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円地文子「二世の縁 拾遺」を読む アンパンマンと戦争

2019-03-09 03:28:44 | 日記
A.批評する小説
 評論と小説と詩の違いは、読む者にどういう態度を求めているか、という点で大きな差があると思う。評論は、あるテーマや論じている対象について筆者の視点を含めて一貫したひとつの主張を、誤解やズレを招かぬように注意して書かれた「一義性」が重視される。読んで批判されるのは構わないが、誤解され誤読されるような評論は筆者にも責任があり、できがわるい文章といわれる。これにたいして小説は、評論と違って読者にこう読むのが正解だという「一義性」は求めない。作家はさまざま文章を工夫するが、それは筆者の意図をそのまま伝えるのではなく、構築されたフィクションを前提に、さまざまな読み方、感じ方をむしろ波紋が広がるように読者に与えようとする。作品が読者に与えるものは多様であり、それは書いた作家の意図も超える。そして、詩は散文である小説以上に、言葉から余計なものをそぎ落とし、韻律でかもし出される感覚を追求する。それは見ようによっては、評論とは別の「一義性」、論理や現象の記述ではなく、その詩の全体を読むことで読者がある感覚を一義的に感じとるように書くとも言えそうだ。
 円地文子の「二世の縁 拾遺」は短編小説だが、江戸時代に書かれたある短編小説を読んでいく主人公を設定し、この奇妙な説話的挿話の構造を戦後日本で生きる女性に解釈させるという、なかなか凝った造りになっている。

 「私が女子大学を出たての頃、母校の教授だった布川先生は、書物を貸してくれたり、研究の手伝いをさせたりしてかなり眼をかけてくれたが、その合間には呆れるほどの大胆さで身体を擦りよせて来たり手を握ったりしてそれ以上の接触を無遠慮に私にいどんだものだ。私はその頃、戦争中に死んだ夫と婚約の仲で結婚も眼の前に迫っていたから、先生のそういう求愛を中年男の厚かましさとして、一途にいやらしく軽蔑し通してしまったが、今にして思えばあの頃の先生は教育者にあるまじき好色漢などとスキャンダルを飛ばされただけ、男盛りのエネルギーをたっぷり心身に湛えていた。その頃、玉(たま)鬘(かずら)の尚(ないしの)侍(かみ)と先生に愛称された私自身も、結婚後わずか一年余りで海軍の技術将校だった夫を内地の軍港の空襲で失い、戦後の十年を幼い男の子一人を抱えてかつかつ生きているわびしい未亡人である。女一人、戦後の荒くれた職場に働いている生活では色々な男から布川先生どころではない露骨な求愛にも幾度となく出逢ったが、二十後家は立て通せるという言葉の通り、一年数ヵ月しか結ばれることのなかった夫との接触が自然に自分を湿おし花咲かせているようで、私は幸か不幸か第二の男と結ばれる機会なしにこの年月を経て来た。三十を過ぎて職場での毎日を送る私は、他目には身体も心も湿おいの失せた、それこそこの物語の中の乾鮭のような女になりかかっているかも知れないが、私の中には死んだ夫と夢に抱きあったり、小さい息子の顔に父の顔をまざまざ見出す奇蹟は始終おとずれている。それだけに世の中の男というものの持つ是非ない性の攻勢をも私はこのごろでは憂いをわかつような眼で眺めているので、昔、私に頻りに言いよったあくの強い布川先生が今隣の病室で、生きていることが精一ぱいの弱々しい排泄の努力を懸命につづけているのを見ると、危うく涙ぐむほど心を揺さぶられるのであった。

 再びよび入れられて私が部屋へ入った時、便器をもったみね子の姿は障子の外に隠れていた。思いなしか先生は気力の増した顔色で肩肘を枕の上についていた。
「この物語はどうだね。面白いだろう」
 先生は調子づいて言った。
「本当に‥‥‥私、こんな話が『春雨』にあるのを知りませんでした。何かもとのある話なのでしょうか」
「左様(そう)さ」
と言って、博学の先生は秋成のこの物語の原話らしい、「老媼茶話」の中の「入定の執念」という話をしてくれた。それは承応元年に大和郡山妙通山清閑寺の恵達という僧が入定の際、参詣の美女にふと執心して成仏しかね、五十五年の後の宝永三年になっても未だ魂魄散ぜず鉦鼓を叩いていたという話である。
「「老媼茶話」という本は寛保のはじめの序がついているから秋成の子供の頃に書かれたものだろう。しかし何ぶんあの時分のことだから秋成のよんだのは何十年も経ったあとのことかも知れない。「雨月」を書いたころの秋成なら、この物語の美女に執心の残る件をもっと丁寧に描いたろうと思う‥‥‥」
 これも先生の実感かもしれないと私は目を伏せてきいていた。
「いやもう一つ別の話も伝わっているのだ。明治になってから坪内逍遥と水谷不倒の共著で「列伝体小説史」というのがある。その中に饗庭篁村の談として秋成の「雨夜物語」という写本を見たという人の話が載っているのだ。つまり、土の下に鉦のなっているまでは同じなのだが、その音をきいた男が自分で穴を掘って見ると、いつ入定したのか一人の老法師が一心不乱に仏を念じていたので、救い出して月の照る下で、心の隈もなく互いに物語ったというのだがね。そういう宗教問答みたいな形も秋成なら生み出せないことはないな」
 「でも、それよりこの話の方がずっと秋成らしくありません? 先生」
 と私は抗議するように言った。入定して一心不乱に仏を念じつづけながら、何十年も形骸をとどめているのもファナチックな信仰の一形式として議論好きな秋成の反噬の対象になりうるかもしれないが、私にはやっぱり今先生の口訳している物語の後段の方が遥かに身に沁みる鬼気もあわれも深いのである。
 「はははは」と先生は何を感じたのか、飛び出たのど仏をふるわせて力のない声で笑った。
 「いや、あんたはそうだろう…そりゃもっともだ、あんたも、二世の縁を結びたい方だものなあ」
 少し元気になるとあまり上品でない冗談を言い出すのが先生の癖である。」円地文子「二世の縁 拾遺」(紅野敏郎・紅野謙介・千葉俊二・宗像和重・山田俊治編『日本近代短編小節選』昭和篇3)岩波文庫、2012.pp.155-158.

 この小説の主題はなにか?あるいはどこに注目して読めばいいか?そんなことは考えなくてよい。とりあえず上田秋成が創作した虚構のインパクトに驚くこと、そしてそれを読みこむ主人公と老残の国語学者を、重ねながら冷酷に分析していく円地文子という作家の、古典文学の理解と想像力の自在さに驚けば、あとはAS YOU LIKEなのだ。
 しかし、小説というものはちゃんと落ちをつけて終わらないと読者は不満を抱くので、この小説も落ちはつけてある。それは性的な想念を回転させる。
 
 「「私がさっき滑った時何を考えていたか御存じ?」
と私は酒にでも酔ったように媚めいた声でいった。男は首をふり、私をいよいよ歩きにくく抱きしめた。
「私はね、死んだ夫のことを考えていましたの‥‥‥私の夫は呉で軍隊の防空壕にいて爆死しましたの、私はほんの四、五丁離れた官舎に子供といて助かりましたの、でもね、夫は死ぬ前に私のことを考えていたかしら、私、いまなぜだかあの人の死ぬ前の気持ちが知りたくてたまりませんの。夫は私を愛していましたけれど、軍人でしたから愛すことと自分が一人で死ぬこととは別のことに考えていました。私も夫のそういう生き方を美しいと思ってほれぼれ眺めていたのですけれども、ほんとうにあの人は死ぬ瞬間まで女を愛すことと死ぬことを矛盾なしに感じていたのかしら…」
男は私の問いに答えないで、私の話している言葉をふさぐように冷たい唇を私の口におしつけて来た。そうして、悲しそうに私の腕を、揉みゆすりながら、長い接吻をした。
冷たい舌がぬめぬめと口の中でからみ合う中にふと尖った犬歯が私の舌に触れた。それは、まぎれもない夫の歯であった。
「あ、あなたね、あなただったのね‥‥‥」
と叫んだ時、彼はゆるしを求めるように、私を竹の根の硬くふくれる藪の中におし倒して、自分も私の上に重なって倒れた。でも彼の手はやっぱり柔らかく冷たくて、夫の手とは違っていた。その手が、倒れた私の上にのしかかって、オーバーのボタンをはずそうとするのを私は拒みながら、力弱く叫んだ。
「違う、あなたじゃないわ…‥あなたは私のあの人ではありません」
 相手は相変わらず何も言わず、もがく私の手を捕えて、指を自分の口の中に入れた。冷たい唇の裏にさっきの犬歯が昔私の舌にいく度も痛く触れた通りに鋭く錐のように尖っていた。でも手は違う、夫の手はこんなにぶよぶよ女のように軟かくはなかった‥‥‥それに身体つきも……そう思った時私は、ふと、さっき、布川先生の部屋へ入った時の蒸した黴のような病人の臭いを思い出した。
 布川先生がこの人?と思った瞬間私の声はまるで違った言葉を、叫んで、身体は野犬のように猛烈にはね上っていた。「定介!定介だ!これは‥‥‥」そうつぶやきながら私は一目散にくらい中を走っていた。

 駅前の通りの灯の多い中に歩み出た時、私はくらい道の中で自分を捕えた幻覚のなまなましさにまだ胸がどきどき鳴っていた。駅はちょうど電車がついたところだった。狭い改札口を勤め帰りらしい黒い外套の男の群れが一人一人鋳型でうち出されているように押し出されてきた。
 その一群れの出終わるのを改札口の横に立ってみていると、どの男もが私にはいかにも間違いのない男に見えた。それは女である私には、羨ましいと同時に胸を締めつけられるような切なさでもあった。
 入定の定介がこの男たちの中に生きているのを私はたしかめた。それはさっきのくらい道での恥かしい幻覚以上に、私の血を湧き立たせ、心を暖ためる不安なざわめきであった。」円地文子「二世の縁 拾遺」(紅野敏郎・紅野謙介・千葉俊二・宗像和重・山田俊治編『日本近代短編小節選』昭和篇3)岩波文庫、2012.pp.170-172.

 この結末をどう読むか?「春雨物語」に触発されて性愛の記憶が蘇り、死んだ夫があの世から自分への愛を求めて来たと妄想してみたが、それは性欲への執着だけでゾンビになったあの定介であり、棺桶に片足を突っ込んだような老いた布川だった。改めて明るいところで帰宅する男たちを眺めて、地底に埋められてもなお女を求める執念を男たちは秘めていることを確認し、同時にそれがなんとも常軌を逸したおぞましい妄執であることも彼女は噛みしめる、という解釈も可能だろう。でも、それは一つの解釈に過ぎない。



B.「普通の人」を「人殺し」にする戦争  やなせたかし
 国民的キャラクター「アンパンマン」の生みの親であるやなせたかしさんがよく語る言葉に「絶対の正義というものはありません」というものがある。この言葉はやなせさんの強烈な戦争体験からきている。1941(昭和16)年に召集され、入隊した九州の小倉で厳しい教練に耐え、出征先の中国では大隊本部所属の暗号兵として暗号解読と宣撫活動を行い、上海決戦のために1000キロもの行軍を経験したやなせさんに当時の話を伺った。

「荒くれ部隊での新兵生活
――招集当時はどのような状況でしたか。
 俺はもともと相手を倒すなんてことはあんまり好まないし、闘争心もないから引き分けがいいっていう考えなんです。だから、兵隊に行くのが嫌でね。それと、俺の出た東京高等工芸学校は自由主義を掲げていて、その校風の影響もあってか、人に管理されるというのもダメだった。それで、召集が来たときは東京田辺製薬という会社で宣伝の仕事をしていたんだけど、東京の人に比べて田舎の人はみんな体格がいいだろうから、自分の体格なら見劣りして落ちるだろうと考えて、東京ではなく、高知での検査を選んだんです。結果は、俺は目があんまりよくないんだけど、体格は申し分なしとということで第一乙種で合格。九州の部隊に行くことになった。
 俺は高知の人間ですから、本来なら高知の連隊に入るわけですよ。ところが父親がいない、母親も再婚してる、弟はいるけど養子に出ているというので戸籍上でいえば天涯孤独だった。だから、こいつは全然身寄りも何もないんだから、よそでいいんだという軍の判断で、気風の荒いことで有名だった九州の小倉七三部隊へ入れられちゃったんです。
――入隊されてからの生活をどうでしたか。
 俺のいた部隊は、大砲を馬で引く輓馬隊でね、新兵は朝から晩まで馬の世話をやらされるんだ。馬の手入れ、寝藁の出し入れ、エサやり、馬屋の掃除と、それこそ全身馬糞まみれの日々でしたね。
あと大変だったのが古兵の暴力。これはまあひどかった。毎日、隊長の訓示があるんですよ。私的制裁厳禁っていってね。でもそんなこと言ったって古兵は毎日殴ってくるんだ。殴るほうが大変で疲れるんだ、手が痛いから今日はスリッパで叩くぞ、とか言って。スリッパで叩かれるとほんと痛くてね。
――そういう厳しい教練やしごきを受けて、どうでしたか。
 入隊前、俺は周りから、あいつは兵隊には全然向かない性格だから、多分、逃げて帰ってくるに違いない、そのときはどうしようって心配されていたんです。ところが俺は、意外と適応性があったんだよ。入隊したては暴力とか馬の世話とか大変だったんだけど、だんだん慣れてきちゃってね。軍隊生活というのは、その仕組みがわかると割合と簡単なんだ。自分で考えないで、自分を殺して言われた通りやっていれば、ある意味では気楽なところなんだ。食う心配はないしね。
――軍隊生活に慣れる一方で、部隊の装備を見て、これでは負けると思ったそうですが。
 部隊にあった大砲は、ドイツ製の一五糎(センチ)榴弾砲というでっかいやつでね。これは日露戦争のときに使っていたやつなんだよ。それと部隊の銃の中に、日清戦争のときに使っていた村田銃というのが相当数混じっていた。こんな古臭い大砲と銃を使ってたんじゃあ敗けるだろうと思ったんですよ。あと、装備だけじゃなくて、軍隊の戦い方も日露戦争の頃のやり方とまったく違ってなかった。われわれには大和魂がある。だから白兵戦で勝てるって言うんだよ。たとえば、その頃はもう腰だめ銃の時代で、アメリカ軍なんかの撃ち方は連発ですから、バラバリャバリャーと撃つわけです。ところがこっちで習う小銃の撃ち方は、一発ずつ入れて、寒夜に霜がおりるようにゆっくり引くんだって言うんだからね。そんなことしちゃいられないんだよ。実際の戦闘では。こんなことじゃ、外地へ行けば戦死するに決まってると思いました。
  暗号兵として中国へ、そして死の行軍
――二年間の兵役の後、中国へ出征することになります。
 二年間で終わると思ったら、大東亜戦争が始まってね、そのまま徴兵延期だって言われたんです。そして中国へやられることになるんだけど、俺はその前に暗号教育を受けちゃうんですよ。どんな暗号かというと、一、二、三で入ってくる数字を乱数表を見て足していくというものでね。要するに計算をやるわけ。それで暗号班に配属されたんだけど、馬の世話と較べてこれは楽だと思った。
――中国へ送られる際、作戦内容などについては知らされていたのでしょうか。
 全く知らされない。輸送船に乗せられて、行き先も全然わからない状態で、ある日命令が来るんですよ。「今日、敵前上陸だ」って。それで、みんな白鉢巻きして軍刀の柄に包帯巻いて上陸するわけです。いよいよ俺は死ぬのかなと思いながら上陸してみたら、敵もいないし、抵抗も何もないんだよね。われわれが上陸したのは台湾のちょうど対岸にある福州の農村地帯だった。本営は多分、アメリカ軍は台湾を攻撃するために、対岸の中国に来て基地を置くだろうと考えたわけですね。それでそれを迎え撃とうと、俺たちは上陸させられた。でも結局、アメリカ軍は台湾へ来なくて沖縄へ行った。俺たちは全然空振りでね、無駄になっちゃったんですよ。
――上陸してきた日本軍に対して、中国の人々は、どのような反応をしたのでしょうか。
 上陸後、しばらくして、現地の中国人と話すようになって、日本と中国はいま戦争をしてるけど、ほんとは仲良くしなくちゃいけないんだよって言ったら、われわれは戦争してない、あれは上海のほうでやってるんで、俺たちとは無関係だって言うんだよ。中国は広いと思ったね。
――福州では宣撫活動として紙芝居をつくりますね。
 海岸地帯に穴掘って陣地づくりをする以外は、あんまりやることがなくてな。それで模造紙の全紙に絵を描いて、めくり式の紙芝居をつくって農村地帯を回ることにしたんです。どういうお話かっていうと、双子の兄弟がいて、別れ別れに暮らしているんだけど、あるときにその兄弟が戦うことになる。ところが両方とも相手を叩くと自分が痛いので結局やめてしまい、兄弟だってことに初めて気がつく。そして仲よく暮らすという話。要するに、日本と中国は双子のようなもんだから、相手を叩くことは、自分を傷つけるのと同じことなんだと。日中親善を双子の話で喩えたんです。
 それで中国人の通訳を連れて、いろんな農村地帯へ行ったんだけど、おかしい話じゃないのに来てる客が、うわーって満場大笑いするんだよね。どうも中国人の通訳は、俺の言ってることと違うことを言ってたみたいなんだ。多分、日本人の悪口を言ってたんじゃないのかな。
――福州での二年間の活動の後、決戦のために上海に向かうことになります。
 暗号班にいたんで、日本軍の旗色が悪くなってることは、無線に入るニュースで知っていてね。このままではまずいなという感じは持っていた。そんな状況で、台湾にアメリカ軍は来ないというのがわかった本営が、今度はどういうわけか、上海決戦だと言い出したんだ。それで福州から陸路で一日四〇キロぐらいかな、沿岸地帯をずーっと歩くんです。上海までは一〇〇〇キロほどあったから、脱落者もかなり出た。途中、ゲリラの攻撃で戦死する兵隊もあり、命がけの行軍でした。
――行軍の際の食料事情はどうでしたか。
 行軍してる間は割合と大丈夫でした。足りなくなったらその辺の村に寄って手に入れていた、といっても、村人はみんな逃げだしていたから、盗んでいるようなものだったね。大変だったのは上海に着いてからです。籠城するから食糧を備蓄しなくてはいけないといって、飯を食わせないんだよ。腹がすいた状態で戦争なんてできないから、タンポポとかその辺の野草を食べたり、川で魚を釣って食べたりしてたね。
  終戦と弟の死
――大変な思いをして上海に辿り着いたわけですが、遂に決戦は行われませんでした。
 上海の近くの泗渓鎮というところに辿り着いたんだけど、俺はマラリアに罹って寝込んでしまった。マラリアになったのが行軍中だったら死んでいたかもしれないから、辛かったけど幸運だったね。そして決戦が来るのを待っていたけど、到着してから二カ月ぐらい経って終戦になった。われわれの行動は全然無駄で、戦わないで戦争が終わっちゃったんだ。でも、戦争が終わったときはですね、言っちゃ悪いけどほっとしました。敗戦する悲しさよりも、やっと終わった、これで帰れるぞと思った。実際はすぐに帰れなくて、翌年の三月までかかりましたけど。
――終戦による変化をどこに感じましたか。
 まず将校が完全に自信を失ったことだよね。特に士官学校を出た将校が自信を失って、俺のところに来ていろいろ相談するんだ。彼らは、自分たちの信じてたことが全部ひっくり返ってしまったんですね。日本軍は悪いことばっかりしていた、侵略戦争をやってたということになってしまい、いままでの正義の戦いというのがみんな間違いだということになってですね、それまで持っていた信念が全部崩れてしまったんですよ。あの将校たちが一番びっくりしたんじゃないのかな、終戦になって。
 それとは逆に、日活の映画監督やカメラマンといった連中が表に出てきて、そういった下士官を集めて芝居をやったんですよ。俺は「ああふるさと」っていう芝居の脚本を書き下ろして演出をやった。
 あとは備蓄していた食糧、これは没収されるだろうからといって、全部食べてしまえってことになったんですよ。それで毎日、食べてはその辺を走り回って、おなかすかしてはまた食べるというようなことをやりました。
――復員するまでの間、日本の情報は入ってきましたか。
 無線で結構入ってきていたけど、さしたることじゃなかったから、あんまり実情はわからなかった。原爆についても、新型爆弾が落ちて、やられてしまったということだけでした。復員して初めてね、色々とわかりましたよ。船で佐世保に着いて、そこから汽車に乗って広島を通って、宇高船で四国へ渡るわけなんだけど、広島を通ったときに窓の外を見ると何にもないんだよ。何一つない。一望焼け野原なんですよ。びっくりしてしまいましたね。故郷もどうなってるかと思ったけど、家も焼けてなかったし、あたりの風景も何一つ変わっていませんでした。それで、ああ、同じじゃないかと思ったら、物価だけはやたら高くなってた。ミカンが滅茶苦茶高いんで、びっくりしちゃいましたよ。
――やなせさんは無事復員されましたが、弟の千尋さんは南方の海で亡くなりました。
 弟は京都帝大の学生だったんだけど、大学に特攻隊の志願要請が来たんだ。その頃に弟と会ったんで、特攻隊なんかに志願するなって言ったんだよね。そうしたら弟が「兄貴、そういうわけにいかない。将校が来て、特攻隊志願の者は一歩前へって言うと、一歩前に出ないと具合が悪い。だからどうしても一歩前へ出てしまう」と言ってた。でも、海軍航空隊の志願要請に弟は落ちたんです。弟は俺と同じで目があまりよくなかったから。ところがそれからすぐに特殊潜航艇の部隊に入れという志願要請がまた海軍から来て、弟はそこに入れられてしまった。それで「回天」の操縦教育を受けた。すぐ海軍少尉になって南方へ行くことになり、フィリピンへ輸送船で運ばれる途中に輸送船ごとやられてしまった。
 弟が死んだのは非常に残念なんだ。弟は、俺より体格も、器量も、頭もよくて優れていた。俺じゃなくて弟が生き残りゃよかったんだよな。今頃になってね、弟が生きてればとしょっちゅう思うんだ。何しろ輸送船ごと撃沈されてしまったんで、骨も何もない。骨壺が帰ってきたけど、木の札が入ってるだけだった。だから、あいつがその辺の離れ島に流れ着いて、生き延びてるんじゃないかという気が未だにしてるんです。
――今。戦争というものをどのように考えられていますか。
 戦争っていうのは、絶対にやっちゃいけない。どうしてもやらなければいけないなら、勝たなければだめですよ。負けるっていうんだったら、やんないほうがいい。でもね、たとえ勝っても悲劇はつきまとうんだよ。俺とアメリカ兵、俺と中国兵にしてもね、ちっとも相手は憎くないんだよ。ところが戦争だと殺さなくちゃいけない。向こうもこっちを殺さなくちゃいけない。そういうおかしな精神状態になっちゃうんだ。普通の人を人殺しに変えてしまう戦争というものは、それ自体間違っているんだよ。戦争をやる正義といったって、勝敗一つで全てひっくり返るんだから、正義で人が人を殺していいなんてことには、とてもならない。あの戦争で俺はそれを痛感したんだ。」
 【略歴】やなせたかし=1919年、高知生まれ。絵本作家・詩人・漫画家・作詞家など幅広い創作活動を行っている。著書に「アンパンマン」「やさしいライオン」「チリンのすず」など多数。91年、勲四等瑞宝章受章。2000年より日本漫画協会の理事長を務め、二年より会長。高知県香美市にやなせたかし記念館がある。コレクション戦争と文学11「軍隊と人間」月報18、集英社2012.

 現実にあの戦争を兵隊として生きた人は、生き残ってその後の人生を少なくとも戦時中よりはましなものと実感を込めて思ったはずだ。仲間、友だち、親兄弟は戦争で生きられるはずの未来を奪われて死んでいった。こんなひどいことはない。ではなぜあんなことを日本はやったんだろう?軍人や政治家のトップは、ほんとうに戦争に勝てると思っていたんだろうか?戦争の理由は、過信した正義からではなく、冷静で失敗を最小限にする知恵から出て来ないといけない。でも、そのことを戦後の日本人は、ちゃんと反省しなかったから、いまこんなことになっている。
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