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「完本 美空ひばり」から 6 災難と苦難  能登の不幸

2024-02-07 13:02:37 | 日記
A.ひばり御殿のこと
 横浜市の南部、海沿いに鉄道が走る磯子区の西側は高い台地が崖になって連なる住宅地である。今は丘の上にマンションが建っている。この海を眺める見晴らしの良い場所に、戦後のある時期「ひばり御殿」が建っていた。芝生の庭にプールのある二階建ての豪邸。天才少女歌手として一躍スターになった美空ひばりは、少し前までこの下の川沿いの小さな商店街で魚屋を営む両親のもとで、小学校に通っていた。ごくふつうの庶民の娘が、歌を唄い映画に出て注目を浴び莫大なお金を稼ぐ金の卵になった。思いもかけず大金が入った父親は、この高台の住宅地を買い、分不相応とも思える豪邸を建てて移り住んだ。すぐそばは、戦時に疎開する皇族や貴族の邸宅を買いまくって戦後に巨万の富を築く西武コンツェルンの堤家が手に入れた土地もあった。
 今はただのマンション地帯になっているが、戦後の貧困と飢餓の時代、生活に必死だった人々は、この丘の上の夢のような少女スターの家を見上げて「ひばり御殿」と呼んだ。それは後年、黒澤明が映画「天国と地獄」でやはり横浜を舞台に描いた誘拐犯罪サスペンス・ドラマが、貧しい川沿いのアパートに暮らす犯人が、高台に建つ裕福な会社役員の豪邸を見上げて憎悪を抱く構図に似ている。歌を唄うだけでみるみる大スターになった「魚屋の娘」への人々の羨望と嫉視は、凶暴な暴力を誘発してしまう。

「何とはなしに、ひばりが歌舞伎座を制し、その舞台で『リンゴ追分』を歌った日が、GHQの支配が終わりを告げた歴史的な日だと私が繰り返し書いたのは、むろん意図的にであった。昭和史のなかに、ひばりを透視すれば、まさに劇的だが、そういうことになる。
  つがる娘は ないたとさ
  つらい別れを ないたとさ 
 「敗戦ニッポンに、日本人大衆の古くてなつかしい、揺るぎない民族情念の在り処をさし示して歌い続けた少女の役割が、ここに終わったのである」と、さりげなく記す吉田司の一行が、私には戦慄的である。この年に昭和天皇が戦後初めて靖国神社を公式参拝したという指摘や、〈もう一つの日本伝統〉である「忠臣蔵」(=義士伝)が、GHQからチャンバラ映画ともども解禁になったという指摘よりも、重く心に残ったのであった(注・時代劇は封建道徳、仇討ちと切腹シーンがあるとして禁止されていた)。これは誰よりも誰よりも早い時期になされた、ひばりへの“鎮魂(レクイエム)”と解釈すべきだろう。
『ひばり自伝―わたしと影』の第十三章「おそろしかった二つの事件」の記述を引く。

 昭和三十一年(1956)から三十二年にかけ、わたしには忘れることのできない事件が二つ起こりました。ひとつは、私の公演を見に来て下さったファンの方の一人が、事故で亡くなられた事件です。もう一つは、ファンの方の一人が私を傷つけた事件でした。
 第一の事件が起こったのは昭和三十一年一月十五日のことです。わたしは大劇のお正月公演に出演していました。折も折、ちょうど『成人の日』で、会場では若いお客様が長い列を作っていました。その時だれかが「蛇だ!蛇が出た!」と叫んだのです。それを聞いた数千人のお客さまが、わっと逃げだしました。ものすごい人の波が起きてしまいました。その下敷きになったらたまりません。亡くなられたのは宇井敏子さまで、十五歳でした。ほかにもけが人が出ました。もし私の歌やお芝居を、宇井さんが好きでなかったら、いらっしゃっていなかったでしょうに…。(略)
 もう一つの事件は、昭和三十二年一月十三日―ほぼ前の事件から一年後、浅草国際劇場で起こりました。これは正月公演で大川橋蔵さんと共演した『花吹雪おしどり絵巻』でのことです。(略)最後のリクエストの演奏をしているときでした。私がふと耳にしたのは、「ええい」という女の子の声です。そのとき冷たいものが顔にかかりました。見ると花道に腰かけていた女の子の一人がわたしにむかって何かしたのがわかりました。

 後者のふたつ目の事件は、いわゆる「塩酸事件」である。ひばりはひばりと同じ十九歳のファンの少女から、花道で出番を待っていて、塩酸をかけられたのだった。すぐ舞台の袖へとって返し、化粧鏡をのぞこうとした。顔の左半分が焼けつくように熱く、口中からは煙が立ちのぼるのが鏡の中に見えた。付添いの人(克子)に頼んで、消火用の用水桶の水をかけてもらった。結果としてはこれがよかったことになる。塩酸を水で流した処置が適切で、もしこれが硫酸だったら、水を加えることで、顔の火傷は無残なものになっただろう。
 ひばりの顔と胸の火傷は全治三週間で、幸い顔に傷は残らなかったが、じけんでうけたこころの後遺症は後々まで残った。「芸の道に生きる人間として、いっそう自分を深めねばならなかった事件でした」と、『ひばり自伝』では冷静だが、もう少し後を読むと、「その時、その娘さんが手袋をしていた、ということを後から聞いて、正直いってわたしはショックを受けました。それは、自分がやけどをしないためだったからそうです」とか「わたしはこの方に、何一つ悪いことをした覚えはないし、その方のことをなんにも知らなかったのに、どうしてこんな目に会わなければならないのでしょう」と本音に近い心情を吐露している。この方が読んでいて納得する。
 竹中労の『美空ひばり』の第三章「わかれ道―ひばり自身の追憶から(1952~65)」は、ひばりのいま一つの“自伝”というべきものだろう。ひばりが執筆した形になっているが、竹中労本人が書いたことは間違いない。ひばりが最初の一、二行のようなことを考え、綴ると思いますか?
 「私は、こう思います。あの塩酸は私にではなく、ゆがんだマスコミの鏡の中の、“人気”という怪物に浴びせかけられたのにちがいないと(略)おなじ十九歳の、その人と私との間に、暗く大きくひらいた距離に、私は慄然としました。そこに何とかして橋をかけなければ、と思い悩みはじめました(略)その日、スター美空ひばりは、生涯の、もっとも大きな試練を受けました。それまで、いわば十代の感傷でしかとらえられなかった、人気というものの正体を、私は文字どおり肌に刻みました(略)私に塩酸をかけたあの娘さんは、いま、どこでどうしていらっしゃるのかしら?幸福な奥さんになって、かわいい赤ちゃんを生んでいるかもしれません。あの当時は、『ひどい人』としんから憎く思ったけど、いまとなってみればなつかしい人。どうぞしあわせでいてくださいね」(『美空ひばり』)
 浅草署に連れていかれた少女は、半狂乱の状態で、「死にたい」と繰り返し、泣きじゃくったという。少女は昭和十二年(1937)二月、山形県米沢市の農家に生まれた。事件当時はひばりと同じ歳だ。十一人きょうだい(四男七女)の末っ子で、市内の高校(定時制)を二年で中退、一時、地元の紡績工場に勤めたが、昭和三十一年(1956)三月、上京。板橋区の会社役員宅にお手伝いとして住み込んでいる。自分の部屋に、美空ひばりのブロマイドを二枚貼っていた。熱烈なファンだったのだ。
 少女は住み込み先からひばり御殿へ十回ほど電話をかける。しかし電話はひばりには取りつがれない。ひばりは昭和二十八年(1953)、磯子の高台にあたる高級住宅地間坂に敷地八百坪、プールつきの豪邸を建てている。「ひばり御殿」として話題になり、雑誌のグラビアでも頻繁に取り上げられた。この年の二月、NHKテレビ局が本放送を開始、八月には日本テレビが初の民間放送テレビ局として開局した。喫茶店やレストランが客寄せに受像機を置きはじめた。駅の構内やデパートの前にも設置された。昭和三十二年(1957)、受信契約数は五十万を突破する。「塩酸事件」が起きた年である。きらびやかな衣装をまとってブラウン管に登場するひばりは、人々の羨望の的となっていた。
 少女は一月十二日、夕方になって、町の薬局で三百ccの工業用塩酸を一壜買っている。その余波上野の旅館に泊り、メモ帖にマジックペンで書きつけた。
〈あの美しい顔にくらしいほど。塩酸をかけて、みにくい顔にしてやり度い〉
 新聞記者出身らしく、本田靖春が『「戦後」美空ひばりとその時代』で一つの視点を提示している。ひばりの火傷は跡形も残らずに治癒したが、心に生涯の傷を負ったのは、少女の方だったとし、「山形新聞は事件を社会面のトップで報道した。記事の中には少女の本名、年齢、職業のほかに、住み込み先の住所、本籍地が番地にいたるまで記されており、そのうえ彼女の顔写真がつけられていた。少年法第六十一条は次のように規定している。『家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない』。山形新聞はこの規定を完全に無視したのである。少女の名は塩酸少女として全県下に広がった。郷里の母や兄、姉たちは、さぞかし辛い思いを味わったことだろう」
 さらに後日談がある。本田靖春は少女に関する取材を進め、紆余曲折の末、本人の現住所に行きつき、企画の主旨を説明した手紙を出したうえで、電話で協力を求めている。
 「困るんです…本当に困るんです…どうか勘弁して下さい…静かにしておいて下さい…お願いします…私…いまは反省して…本当に申し訳ありません」
 少女の声は、ひと区切りごとに跡絶えがちであったという。「私たちは、彼女に迫る権利はまったくない。その考えに基づいて取材を打ち切った」(本田靖春)
 少女の母親は昭和四十一年(1966)に死亡した。そのとき近辺で自殺の噂が流れた。「噂は、村人たちが長年抱き続けてきた冷たい願望の表れだった」(本田)。母親が逝ったあと、そこには、少女の後継者は一人もいない。すべてが行方を知らさず四散した。少女は昭和三十五年(1960)、過去を打ち明けた相手と結婚し、二年後に長男を、さらに七年後に次男を生んだ。一家は住居を転々としている……。
 この少女は特異なのだろうか。自分はそういうファンではないと断言できる人は何人いるだろうか。寺山修司は、「英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ」というようなことを、どこかで発言していた。しかしいつの時代でも人々は英雄、ヒーローに憧れ、熱狂する。ファンにはスター、有名人、権威ある存在、天才、独裁者[?]との一体感、共生願望を持つことで、平凡な自分の卑小さ、無力感の補償をするという潜在意識がある。
「自分に誇れるものを持たず、独自の才能を有しない人間ほど名高い人間に憧れ、崇拝の念を厚くするばかりか彼(彼女)とどこかでかかわりを持つことを強調します。誰々先生に師事したとか、何々博士の弟子であったとか、某大臣の遠縁に当るとかいった類がそれです。個人的なつながりがなければ郷土、母校さえ引きずり出す始末です。いずれもそのことで自分の存在を実物以上に見せようとする心理です」(『美空ひばりと日本人』新藤謙)を写しながら、私はいま赤面している。まるで自分のことをいわれているような気がするのだ。「俳句の世界で秋元不死男に師事し、同門に寺山修司、松村貞三、堀井春一郎らがいた」と吹聴する。「出身地?齋藤茂吉や土門拳、藤沢周平の山形だよ」「芭蕉が名作を生んだ最上川や立石寺がある」「酒田東高校の校歌は大木敦夫なんだ」と師匠、郷土、母校を総動員して、その威光をかさに自分の存在を実物以上にみせようとしてきた(申し訳ない。どうかみんな忘れてくれ。遠縁にあたる大臣はいない)。
 美空ひばりに塩酸を投げた山形県米沢市の少女には無関心ではいられない。彼女の感情は決して特異なものではなく、殆どのファンのなかに潜んでいる感情が、なにかのきっかけで噴出したにすぎない。ファンはスターに憧れ、一途になればなるほど自己中心的になりがちになる。自分にだけ熱い眼差しを寄せてくれることを望む。無視されると、ひがみ、それが昂じると憎しみの感情に屈折する。
 新藤謙はファン心理の恐さを、「ファンほど移り気で冷酷非情なものはないのです。またたく間に素人を人気者に祭り上げるのもファンであり、一夜にしてスターを奈落の底に突き落とすのもファンです(略)1953年(昭和二十八年)十一月に、ひばりが横浜にプール付きの、当時としては豪邸といえる家を新築したとき、あの成り上がりものめが、成金の思い上がり、と非難を浴びせたのは反ひばり層より、ファンの方に多かったはずです」(「同前」)
 戦後社会は大衆民主主義と呼ばれ、均質と平等を建前とする。かつての〈銀幕のスタア〉の超越性、「高嶺の花」性はゆらぎ、芸人にも普通の市民であること、市民社会の規範を求めるようになる。ひばりの弟たち(芸人)が賭博、拳銃不法所持、軽雑沙汰をおこせば、「そんな芸人をなぜ使う」と非難ごうごう、テレビ、ラジオ、舞台から締め出し、興行を行う会場の借用すら許さない。なまじひばりが庶民出身であったがゆえに、ファンも「あの人とは住む世界が別」と割り切ることが出来ない。スターの超越性はゆらぎ、一介のタレント、「魚屋の小娘」として同じ次元の身近にいる人間のごとく錯覚する。」齋藤愼爾『ひばり伝 蒼穹流謫』講談社、2009年。pp.328-335.

 こうした事件はその後も、ときどき起こる。名もなき圧倒的大衆の前に出て、自分を見られることでシンデレラになり大金を稼ぎスターでありうる存在は、こうした屈折した暴力から逃れることは難しい。美空ひばりとその母親は、これを防御するために闇の権力に頼ることになる。それはある意味、表の権力に頼ることのできない庶民の最後の砦かもしれないが、それがこの一家を反社会的勢力の影につきまとわれる仇花のように語らせることにもなった。


B.愚劣なる政治
 正月元旦の寿ぐべき始まりに、能登地方を大地震が襲い、多くの人々が悲しい不幸な事態に見舞われた。政府はこれに対処すべきなのは当然だが、どうも被害を軽く見たふしがある。能登ではこれまでもしばしば地震に見舞われ、そのつど被害は出たが、壊滅的な事態にはならなかった。だから、というわけでもないだろうが、政府も石川県もそのトップがとった対処はあまり真剣であったとは言えない。その結果は、突発的災害でやむをえない点もあるけれども、一カ月たってみるとかなりひどいものだった。原発が大事故にならなかったことだけでも奇跡的だった。でもその反省はみられない。

「時代を読む:「弱さ」と生きる  法政大学名誉教授・前総長 田中 優子 
 大みそかに「『酷』の一年」を書いて、明けたらまたもや酷がやってきた。これは日本列島に特徴的な「酷」であった。
 地震のもたらす日本列島の脆弱さと海に囲まれている列島という性質は、まさに日本の個性である。個性をどう生かしてその美質を受け取り、また与えるかは、個々の人間が求められていることと同じだ。
 しかし近代以降の日本は、その個性を生かしてきたとは言い難い。むしろこんな列島にいたくないとばかりに、朝鮮半島や旧満州(中国東北部)や東南アジアに出て行って戦争を仕掛け、おのれのものにしようとしては、失敗を重ねた。戦後になると被害をもたらした原子力を「平和利用するのだ」と言いくるめれられて購入し、この豆腐のような列島の、それもどう形が変わるかわからない海沿いに次々に発電所を設置した。実際、この正月の能登半島地震では、原発設置計画のあった石川県珠洲市をはじめ、広い範囲にわたって海岸が隆起した。原発をつくらなくて良かった、と多くの人が思った。一地域の原発事故は日本全国に深刻な影響を与える。数々の困難と地域の対立に耐えて反対運動を展開した方々に、心より感謝したい。
 ◇◆◇ 
 しかし日本海沿いには、いや列島のあちこちに実際に作られた原発が何基もあり、暗雲は立ち込めている。そこにまた原発を増設すると言っている政治家たちは、その手で裏金を集めている。原発関連業者が自民党に多額の献金をしていることが、原発をやめられない理由だともささやかれている。とうとう上場廃止となった東芝は、その原因のひとつが原発による莫大な損失に向き合わず、それを隠し続けたことだった。日本列島をとるか原発をとるか、もはや二者択一の時期に来ている。
 もうひとつ向き合う必要があるのは漁業だ。海に囲まれているこの列島では昔から海の恵みは米とともに、ほとんどの日本人の栄養源となり、牧畜をせずとも人は生きてこられた。大企業による不知火海への水銀の垂れ流しで水俣の漁師が漁業をできなくなっただけでなく、多くの方々が亡くなり、障害を負った。福島の原発事故も、先日の海洋放出も、漁業に影響を与えた。本来は漁業こそ日本列島に住む人々が守らねばならない基盤的職能だが、サラリーマンがエリートとして尊重され、漁師たちは幾度も苦境に立たされてきた。今回も同じだ。そのような職業格差は、依然として存在する。
 ◇◆◇ 
 日本列島の個性と美質は顧みられることなく、無理やり「別のありよう」を求められ、別の国土になることを要求されているようだ。この国の個性を、無視して「生産性」と「金もうけ」を目標にするのは、愛国心から程遠い。
 国土の弱さをしっかり見据え、弱さと共に生きるには何が必要かを考え抜き、政策に反映するのが日本の政治なのではないか? 新自由主義は、日本列島に最もそぐわない。「国土強靭化」が計画されていて、それは必要なことだが、完全な強靭化は不可能かもしれない。強くなることより、耐震構造のごとく柔軟になること、弱さの上に他の国にはない独自の文化をつくることこそ、必要なのではないだろうか。2月10日は石牟礼道子さんの命日である。この人ほど日本の弱さと美質を見つめ続けた人はいなかった。」東京新聞2024年2月4日朝刊、5面社説・意見欄。
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