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フランクフルト学派の行方・・ ロヒンギャって?

2018-04-11 12:43:17 | 日記
A.フランクフルト学派のアメリカ移住
 先月来、スチュアート・ヒューズの20世紀思想史シリーズを読んできたが、とくにこの第3の『the SEA CHANGE 大変貌1930-1965』は、ヨ-ロッパからの亡命知識人を追いかけて論じている。だが、ヒューズ自身はアメリカの歴史家なので、19世紀以来、近代文明を担った西欧社会思想の潮流が、第2次世界大戦にいたってアメリカ合衆国にその中心が移動した、という大きな見取り図がある。その大きな理由のひとつが、ナチスに追われて亡命したユダヤ系知識人の軌跡ということになるわけだが、読んでいるとナチスなどファシズムのもたらした問題は深刻だとしても、アメリカは別天地で、この亡命者たちを歓迎して受け入れた。亡命者たちも個々には対応に差異があるにしても、もし亡命という事態がなかったなら起らなかったような学問上・思想上のプラスの効果が現れた、と好意的に捉えている。少々自画自賛的なニュアンスを感じるが、それはとくにドイツ人亡命者、フランクフルト学派の人々について顕著ではないか。もちろん、かれらはアメリカを礼賛したわけではないし、その深みと思慮にかけた大衆社会状況を批判的に見ることになったが、それでも戦後のアメリカは、文化的・知的リーダーシップを古いヨーロッパに代わって執るようになったとヒューズはみる。

「アドルノ、ホルクハイマー、マルクーゼらは、ドイツからの亡命以前にも機械文明のもたらす文化的諸帰結を心にかけていた。しかし、この関心に直接重要な意味づけを与えたのは、アメリカへの移住であった。もしもすべての先進的産業諸国が共有する基本的な文化的同質性といったものがあるとしたら、民主主義のアメリカと権威主義的なナチ国家と本質的にどこが異なるのであろうか?もしイデオロギー的な無知と無関心、ステロタイプ的な思考と「名士(パースナリティ)」崇拝が大衆社会に運命的な政治的徴表であるとしたら、ドイツ人が指し示した道をアメリカ人があとから進んでゆくことを妨げる何があるであろうか?亡命者たちを故国から追い立てたと同じ脅威に、もっと弱められ偽装された形でその亡命先の国で彼らが今直面しているということは、ありうること――どころか、まことに蓋然性の高いこと――ではないだろうか?こうした数々の厄介な問題によってかれらは自然にアメリカ社会の特色の究明に導かれていった。アメリカの社会には「ファシズムの潜在的可能性」――ナチがテロと暴力によって達成したものと機能的に同じ働きをするような社会的強制のさまざまな口当たりのよい形――があるように思われたからである。リースマンがのちに「他者志向」と固定した行動は、アメリカでは理想的状態において観察された。そしてアドルノやホルクハイマーが最終的に居を定めたカリフォルニアでは、一市民が他の人びとの微妙だが圧倒的な圧力に右へならえとするという慣行は、それを少しも恥ずべきこととは思わない素朴さで日々提示されていたのであった。
 これだけでも亡命学者たちを躊躇させるに十分であったであろう。が、それに加えて、強度の自己露出という感覚があった。ヨーロッパでは、知識人は自分たちの生活を民衆の文化の侵入から守ることが可能であった。伝統的な身分や尊敬という城壁によって防御されて、かれらは大衆の趣味の粗野で攻撃的な表現からは安全な距離を保っていることができた。ところが、アメリカに移住すると、こうした城壁は崩壊し去り、粗野・俗悪の洪水が新来者に真正面から襲いかかったのである。かくして、かれらの気分はいっそう戦闘的となった。つまり、ヨーロッパでは「漠然たる蔑視」以上のものではなかったものが、アメリカでは「手のこんだ嫌悪の念」に一変することになった。
 しかしながら、他の多くの点についてと同様、この点においても、アドルノとその友人たちは、かれらが行っている戦いを両義的な二正面闘争であるとみていた。大衆の趣味や態度を容赦のない批判にさらすという課題を遂行する場合、たんに伝統的な「高級文化」の諸価値を擁護することでは明らかに不十分であると彼らは考えていた。一つには、大衆がひどく期待にそむくような振る舞いをするにしても、それは真実には大衆の罪ではないからである。むしろそれは、かれらの生活を支配している経済的諸関係の罪、もっと人間に即した言い方をすれば、他人の生活を組織的に操縦している人たちの罪である。アドルノやホルクハイマーが「大衆社会」という用語を用いなかったのは、おそらくこの理由によるのではあるまいか。かれらは好んで管理された世界といった。こうした世界の中では、過去の文化的諸価値の切れ端に狂おしくしがみつこうとすることでその保守主義を暴露している批判者たちの尻馬にのるのは反動的なことだとかれらは考えたのである。真の文化が生まれる社会的過程を知ることもなく、この種の批判者たちは重大な結果をもたらす特別の「物神化」の罪を犯している。美術や文学を貴重な「モノ〔商品〕」として扱うことにより、かれらはこれをその自然発生的な文脈から切り離し、生気のないものと化してしまう。このような状況下にあっては、十分な自覚をもった真の批判者は、精神あるいは心を礼賛する大衆社会批判者たちに同調するわけにはゆかないし、かといって一方、はるかに多数を占める、伝統的文明の諸価値への敵対者たちの隊列に加わるわけにもゆかない。さらにまた、擁護すべき高級文化がなにか残っているのかどうかも疑問である。高級文化の調達人たちはそれを飾り立て「中性化」してしまって、「ガラクタ」に変じてしまった。「自足的な省察」ではなんの役にも立たないであろう。誤った過去の行ないを口にするだけでは、たんなるお喋りに堕する危険がある。「アウシュヴィッツのあとで」――アドルノはきわめて痛切な絶望的口調で言葉を結ぶ――詩を書きつづけることは「野蛮」である、と。
  ヘーゲルへの回帰
 亡命学者たちの大衆批判の背後にある大前提は、アメリカ人にとっては異国的な、実質上は未知の世界観――その源泉たるヘーゲルに立ち返ることによって更新されたマルクス主義――であった。1923年のルカーチ『歴史と階級意識』の出現によって、「中央ヨーロッパにおける古くからのマルクス主義的伝統の中心」に「形而上学的観念論の再生」が行なわれた。共産党の規律はルカーチにこの若書きの逸脱を放棄することを強制し、かれは実践上の諸目的のために、弁証法唯物論を固定的な経済法則の機械的作用と見る「正統派的」見解に同調した。けれども、かれもこの著作がそれとして生きつづけるのを妨げるわけにはゆかなかった。『歴史と階級意識』のひそかな名声は、さらに大きくなっていった。若きマルクスが人類社会についての独自な考えを手探りしつつまとめた『経済学・哲学草稿』が1930年代初頭に刊行されたことにより、あらためてルカーチのこの文芸批評家〔ルカーチ〕が共感による再構成という手続きで、かれのイデオロギー上の師たるマルクスがほぼ80年以前に書きとめていたことを探り当てていたのだということがここに明らかとなったのである。
 アドルノやホルクハイマーはマルクスのパリ草稿にはめったに言及していないし、ルカーチとかれらの関係もよそよそしく、多くは敵対的である。かれらはまた自分たちが観念論者であることも否定した。しかし、こうした否認にもかかわらず、かれらの仕事を全体として見れば、やはりかれらも、1920年代から60年代に至る40年間にマルクス主義に新しい高揚した哲学的立場を付与したその主観主義的再解釈の体現者であったことがわかる。そのような観点からすると、アントニオ・グラムシは20世紀のネオ・マルクス主義の孤立したイタリアの先駆者であり、モーリス・メルロ=ポンティはおくれた、疑似自由主義的なフランスの宣布者であるということになる。この20世紀のネオ・マルクス主義とは、19世紀末の科学的仮面を脱ぎ去り、19世紀初頭のヘーゲル的土台に立ち返ったマルクス主義のことである。この刻印を帯びたネオ・マルクス主義のイデオローグにとっては、疎外という概念が社会分析への鍵となる。これがきわめてさまざまな思想家たちを結びつける主導概念であった(疎外された労働についての議論が、結局のところマルクス自身の初期草稿の中心部分である)。はじめヘーゲルによって用いれらた「疎外」という言葉は、ニーチェやフロイトの著作を通じてその範囲を拡大し、ついには現代人の生存の全体を特色づける普遍的な意味内容を獲得することになった。「目的」から「手段」におとしめられ、自分に加えられた不正に対する感情さえ一切失ってしまった人間が、かれらのうちに用いられずにある潜在可能性とその現在の行動とのみじめな対比をなんとか自覚にもたらすという厄介なプロセスを通じて,十全なる人間性を回復することができるという約束もそこには含まれていたのである。

 マックス・ホルクハイマーは、1923年にフランクフルトに創設された社会研究所の指導的人物であった。この研究所は個人の寄付によるものであり、フランクフルト大学――これもできてから10年とたっていない――と密接なつながりをもったものではなかったから、知的・イデオロギー的な独立を主張し、これを維持することができた。その理解はさまざまであるにしても、マルクス主義がこの研究所の成員を結びつける公分母であった。実際に、マルクス主義という言葉がその研究所の名称に入れられなかったのは、ただ慎重を期するためであったのである。けれども、研究所のさまざまな研究が進展し、諸種の競合する影響が及んでくるにつれて、この当初の同一性はいっそう複雑なニュアンスを帯びたものとなることになった。
 共通経験の第二点は、ユダヤ人ということである。研究所のほとんどすべての代表的メンバーは、富裕な同化ユダヤ人の家の出であった。しかし、ドイツ系ユダヤ人の場合にしばしばそうであるように、かれらはたいていはこの問題をあまり口にせず、口にする時にはある困惑感をもっていた。ヒトラーの登場、研究所のアメリカへの移転までは、反ユダヤ主義という問題はかれらの関心の中で高い位置を占めるものではなかった。それまでは、かれらはドイツのアカデミーの世界におけるコスモポリタン的・自由思想家的少数者のきわめて率直な代表者として際立っていた――このようなドイツの少数者がフランスにインスピレーションを求める傾向は、ハイネやマルクスその人にまでさかのぼるものである。
 ホルクハイマーとアドルノの間の、他に類例のない共同作業がいつから始まったのか、これを精確に見定めることは困難である。かれらが互いに識り合ったのは1922年で、研究所創立の前年であるが、アドルノが正式にこの研究所に加わったのはそれから15年も後のことであった。かれらの精神的合一化には漸進的過程があったように思われる。そしてこの過程がついに、ホルクハイマーがかれらの哲学は「一つ」であるときっぱりと言いうるまでの融合点に到達するにいたったのである。この種の共生(シュムビオーシス)関係は思想史上めったに見られるものではない。直ちに思い浮かぶ類例としては、トックヴィルとボーモン、マルクスとエンゲルスの協力関係くらいのものである。けれども、これらの場合には、明らかに一方が若い協力者であったわけで、当時にあっても後世の眼からしても、一方が支配的な存在であったことは明白である。アドルノとホルクハイマーの関係はそれほど単純ではなかった。前者がより多くものを書き、ずっと有名になったのに対して、後者は共同の研究計画を組織した人であり、前者はこの人の意見にしたがった。その曇りのない友情――知的領域におけると同様、人格的にも深くにまで及んだ――の秘密は、明らかにその気質上の妙を得た対照、多くは偶然的な責任分担にあったのである。
 ホルクハイマーはアドルノより八歳年長であった。1895年にシュトゥットガルトの富裕な製造業者の子として生まれたかれは、哲学の研究論文で博士号を受けるとただちに研究所創設のメンバーの一人となった。以後、かれの成熟期の全生活はこの研究所と結びついており、研究所の移動の歴史はかれ自身のそれと同じであった。しかし、かれがその研究所の所長となり、「社会哲学」の新しい教授職に任命されたのはようやく1930年のことであり、ホルクハイマーはこれ以後フランクフルト大学の学部に研究所代表としての地位を占め、研究所そのものの中での指導者となったのである。その「社会哲学」教授という称号が示すとおり、かれの哲学理解は広く、決して型にはまったものではなかった。そしてまた社会変革に関与しようとする情熱をも秘めていた。1919年のローザ・ルクセンブルク虐殺によりホルクハイマーはイデオロギー上の模範を失い、全幅の共感を寄せうる他の政治上の指導者を二度と見出すことはなかったけれども、さまざまな出来事に関するマルクス主義的解釈を堅持し、理論と実践の統一をマルクス主義者として力説する点では、およそ動揺することはなかったのである。
 青年時代のホルクハイマーはむら気で、自身のない男であったように思われる。1930年代にかれは自信を獲得し、これが年を重ねるにつれて確固たるものとなっていったらしい。ひょっとするとこういう変化は、かれが1928-29年に受けた。短期間ではあるが有効な精神分析に関連していたのかもしれない。いずれにしても、亡命時に指導的立場にあったこの人物は、若干メフィストフェレス的なところのある、強くて非情ですらある組織者(オーガナイザー)――アメリカではよくプロモーターと名づけられるような――のパースナリティ所有者であった。しかしながら、その人格の力が強まるにつれて、紙に自分の思想を書きつけるという仕事――これはそれまでも決して容易なことではなかったのだが――はますます骨の折れるものとなった。かくして、かれはしだいにその大事な友人アドルノの保護者・育成者という役割を受けもつことになり、かれらがいっしょに話し合ったことに最終的な形を与えるのはたいていアドルノということになったのである。
 「テディー」アドルノは、いつでも人間の防壁を必要とする「無防備な」人物であった、とある若い仲間が書いている。「無防備な」というのは、かれが大人として振舞うゲームをするすべを決して学びとることなく、また他の人々が生活したり、かれを出し抜いたりする際の細かな策略のあれこれを見抜けなかったという意味である。かれが研究所に加わったのは遅く、研究所の組織上のごたごたにはまったく無関係でいられた。晩年にかれが教授となったときも、在来の大学教授流儀の振舞い方をせず、この新しい役目は居心地が悪いように見えた。かれは少なくとも四つの領域――哲学、音楽学、文芸批評、社会学――で卓越した業績を挙げたけれども、教授たちのギルドによって十分な承認を得たのは四番目の領域においてのみであった。(かれが長老としてドイツ社会学会の会長に選ばれたとき、かれは子供のように無邪気な喜び方をした。)その生涯を通じてアドルノは「風変わり(エクセントリク)な〔中心を外れた〕」人として、共同の知的営為の辺境(マージン)に異彩を放っていたのである。」スチュアート・ヒューズ『大変貌 社会思想の大移動 1930-1965』荒川幾男・生松敬三訳、みすず書房、1978.pp.104-108.

 これを読んでいて、では日本の場合は?と考えると、そもそも大戦争の時代に日本からアメリカに亡命した知識人はどれほどいたのだろう?と気になった。たとえばハーバードにいた鶴見俊輔は、あえて日米開戦時に交換船にのって日本に戻る道を選んだし、コーネル大学留学中の南博はそのまま滞米したが、かれ自身は日本帰国を望んで果たせなかっただけだ。野坂参三のような政治的亡命者はいるが、学者・知識人として実績ある仕事をしていた人物が、弾圧を避けてアメリカに亡命し、そこでまた大きな仕事をした例はあるのだろうか?思いつかない。誰か知ってます?



B.家族名(姓)がない!
 名前は日本なら名字と個人名、欧米ならたいていファーストネームとセカンドネーム(ファミリーネーム)があるのが当たり前だとぼくらは思っている。しかし、それは必ずしも世界の常識とはいえない。まずはムスリムには家族名はない、のが当たり前らしいというお話。

「アハメド氏?名前は文化:松村圭一郎のフィールド手帳
エチオピアで新首相が就任した。アビー・アハメド首相。はじめて最大の民族であるオロモ人から選出された。私の調査地にも近い田舎町の出身でもある。
 当初、新首相誕生の一部の報道では「アハメド氏」となっていた。これは適切ではない。多くのエチオピア人の名前に家族名を示す名字はない。アラブ諸国などと同じ「自分の名」+「父親の名」。アハメドは彼の父親の名なのだ。正式には祖父の名もつけてアビー・アハメド・アリそのあとに曽祖父ら祖先の名を連ねることもできる。彼らの名前には父系の系譜を記憶する機能がある。
 名前の形式は時代や地域ごとにさまざまだ。インドネシアやミャンマーでもほとんど名字はつけない。日本も江戸時代には庶民は名字を公的に名乗れず、屋号などを使った。武士も本名の諱(いみな)は忌むべき名とされ、通称の字(あざな)を用いた。
 調査地のオロモ人ムスリムは結婚すると、男性は「~の父」と尊称で呼ばれる。~は実際の子の名とはかぎらない。立場や関係でふさわしい呼び名が変わるのだ。
 どの国の人にも名前はある。共通点があるからこそ、相手も自分と同じはずだと勘違いしやすい。世界中のニュースを扱う報道は、その多様で微妙な文化の違いを翻訳して伝える作業でもある。(文化人類学者)。」朝日新聞2018年4月10日朝刊35面文化・文芸欄。

 ムスリムの人の名前は、「個人名+家族名」ではなく、「個人名+父の名」でできているとすると、ムハメド・アリなら「アリの息子のムハメド」だから、日本人ならシンゾー・シンタローってわけだな。「イエ」という観念ではなく父-祖父-曾祖父の系列で考えるのか。ふ~ん、知らなかった。
 知らなかったといえば、難民支援でぼくも、UNHCRに出している献金でロヒンギャ難民を救わなきゃと思っていたのだが、この「ロヒンギャ」ってどういう人たちなのか、よく知らなかった。ただ紛争の犠牲で故郷を追われた難民、としか聞いておらず、ミャンマー南部で隣のバングラデシュ国境を往来して長く暮らしてきたムスリムで、ベンガル系の言葉と顔つきをもつ人たちだという。それがどうして難民化したのか?これがかなり複雑な事情があるらしい。

「ロヒンギャの大量難民
 「アラカン・ロヒンギャ救世軍」(ARSA)を名乗る武装勢力が2017年8月25日、ミャンマー西部・ラカイン(アラカン)州の警察・軍関連施設をナタや竹槍といった武器で襲撃し、国境警備隊や警察官12人を殺害した。これに対してミャンマー国軍は、ロヒンギャ集落で大規模な掃討作戦を実施した。「国境なき医師団」の調査によると、この作戦で一カ月の間に、6700人のロヒンギャが殺害されたという。キャンプを17年11月に訪問したパッテン国連事務総長特別代表は、ミャンマー国軍兵士による女性への集団レイプなど、「人道に対する罪」にあたる残虐行為が組織的に行われたとして、ミャンマー政府を非難した。現地報道によれば、この半年間で70万人ものロヒンギャが国境を越えた。それまでにバングラデシュにいたロヒンギャと合わせて、約111万人が難民キャンプで生活を送る事態となっている。
 ロヒンギャがバングラデシュ国内に大挙して流入したのはこれが初めてではない。
 (中略)
 UNHCRによると2016年当時、バングラデシュ国内には30万人以上のロヒンギャが暮らしていたとされる。ただ、かれらはイギリス植民地時代から、国境であるナフ川を渡って両国を自由に行き来していた。言語もバングラデシュ南東部のチッタゴン訛りのベンガル語を話す。バングラデシュ人とロヒンギャを区別するのは難しく、国境周辺ではロヒンギャを祖先や親戚に持つものも多い。従って、ロヒンギャの数を正確に把握することは困難であり、実数はUNHCRの推計以上とも言われていた。
 こうした状況で、2016年10月9日、武装集団(のちにハラカーアルヤキーンを名乗る)が警察施設三カ所を襲撃、警察官九人が死亡するという事件がラカイン州で起きる。ミャンマー国軍はロヒンギャによる襲撃とみて、取り締まりを名目に軍事行動に出たため、二カ月間で7万人近くのロヒンギャがバングラデシュへと越境した。バングラデシュのハシナ首相は翌年1月12日に、ミャンマーの外務副大臣とバングラデシュの首都・ダッカで会談し、避難民のロヒンギャをミャンマー側に「戻す」要請をするなど、帰還に向けた交渉を進めた。一方でミャンマー政府は、国内のロヒンギャ武装勢力の徹底的な摘発に乗り出し、翌月15日に国家顧問室が、国軍による武装勢力掃討作戦の完了と治安の回復を発表した。
 そして、70万人もの難民発生の直接的要因となった、先述のARSAによる襲撃事件が発生する。ミャンマー政府は、SRSAが上記のハラカーアルヤキーンと同組織であるとして、掃討作戦を実施した。作戦はミャンマー国軍が主体になって実施されたが、警察や国境警備隊、一般の村人も部分的に関わったとされる。軍はロヒンギャの村々に火をつけ、ARSAのメンバーが隠れる場所を徐々になくしていく作戦を実施、大勢のロヒンギャがバングラデシュへと追い立てられた。川を渡って逃げる人びとを岸から銃で狙い撃ちしたり、戻ってこられないように地雷を敷設したりするなど、一連の好意は「テロ掃討作戦」の範疇を大きく逸脱していた。また、ARSAの捜索という名目で、拷問、処刑、レイプなどが公然と行われたとして、国連や国際NGOは批判を強めた。
 ロヒンギャは、ミャンマーのラカイン州に暮らすベンガル系ムスリムが自ら名乗っている呼称だが、ミャンマー政府は、国内におけるロヒンギャという民族の存在をそもそも認めていない。かれらはベンガル系不法移民である、というのがミャンマー政府の主張だ。1982年に施行されたミャンマーの国籍法では、1823年以前から住んでいると認定された民族以外は、個別に審査したうえ、「準国民」「帰化国民」「外国人」に分類される。ロヒンギャは「ベンガリー」と呼ばれ、法的には「外国人」として扱われれている。
 多くのロヒンギャが何世代も前からミャンマーで暮らしているという事実があっても、ミャンマー人の多くは、こうした政府の公式見解を自明のものとして受けとっている。ロヒンギャが土着の民族ではないという政府の歴史認識に加え、ロヒンギャがミャンマーでは少数派のムスリムであることも、ロヒンギャを排除しようという差別意識につながっている。国民の九割近くを占める上座部仏教徒は、キリスト教徒やヒンズー教徒にはそれほど強い差別意識をもっていないが、ムスリムには強い嫌悪感を抱いている。そのため、ムスリムは子どもをたくさん産むから、いつか仏教の国であるミャンマーが乗っ取られるといった根拠のないストーリーや、ムスリムが仏教徒女性を騙して結婚し、イスラームに改宗させているといった根も葉もないうわさが、公然と広まっている。
 加えて、いわゆる「ミャンマー人」と異なり色黒で彫りの深いベンガル系の顔立ちであることや、ベンガル語(バングラデシュの国語)の一方言である独自の言葉を話し、ビルマ語(ミャンマーの公用語)がうまく話せな人が多いことなどが、ロヒンギャに対する差別を助長している。このように歴史、民族、宗教、言語、人種のそれぞれの観点から、ロヒンギャはミャンマーにおいて迫害の対象になってきたといえる。」バングラデシュから見たロヒンギャ問題、『世界』2018.5月号、岩波書店、pp.198-200.
 
 ミャンマー国民の多数派は、言語的にはビルマ語、宗教的には上座部仏教、人種的にはアジア系といってもインドのベンガル人とは異なる。イギリス植民地時代を経て、日本軍の占領のあと戦後に独立したビルマ(のちミャンマーに改称)には、少数派民族もいるが、ロヒンギャはそもそも外国人の不法滞在集団とされていた、という。これだけでも相当に面倒な状況のなかで暮らしてきた人たちなんだな。
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