウトバーン(高速道路)やオリンピック・スタジアムが建設された。さらに、この労働奉仕でもうけた土木建設業や重工業産業は正規労働者を多く雇うようになり、一時は四割を超えていた完全失業率は激減、政権への求心力を高めた。
 強制や抑圧ではなく、人びとの自発性や社会性に基づく奉仕を通じ、民族共同体への帰属意識を強化した点が特徴だという。
 「それゆえ、政府の観点からは有償やアメありの労働以上に、日本(祖国)のために貢献しようという無償ボランティアが求められている」(猪野氏)
そうした「精神主義」は開催時期をめぐってもちらつく。猛暑の中での開催については海外からも「選手第一」の視点から疑問の声が上がっている。七月二十四日付の英紙ガーディアン(電子版)は「今年の猛暑によって、20年東京五輪が選手や観客たちを危険な状況に招くという懸念が改めて高まっている」などと指摘した。だが、森喜朗・大会組織委会長はスポーツ紙のインタビューに「この暑さでやれるという確信を得ないといけない。五輪関係者にとってはチャンス」と発言している。
こうした状況について、22日に東京・渋谷での五輪返上を訴えるデモに参加した一人、一橋大の鵜飼哲名誉教授(フランス現代思想)は「最近は東京五輪の開催について、反対という声が言えない空気が色濃くなっている。その同調圧力が怖い」と案じる。
「全国の大学や高専に五輪ボランティアを学事歴に優先するような通知を出すのは、戦中の「学徒動員」を想起させる。五輪の経済効果を三十二兆円とはじく一方、若者を炎天下でただ働きさせることの異常さを無視している」
鵜飼氏は「労働力も資金も資材も五輪のために奪い、福島の復興を妨害しているのに、福島から聖火ランナーをスタートさせる。被災地の人びとは、そうした『支援』に『感謝させられる』。現政権は原発事故の悲惨を隠し、改憲を済ませ、天皇も代替わりした新生国家をアピールする場としての東京五輪をイメージしている」と断じた上で、こう警鐘を鳴らした。
「このまま進んでいけば、20年東京五輪は間違いなく、かつてのベルリン・オリンピックにもっとも近い五輪になるだろう」東京新聞2018年8月1日朝刊25面特報欄。

ナチスの祭典となったベルリン・オリンピックを想起するのは、見当違いだという意見もあるだろう。しかし、ナチス全盛の時代にはこれが素晴らしいドイツ民族の国威の発露、世界へのアピールと信じて疑わなかった(その記録『民族の祭典』)し、大戦争への助走だったことは後になってわかる。2020年東京オリンピックが、酷暑の中で無理矢理強行開催され、日本人がこれを耐えて頑張ったと金メダルの数を自慢するならば、21世紀の歴史の汚点にならないとはいえない。
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