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蕪村は俳人だが、画家でもあった、のだ 今の中国

2017-11-08 19:56:17 | 日記
A.蕪村は俳人だが、画家でもあった、のだ
 与謝蕪村〔1716(享保元)年~1784(天明3)年〕といえば、芭蕉、一茶と並ぶ江戸中期の俳人として有名な人である。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている(他に丹後の与謝という母の出身地に由来するという説もあり)。俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅(しゃいん)」など複数あるという。
 この人は絵も描く人で、自分の画に讃として句を添えた絵もある。「岩くらの狂女恋せよほととぎす」という俳画で、文字もなかなかの味わいがある。田中英道『日本美術全史』では、蕪村の絵師としての評価はかなり高い。45歳で結婚し娘を一人もうけた。

「与謝蕪村は1716年(享保元年)摂津の国、現在の大阪に生まれた。しかし二十にならぬうちに江戸に出て俳句の道を志し、夜半亭と称した俳人宋阿のもとに入門した。その頃の「梅さげた我に師走の人通り」という句には、人々が忙しい師走の時期に自分が一人鉢植えの梅を持っている姿が描かれている。そこにはすでに文人でありたい彼の感慨が織り込まれているように見える。
 俳句とともに絵も描きはじめ、『俳仙群会図』を残したが、江戸狩野風であるもののまだ稚拙な感は免れない。1742年(寛保二年)に師の死去を機に同門の画風をつくるに至らなかった。そして1751年(宝暦元年京都に移っているので、放浪の時期というべきであろう。「時鳥画に泣け東四郎次郎」という句を書いているが、この四郎次郎とは狩野派の祖、狩野元信の幼名である。彼自身狩野派を学び絵で立とうとする気概を示している。しかし狩野派では新しい自分の表現は見出せないことも知っていた。1754年丹後に旅立ったのも絵画で身を立てるためであった。そこで描いた『田楽茶屋図屏風』は茶屋の前を歩く人々の風俗画で、まだ線も弱く凡庸な出来と言わなければならない。1757年(宝暦七年)京都に戻り丹後与謝の名から与謝蕪村と名乗り、絵画に精進しようとした。『牧馬図』は四十三、四歳の作品で、そこには、「馬は南蘋に技師、人は自家を用いふ」と書かれ、清から来た「写実主義の大家」と言われる沈南蘋(1731-33年長崎滞在)に馬の描写はよったが、人物は自分流に描いたと述べている。この言葉は蕪村の自立の意気込みを伝えるものとしてよく引用されるものの、逆にまだまだ独自なものと言えない画家の苦悩を語っているともいえよう。
 1760年(宝暦十年)、四十五歳の時に描いた『(倣米南宮山水、)倣王舒明山水図』で、蕪村の山水空間が出始めているように見える。それは款記にあるように米南宮や王叔明を模した南画的なものである、と同時に薄墨による遠くの山々の姿に形式性から離脱しつつある日本的なものを感じる。すでにただ霞や雲によって作られた中国的な空間の深み、高みが、連続的で具体的な山の空間にとって代わりつつある。『山水図』(1764年〈明和元年〉を見るとすでに整序された空間よりも、自分で作った桃源郷的なデフォルメされた空間を作り上げている。また『柳塘晩霽図』でも沈南蘋の影響を顕著に受けながらその近景描写に親しみ深い日本的空間が見てとれる。
「しばらくは田舎漢の相手に致すべく候」と述べて1766年(明和三年)五十一歳のときに讃岐に渡り、そこで『蘇鉄図屏風』を描いている。これは「酔って描いた」と彼自身述べているもので、四双の屏風に大きく蘇鉄を二股に描くその大胆な構図が、宗達を思わせ、彼のあらたな展開を約束するものであった。京都でなく讃岐でそれが出来たのは田舎では自由に振る舞える、その闊達さが彼の芸術をやっと彼自身のものにした、と考えられる。五十三歳で京都に帰ると彼は俳人としてよりむしろ画家として認められ(平安人物史)、絵画に充実したものが生まれるようになる。
 1771年(明和八年)に描かれた『十便十宜帖』はすでに触れたように、大雅の十便図に対して、蕪村が十宜図を描いたものだが、ここにおいても、大雅の点描やぼかし画的傾向に対し、墨で線的に山木を描き、違いを示している。ここで図のかたわらに漢詩を書くことや、画面を斜めに横断する人物などを大雅から学んだだけでなく、さらに自由な画面の扱いを学んだに違いない。この特色は1772年から74年にかけての『四季山水図』にもよく表わされ、近景表現により一見無秩序な自然を受け入れ、デフォルメされた岩山は形式性を打破り生き生きとした風景を生む起因となっている。その線的な表現は風に揺れる柳を描いた画面(『夏』1774年)にも発揮され、その動きが空に飛ぶ二羽の鳥や地の水の流れとともに全体の活気を作り出している。『松林帰樵図』の老若の木樵りの歩く姿が、やはり歩いているような松の木々のリズムと呼応して生き生きとした画面をつくりあげている。
 蕪村の俳論を代表する『春泥句集』(1777年〈安永六年〉)の序で《俳諧は俗語を用て俗を離るる》を尚ぶ、俗を離れて俗を用ゆ、離俗の法最かたし」と述べ、さらに《画家に去俗論あり。曰く。「画の俗を去るに他の法無し。多く書を読めば則ち書巻の気上昇し市俗の気下降す。学者それこれを謹まんかな」。それ画の俗を去るだも、筆を投じて書を読ましむ。況や詩と俳諧と、何の遠しとする事あらんや》と語っている。この去俗論は『芥子園画伝』から取られたものだが、多くの書を読むことによって、俗から離れ、芸術の世界を作り上げる気構えを語っている。自由詩として名高い『春風馬堤曲』が作られたのもこの年である。そこには藪入りで母と弟の待ちわびる我が家へ帰る娘の道行きが語られており、俗につきながら、それを俗にさせぬ世界をうたっている。こうした世界を絵画で表したものと言えば例えば『山野行楽図』(東京国立博物館)であろう。六曲一双の画面の、左隻に渓流を渡り坂道を上る高士たちを描き、右隻には馬に乗って進む三人を描いている。こののどかな光景は、文人たちの集う堅苦しい場面よりも、俳句的な簡潔な道行きの場面として見ることが出来る。
 六十二歳となったこの翌年(1778年〈安永七年〉)には、謝(しゃ)寅(いん)の落款を用いはじめるが、その頃から彼の俳句の世界が絵画の世界と結合されていくといってよいであろう。1779年の『奥の細道図屏風』や『野晒紀行』のように俳句・絵を組み合わせた図のことではない。たしかにここにも文字と画の飄逸な得難い味がある。しかしやはり二つの分裂があることも認めなければならない。その意味で『竹林茅屋図屏風』と『柳蔭騎路図屏風』が、その俳句的世界を絵画化しているよい例であろう。竹林の中にいる高士に書物を届ける童子と、一方は右端の文人と童子が歩く後姿、馬で橋を越える俗人の姿が、柳の生える土手の中に描かれている。晩唐の題詩はこの絵の内容と必ずしも一致していないが、日本の俳人の理想的なイメージを表現しているといってよいであろう。当時の農村の困窮は、俳人の行脚吟詠を許さぬ世情になっており、生活の苦しさが、逆に理想の境地を絵に求めたといってよいかもしれない。
 さて、「さみだれや大河を前に家二軒」という蕪村の代表句の世界の大きさが、果たして絵画によって描かれたかという問題の答は、晩年の何作かの作品を見ればよいと思われる。例えば『夜色楼台図』や『富岳列松図』のような墨を基調にした作品である。前者は雪舟に似た屋並みに見えるが、それは中国のものではなく日本のどこにでもある冬の光景のようだ。どこの都市か特定できるよすがは何もなく、暗い空にひたすら降る雪を前に、家々のさびしい屋根だけが見える。また後者では真っ白の富士を前に松が広がっており、これもまた自然の静けさだけが描かれている。ちょうど俳句の「大河」にあたる自然の凄味がそこに描かれているようだ。
 凄味と言えば有名な『鳶・烏図』(北村美術館)」のように激しい風の中で枝にしがみつく鳶も、降りしきる雪の中で佇む二羽の烏も、動の中の静をよく見た観察眼と描写力を感じさせる。そしてその「大きさ」は『峨眉露頂図』に最も感じられるであろう。そそり立つ峨々たる山頂は、自然の恐ろしさ、大きさを示しており、李白の七言絶句『峨眉山月歌』から描いたとされるにしても、説明的な表現を一切省いて、荒っぽい筆の力により、近代的な抽象性と表現主義が示されている。細い横長の画面は山肌のリアリズムを省くことが可能となり、その単純な線と色により、山の凄まじさを見事に象徴化している。これは抽象的な山でなく実在する山を感じさせる。
 風景ではなく人物像を見ると、「戦筆」と呼ばれる筆でグロテスクな老人像を多く描いている。『武陵桃源図』や『寒山拾得図』がそれで、老人になってますますその感情を露わにして、決して枯れていない老人たちを描き、老成した蕪村の心境を表しているかのようだ。これらは五十歳以前の丹後時代に描いていた『十二神仙図』のそれぞれの人物の描き分けの延長にあり、俳句同様の鋭い観察眼が見られるようだ。「老いが恋わすれんとすれば時雨哉」と詠む感情は、1783年(天明三年)冬、京都での死まで、俳句であれ絵画であれ、その表現欲を持ち続ける原動力になったと思われる。そこには西洋の近代を先駆する自由な芸術家がいる。」田中英道『日本美術全史』講談社学術文庫、2012.pp.403-414.

 江戸中期の文人といっても、武士や豪農出身もいれば、町人もいる。いずれも和漢の教養が深く、詩も作れば絵も描く。ただ、蕪村のように詩人であり画家であり、どちらも高い水準の作品を多く残した人はそんなに多くはない。諸国を旅して土地土地で、愛好家に求められるままに書画を残せば、歓迎されて長く活動できたということでは、江戸という時代は豊かで、文化的土壌が江戸や京大阪だけでなく地方にもあったことは注目される。こういう人が育つためには、文字を読み絵を描く教育が必要だが、近代の学校教育とは違ったリテラシーは、どうやって身に付いたのだろう?蕪村と若冲は同年生まれで、どちらも長く生きて活躍したのだが、蕪村は結構あちこちに居住地を変え(最後は京都で亡くなる)たが、若冲は生涯京を離れることはなかったらしい。



B.21世紀は中国の時代になるのだろうか?
 20世紀のうちは、日本人は大陸中国は発展の遅れた社会主義国だったから、中国人の生活水準は日本よりかなり低く、政治体制も硬直していて、日本から技術や資本を援助してあげないと発展は望めないように思っていた。1990年代、日本の産業が衰弱していくなかで、人件費とコストの安い中国に製造業が出て行って、中国が経済発展するのを日本人は「まあ頑張ってね」と余裕をもって見ていた人も多かっただろう。しかし、いまや経済力も政治力も軍事的にも日本は中国に水をあけられ、隣国の国力に脅威や嫉妬を感じる人が増えた。このことが、かつて国交回復直後のパンダに拍手した「中国ブーム」の雰囲気を思い出せば、日本人の中国観は大きく転換したとはいえるだろう。

「中国の夢と足元:企業続々 今やIT先進国 東大社会科学研究所准教授 伊藤亜聖さん 
 今年4月から中国・深圳の深圳大学でベンチャー企業の研究をしています。
 中国はベンチャー企業の企業価値や投資額で米国に次ぐ、世界第2位です。特に住民の平均年齢が30代前半という深圳では、若者が次々に起業しています。私が訪問した企業もスマートフォン、ドローン、仮想現実(VR)、ゲノム解析、ITセキュリティ―技術、人工知能(AI)など分野は様々です。
 経営者は1980年代、90年代生まれも多く、世界市場を目指しています。技術の発展や変化のスピードはものすごく早く、常に情報を更新しないと置いていかれます。
 日本人の中には、中国に対して「貧しい」「パクり」といった印象が根強くあるかもしれません。しかし、安い人件費を売りに2ケタ成長したのは今や昔の話です。深圳発の企業、DJIはドローンで世界一となり、スマホの華(ファー)為(ウェイ)技術は根幹の半導体部品を自社で開発できる高い技術力があります。国際特許申請の数も、今年中国が日本を抜くとみられています。
 こうした現状は突然起こったことではありません。「世界の工場」と言われてきた中国は2000年代に、世界大手の自動車や複写機、スマホなどあらゆる分野の製品の生産を担ってきました。そこでノウハウを蓄積した人々が、創業していきました。米大学が各国の起業意識を調べたところ、中国は上位、日本は下位。若者だけでなく、技術者も会社を辞めて起業します。
 実際に起業しやすい環境も大きい。売れるかどうかわからない製品でも、爆発的にヒットを期待してファンドや投資家が積極的に投資します。
 政策の後押しもあるでしょう。元々は深刻化した若者の就職難を解決する側面がありましたが、税制優遇や財政支援などで起業を支援しています。習近平指導部が掲げた発展戦略「大衆創業、万衆創新(大衆による起業、万人によるイノベーション)」は、先月の党大会の政治報告では直接の言及がなかったものの、今後も続けていくでしょう。
 世界の潮流はデジタル化です。「GAFA(米グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)」と呼ばれるIT企業の巨人に対抗できるのは、数億人単位のユーザーを抱える騰訊(テンセント)や阿(ア)里(リ)巴(バ)巴(バ)といった中国企業です。ある領域では中国企業が世界でも先駆的な取り組みをする時代になったと言えるでしょう。
 日本と中国は経済発展の段階も人口構造も違い、直接比較することはフェアではないと思います。しかし日本と同じく少子高齢化に悩むフランスでも、若者の起業は盛んです。中国を含む海外の変化を虚心に学ぶことは、日本にとって有意義だと思います。 (聞き手・西山明宏)」朝日新聞2017年11月8日朝刊、15面オピニオン欄。

 「大衆創業、万衆創新」つまり起業とイノベーションは、中国の国家目標になっている。日本で反中・嫌韓キャンペーンを叫んでいる人たちは、きわめて感情的に、中国人や韓国人というだけで憎悪や敵意をむき出しにしているが、こういう排外主義は、どちらにとっても良い結果は生まないことは確かだと思う。別にいまの中国を褒める必要はないが、長い歴史の中で深い関りを持ってきた両国は、とくに戦争という過去とグローバリゼーションという未来を見据えて、冷静につきあっていくことが大事だと思う。
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