A.音の記憶Ⅹ 矢野顕子3
矢野顕子さんの話は終えるつもりだったが、詩の雑誌『ユリイカ』が2月に臨時増刊で矢野顕子特集を出していて、そのなかのインタビューがやはり印象に残ったので、採録する。
「― 曲作りそのものに関しては、苦労なさることなどありますか。
矢野 詞を作ることに比べれば労力は少ないですね。詩は昔も今も大変。みんなそう言いますよ。きっと。
― やっぱり曲を先に作って、そこに詞をつけてゆくんですか。
矢野 そうでもないです。いまは、詞が先のものと曲が先のものが半々くらいでしょうね。
― 詩は具体的にどうやって書かれているんでしょう。読んだ本などからインスピレーションを得ることはありますか。
矢野 本とか映画とか、外的な刺激によってものを作るということをわたし、してこなかったんです。それから、たとえば「駅で不倫の男女がすれちがった」とか、そういうなにか特定のシーンを想定して、それに合う詞を書くということも一切していない。というよりそういう技術がないと言うほうが正しいですね。
― シチュエーションを描写するような詞に興味がないということですね。たしかに矢野さんが書かれる詞の内容って、情景描写というより、食べ物のこととか、もっと生命活動に直結したテーマであるような気がします。
矢野 恋のシチュエーションよりも食べものの歌が多いですね。
― でも愛を歌った曲はたくさんありますよね。
矢野 だって愛はすべてだけれども、恋は愛の一部でしかないですからね。恋がなくたってわたしたちは生きていけますが、愛がなかったら生きられない。そして、恋がなくても生きられるけど、食いものがなかったら死ぬのよ。
―そういうことなんですよね。矢野さんの詞に食べものが出てくるとき、そこにはもちろん美味しさとか、食べることの喜びはあるんだけど、なによりもまず生きるために食べるんだという前提がちゃんとあるわけですよね。それはすごくリアリズムだと思います。
矢野 曲に関しては、いま出したい音がそのまま出てきて当然という即興性がわたしの本来の姿だと言いましたけど、言葉の場合には責任が生じる、ということを割と早くから意識していたんです。だから自分が責任を持てない詞や、絵空事は書けない。だけど他のひとの詞、たとえばユーミンの「卒業写真」の歌詞を読むと、卒業アルバムを見ている自分というのはフィクションなんだろうけど、それでいてそこにはちゃんと彼女の気持ちが込められていると感じるわけですよね。それで、私はどうしてそういうことが書けないんだろう、どうやったらいいんだろうって、ずいぶん考えましたけど、結論としてね、そういうことに興味がないんだってことがわかったの(笑)。鑑賞する力、感じる力はあると思うんだけど、じゃあ自分で作ってみなさいと言われても興味がないからできない。そういうことに、ずいぶん大人になってから気づいたんですね。
だから推敲をする能力とかもあまりないんです。本当に最小限のエネルギーを使っていいものを作ろうという……あざといですよね(笑)。
― いやいや(笑)。でも、すごく印象的な詞が多いですよ。
矢野 そうですかねえ……まあ、たまにはいいものはできますね。
― 90年代になって矢野さんは本格的にアメリカに住みはじめます。ちょうど日本のバブルが壊れた時期で、そこから先の日本を矢野さんはある意味で外から客観的に見てこられたわけですよね。矢野さんは若いころにも、青森と東京を頻繁に往復するなかで、東京のシーンも知りつつそれを半分外から見ていた時期があったと思うんですが、アメリカに移住した90年代以降の矢野さんも、スケールはまったく違いますけど、スタンス的には同じようなポジションにあるのかな、という気がするんです。
矢野 そうかもしれない。当事者ではない感じですよね。だからあるとき、誰かに「わたしにとっては日本の政府のことよりも大統領選のほうが大切なのよ」って説明したことがあるんです。直接自分の生活に関係あるほうがどうしても重要になってしまう。
―ではアメリカに住んでいて、90年代以降の日本の状況が矢野さんの音楽に影響を及ぼすということもあまりなかったのでしょうか。
矢野 ないですね。むしろそれがなかったがために、わたし自身の作りたいものとレコード会社の望んでいたことがどんどん乖離していった時期でした。そういうことがあってはならないと思って、コンサートのために毎年日本には来ていましたし、いま大根がいくらかとか、そういう生活の細かいことも忘れないように心がけていました。だけどそう簡単にはいかないですよね。わたしはアメリカで“移民”として生活しているので、もう日本の住民ではない。だから日本の高校生の女の子がどういう音楽を聴きたいと思っているのか、私には知るよしもないんです。もちろん、そういうことをつねにチェックしてリサーチするということもできないことはないですが、元来そういうことに関心がないからどんどん離れていくのね。それである日、レコードが売れなくなったとか、コンサートの動員が減っているという現状を知らされて「へ?」と困惑する(笑)。日本の経済が下降してゆくなかで、エンターテインメントというのは真っ先にその影響を受けますから、本来であれば戦々恐々としなくちゃいけないときに、わたしは離れたところで「空が青いでーす」みたいな呑気なことを言っていた(笑)。そういうことはあるかもしれないですね。
でもね、そのときにもし危機感をもって、いまの日本の状況に合わせられる曲をなんとか作ろうとしていたら、いまの矢野顕子はいないかもしれない。移民として行った先の社会情勢のなかで暮らして、そのなかで音楽を作っているわけですから、そのうえさらに日本の状況もカバーしますよ、ということはできない。すべてを手に入れることはできないのね。だからといって、日本で矢野顕子の音楽を待っていてくださるひとたちをないがしろにする気持ちはないので、そのひとたちに報いるためにはどうしたらいいかというと、やはりそのとき自分が一番よいものを作るということでしかお返しはできないよね。
―そうですね。反対にアメリカでの生活から受けた影響ということでいうと、やっぱり9.11のインパクトは矢野さんにとっても大きなものとしてあったのでしょうか。
矢野 ものすごくありました。わたしは9.11の時に「本当に世の中ってこのまま続くわけじゃないのね」ということ、五年前に3.11の大震災が起きたときにみなさまが感じたであろうことをすこし先に経験していたんですね。
― 実はいまなんとなく感じているのは、五年前に3.11を経験してから、われわれは矢野さんを再発見しているのかもしれないということなんです。
矢野 あ、そうなのかな。」『ユリイカ』2017年2月臨時増刊号「矢野顕子」(インタビュー:矢野顕子の40年、聞き手=前田祥丈)pp.27-31.
「恋がなくたってわたしたちは生きていけますが、愛がなかったら生きられない。そして、恋がなくても生きられるけど、食いものがなかったら死ぬのよ。」これは矢野さんならではの名言!
B.ヘルムート・コール追悼
ヘルムート・コール氏がカンツラー(西独首相)だった頃に、ぼくは北ドイツのドルトムントという町に住んでいた。与党CDU(キリスト教民主同盟)を率いて保守長期政権を担っていたコール氏は、テレビの政治風刺番組ではいつも巨体をゆすって笑うコール人形で、揶揄されていた。当時EUの統合がスペインを加えて進むなかで国民の支持はCDUとSPDの二大政党の構図で安定していた。その直後、ベルリンの壁が壊れ東西ドイツ統合に向けて急速に情勢が変化するなか、コール政権は着実に体制が揺らいだ東側も欧州統合の流れにとりこむ路線を成功させた。今から見れば、やはり見識と力のある政治家だったんだなあ、と思う。
「ドイツ統一の先にコール元首相が見据えていたのは、欧州統合だった。時を経た今、その理想は揺らいでいるが、諦めてはならない。そもそも統一だって、夢物語と思われていたではないか。ヘルムート・コール氏が亡くなった。八十七歳。記者会見では身長一九三センチの肥満体、巨漢ぶりに圧倒されたことを思い出す。業績も、超ど級だった。旧西独首相時代、旧東独民主化運動の高まりでベルリンの壁が崩壊すると、米英仏、旧ソ連を説得し、第二次大戦後分断されていた東西ドイツを統一させた。統一宰相とたたえられた。
夢かなった後、コール氏への評価は一変する。「花咲く大地にする」と約束した旧東独地域の再建は遅れ、荒廃した工場や農地は残ったまま。失業者は四百万人を超え、たそがれの宰相とやゆされるようになった。一九九八年の総選挙で敗れ首相の座を明け渡した。「ドイツ統一と欧州統合はメダルの表裏」がコール氏の信念だった。第二次大戦で兄を亡くし、出身地の州はフランスと国境を接していた。独仏争いの歴史を身近で知り、平和の大切さを痛感した。
その欧州統合は今、行き詰まっている。英国が欧州連合(EU)からの離脱を決定し、相次ぐテロや難民受け入れなどで、国境の垣根を低くしたいとのEUの理念は脅かされ、コール氏の後継者メルケル氏は苦境に立つ。メダルの裏のもうひとつの夢は、ついえたのだろうか。ドイツ統一のその後を振り返ってみたい。コール氏の後に首相になったシュレーダー氏は、労組を支持基盤とするにもかかわらず、経済改革を断行。失業給付金の支給額を引き下げ支給基準を厳格化するなどして就業を促した。失業者数は現在、約二百五十万人にまで減った。
統一後四半世紀以上たった今、経済発展は全土に行き渡り、統一を後悔する声は聞かれない。過疎地もあるが、難民移住による活性化など、ピンチをチャンスに変える方策も検討されている。EUにもこの経験が生かせないか。行き詰まりは課題をあぶり出す好機でもある。官僚主義や融通のなさ、民意の反映しづらさ、加盟国拡大に伴う意思統一の難しさなどが浮かび上がっている。コール氏の交渉力と、その後の思い切った改革。ドイツ統一の知恵に学び、コール氏悲願の「欧州の家」を盤石にしたい。「東京新聞6月19日」
矢野顕子さんの話は終えるつもりだったが、詩の雑誌『ユリイカ』が2月に臨時増刊で矢野顕子特集を出していて、そのなかのインタビューがやはり印象に残ったので、採録する。
「― 曲作りそのものに関しては、苦労なさることなどありますか。
矢野 詞を作ることに比べれば労力は少ないですね。詩は昔も今も大変。みんなそう言いますよ。きっと。
― やっぱり曲を先に作って、そこに詞をつけてゆくんですか。
矢野 そうでもないです。いまは、詞が先のものと曲が先のものが半々くらいでしょうね。
― 詩は具体的にどうやって書かれているんでしょう。読んだ本などからインスピレーションを得ることはありますか。
矢野 本とか映画とか、外的な刺激によってものを作るということをわたし、してこなかったんです。それから、たとえば「駅で不倫の男女がすれちがった」とか、そういうなにか特定のシーンを想定して、それに合う詞を書くということも一切していない。というよりそういう技術がないと言うほうが正しいですね。
― シチュエーションを描写するような詞に興味がないということですね。たしかに矢野さんが書かれる詞の内容って、情景描写というより、食べ物のこととか、もっと生命活動に直結したテーマであるような気がします。
矢野 恋のシチュエーションよりも食べものの歌が多いですね。
― でも愛を歌った曲はたくさんありますよね。
矢野 だって愛はすべてだけれども、恋は愛の一部でしかないですからね。恋がなくたってわたしたちは生きていけますが、愛がなかったら生きられない。そして、恋がなくても生きられるけど、食いものがなかったら死ぬのよ。
―そういうことなんですよね。矢野さんの詞に食べものが出てくるとき、そこにはもちろん美味しさとか、食べることの喜びはあるんだけど、なによりもまず生きるために食べるんだという前提がちゃんとあるわけですよね。それはすごくリアリズムだと思います。
矢野 曲に関しては、いま出したい音がそのまま出てきて当然という即興性がわたしの本来の姿だと言いましたけど、言葉の場合には責任が生じる、ということを割と早くから意識していたんです。だから自分が責任を持てない詞や、絵空事は書けない。だけど他のひとの詞、たとえばユーミンの「卒業写真」の歌詞を読むと、卒業アルバムを見ている自分というのはフィクションなんだろうけど、それでいてそこにはちゃんと彼女の気持ちが込められていると感じるわけですよね。それで、私はどうしてそういうことが書けないんだろう、どうやったらいいんだろうって、ずいぶん考えましたけど、結論としてね、そういうことに興味がないんだってことがわかったの(笑)。鑑賞する力、感じる力はあると思うんだけど、じゃあ自分で作ってみなさいと言われても興味がないからできない。そういうことに、ずいぶん大人になってから気づいたんですね。
だから推敲をする能力とかもあまりないんです。本当に最小限のエネルギーを使っていいものを作ろうという……あざといですよね(笑)。
― いやいや(笑)。でも、すごく印象的な詞が多いですよ。
矢野 そうですかねえ……まあ、たまにはいいものはできますね。
― 90年代になって矢野さんは本格的にアメリカに住みはじめます。ちょうど日本のバブルが壊れた時期で、そこから先の日本を矢野さんはある意味で外から客観的に見てこられたわけですよね。矢野さんは若いころにも、青森と東京を頻繁に往復するなかで、東京のシーンも知りつつそれを半分外から見ていた時期があったと思うんですが、アメリカに移住した90年代以降の矢野さんも、スケールはまったく違いますけど、スタンス的には同じようなポジションにあるのかな、という気がするんです。
矢野 そうかもしれない。当事者ではない感じですよね。だからあるとき、誰かに「わたしにとっては日本の政府のことよりも大統領選のほうが大切なのよ」って説明したことがあるんです。直接自分の生活に関係あるほうがどうしても重要になってしまう。
―ではアメリカに住んでいて、90年代以降の日本の状況が矢野さんの音楽に影響を及ぼすということもあまりなかったのでしょうか。
矢野 ないですね。むしろそれがなかったがために、わたし自身の作りたいものとレコード会社の望んでいたことがどんどん乖離していった時期でした。そういうことがあってはならないと思って、コンサートのために毎年日本には来ていましたし、いま大根がいくらかとか、そういう生活の細かいことも忘れないように心がけていました。だけどそう簡単にはいかないですよね。わたしはアメリカで“移民”として生活しているので、もう日本の住民ではない。だから日本の高校生の女の子がどういう音楽を聴きたいと思っているのか、私には知るよしもないんです。もちろん、そういうことをつねにチェックしてリサーチするということもできないことはないですが、元来そういうことに関心がないからどんどん離れていくのね。それである日、レコードが売れなくなったとか、コンサートの動員が減っているという現状を知らされて「へ?」と困惑する(笑)。日本の経済が下降してゆくなかで、エンターテインメントというのは真っ先にその影響を受けますから、本来であれば戦々恐々としなくちゃいけないときに、わたしは離れたところで「空が青いでーす」みたいな呑気なことを言っていた(笑)。そういうことはあるかもしれないですね。
でもね、そのときにもし危機感をもって、いまの日本の状況に合わせられる曲をなんとか作ろうとしていたら、いまの矢野顕子はいないかもしれない。移民として行った先の社会情勢のなかで暮らして、そのなかで音楽を作っているわけですから、そのうえさらに日本の状況もカバーしますよ、ということはできない。すべてを手に入れることはできないのね。だからといって、日本で矢野顕子の音楽を待っていてくださるひとたちをないがしろにする気持ちはないので、そのひとたちに報いるためにはどうしたらいいかというと、やはりそのとき自分が一番よいものを作るということでしかお返しはできないよね。
―そうですね。反対にアメリカでの生活から受けた影響ということでいうと、やっぱり9.11のインパクトは矢野さんにとっても大きなものとしてあったのでしょうか。
矢野 ものすごくありました。わたしは9.11の時に「本当に世の中ってこのまま続くわけじゃないのね」ということ、五年前に3.11の大震災が起きたときにみなさまが感じたであろうことをすこし先に経験していたんですね。
― 実はいまなんとなく感じているのは、五年前に3.11を経験してから、われわれは矢野さんを再発見しているのかもしれないということなんです。
矢野 あ、そうなのかな。」『ユリイカ』2017年2月臨時増刊号「矢野顕子」(インタビュー:矢野顕子の40年、聞き手=前田祥丈)pp.27-31.
「恋がなくたってわたしたちは生きていけますが、愛がなかったら生きられない。そして、恋がなくても生きられるけど、食いものがなかったら死ぬのよ。」これは矢野さんならではの名言!
B.ヘルムート・コール追悼
ヘルムート・コール氏がカンツラー(西独首相)だった頃に、ぼくは北ドイツのドルトムントという町に住んでいた。与党CDU(キリスト教民主同盟)を率いて保守長期政権を担っていたコール氏は、テレビの政治風刺番組ではいつも巨体をゆすって笑うコール人形で、揶揄されていた。当時EUの統合がスペインを加えて進むなかで国民の支持はCDUとSPDの二大政党の構図で安定していた。その直後、ベルリンの壁が壊れ東西ドイツ統合に向けて急速に情勢が変化するなか、コール政権は着実に体制が揺らいだ東側も欧州統合の流れにとりこむ路線を成功させた。今から見れば、やはり見識と力のある政治家だったんだなあ、と思う。
「ドイツ統一の先にコール元首相が見据えていたのは、欧州統合だった。時を経た今、その理想は揺らいでいるが、諦めてはならない。そもそも統一だって、夢物語と思われていたではないか。ヘルムート・コール氏が亡くなった。八十七歳。記者会見では身長一九三センチの肥満体、巨漢ぶりに圧倒されたことを思い出す。業績も、超ど級だった。旧西独首相時代、旧東独民主化運動の高まりでベルリンの壁が崩壊すると、米英仏、旧ソ連を説得し、第二次大戦後分断されていた東西ドイツを統一させた。統一宰相とたたえられた。
夢かなった後、コール氏への評価は一変する。「花咲く大地にする」と約束した旧東独地域の再建は遅れ、荒廃した工場や農地は残ったまま。失業者は四百万人を超え、たそがれの宰相とやゆされるようになった。一九九八年の総選挙で敗れ首相の座を明け渡した。「ドイツ統一と欧州統合はメダルの表裏」がコール氏の信念だった。第二次大戦で兄を亡くし、出身地の州はフランスと国境を接していた。独仏争いの歴史を身近で知り、平和の大切さを痛感した。
その欧州統合は今、行き詰まっている。英国が欧州連合(EU)からの離脱を決定し、相次ぐテロや難民受け入れなどで、国境の垣根を低くしたいとのEUの理念は脅かされ、コール氏の後継者メルケル氏は苦境に立つ。メダルの裏のもうひとつの夢は、ついえたのだろうか。ドイツ統一のその後を振り返ってみたい。コール氏の後に首相になったシュレーダー氏は、労組を支持基盤とするにもかかわらず、経済改革を断行。失業給付金の支給額を引き下げ支給基準を厳格化するなどして就業を促した。失業者数は現在、約二百五十万人にまで減った。
統一後四半世紀以上たった今、経済発展は全土に行き渡り、統一を後悔する声は聞かれない。過疎地もあるが、難民移住による活性化など、ピンチをチャンスに変える方策も検討されている。EUにもこの経験が生かせないか。行き詰まりは課題をあぶり出す好機でもある。官僚主義や融通のなさ、民意の反映しづらさ、加盟国拡大に伴う意思統一の難しさなどが浮かび上がっている。コール氏の交渉力と、その後の思い切った改革。ドイツ統一の知恵に学び、コール氏悲願の「欧州の家」を盤石にしたい。「東京新聞6月19日」
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