A.ディズニー・アニメの洗脳
「バンビ」(1937)の日本初公開は戦後の1951(昭和26)年、日本語吹き替え版が1955年公開だというから、ぼくが映画館で「バンビ」を観たのも小学校の1年生ごろだったことになる。その記憶はもう遠くなったとはいえ、今改めてDVDで見るといろんな場面が鮮明に甦る強い印象だったことがわかる。
世界で初めてのカラー長編アニメーション映画は、ウォルト・ディズニーが作ったSnow white「白雪姫」で、お話はグリム童話からとられているが、1937(昭和12)年にこれを制作できたアメリカ・ディズニーの有する経済力と文化力に世界が驚いたことは今は忘れられている。とくに第2次大戦が敗戦で終ってから「白雪姫」が公開されたドイツや日本の大衆は、あらゆる意味で白雪姫や7人の小人の生き生きした動きにアメリカの豊かさと力をひしひしと感じていた。莫大な労力と金額が費やされ、4年の歳月と170万ドル(当時の金額)の巨費を投じて制作された大作は、子供向けのモノクロ・アニメ短編しかなかった時代に、成功を危ぶむ声も多く「ディズニーの道楽」と言われていたが、公開されると6100万ドルの収益を上げる桁外れの大ヒットを記録したという。手塚治虫は「白雪姫」を50回は見たと回想したが、その後の日本の漫画やアニメにとっても原点になったといえる画期的作品だろう。
ちなみに初期のディズニー・アニメの歴史をみてみる。第1作から第5作までは、どれも名作として今日まで繰り返し見られ語られる作品が並ぶ。
1*Snow White and The Seven Dwarfs白雪姫、1937.12 デイヴィッド・ハント監督
2*Pinocchio ピノキオ、1940.2 ベン・シャープスティーン監督
3*Fantasia ファンタジア、1940.11 ベン・シャープスティーン監督
4*Dumbo ダンボ、1941.10 ベン・シャープスティーン監督
5*Bambi バンビ、1942.8 デイヴィッド・ハント監督
しかし、第6作からは世界戦争の拡大とアメリカの参戦も影響して、ひとつの物語で貫く大作長編はできずオムニバス形式の作品が続き、戦後もやっと12作目1950年の「シンデレラ」でファンタジー大作が復活する。
6*Saludos Amigos ラテンアメリカの旅、1942.8 ノーム・ファーガソン監督
7*The Three Caballeros 三人の騎士、1944.12 ノーム・ファーガソン監督
8*Make mine musicメイク・マイン・ミュージック、1946.4 ジョー・グラント監督
9*Fun and Funcy Freeファン・アンド・ファンシー、1947.9 ジャック・キニー監督
10*Melody Time メロディ・タイム 1948.5 ベン・シャープスティーン監督
11*The Adventures of Ichabod and Mr. Toadイカボードとトード氏 1949.10 ベン・シャープスティーン監督
12*Cinderellaシンデレラ、1950.2 ベン・シャープスティーン監督
「シンデレラ」以降はAlice in Wonderland不思議の国のアリス1951.7、Peter Panピーター・パン1953.2、Lady and the Trampわんわん物語1955.6 Sleeping Beauty眠りの森の美女1959.1とディズニー・アニメの快進撃が続く。小学生だったぼくたちの世代は、あの頃まだ(白黒)テレビがある家は少なく、あっても子ども向け番組はアメリカ製の西部劇やスーパーマンとか、日本製はお粗末なチャンバラでアニメなどはなかった。それに比べて映画館で見るディズニー・アニメはまったく別格の夢の世界で、やがてテレビでもウォルト・ディズニー自身が登場して解説する「ディズニーランド」という番組が始まって夢中になるのだが、ぼくたちにとって「ディズニー映画」は無条件に素晴らしいものに思えた。戦争に負けた大人たちにとっても、これはアメリカ文化のポジティヴな豊かさとデモクラシーの代表で、子どもに見せてはいけない映画もいろいろあったのに、ディズニー映画はとても教育的だといわれていた。
でも、戦前からの日本の倫理道徳観からすれば、男女がやたらハグしたりキスしたり求愛するアメリカ映画は抵抗があったはずだ。ミッキーやドナルドが派手に動き回りものを散らかし、煽情的なミニーやデイジーとオメメを輝かせてデートする文化はそれまでの日本にはなかった。でも、「バンビ」はなにしろ森の鹿が主人公だし、出てくるのはみんな小動物で人間は姿を見せない。そのころは別に不思議とも思わなかったが、ぼくはたぶん人生を生き始めた小鹿のバンビに自己同一していた。母はぼくを全力で愛し守ってくれていたし、ぼくの周りの世界はごく小さな親しい友だちだけの穏やかな小宇宙だった。バンビは楽しく毎日を送り、やがて溌剌とした女鹿ファリーンと恋に落ちる。
■ デイズニー・アニメ「バンビ」1942
ディズニーが企画創作した長編アニメの第5作。フェリックス・ザルテンの同名の動物小説からパース・ピアースが物語を構成、デイヴィッド・D・ハンドが総監督。原作は東欧の森のノロジカが主人公だが、この「バンビ」は北米の大型アカシカに変えられた。原作者のザルテン(1869-1945)は、ハンガリー・ブダペスト出身のオーストリアのジャーナリスト・小説家。1938年以降はナチスによるユダヤ系市民の迫害を逃れ、アメリカに亡命、1945年ナチスの敗北とともにスイスに戻り、チューリッヒで死去した。Bambi, A Life in the Woods / Bambi, ein Leben im Walde (1926年)は、ウォルト・ディズニー・カンパニーによるアニメーション映画で、世界に知られる物語になった。
はじまりはある春の朝、森の大鹿グレート・スタッグの子としてバンビが生まれた。バンビは仔兎のタンパー(とんすけ)やスカンクのフラワーと友人になり、また牝の仔鹿ファリーンとも仲良しになった。夏、秋、冬と季節を経てバンビはすくすくと成長したが、その冬に母はバンビを守って人間に殺されてしまった。 大人になった春にバンビはファリーンと恋に落ち、彼女に横恋慕した牡鹿ロノと決闘までした。晩秋再び人間が森に押し寄せ、その夜キャンプから出た火は森を包んだ。悪魔のような人間の手先の猟犬に追われたファリーンを助けたバンビは、人間の銃弾を受けるが辛うじて立ち上がり、翌朝川の中洲でようやく彼女に再会する。また年はめぐり、バンビと結ばれたファリーンは双児を産み、バンビは森の王の地位を継いだ。
この「バンビ」の物語構造は、高貴な王子のビルドゥングスロマンである。母親の愛情をいっぱいに受けて育ってきたため、甘えん坊な坊ちゃん。しかし突然母が殺され、人生の不条理に気落ちした所を森の王である父に導かれ王子としての自覚をもつ。春になり恋の季節が訪れ、女鹿ファリーンに魅了されるバンビ。心身共に見違えるほど強く逞しく成長した彼は、他のライヴァル牡鹿に迫られていたファリーンを肉弾戦の上救うまでになるが、シャイでファリーンに押され気味なのは相変らずのピュアな男の子。
ぼくは小学生のはじめに観た「バンビ」で、原初的な「恋愛」というものを初めて具体的にイメージするようになったと思う。いわばディズニーによって、人は成長のある段階で異性と恋に落ち、パートナーのためなら命まで賭けるような経験を経て、結婚に至ることが英雄的幸福だというロマンチック・ラブ・ストーリーを刷り込まれていた。そのメッセージは明らかに年若い男の子に向けて力強く、それが自己中心的アメリカン・マッチョ・イデオロギーだということにまったく気がつかなかった。
たぶんぼくの同世代の男の子は、それからいずれ自分も「恋愛」というものをしてみたいと煽動されたのだが、クラスのなかで一番人気のある女の子に憧れながら、実際の人生でバンビのようなヒーローになることができた人間はごく稀だったと思う。自分はバンビほど果敢に戦うことができなかったし、ファリーンのような美しく魅力的な女子から熱いまなざしを向けられることもなかった。「恋愛」に憧れれば憧れるほど、現実の世界ではみじめな失望と挫折に見舞われるほかなかった。それは、今から思えば、圧倒的なポジティヴな価値を放っていた20世紀のアメリカの輝きを、敗戦国の子どもであるぼくたちは、丸ごと洗脳されながら決してバンビにはなれないことを思い知らされるトラウマでもあったのだ。

B.1989年の記憶
日本のそれなりの大学の教員には、一生に一度「在外研究」という海外の大学や研究機関に1年ほど留学して研究する制度があり、明治大正時代の先進文明を日本に持ち帰る使命を帯びた留学ほどではないにしろ、欧米の学術先端の現場に身を置いて、異文化の体験を含め世界の行く末に思いを馳せて自分を磨く機会があった。ぼくも幸いにも、30代のなかばに「在外研究」のチャンスを与えられ、昭和が終わった直後の1989年に当時の西ドイツに赴いて、これも偶然の幸運だったがベルリンの壁が壊れる東西冷戦の最後に立ち合うことになった。京都大学の教員だった佐伯啓思氏も、ちょうど同時期にイギリスに在外研究で暮らしていたのだな。
「平成の30年を振り返る 失敗重ねた「改革狂の時代」:異論ノススメ 佐伯啓思
4月で平成も終わる。この30年を一言で特徴づけるのは無謀なことと承知しつつ、あえていえば、平成とは「改革狂の時代」だったといいたい。
元号が昭和から平成に替わったころ、私は在外研究で英国に滞在していた。日本経済はまだ「向かうところ敵なし」の状態で、英国経済の再生の実感はなく、サッチャー首相の評判はすこぶる悪かった。ちょうどそのころ、社会主義国から西側への「脱出」が始まり、ベルリンの壁の崩壊へと続く。当然ながら、英国でも、社会主語の崩壊という歴史的大事件がもっぱらの関心事であった。
日本人の研究者やビジネスマンたちが集うとよく日英比較論になった。ほとんどのビジネスマンは、日本経済の盤石さを強調し、この世界史の大混乱のなかで、経済は日本の一人勝ちになるといっていた。だが私はかなり違う感想をもっていた。日本経済がほとんど一人勝ちに見え、日本人がさして根拠のない自信過剰になる、そのことこそが日本を凋落させる、と思っていた。賛同してくれるものもいたが、あくまで少数派であった。
確かに、英国経済の非効率は生活の不便さからも十分に実感できた。しかし、その不便さを楽しむかのように、平穏な日常生活や、ささやかな社交の時間を守ろうというこの国の人の忍耐強い習慣や自信に、私は強い印象を受けていた。
一方、にわか仕込みの金満家となった日本人はといえば、ヨーロッパの町々で大挙してブランド店に押し寄せ、かの地の人々の失笑を買っていた。確かに英国の中産階級の若い者など、ほとんどブランド品に関心を持たず質素な生活をしていた。
しかし、私には、仲間が集まっても、ほとんど狭い専門研究の話か仕事の話しかしない日本の研究者やビジネスマンよりも、この世界史的な大変化の時代にあって、英国はそういう役割を果たすのか、といったことがらに、それなりの意見をもっている英国の「ふつう」の人々に、何かこの国の目には見えない底力のようなものを感じていたのである。
そして帰国したころにバブルは崩壊し、経済は急激に失調するとともに日本人はまったく自信喪失状態になった。そうなると、われわれはすぐに「外国の識者」の助言を聞きたがる。また無責任に口に出してくる、(大半が)米国の知識人がおり、それを重宝がる日本のメディアがある。なにが日本をこうさせたのか、という悪者探しが始まる。こうなれば「問題」は次々と出てくる。
かくて、官僚システム、行政規制、公共事業、旧い自民党、既得権益者、郵政事業、日本型経営、銀行などが次々とやり玉にあげられ、「改革」へとなだれ込んだ。やがて「改革なくして成長なし」といわれ、日本経済の低迷の理由はすべて改革の遅れにある、という言説が支配する。驚くべきことに30年たっても同じことが続いているのだ。まさしく「改革狂の時代」というほかないであろう。
◎ ◎ ◎
日本の元号の変わり目が世界史の大転換と符合するなどということはめったに生じるものではないが、平成の幕開けは、世界的には冷戦の終結と重なっていた。つまり、平成とは、冷戦以降の世界状況への対応の時代でもあった。そして、改革論は、冷戦以降の世界に適応するためには日本の大変革が不可欠だと唱えた。
冷戦以降の世界は何かといえば、巨大なグローバル市場の形成であり、世界的な民主主義の進展であり、IT革命と金融革命である。それはまた、冷戦以降を見据えた米国の新たな世界秩序形成にかかわる覇権的戦略でもあった。だから日本の「改革」とは、冷戦以降の米国覇権への追従であり、グローバリズムへの適応だったということになる。
それで、その結果はどうなったのか。平成が終わろうというこの時点でみれば、これらはことごとく失敗に終わったというほかない。
情報・金融中心のグローバル化は、リーマン・ショックに見られるきわめて不安定な経済をもたらした。その帰結がトランプの保護主義である。また、グローバリズムは、激しい国家間競争を生み出した。その帰結が、中国の台頭と米中の「新たな冷戦」である。
自由と民主主義の普遍化という米国の戦略は、イスラム過激派との対立をうみ、しかもその米国の民主主義がトランプを大統領にした。冷戦終結の産物であるEUは、いまや危機的状況にある。ITからAIや生命科学へと進展した技術革新は、今日、無条件で人間を克服にするとは思えない。むしろいかに歯止めをかけるかが問題になりつつある。
◎ ◎ ◎
これが、冷戦以降の30年の世界の現実であろう。日本はといえば、政治改革が目指した二大政党制も小選挙区もマニフェストもほぼ失敗し、行政改革が官僚システムを立て直したとは思われず、経済構造改革にもかかわらず、この30年は経済停滞とデフレに陥ってきた。大学改革も教育改革もほとんど意味があったとは思われない。米国への追従とグローバリズムへの適応を目指す「改革」はおおよそ失敗したのである。
「改革狂」の平成時代はひとつの過渡期であった、と考えるべきであろう。「改革」が目指すべきものは我々自身の価値観とともに生み出さなければならないのであり、平成の次の時代は、われわれの自前の国家像と社会イメージこそが問われる時代になるはずなのだ。」朝日新聞2019年1月11日朝刊17面オピニオン欄。
佐伯氏と同時代に似たような経験をしたぼくには、ここで語られる平成の30年にかんする感慨と問題意識はよく分かる。大学にいて研究と教育を自分の仕事にしていた自分の、いわば人生の盛り、朱夏・白秋期に平成が重なるといえば確かにその通りなのだが、それは日本という国がアメリカに次ぐ傲慢な経済大国の絶頂から、みごとなまでに凋落し転落する30年でもあった。「保守主義」を信条とする佐伯氏にすれば、アメリカン・グローバル・スタンダードこそ正義だとする「改革狂の時代」は、空しく失敗を積み重ねた愚劣の歴史にみえるだろう。ぼくは「保守主義者」を名乗らないから、平成30年間自民党的政治家のやったことを「改革」というよりは真の戦うべき敵を見間違えた「神経症的痙攣」とでも呼びたい。それがあまりにも宗主国アメリカに追従していれば大丈夫という政治的に愚劣な思い込みと、経済成長がすべてを解決し日本が再び力強い経済成長に戻るための唯一の方法は、ネオリベ的市場自由主義を市民の公的福祉や人権を無視しても進めるという思想だったと思う。その改革の結論はすでに明らかだという見解は、ぼくもまったく異論がないが、では今何をすべきか、ザットイズクエスチョンである。
「バンビ」(1937)の日本初公開は戦後の1951(昭和26)年、日本語吹き替え版が1955年公開だというから、ぼくが映画館で「バンビ」を観たのも小学校の1年生ごろだったことになる。その記憶はもう遠くなったとはいえ、今改めてDVDで見るといろんな場面が鮮明に甦る強い印象だったことがわかる。
世界で初めてのカラー長編アニメーション映画は、ウォルト・ディズニーが作ったSnow white「白雪姫」で、お話はグリム童話からとられているが、1937(昭和12)年にこれを制作できたアメリカ・ディズニーの有する経済力と文化力に世界が驚いたことは今は忘れられている。とくに第2次大戦が敗戦で終ってから「白雪姫」が公開されたドイツや日本の大衆は、あらゆる意味で白雪姫や7人の小人の生き生きした動きにアメリカの豊かさと力をひしひしと感じていた。莫大な労力と金額が費やされ、4年の歳月と170万ドル(当時の金額)の巨費を投じて制作された大作は、子供向けのモノクロ・アニメ短編しかなかった時代に、成功を危ぶむ声も多く「ディズニーの道楽」と言われていたが、公開されると6100万ドルの収益を上げる桁外れの大ヒットを記録したという。手塚治虫は「白雪姫」を50回は見たと回想したが、その後の日本の漫画やアニメにとっても原点になったといえる画期的作品だろう。
ちなみに初期のディズニー・アニメの歴史をみてみる。第1作から第5作までは、どれも名作として今日まで繰り返し見られ語られる作品が並ぶ。
1*Snow White and The Seven Dwarfs白雪姫、1937.12 デイヴィッド・ハント監督
2*Pinocchio ピノキオ、1940.2 ベン・シャープスティーン監督
3*Fantasia ファンタジア、1940.11 ベン・シャープスティーン監督
4*Dumbo ダンボ、1941.10 ベン・シャープスティーン監督
5*Bambi バンビ、1942.8 デイヴィッド・ハント監督
しかし、第6作からは世界戦争の拡大とアメリカの参戦も影響して、ひとつの物語で貫く大作長編はできずオムニバス形式の作品が続き、戦後もやっと12作目1950年の「シンデレラ」でファンタジー大作が復活する。
6*Saludos Amigos ラテンアメリカの旅、1942.8 ノーム・ファーガソン監督
7*The Three Caballeros 三人の騎士、1944.12 ノーム・ファーガソン監督
8*Make mine musicメイク・マイン・ミュージック、1946.4 ジョー・グラント監督
9*Fun and Funcy Freeファン・アンド・ファンシー、1947.9 ジャック・キニー監督
10*Melody Time メロディ・タイム 1948.5 ベン・シャープスティーン監督
11*The Adventures of Ichabod and Mr. Toadイカボードとトード氏 1949.10 ベン・シャープスティーン監督
12*Cinderellaシンデレラ、1950.2 ベン・シャープスティーン監督
「シンデレラ」以降はAlice in Wonderland不思議の国のアリス1951.7、Peter Panピーター・パン1953.2、Lady and the Trampわんわん物語1955.6 Sleeping Beauty眠りの森の美女1959.1とディズニー・アニメの快進撃が続く。小学生だったぼくたちの世代は、あの頃まだ(白黒)テレビがある家は少なく、あっても子ども向け番組はアメリカ製の西部劇やスーパーマンとか、日本製はお粗末なチャンバラでアニメなどはなかった。それに比べて映画館で見るディズニー・アニメはまったく別格の夢の世界で、やがてテレビでもウォルト・ディズニー自身が登場して解説する「ディズニーランド」という番組が始まって夢中になるのだが、ぼくたちにとって「ディズニー映画」は無条件に素晴らしいものに思えた。戦争に負けた大人たちにとっても、これはアメリカ文化のポジティヴな豊かさとデモクラシーの代表で、子どもに見せてはいけない映画もいろいろあったのに、ディズニー映画はとても教育的だといわれていた。
でも、戦前からの日本の倫理道徳観からすれば、男女がやたらハグしたりキスしたり求愛するアメリカ映画は抵抗があったはずだ。ミッキーやドナルドが派手に動き回りものを散らかし、煽情的なミニーやデイジーとオメメを輝かせてデートする文化はそれまでの日本にはなかった。でも、「バンビ」はなにしろ森の鹿が主人公だし、出てくるのはみんな小動物で人間は姿を見せない。そのころは別に不思議とも思わなかったが、ぼくはたぶん人生を生き始めた小鹿のバンビに自己同一していた。母はぼくを全力で愛し守ってくれていたし、ぼくの周りの世界はごく小さな親しい友だちだけの穏やかな小宇宙だった。バンビは楽しく毎日を送り、やがて溌剌とした女鹿ファリーンと恋に落ちる。
■ デイズニー・アニメ「バンビ」1942
ディズニーが企画創作した長編アニメの第5作。フェリックス・ザルテンの同名の動物小説からパース・ピアースが物語を構成、デイヴィッド・D・ハンドが総監督。原作は東欧の森のノロジカが主人公だが、この「バンビ」は北米の大型アカシカに変えられた。原作者のザルテン(1869-1945)は、ハンガリー・ブダペスト出身のオーストリアのジャーナリスト・小説家。1938年以降はナチスによるユダヤ系市民の迫害を逃れ、アメリカに亡命、1945年ナチスの敗北とともにスイスに戻り、チューリッヒで死去した。Bambi, A Life in the Woods / Bambi, ein Leben im Walde (1926年)は、ウォルト・ディズニー・カンパニーによるアニメーション映画で、世界に知られる物語になった。
はじまりはある春の朝、森の大鹿グレート・スタッグの子としてバンビが生まれた。バンビは仔兎のタンパー(とんすけ)やスカンクのフラワーと友人になり、また牝の仔鹿ファリーンとも仲良しになった。夏、秋、冬と季節を経てバンビはすくすくと成長したが、その冬に母はバンビを守って人間に殺されてしまった。 大人になった春にバンビはファリーンと恋に落ち、彼女に横恋慕した牡鹿ロノと決闘までした。晩秋再び人間が森に押し寄せ、その夜キャンプから出た火は森を包んだ。悪魔のような人間の手先の猟犬に追われたファリーンを助けたバンビは、人間の銃弾を受けるが辛うじて立ち上がり、翌朝川の中洲でようやく彼女に再会する。また年はめぐり、バンビと結ばれたファリーンは双児を産み、バンビは森の王の地位を継いだ。
この「バンビ」の物語構造は、高貴な王子のビルドゥングスロマンである。母親の愛情をいっぱいに受けて育ってきたため、甘えん坊な坊ちゃん。しかし突然母が殺され、人生の不条理に気落ちした所を森の王である父に導かれ王子としての自覚をもつ。春になり恋の季節が訪れ、女鹿ファリーンに魅了されるバンビ。心身共に見違えるほど強く逞しく成長した彼は、他のライヴァル牡鹿に迫られていたファリーンを肉弾戦の上救うまでになるが、シャイでファリーンに押され気味なのは相変らずのピュアな男の子。
ぼくは小学生のはじめに観た「バンビ」で、原初的な「恋愛」というものを初めて具体的にイメージするようになったと思う。いわばディズニーによって、人は成長のある段階で異性と恋に落ち、パートナーのためなら命まで賭けるような経験を経て、結婚に至ることが英雄的幸福だというロマンチック・ラブ・ストーリーを刷り込まれていた。そのメッセージは明らかに年若い男の子に向けて力強く、それが自己中心的アメリカン・マッチョ・イデオロギーだということにまったく気がつかなかった。
たぶんぼくの同世代の男の子は、それからいずれ自分も「恋愛」というものをしてみたいと煽動されたのだが、クラスのなかで一番人気のある女の子に憧れながら、実際の人生でバンビのようなヒーローになることができた人間はごく稀だったと思う。自分はバンビほど果敢に戦うことができなかったし、ファリーンのような美しく魅力的な女子から熱いまなざしを向けられることもなかった。「恋愛」に憧れれば憧れるほど、現実の世界ではみじめな失望と挫折に見舞われるほかなかった。それは、今から思えば、圧倒的なポジティヴな価値を放っていた20世紀のアメリカの輝きを、敗戦国の子どもであるぼくたちは、丸ごと洗脳されながら決してバンビにはなれないことを思い知らされるトラウマでもあったのだ。

B.1989年の記憶
日本のそれなりの大学の教員には、一生に一度「在外研究」という海外の大学や研究機関に1年ほど留学して研究する制度があり、明治大正時代の先進文明を日本に持ち帰る使命を帯びた留学ほどではないにしろ、欧米の学術先端の現場に身を置いて、異文化の体験を含め世界の行く末に思いを馳せて自分を磨く機会があった。ぼくも幸いにも、30代のなかばに「在外研究」のチャンスを与えられ、昭和が終わった直後の1989年に当時の西ドイツに赴いて、これも偶然の幸運だったがベルリンの壁が壊れる東西冷戦の最後に立ち合うことになった。京都大学の教員だった佐伯啓思氏も、ちょうど同時期にイギリスに在外研究で暮らしていたのだな。
「平成の30年を振り返る 失敗重ねた「改革狂の時代」:異論ノススメ 佐伯啓思
4月で平成も終わる。この30年を一言で特徴づけるのは無謀なことと承知しつつ、あえていえば、平成とは「改革狂の時代」だったといいたい。
元号が昭和から平成に替わったころ、私は在外研究で英国に滞在していた。日本経済はまだ「向かうところ敵なし」の状態で、英国経済の再生の実感はなく、サッチャー首相の評判はすこぶる悪かった。ちょうどそのころ、社会主義国から西側への「脱出」が始まり、ベルリンの壁の崩壊へと続く。当然ながら、英国でも、社会主語の崩壊という歴史的大事件がもっぱらの関心事であった。
日本人の研究者やビジネスマンたちが集うとよく日英比較論になった。ほとんどのビジネスマンは、日本経済の盤石さを強調し、この世界史の大混乱のなかで、経済は日本の一人勝ちになるといっていた。だが私はかなり違う感想をもっていた。日本経済がほとんど一人勝ちに見え、日本人がさして根拠のない自信過剰になる、そのことこそが日本を凋落させる、と思っていた。賛同してくれるものもいたが、あくまで少数派であった。
確かに、英国経済の非効率は生活の不便さからも十分に実感できた。しかし、その不便さを楽しむかのように、平穏な日常生活や、ささやかな社交の時間を守ろうというこの国の人の忍耐強い習慣や自信に、私は強い印象を受けていた。
一方、にわか仕込みの金満家となった日本人はといえば、ヨーロッパの町々で大挙してブランド店に押し寄せ、かの地の人々の失笑を買っていた。確かに英国の中産階級の若い者など、ほとんどブランド品に関心を持たず質素な生活をしていた。
しかし、私には、仲間が集まっても、ほとんど狭い専門研究の話か仕事の話しかしない日本の研究者やビジネスマンよりも、この世界史的な大変化の時代にあって、英国はそういう役割を果たすのか、といったことがらに、それなりの意見をもっている英国の「ふつう」の人々に、何かこの国の目には見えない底力のようなものを感じていたのである。
そして帰国したころにバブルは崩壊し、経済は急激に失調するとともに日本人はまったく自信喪失状態になった。そうなると、われわれはすぐに「外国の識者」の助言を聞きたがる。また無責任に口に出してくる、(大半が)米国の知識人がおり、それを重宝がる日本のメディアがある。なにが日本をこうさせたのか、という悪者探しが始まる。こうなれば「問題」は次々と出てくる。
かくて、官僚システム、行政規制、公共事業、旧い自民党、既得権益者、郵政事業、日本型経営、銀行などが次々とやり玉にあげられ、「改革」へとなだれ込んだ。やがて「改革なくして成長なし」といわれ、日本経済の低迷の理由はすべて改革の遅れにある、という言説が支配する。驚くべきことに30年たっても同じことが続いているのだ。まさしく「改革狂の時代」というほかないであろう。
◎ ◎ ◎
日本の元号の変わり目が世界史の大転換と符合するなどということはめったに生じるものではないが、平成の幕開けは、世界的には冷戦の終結と重なっていた。つまり、平成とは、冷戦以降の世界状況への対応の時代でもあった。そして、改革論は、冷戦以降の世界に適応するためには日本の大変革が不可欠だと唱えた。
冷戦以降の世界は何かといえば、巨大なグローバル市場の形成であり、世界的な民主主義の進展であり、IT革命と金融革命である。それはまた、冷戦以降を見据えた米国の新たな世界秩序形成にかかわる覇権的戦略でもあった。だから日本の「改革」とは、冷戦以降の米国覇権への追従であり、グローバリズムへの適応だったということになる。
それで、その結果はどうなったのか。平成が終わろうというこの時点でみれば、これらはことごとく失敗に終わったというほかない。
情報・金融中心のグローバル化は、リーマン・ショックに見られるきわめて不安定な経済をもたらした。その帰結がトランプの保護主義である。また、グローバリズムは、激しい国家間競争を生み出した。その帰結が、中国の台頭と米中の「新たな冷戦」である。
自由と民主主義の普遍化という米国の戦略は、イスラム過激派との対立をうみ、しかもその米国の民主主義がトランプを大統領にした。冷戦終結の産物であるEUは、いまや危機的状況にある。ITからAIや生命科学へと進展した技術革新は、今日、無条件で人間を克服にするとは思えない。むしろいかに歯止めをかけるかが問題になりつつある。
◎ ◎ ◎
これが、冷戦以降の30年の世界の現実であろう。日本はといえば、政治改革が目指した二大政党制も小選挙区もマニフェストもほぼ失敗し、行政改革が官僚システムを立て直したとは思われず、経済構造改革にもかかわらず、この30年は経済停滞とデフレに陥ってきた。大学改革も教育改革もほとんど意味があったとは思われない。米国への追従とグローバリズムへの適応を目指す「改革」はおおよそ失敗したのである。
「改革狂」の平成時代はひとつの過渡期であった、と考えるべきであろう。「改革」が目指すべきものは我々自身の価値観とともに生み出さなければならないのであり、平成の次の時代は、われわれの自前の国家像と社会イメージこそが問われる時代になるはずなのだ。」朝日新聞2019年1月11日朝刊17面オピニオン欄。
佐伯氏と同時代に似たような経験をしたぼくには、ここで語られる平成の30年にかんする感慨と問題意識はよく分かる。大学にいて研究と教育を自分の仕事にしていた自分の、いわば人生の盛り、朱夏・白秋期に平成が重なるといえば確かにその通りなのだが、それは日本という国がアメリカに次ぐ傲慢な経済大国の絶頂から、みごとなまでに凋落し転落する30年でもあった。「保守主義」を信条とする佐伯氏にすれば、アメリカン・グローバル・スタンダードこそ正義だとする「改革狂の時代」は、空しく失敗を積み重ねた愚劣の歴史にみえるだろう。ぼくは「保守主義者」を名乗らないから、平成30年間自民党的政治家のやったことを「改革」というよりは真の戦うべき敵を見間違えた「神経症的痙攣」とでも呼びたい。それがあまりにも宗主国アメリカに追従していれば大丈夫という政治的に愚劣な思い込みと、経済成長がすべてを解決し日本が再び力強い経済成長に戻るための唯一の方法は、ネオリベ的市場自由主義を市民の公的福祉や人権を無視しても進めるという思想だったと思う。その改革の結論はすでに明らかだという見解は、ぼくもまったく異論がないが、では今何をすべきか、ザットイズクエスチョンである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます