A.UMBの時代
日本語によるMCバトルはすでに20年の歴史を重ねているので、そこに参加した人も多くなり、名前の知られた人やグループも数多い。KREVAや般若などメジャーなアーティストとしてその作品・音源が大手レーベルから出ている人もいる。ただ、音楽は好きでもこのフリ-スタイルのラップという世界に馴染みのない人(たぶん日本国民全体から見れば98%くらいはそうだろうが…)には、とにかく出てくるラッパーやそのグループの名前が覚えきれない。ふつうの日本名を使う例はきわめて少なく、多くはアルファベットを連ねる。たとえば、Zeebra、FORK、HIDADDY、GOCCI、BESとか、SEEDA、KOPERU、ZONEといった具合の命名。DARTHREIDARはもちろんスターウォーズ由来だろう。他方もいる。環ROY、呂布カルマなんてのはこの折衷か。この世界には、「殿堂入り」とか「引退」もあるらしい。今は2015年に始まった深夜テレビの「フリースタイルダンジョン」が、MCバトルを広く知らしめる隆盛期に入っているが、この先どういった方向に向かうのか、ダース氏にも予測は難しいようだ。
「Da.Me.Records誕生
BBPは崩壊しましたが、会場に集まったラッパーたちの熱気にはすごいものがあり、これをなんとかしたいということで、いちはやく動いたのが漢とMUSSOです。彼らは「お黙り!ラップ道場」というMCバトル大会を始め、これがのちに開催されるULTIMATE MC BATTLE(UMB)に繋がります。企画は大成功で、会場になったクラブは参加するラッパーと熱心なヘッズで満員になりました。ハーコー(ハードコア)な現場でしたが当時のダメレコ勢だけでなく。DEJIやFORK, DOTAMA, AKLOなど、多種多様なラッパーがみんなそこに集っていました。
ダメレコことDa.Me.Recordsとは、2004年に僕がMETEOR、環ROYとともに設立したインディーズのヒップホップレーベルです。その中心となるメンバーとは、2002年から2003年の間に出あいました。METEORとは渋谷HARLEMでSMRYTRPSのデモをもらったのが最初で、聴いたら超面白かったので、すぎに一緒に遊ぶようになりました。FUNKY FIESTAという、僕が当時主宰していた同世代中心のイベントにも出てもらったりしました。FUNKY FIESTAで大阪や広島でもツアーをしたのですが、SRYTRPSのメンバーは自費でついてきてくれました(交通費を出す余裕もなかったんです。情けない話)。
〔中略〕
UMBの大会演出は、黒を基調としたファッションを中心にヒップホップ・サンプリングなロゴやフォントなどを多用して、とにかくアンダーグランドな雰囲気が強く打ち出されたものになっていました。こういったイメージは、デザイナーであるDirty Mezaのセンスで、これがとにかくイけてました。BBPは、ピースアンドユニティという雰囲気の爽やかな昼間のイベントでした。それに対して、MCバトルを一気にハードコア・ストリートヒップホップという雰囲気に塗り替えたのが漢たちによる新宿スタイルです。これによって、バトルの参加者がバトルモードへのスイッチを入れやすくなりました。一回目のお黙り!ラップ道場でもTAROとメシアTHEフライのバトルで、TAROが「メスと言ったらメソッド・マンが好きだ」と言ったら「バカだな、メスといったらあれだ。お子ちゃまはこれだから困るぜ」とメシアが切り替えして観客がガン上がりするという一幕がありました。当時のシーンの雰囲気をわかりやすく象徴していますね。
UMBは予選から観客判定でしたが、観客のほぼ全員が熱心なヒップホップヘッズでもあったため、試合ごとの判定がさほどブレませんでした。勝つべくして勝つ人が多く、選手も判定におおむね納得していました。これは、2003年のBBPにおける般若対FDRKで変則的に行われた観客判断でも観客がFORKに声を上げていたということが一つの証明になっています。この時期、バトルの感情に集まった観客はフリースタイルの評価ができるという「信頼」を勝ち得ていたのです。
僕は恵比寿MILKで行われた第四回予選に出場して優勝します。この様子が収録されたUMB2005のDVDの編集がまたすごいんですよ。僕がラップしてるシーンがほぼない。カウントを間違えているところとかばっかり使われている。後年、Dirty Mezaから「いやー、あのときダース君が勝つのだけは心情的に阻止したかったんだよね」と言われました。僕はいわばマイカデリックという「陽の当たる場所」の残党でもあり、「楽しそうに」ラップしてるダメレコ勢のボスだったので、UMBのイメージにそぐわなかったんだと思います。でも、Dirty Mezaのプロデューサーとしてのヴィジョンには賛成です。
この大会までは優勝者が漢とバトルして、漢に勝ったら賞金が倍になるという制度がありました。一回目の優勝者CANDLEは漢に勝利、二回目のDEJIは敗北しました。僕のときは、司会のMussoが「はい優勝おめでとう!じゃあもう朝だから解散!」みたいな感じでなかったことにしようとしたんですよ。そこで「おいまだもう一人いるだろ」と僕が観客を煽る。すると漢が「うるせーなおい」などとラップしながら出てきて、ルールもなにも決まってない状態でバトルが始まりました。
そのまま交互に五本ほどフリースタールしても互いに譲らず、その場にいた太華くんとAFRAに協力してもらい、ビートボックスで延長バトルしました。漢が「家に帰ってママに甘えてこい!」と言ってきたので、僕が「俺の母親はとっくに死んでるけど天国に今日の勝利を報告してくるぜ!」と返しましたね。のちに漢は「あれはやっちまった!申し訳ねーって思ったね」と言ってました。ただ、それでも決着がつかなかったので最後はアカペラでやりあいまsた。自分の劣勢を察知してか、判定を聞く前に漢が「今日はこれくらいで勘弁してやるよ」といって引き下がろうとしたので「おい待て待て!ちゃんと判定聞こうぜ」と止めました。結果は勝利となり、賞金五万のダブルアップで10万円をもらうことができました。
余談ですが、勝利を祝ってクラブの外で胴上げされたあと、渋谷の山家という居酒屋へ繰り出して打ち上げをしたんです。僕は酒に弱いので一杯で寝てしまい、店員に起こされてあたりを見渡すと、ほかのやつが誰もいない!卓上には手がついていない刺身盛りなどがならんでいて、目の前には四万七千円という伝票が残っていました。僕はビール一杯しか飲んでいないというのに‥‥‥。」DARTHREIDER『MCバトル史から読み解く 日本語ラップ入門』KADOKAWA、2017.pp.045-50.
ヒップホップやラップといった文化の源流は、アメリカのニューヨークなどのスラム地域で黒人や移民の若者たちの集まるクラブや路上で、曲をかけるDJ、呼びかけるMC、歌いあわせて踊る人たちが混じり合うなかから自然発生したもの、といわれる。このMCと掛け合いのバトルを、ラッパー二人の対決にして勝負を争う形は、はじめはヒップホップのなかの余興的な位置づけだったらしい。しかしそれは、競技のように進化した。ただ、英語でやる場合と、日本語でやる場合は言語そのものの特性、とくに発音とライム(韻)をどうするかが鍵になる。この点で、まずは対決の場としてBBPが型を作り、それをUMBが引き継いだ形になる。
UMB2007
「たいへん盛り上がりを見せた決勝大会になりましたが、いろいろと弊害も出てきました。GOCCIが熱い魂をぶつけるエモ系のラップで勝ったので、それに憧れる人たちの流れが出てきます。その結果、特になにも背負ってない人がなぜか背負った風のアツい「げ」なラップをする、と言う風潮が生じます。僕からすると、なんで君はそんなに熱くなれるのって思ってしまう。「俺には絶対譲れないもんがある!」っていっているけどなにそれ、と。しかし、この時期から増えてくる草バトルではこのエモスタイルが受けてしまって、勝ってしまう場面も出てきました。これは、BESのスタイルが、常人が練習してまねできるような代物でなかったということにも一因がありそうです。また、ライミング一辺倒スタイルも飽きられてきていたという事情もあると思います。
草バトルの現場とは別に、GOCCIの優勝によって一気に上の世代が活気づくという一幕もありました。彼らの多くはフリースタイルシーンは自分とは関係のないものと思っていたのです。こっちはアングラでもあるし。でも、QOCCIの優勝で、分断されていたアングラのフリースタイルシーンとメジャーな日本語ラップシーンが再び繋がるきっかけになりました。GOCCIが参戦した背景にはUMBの持つ「ヒップホップ」的磁力が強くなってきたこともあると思います。
ただGOCCIはひとつ大きな問題を残します。それは優勝者として新しい音源を出せなかったことです。実はFORKもソロとしてのリリースはありませんでした。このことで、バトルシーンと音源の関係性が引き剥がされ、フリースタイルばかりやっているようなラッパーや、音源を出さなくても問題ないという風潮が見られてきました。UMBチャンピオンが必ず音源をリリースして、かつそれが売れるという流れが維持できればよかったのですが、結果として二年連続で音源が出せなかった事実は、シーンにとっては痛手でした。
2008-2009
2007年のUMBに訪れた観客は、冒頭のシークレットライブに度肝を抜かれました。そこには般若と漢が並んで立っていたのです。そして般若が次のUMBに出場することを表明しました。もちろん、予選からです。
この頃にはUMBはお祭り化していて、どんなジャンルのラップをしているやつでも、年末には身にくるようになっていました。ただバトルのレベルも上がってきていて、出るやつと出ないやつという区分もはっきりしてきます。出なくてもいいかなという気持ちがMCたちに芽生える一方で、この年は般若や、般若とかつて「般若」というグループを結成していたRUMIが出るということで、現役感をアピールするうえでは無視できないイベントになっていました。みんな、ここで一回実力を示しておかなければならないという感じになっていたのです。
そのころの般若は、すでにソロのレコーディングアーティストとして広く認知されていました。前年度王者GOCCIにオールドスクール感があったのに対し、般若は完全に現役最先端のラッパーでもありました。バトルとしてはBBP時代のレジェンドだった彼が『ドクタートーキョー』というアルバムを引っ提げてカムバックし、結果を出しました。これはいったいどのような事態なのでしょうか。般若の体現するストーリーや、彼の周囲に照らし出された状況がよく現れているという点で、全国大会ではなく、恵比寿LIQUIDROOMで行われた東京予選にスポットを当てていきます。
そんな般若ですが、予選早々から違和感を抱いていたようです。バトル前に馴れ合うなんてありえない。でも、どうも参加者たちはみんなで和気あいあいと待機している。なんなんだこれは、と。まさにこれは、バトルが競技に変質していく匂いでした。アンダーグラウンドで苛烈なバトルを演じていたラッパーたちも、競技バトルでのイベントが積み重なるなかで、いわばバトルの友達のような関係性を築いていました。そこが当時の現役バトルMCと般若との間の意識の誓いだったとも言えます。般若が出てきて一気に優勝したことについて、運営のMUSSOからは「いままでバトルシーンでやっていたやつらが般若を止められなかったのは情けない」と言われました。こういう馴れ合いに対する批判はいまでこそ珍しくないですが、すでに2008年からあったのです。
そんな般若の復活第一回戦は、いまや『フリースタイルダンジョン』でモンスターとして肩を並べることになった、あのDOTAMAと行われます。
*(DOTAMA)
Yo リスペクトすべき般若さん とバトルできる僕は栃木のDOTAMA‥
あんた『根こそぎ』以降いいアルバム出してないと思います 最新作ぜんぜんよくなかった…
(般若)
Ei yo まずお前のことなんも知らねえ お前のアルバムいったい出てきた何枚
俺はお前すらもわかんない そうかたまんない わからないけどこの場で犯罪 …
(DOTAMA)
Yo 言いたいこと 言いたいことがいっぱいあるからマイクを握ってるんです
だから遠慮なく言わせていただきますけど なんかラップ フロウ
最近 SEEDさんにそっくりじゃないですか? こめんなさい般若さん …
ドクター・トーキョー 覚えとけ 僕はドクター・トチギ
(般若)
OK ドクター じゃあ俺が医者になってやるDOTAMA そんなん知らねえょ …
刑事コロンボみたいにお前を推理
そしてまるでTwiGyみたいにお前のしてくこのフロウで …
(般若vs DOTAMA UMB2008東京予選)
実はこの試合は、般若が勝っていない可能性がかなりあります。音源やラップの仕方に対するDOTAMAの攻撃がかなりヒットしていて、般若側がそれに対するアンサーがあまりできていません。般若もあとから一回戦で負けたと思ったというコメントを出したくらいで、バトルが終わったあとの表情がなんとも言えないものなんですよね。観客・陪審ともに般若優勢ということで試合としては般若が勝利します。観客よりも般若本人のほうがいまに近い判定基準を持っていたのかもしれません。
DOTAMAも北関東スキルズというヒップホップグループに所属していた以上、もっとヒップホップ色を出す方法もあったと思いますが、まったくそれはしない。むしろ昔からいまと変わらぬスタイルだったことが知られて一貫性を感じますね。ただ当時の観客が、この相手を小馬鹿にするキーの高い声色を評価できませんでした。そしてみんなが認めている般若の実績を馬鹿にするスタンスはまったく受け入れられなかった。いまはDOTAMAの実績もみんな共有しているので成立するのですが。」DARTHREIDER『MCバトル史から読み解く 日本語ラップ入門』KADOKAWA、2017.pp.067-072.
1978年生まれの般若というラッパーは、自分で妄想族というグループを作っていて、自作のCDを何枚も出して、いまやメジャーな存在になっている。たまたま昨日書店で、新刊の棚にこの人の書いた自伝『何物でもない』幻冬舎、2018を見かけたので買った。いろいろなるほどである。

B.資本の論理を疑うこと自体がタブーなのか?
終幕国会で可決された水道法の問題は、人々の基本的な生活を支える上下水道を民営化することの危機を、多くの国民はほとんどろくに考えることなく、「民営化によって効率が高まり、費用と値段が安くなることが期待される」という説明に疑いをもっていないことに、大きな危惧を感じた。ギャンブルやリゾートは民営化されても、生活に不可欠なものではないから、そんなことには消費しないと思えば勝手にやってればいいし、関連企業が潰れたって別に困らない。だが「社会的共通資本」は、私企業に運営まで任せることでプラスよりマイナスのリスクが高まることは明らかだ。
「折々のことば 鷲田清一
社会的共通資本は‥‥‥利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない
宇沢弘文
水や大気、森や河川といった自然環境と、道路や交通機関、水道や電力といった社会的インフラと、教育や医療、司法や行政といった制度資本は、誰の生活にも不可欠な基盤として「社会的共通資本」なのだと経済学者は言う。だからその管理・運営は、職業的専門家がその職業的規律に従って行動する独立の機構に「信託(イデュシアリー)」の形で委ねられるべきだと。 『社会的共通資本』から。」朝日新聞2018年12月12日朝刊1面。
さらにいえば、生活の安全を保つ仕事、警察や消防が民営化された場合を考えれば、さすがに想像がつくのではないか。私企業は利潤を求め、株主の利益を優先しなければならない組織であるから、株主や経営者の利害に左右され、たとえば警察が大株主の犯罪をもみけしたり、利益にならない低所得者の被害操作を後回しにしたりするとすれば、社会正義が損なわれる。そして、軍隊が民営化されたら・・こんな危険なことはない。
「大波小波 水道法改正と『華氏119』
水道法改正案が衆院委員会で強行採決された後、六日に衆院本会議で可決、成立した。
公共事業が民営化される流れに乗ったように見えるが、本紙報道にもあったように、今回導入される民間売却・委託方式は、1984年にパリ市で導入され、その結果、「水メジャー」と呼ばれる企業のもとで、水料金は二十五年間で三・五倍に高騰した。実は国民にとって高くつくのだ。そのせいで水道事業を再公営化する都市が多く、世界の趨勢に逆行する時代遅れな方式なのである。
今回の法改正では指摘する人が少なかったが、経済的損失だけではない。マイケル・ムーア監督のトランプ批判の記録映画『華氏119』を見た人は思い当たるはずだ。
トランプに支持されたミシガン州知事が水道事業を民営化した。その結果、水道会社のコスト削減案によって、飲料水に鉛が混入し、子供たちに深刻な知能や遺伝子的な障害が出た。その事実を当局は医師や下級官吏に圧力をかけ、隠し続けた。
公共の福祉には当然費用がかかる。ここに企業と同じ利益第一主義の原則を導入すれば、福祉という考えそのものが根本から傷つけられる恐れがある。今こそ起ち止まって再考すべき時だ。 (水俣)」東京新聞2018年12月12日、夕刊五面、文化欄。
詩や小説などというものは、疲れを癒す娯楽の一種で、読んで面白いかどうかが命だ、と思っている人は多い。そう思っているということは、まともに詩や小説を読んだことがないか、そのような形でしか文字を読む習慣がない、ということだろう。まあ、スマホやネットの普及で、紙媒体の文字を読むこと自体が、人が知識情報を得る源として衰退しつつあるから、詩や小説なんてもともと読まなくてもなにひとつ困らないと思う人は国民の7割くらいいただろうし、今後はさらに「文学」の衰退は進むのかもしれない。だが、文化としての小説のうち、娯楽エンタメを需要としてこれに応えるために書かれる作品が9割になって、他の娯楽に比べて長い小説などさらに誰も読まなくなっても、小説は書かれることも間違いないと思う。
「父を問い、時代を問う 新作小説『流砂』を刊行 黒井千次さん
作家の黒井千次さんが、小説の新作『流砂』を講談社から刊行した。同社の文芸誌『群像』で2012年から今年まで、断続的に発表した連作の短編十三編をまとめたもの。時間をかけて向き合い、つづり続けたのは、父を巡る物語。今年八十八歳となった作家が「いつかは書きたい、書かねば」とずっと思い定めてきた重要なテーマだ。 (三品信)
舞台は東京の近郊。七十歳を過ぎた元会社員が妻と暮らし、同じ敷地内の別棟には九十歳を超す父と母が住む。検事だった父の老境と過去の仕事、自らもまた直面する老い、亡友の追憶と残された手記―。さまざまな人物や題材、時代の影がモザイクのように組み合わされ、物語は太く大きな流れを獲得していく。
今後も書き継ぎ、全体を三部構成とする構想だ。中心になるのは、父と息子の関係。作品には、黒井さんの父が実際に書いた文章を引用して重要な役目を果たさせるなど、その実人生を色濃く投影させている。
「父は明治から大正、昭和、平成と四つの時代を生きました。昭和から平成を生き、その父を見ながら育った息子が、父をどう考えるか。父をどう描くかは、ぼくの場合、消えないテーマなのだと思います」
世の息子たちにとって目標であり、超えるべき壁でもある父親。黒井さんにとってはさらに特別な存在でもある。それは、実父が最高裁の判事を務めた長部勤吾氏(1901-91)だったことと関わる。
「端的にいえば、戦時下の思想検事という職業。調べてみるとぼくの父親は、思想検事であった時期が確かにあるんです」
思想検事。今日では耳慣れない言葉だが、戦前の日本には、国家が危険とみなした思想の持ち主を取り締まる検事や警官、憲兵がいた。「思想犯」を治安維持法などに基づいて取り締まり、思想を変えさせる「転向」を促していたのだ。
戦前・戦中の圧制国家を支える官僚機構の一端にいた法律家の父。戦後の民主的な社会の中で育って文芸を志し、やがて『時間』や『羽根と翼』など重要な作品で、1952年の「メーデー事件」など学生の政治行動を共感とともに描く息子。二人の関係は、一筋縄では表現できない。父と対立し「許せない」と思った時期もあったという。
「それが、年を取ってくるとね、やっぱり違ってくるんですよ。もっと若いときにおやじのことを書いていたら、こういうふうには書かなかったろう、と」
いたずらに尖鋭的な関係性を描くのではない。ともに老いて、長い時間を共有しあうことになった親子。その息子から見て父とは誰であったか、この社会で何をしてきたのか。そうした問いを通じてこの国の戦前から戦後の時代をも問う、時間と記憶の小説だ。
黒井さんが2011年に書いたエッセー「父と息子の間」(『老いのつぶやき』所収)を読むと、その翌年から発表し始めた本作に寄せる思いの深さがしのばれる。一節を引用したい。《小説を書くことを生涯の仕事として選んで以降、親は潜在的なテーマとして絶えず身体の奥に明滅し続けている。にもかかわらずその親を正面に据えた小説をまだ書いてはいないのだから、当のテーマは依然として宿題の殻をかぶったままだ。このままいけば、ついに果たせなかった宿題として残る可能性が高い。理由は明らか、それが難しい仕事であるからに他ならない》
日本芸術院の院長、日中文化交流協会の会長。さまざまな重責を担いつつの執筆生活の中で、長年の「宿題」をいよいよ果たしつつある黒井さん。平成という時代の幕切れを前に準備中の第二部では、《戦後とアメリカ》が大きなテーマになるという。「昭和におけるアメリカ。日本の中でのアメリカ。日本人にとってのアメリカっていうものを、書いておきたいことがあるように思っています」東京新聞2018年12月12日、夕刊五面、文化欄。
ぼくたちは、そんなに熱心に小説を読んできたとは言えないけれど、それでも時々折々に話題になった作品を手に取って読んでみたり、それがただ愉快で引き込まれる娯楽だという以上のなにかが、そこにあると感じる経験はしてきた。そこから、もう一歩時間があれば、ある小説をていねいに読み込んでみたいと思ったことはある。それには、いくつか自分の方の条件が整わないとできなくて、とりあえずゆっくり読む時間と、こちらがある年齢を重ねて作者の意図が推測できるだけの経験をしていることが必要だろう。黒井千次『流砂』もそういう小説のようだから、いずれ読もう。
日本語によるMCバトルはすでに20年の歴史を重ねているので、そこに参加した人も多くなり、名前の知られた人やグループも数多い。KREVAや般若などメジャーなアーティストとしてその作品・音源が大手レーベルから出ている人もいる。ただ、音楽は好きでもこのフリ-スタイルのラップという世界に馴染みのない人(たぶん日本国民全体から見れば98%くらいはそうだろうが…)には、とにかく出てくるラッパーやそのグループの名前が覚えきれない。ふつうの日本名を使う例はきわめて少なく、多くはアルファベットを連ねる。たとえば、Zeebra、FORK、HIDADDY、GOCCI、BESとか、SEEDA、KOPERU、ZONEといった具合の命名。DARTHREIDARはもちろんスターウォーズ由来だろう。他方もいる。環ROY、呂布カルマなんてのはこの折衷か。この世界には、「殿堂入り」とか「引退」もあるらしい。今は2015年に始まった深夜テレビの「フリースタイルダンジョン」が、MCバトルを広く知らしめる隆盛期に入っているが、この先どういった方向に向かうのか、ダース氏にも予測は難しいようだ。
「Da.Me.Records誕生
BBPは崩壊しましたが、会場に集まったラッパーたちの熱気にはすごいものがあり、これをなんとかしたいということで、いちはやく動いたのが漢とMUSSOです。彼らは「お黙り!ラップ道場」というMCバトル大会を始め、これがのちに開催されるULTIMATE MC BATTLE(UMB)に繋がります。企画は大成功で、会場になったクラブは参加するラッパーと熱心なヘッズで満員になりました。ハーコー(ハードコア)な現場でしたが当時のダメレコ勢だけでなく。DEJIやFORK, DOTAMA, AKLOなど、多種多様なラッパーがみんなそこに集っていました。
ダメレコことDa.Me.Recordsとは、2004年に僕がMETEOR、環ROYとともに設立したインディーズのヒップホップレーベルです。その中心となるメンバーとは、2002年から2003年の間に出あいました。METEORとは渋谷HARLEMでSMRYTRPSのデモをもらったのが最初で、聴いたら超面白かったので、すぎに一緒に遊ぶようになりました。FUNKY FIESTAという、僕が当時主宰していた同世代中心のイベントにも出てもらったりしました。FUNKY FIESTAで大阪や広島でもツアーをしたのですが、SRYTRPSのメンバーは自費でついてきてくれました(交通費を出す余裕もなかったんです。情けない話)。
〔中略〕
UMBの大会演出は、黒を基調としたファッションを中心にヒップホップ・サンプリングなロゴやフォントなどを多用して、とにかくアンダーグランドな雰囲気が強く打ち出されたものになっていました。こういったイメージは、デザイナーであるDirty Mezaのセンスで、これがとにかくイけてました。BBPは、ピースアンドユニティという雰囲気の爽やかな昼間のイベントでした。それに対して、MCバトルを一気にハードコア・ストリートヒップホップという雰囲気に塗り替えたのが漢たちによる新宿スタイルです。これによって、バトルの参加者がバトルモードへのスイッチを入れやすくなりました。一回目のお黙り!ラップ道場でもTAROとメシアTHEフライのバトルで、TAROが「メスと言ったらメソッド・マンが好きだ」と言ったら「バカだな、メスといったらあれだ。お子ちゃまはこれだから困るぜ」とメシアが切り替えして観客がガン上がりするという一幕がありました。当時のシーンの雰囲気をわかりやすく象徴していますね。
UMBは予選から観客判定でしたが、観客のほぼ全員が熱心なヒップホップヘッズでもあったため、試合ごとの判定がさほどブレませんでした。勝つべくして勝つ人が多く、選手も判定におおむね納得していました。これは、2003年のBBPにおける般若対FDRKで変則的に行われた観客判断でも観客がFORKに声を上げていたということが一つの証明になっています。この時期、バトルの感情に集まった観客はフリースタイルの評価ができるという「信頼」を勝ち得ていたのです。
僕は恵比寿MILKで行われた第四回予選に出場して優勝します。この様子が収録されたUMB2005のDVDの編集がまたすごいんですよ。僕がラップしてるシーンがほぼない。カウントを間違えているところとかばっかり使われている。後年、Dirty Mezaから「いやー、あのときダース君が勝つのだけは心情的に阻止したかったんだよね」と言われました。僕はいわばマイカデリックという「陽の当たる場所」の残党でもあり、「楽しそうに」ラップしてるダメレコ勢のボスだったので、UMBのイメージにそぐわなかったんだと思います。でも、Dirty Mezaのプロデューサーとしてのヴィジョンには賛成です。
この大会までは優勝者が漢とバトルして、漢に勝ったら賞金が倍になるという制度がありました。一回目の優勝者CANDLEは漢に勝利、二回目のDEJIは敗北しました。僕のときは、司会のMussoが「はい優勝おめでとう!じゃあもう朝だから解散!」みたいな感じでなかったことにしようとしたんですよ。そこで「おいまだもう一人いるだろ」と僕が観客を煽る。すると漢が「うるせーなおい」などとラップしながら出てきて、ルールもなにも決まってない状態でバトルが始まりました。
そのまま交互に五本ほどフリースタールしても互いに譲らず、その場にいた太華くんとAFRAに協力してもらい、ビートボックスで延長バトルしました。漢が「家に帰ってママに甘えてこい!」と言ってきたので、僕が「俺の母親はとっくに死んでるけど天国に今日の勝利を報告してくるぜ!」と返しましたね。のちに漢は「あれはやっちまった!申し訳ねーって思ったね」と言ってました。ただ、それでも決着がつかなかったので最後はアカペラでやりあいまsた。自分の劣勢を察知してか、判定を聞く前に漢が「今日はこれくらいで勘弁してやるよ」といって引き下がろうとしたので「おい待て待て!ちゃんと判定聞こうぜ」と止めました。結果は勝利となり、賞金五万のダブルアップで10万円をもらうことができました。
余談ですが、勝利を祝ってクラブの外で胴上げされたあと、渋谷の山家という居酒屋へ繰り出して打ち上げをしたんです。僕は酒に弱いので一杯で寝てしまい、店員に起こされてあたりを見渡すと、ほかのやつが誰もいない!卓上には手がついていない刺身盛りなどがならんでいて、目の前には四万七千円という伝票が残っていました。僕はビール一杯しか飲んでいないというのに‥‥‥。」DARTHREIDER『MCバトル史から読み解く 日本語ラップ入門』KADOKAWA、2017.pp.045-50.
ヒップホップやラップといった文化の源流は、アメリカのニューヨークなどのスラム地域で黒人や移民の若者たちの集まるクラブや路上で、曲をかけるDJ、呼びかけるMC、歌いあわせて踊る人たちが混じり合うなかから自然発生したもの、といわれる。このMCと掛け合いのバトルを、ラッパー二人の対決にして勝負を争う形は、はじめはヒップホップのなかの余興的な位置づけだったらしい。しかしそれは、競技のように進化した。ただ、英語でやる場合と、日本語でやる場合は言語そのものの特性、とくに発音とライム(韻)をどうするかが鍵になる。この点で、まずは対決の場としてBBPが型を作り、それをUMBが引き継いだ形になる。
UMB2007
「たいへん盛り上がりを見せた決勝大会になりましたが、いろいろと弊害も出てきました。GOCCIが熱い魂をぶつけるエモ系のラップで勝ったので、それに憧れる人たちの流れが出てきます。その結果、特になにも背負ってない人がなぜか背負った風のアツい「げ」なラップをする、と言う風潮が生じます。僕からすると、なんで君はそんなに熱くなれるのって思ってしまう。「俺には絶対譲れないもんがある!」っていっているけどなにそれ、と。しかし、この時期から増えてくる草バトルではこのエモスタイルが受けてしまって、勝ってしまう場面も出てきました。これは、BESのスタイルが、常人が練習してまねできるような代物でなかったということにも一因がありそうです。また、ライミング一辺倒スタイルも飽きられてきていたという事情もあると思います。
草バトルの現場とは別に、GOCCIの優勝によって一気に上の世代が活気づくという一幕もありました。彼らの多くはフリースタイルシーンは自分とは関係のないものと思っていたのです。こっちはアングラでもあるし。でも、QOCCIの優勝で、分断されていたアングラのフリースタイルシーンとメジャーな日本語ラップシーンが再び繋がるきっかけになりました。GOCCIが参戦した背景にはUMBの持つ「ヒップホップ」的磁力が強くなってきたこともあると思います。
ただGOCCIはひとつ大きな問題を残します。それは優勝者として新しい音源を出せなかったことです。実はFORKもソロとしてのリリースはありませんでした。このことで、バトルシーンと音源の関係性が引き剥がされ、フリースタイルばかりやっているようなラッパーや、音源を出さなくても問題ないという風潮が見られてきました。UMBチャンピオンが必ず音源をリリースして、かつそれが売れるという流れが維持できればよかったのですが、結果として二年連続で音源が出せなかった事実は、シーンにとっては痛手でした。
2008-2009
2007年のUMBに訪れた観客は、冒頭のシークレットライブに度肝を抜かれました。そこには般若と漢が並んで立っていたのです。そして般若が次のUMBに出場することを表明しました。もちろん、予選からです。
この頃にはUMBはお祭り化していて、どんなジャンルのラップをしているやつでも、年末には身にくるようになっていました。ただバトルのレベルも上がってきていて、出るやつと出ないやつという区分もはっきりしてきます。出なくてもいいかなという気持ちがMCたちに芽生える一方で、この年は般若や、般若とかつて「般若」というグループを結成していたRUMIが出るということで、現役感をアピールするうえでは無視できないイベントになっていました。みんな、ここで一回実力を示しておかなければならないという感じになっていたのです。
そのころの般若は、すでにソロのレコーディングアーティストとして広く認知されていました。前年度王者GOCCIにオールドスクール感があったのに対し、般若は完全に現役最先端のラッパーでもありました。バトルとしてはBBP時代のレジェンドだった彼が『ドクタートーキョー』というアルバムを引っ提げてカムバックし、結果を出しました。これはいったいどのような事態なのでしょうか。般若の体現するストーリーや、彼の周囲に照らし出された状況がよく現れているという点で、全国大会ではなく、恵比寿LIQUIDROOMで行われた東京予選にスポットを当てていきます。
そんな般若ですが、予選早々から違和感を抱いていたようです。バトル前に馴れ合うなんてありえない。でも、どうも参加者たちはみんなで和気あいあいと待機している。なんなんだこれは、と。まさにこれは、バトルが競技に変質していく匂いでした。アンダーグラウンドで苛烈なバトルを演じていたラッパーたちも、競技バトルでのイベントが積み重なるなかで、いわばバトルの友達のような関係性を築いていました。そこが当時の現役バトルMCと般若との間の意識の誓いだったとも言えます。般若が出てきて一気に優勝したことについて、運営のMUSSOからは「いままでバトルシーンでやっていたやつらが般若を止められなかったのは情けない」と言われました。こういう馴れ合いに対する批判はいまでこそ珍しくないですが、すでに2008年からあったのです。
そんな般若の復活第一回戦は、いまや『フリースタイルダンジョン』でモンスターとして肩を並べることになった、あのDOTAMAと行われます。
*(DOTAMA)
Yo リスペクトすべき般若さん とバトルできる僕は栃木のDOTAMA‥
あんた『根こそぎ』以降いいアルバム出してないと思います 最新作ぜんぜんよくなかった…
(般若)
Ei yo まずお前のことなんも知らねえ お前のアルバムいったい出てきた何枚
俺はお前すらもわかんない そうかたまんない わからないけどこの場で犯罪 …
(DOTAMA)
Yo 言いたいこと 言いたいことがいっぱいあるからマイクを握ってるんです
だから遠慮なく言わせていただきますけど なんかラップ フロウ
最近 SEEDさんにそっくりじゃないですか? こめんなさい般若さん …
ドクター・トーキョー 覚えとけ 僕はドクター・トチギ
(般若)
OK ドクター じゃあ俺が医者になってやるDOTAMA そんなん知らねえょ …
刑事コロンボみたいにお前を推理
そしてまるでTwiGyみたいにお前のしてくこのフロウで …
(般若vs DOTAMA UMB2008東京予選)
実はこの試合は、般若が勝っていない可能性がかなりあります。音源やラップの仕方に対するDOTAMAの攻撃がかなりヒットしていて、般若側がそれに対するアンサーがあまりできていません。般若もあとから一回戦で負けたと思ったというコメントを出したくらいで、バトルが終わったあとの表情がなんとも言えないものなんですよね。観客・陪審ともに般若優勢ということで試合としては般若が勝利します。観客よりも般若本人のほうがいまに近い判定基準を持っていたのかもしれません。
DOTAMAも北関東スキルズというヒップホップグループに所属していた以上、もっとヒップホップ色を出す方法もあったと思いますが、まったくそれはしない。むしろ昔からいまと変わらぬスタイルだったことが知られて一貫性を感じますね。ただ当時の観客が、この相手を小馬鹿にするキーの高い声色を評価できませんでした。そしてみんなが認めている般若の実績を馬鹿にするスタンスはまったく受け入れられなかった。いまはDOTAMAの実績もみんな共有しているので成立するのですが。」DARTHREIDER『MCバトル史から読み解く 日本語ラップ入門』KADOKAWA、2017.pp.067-072.
1978年生まれの般若というラッパーは、自分で妄想族というグループを作っていて、自作のCDを何枚も出して、いまやメジャーな存在になっている。たまたま昨日書店で、新刊の棚にこの人の書いた自伝『何物でもない』幻冬舎、2018を見かけたので買った。いろいろなるほどである。

B.資本の論理を疑うこと自体がタブーなのか?
終幕国会で可決された水道法の問題は、人々の基本的な生活を支える上下水道を民営化することの危機を、多くの国民はほとんどろくに考えることなく、「民営化によって効率が高まり、費用と値段が安くなることが期待される」という説明に疑いをもっていないことに、大きな危惧を感じた。ギャンブルやリゾートは民営化されても、生活に不可欠なものではないから、そんなことには消費しないと思えば勝手にやってればいいし、関連企業が潰れたって別に困らない。だが「社会的共通資本」は、私企業に運営まで任せることでプラスよりマイナスのリスクが高まることは明らかだ。
「折々のことば 鷲田清一
社会的共通資本は‥‥‥利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない
宇沢弘文
水や大気、森や河川といった自然環境と、道路や交通機関、水道や電力といった社会的インフラと、教育や医療、司法や行政といった制度資本は、誰の生活にも不可欠な基盤として「社会的共通資本」なのだと経済学者は言う。だからその管理・運営は、職業的専門家がその職業的規律に従って行動する独立の機構に「信託(イデュシアリー)」の形で委ねられるべきだと。 『社会的共通資本』から。」朝日新聞2018年12月12日朝刊1面。
さらにいえば、生活の安全を保つ仕事、警察や消防が民営化された場合を考えれば、さすがに想像がつくのではないか。私企業は利潤を求め、株主の利益を優先しなければならない組織であるから、株主や経営者の利害に左右され、たとえば警察が大株主の犯罪をもみけしたり、利益にならない低所得者の被害操作を後回しにしたりするとすれば、社会正義が損なわれる。そして、軍隊が民営化されたら・・こんな危険なことはない。
「大波小波 水道法改正と『華氏119』
水道法改正案が衆院委員会で強行採決された後、六日に衆院本会議で可決、成立した。
公共事業が民営化される流れに乗ったように見えるが、本紙報道にもあったように、今回導入される民間売却・委託方式は、1984年にパリ市で導入され、その結果、「水メジャー」と呼ばれる企業のもとで、水料金は二十五年間で三・五倍に高騰した。実は国民にとって高くつくのだ。そのせいで水道事業を再公営化する都市が多く、世界の趨勢に逆行する時代遅れな方式なのである。
今回の法改正では指摘する人が少なかったが、経済的損失だけではない。マイケル・ムーア監督のトランプ批判の記録映画『華氏119』を見た人は思い当たるはずだ。
トランプに支持されたミシガン州知事が水道事業を民営化した。その結果、水道会社のコスト削減案によって、飲料水に鉛が混入し、子供たちに深刻な知能や遺伝子的な障害が出た。その事実を当局は医師や下級官吏に圧力をかけ、隠し続けた。
公共の福祉には当然費用がかかる。ここに企業と同じ利益第一主義の原則を導入すれば、福祉という考えそのものが根本から傷つけられる恐れがある。今こそ起ち止まって再考すべき時だ。 (水俣)」東京新聞2018年12月12日、夕刊五面、文化欄。
詩や小説などというものは、疲れを癒す娯楽の一種で、読んで面白いかどうかが命だ、と思っている人は多い。そう思っているということは、まともに詩や小説を読んだことがないか、そのような形でしか文字を読む習慣がない、ということだろう。まあ、スマホやネットの普及で、紙媒体の文字を読むこと自体が、人が知識情報を得る源として衰退しつつあるから、詩や小説なんてもともと読まなくてもなにひとつ困らないと思う人は国民の7割くらいいただろうし、今後はさらに「文学」の衰退は進むのかもしれない。だが、文化としての小説のうち、娯楽エンタメを需要としてこれに応えるために書かれる作品が9割になって、他の娯楽に比べて長い小説などさらに誰も読まなくなっても、小説は書かれることも間違いないと思う。
「父を問い、時代を問う 新作小説『流砂』を刊行 黒井千次さん
作家の黒井千次さんが、小説の新作『流砂』を講談社から刊行した。同社の文芸誌『群像』で2012年から今年まで、断続的に発表した連作の短編十三編をまとめたもの。時間をかけて向き合い、つづり続けたのは、父を巡る物語。今年八十八歳となった作家が「いつかは書きたい、書かねば」とずっと思い定めてきた重要なテーマだ。 (三品信)
舞台は東京の近郊。七十歳を過ぎた元会社員が妻と暮らし、同じ敷地内の別棟には九十歳を超す父と母が住む。検事だった父の老境と過去の仕事、自らもまた直面する老い、亡友の追憶と残された手記―。さまざまな人物や題材、時代の影がモザイクのように組み合わされ、物語は太く大きな流れを獲得していく。
今後も書き継ぎ、全体を三部構成とする構想だ。中心になるのは、父と息子の関係。作品には、黒井さんの父が実際に書いた文章を引用して重要な役目を果たさせるなど、その実人生を色濃く投影させている。
「父は明治から大正、昭和、平成と四つの時代を生きました。昭和から平成を生き、その父を見ながら育った息子が、父をどう考えるか。父をどう描くかは、ぼくの場合、消えないテーマなのだと思います」
世の息子たちにとって目標であり、超えるべき壁でもある父親。黒井さんにとってはさらに特別な存在でもある。それは、実父が最高裁の判事を務めた長部勤吾氏(1901-91)だったことと関わる。
「端的にいえば、戦時下の思想検事という職業。調べてみるとぼくの父親は、思想検事であった時期が確かにあるんです」
思想検事。今日では耳慣れない言葉だが、戦前の日本には、国家が危険とみなした思想の持ち主を取り締まる検事や警官、憲兵がいた。「思想犯」を治安維持法などに基づいて取り締まり、思想を変えさせる「転向」を促していたのだ。
戦前・戦中の圧制国家を支える官僚機構の一端にいた法律家の父。戦後の民主的な社会の中で育って文芸を志し、やがて『時間』や『羽根と翼』など重要な作品で、1952年の「メーデー事件」など学生の政治行動を共感とともに描く息子。二人の関係は、一筋縄では表現できない。父と対立し「許せない」と思った時期もあったという。
「それが、年を取ってくるとね、やっぱり違ってくるんですよ。もっと若いときにおやじのことを書いていたら、こういうふうには書かなかったろう、と」
いたずらに尖鋭的な関係性を描くのではない。ともに老いて、長い時間を共有しあうことになった親子。その息子から見て父とは誰であったか、この社会で何をしてきたのか。そうした問いを通じてこの国の戦前から戦後の時代をも問う、時間と記憶の小説だ。
黒井さんが2011年に書いたエッセー「父と息子の間」(『老いのつぶやき』所収)を読むと、その翌年から発表し始めた本作に寄せる思いの深さがしのばれる。一節を引用したい。《小説を書くことを生涯の仕事として選んで以降、親は潜在的なテーマとして絶えず身体の奥に明滅し続けている。にもかかわらずその親を正面に据えた小説をまだ書いてはいないのだから、当のテーマは依然として宿題の殻をかぶったままだ。このままいけば、ついに果たせなかった宿題として残る可能性が高い。理由は明らか、それが難しい仕事であるからに他ならない》
日本芸術院の院長、日中文化交流協会の会長。さまざまな重責を担いつつの執筆生活の中で、長年の「宿題」をいよいよ果たしつつある黒井さん。平成という時代の幕切れを前に準備中の第二部では、《戦後とアメリカ》が大きなテーマになるという。「昭和におけるアメリカ。日本の中でのアメリカ。日本人にとってのアメリカっていうものを、書いておきたいことがあるように思っています」東京新聞2018年12月12日、夕刊五面、文化欄。
ぼくたちは、そんなに熱心に小説を読んできたとは言えないけれど、それでも時々折々に話題になった作品を手に取って読んでみたり、それがただ愉快で引き込まれる娯楽だという以上のなにかが、そこにあると感じる経験はしてきた。そこから、もう一歩時間があれば、ある小説をていねいに読み込んでみたいと思ったことはある。それには、いくつか自分の方の条件が整わないとできなくて、とりあえずゆっくり読む時間と、こちらがある年齢を重ねて作者の意図が推測できるだけの経験をしていることが必要だろう。黒井千次『流砂』もそういう小説のようだから、いずれ読もう。
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