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女優列伝Ⅱ 原ひさ子さん1  「戦ふ兵隊」

2017-07-09 23:10:00 | 日記
A.女優列伝Ⅱ 原ひさ子1
 原ひさ子さんは、1909(明治42)年、静岡市生まれ。本名、石島久(旧姓森川)。33年前進座に入座。35年新橋演舞場「牛を喰う」で初舞台。同年山中貞雄監督「街の入れ墨者」のアフレコで映画デビュー。以来、可愛いおばあちゃん役で親しまれ、映画「生きたい」「三文役者」「老親」などにも出演。

「父は昔、お侍さんだったものですから、腰が寂しかったんじゃないでしょうか、初めはお巡りさんをしていたようです。昔のお巡りさんは腰にサーベルを差してましたから。でもすぐにやめちゃって、銀行員になりました。親戚が地元の静岡銀行や三十五銀行で頭取さんをしていたものですから、入れてもらったんじゃないかと思いますけども、はい。
 (中略)久さんには兄二人と姉がいた。
 父は私が六歳のときに亡くなったので、白髪頭のおじいさんのような記憶がぼんやりあるきりで、ほとんど覚えてないんです。私は上の兄とはかなり離れていたと思います。
 父が亡くなった後、姉は東京にいる父の妹夫婦の家に養女に行きました。姉は青山学院の小学校に通ってましたから、たぶん十歳くらいで東京に行ったんじゃないでしょうか。叔母夫婦とは前から仲が良くて、そこに子供がいなかったものですから、「跡取りに一人頂戴」というようなことだったみたいです。そして下の兄は大阪の親戚の家を手伝ってたんですけれど、体が弱くて、戻って西深草で療養しているうちにいけなくなって、十九歳くらいで亡くなりました。
 ですから私は、母と上の兄と三人暮らしになったんです。上の兄も銀行に勤めてました。でも兄のお給料だけでは大変ですから、母も親戚のうちを手伝うようになりました。親戚は裕福な家が多かったので、きっと女中頭のようなことをしてたんじゃないかと思います、はい。
 西深草町では、親戚も近くにおりましたし、ご近所も仲が良くて、夏の夕方なんか表に縁台を出して、皆さんと一緒によく夕涼みをしたのを覚えてます。
 私は県立女子師範の附属小学校に通ってましたんですが、父が亡くなった後、二階のお部屋に女子師範の音楽の先生が下宿なさって、その方が素敵な女の先生だったので、子供心に自分も大きくなったら先生になりたいなんて思ったりしましてね。
 母と兄が働いていましたから、私は学校から帰ると一人で本ばかり読んでました。兄が読書家で、書棚にズラーっと本を並べてましたので、私がその中から引っぱり出して戻しておきますと、「あ、お前、またいじったな」なんて言われましてね(笑)。兄はすごくきちんとした性格の人だったもんですから、私がいい加減に突っ込んどいたりすると、すぐにわかるんですね。兄は短歌が好きで、石川啄木さんの歌集などを持っていて、自分でも銀行のお仲間と同人誌っていうんでしょうかね、そういうものを作ってました。最後の頃には、静岡でも有名だったようです。
 私も兄の影響で短歌を作るようになって、「少女倶楽部」という雑誌に投稿したら、入選して、頂いた図書券で吉屋信子先生の小説を買った覚えがあります。いえ、母や兄は知らなかったと思います。内緒でやってましたから(笑)。確か、女学校二年の時です。」斎藤明美『家の履歴書―男優・女優篇』キネマ旬報社、2011.pp.194-195. 

 父が静岡で侍だったという人が最近まで生きていた、というのも何だか夢のような話だが、幕府崩壊後の静岡で武士だったといえば、徳川家について江戸から静岡に移った元幕臣旗本だったかもしれない。原さんのもつおっとりした雰囲気や、優雅な言動をみると、家は裕福とはいえなかったかもしれないが、上品な育ち方をされたようにみえる。 

「私が上京した時は、叔父の家は青山(港区)から本郷(文京区)に移ってました。東大の傍に旅館下宿の空き家があったので、そこを買ったそうです。母屋と棟続きになっている木造の二階家で、部屋数は十五、六、女中さんも五人くらいいました。東大の正門前で「光琳」という喫茶店も始めたんです。
 まもなく、実母と叔母が相次いで亡くなり、久さんは叔父の後添え、「三番目の母」の元で、結婚を控えた姉と長唄や作法の先生に通って花嫁修業を始めた。
 (中略)
 そんな時、新聞の広告で前進座の座員募集というのを見て、前進座のお芝居を観たこともなかったし、劇団が何かも知らなかったんですけど、一遍そういう試験というものを受けてみようと思ったんです。ですから、就職試験のつもりで、もしその時、どこか会社の事務員さんの募集が出ていたら、そっちへ行ってたと思うんですけど。
 当時の女優さんというと、田中絹代さんとか及川道子さんとか、綺麗な方達がたくさんいましたから、自分みたいなブスは、あるいは背の低い舞台映えしない者がお芝居をやるなんて考えてもおりませんでした。ただ、子どもの頃から読んだり書いたりすることが好きでしたので、そんなことと関係のあることができるんじゃないかしらとは漠然と思っていたかもしれません。亡くなった叔母も新しい叔母も映画が好きで、よく尾上松之助さんや阪妻(阪東妻三郎)さんの映画を見てましたけど、そういう世界に自分が入るなんてことは、夢にも思っていませんでしたねぇ。
 
 河原崎長一郎や中村翫右衛門らによって昭和6年に結成された前進座を、久さんが受けたのは昭和8年、ニ十四歳の時。渡された脚本を音読し、言われるままに動き、長唄を披露した久さんは、一週間後に合格通知を貰う。

 十二、三人の方が受けに来られてました。そのうちの男女合わせて五人ほどが受かったんじゃないでしょうか。久保栄(劇作家、演出家)さんに「訛りがないけど、どこの生まれ?」と聞かれた覚えがあります。静岡でも伊豆や下田のほうは、「○○ずら」とか「おみゃあ(お前)」なんていう方言があるんですけど、静岡市内は標準語でしたから、私は訛りがなかったんです。それとパントマイムと言うんですか、当時はそんな言葉も知らなかったんですけど、立ったり座ったり、仕草に癖がなくて素直でいいと言われました。つまり、何もできないっていうことですけどね(笑)。
 (三番目の)母には話してあったので、「やってごらん」と言われました。でも叔父は内心怒ってたと思いますよ。お婿さんを貰うかお嫁にやるつもりだったのが劇団なんてところに通いはじめるんですから。それと静岡の兄がとても怒りましてねぇ。手紙で知らせたら、「うちはこれでも武士の出だ。女優なんてとんでもない」って、それからは三年、手紙の返事もくれませんでした。でもその後は前進座というのは真面目なお芝居をする劇団だということがわかってもらえて、返事をくれるようになりましたけれども、当座はもう怒って大変でした。
 本郷から前進座のある吉祥寺(武蔵野市)まで通う日々が始まった。初舞台は二年後の新橋演舞場「牛を喰う」の小さな役。続いて映画「街の入れ墨者」で河原崎国太郎の声をアフレコしたのが映画デビュー。そして昭和12年、座員の石島房太郎と結婚した。

 叔父が亡くなったこともあって、母も私たち夫婦と長女と一緒に吉祥寺で前進座の共同生活に入りました。あそこは全員が平等ですから、創立者の偉い方もみな同じ二間ずつの長屋の生活だったんです。そして食堂部や売店部など、その人に合った部署で座員が働いてお給料を貰うシステムになっていて、うちの母も食堂部で働いていました。ただ集団で暮らしてますといろいろ問題も起こるので、河原崎長十郎さんの奥様が音頭取りになって、婦人グループというのを作り、そこで皆が意見を出し合っていくというふうにしたんですね。だからわりにトラブルもありませんでした。
 昭和16年長男誕生。18年、前進座を退坐した夫妻は、俳優の河野秋武の勧めで東宝に所属。文京区小石川原町の借家に転居した。」斎藤明美『家の履歴書―男優・女優篇』キネマ旬報社、2011.pp.197-199.

 1933年に前進座に入るきっかけは、単に働いてみようと考えて偶然募集広告に応募しただけ、というわけで、演劇・歌舞伎のことも前進座がどういう劇団なのかも、よく知らなかったというのも、まあ世間知らずのお嬢さんだったのだろうが、それだけではあの時代、長続きは難しかっただろう。やはり、この人のなかに女優に向いたなにかがあったはずだ。

「長生きの秘訣ですか?特別なことは何もしていないんですけども……(笑)。そうですねぇ、食べるものに好き嫌いがないことと、物事にこだわらないでざっくばらんな生活をしてきたからじゃないでしょうか。今はさすがに歳だもんですからやめましたけど、最近まで犬を連れて近くの公演を日に一、二度は散歩して足ならししておりました。

 「ふるびなや 九十年の 越し方を」
 近年の映画では、「悪魔の手毬歌」「黒い雨」「踊る大捜査線」など、決して大きな役ではないが、愛すべき庶民の“おばあちゃん”役は、そのまま原さんの人柄を表わしている。

 長いこと芸能界という所に置いていただいてますけど、イヤなことはほとんどなかったです。皆さんに親切にしていただいて。偉くないですし、高望みもしませんから(笑)。四十前後からずっとおばあちゃんの役をやってきましたしねぇ。
 子どもが生まれたときに本当はよそうと思ったり、八十八のお祝いをしていただいた時におしまいにしようと思ったり……。でもそのままお仕事が続いていたもんですから、やめる機会がなくて今になっちゃったということですね。無理をしないでゆったりしたペースで、お声がかかればお仕事をさせていただいております、はい。(2001年3月22日号)」斎藤明美『家の履歴書―男優・女優篇』キネマ旬報社、2011.pp.200-202.
2005年12月4日永眠96歳。

 日本映画でよく知られた「おばあちゃん女優」といっても、北林谷栄さんのような実力演技派もあれば、浦部粂子さんや千石規子さんのような少し毒のある個性派もあるなかで、原ひさ子さんはけれんも嫌味も皆無の「愛すべき可愛いおばあちゃん」を代表する女優だった。それはたぶん、このおっとりして人を思わず緩やかに和ませるような語り口に現われる、育ちの良さによるものだったように思える。



B.今日の新聞から
 日曜日の新聞は、あまり読まれないのか、それとも平日忙しい人がゆっくり目を通すのか、知らないが、土曜から富山に行っていて、新幹線で戻って来たので目を通したら、ふ~んという記事があった。

 「たとえ軍から依頼された映画であっても、戦争の実相を何とか伝えたい。そう考え、行動した監督が日中戦争のさなかにいた。亀井文雄が1939年に完成させた記録映画「戦ふ兵隊」には、戦火に追われ逃げる中国の人びとが延々と映し出される▼日本軍に火を放たれた家屋があり、破壊された街並みが見える。一方で戦死した兵士に届いた手紙を戦友が読み上げる場面もある。この戦いは「誰の利益にもならない無駄なことなのだ」と、亀井は後に書いている。それを観客がくみ取れる映画にしたかったという(『たたかう映画』)▼しかし映像が当時の人々の目に触れることはなかった。「銃後の戦意をくじく」として上映が禁止になった。しばらくして亀井が治安維持法で逮捕される際の理由にもなった▼中国大陸での戦争の実像は、徹底的に隠された。しかし戦後も、それが広く共有されたと果たして言えるだろうか▼日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件から、7日で80年になった。東京都内で開かれたシンポジウムで印象に残った言葉がある。「これは、語れない戦争なんです」。略奪や虐殺があったがために家族に話すことがはばかれらる。だから日中戦争の記憶が薄れているのだと、山田朗・明治大学教授が訴えていた▼原爆や空襲の経験ですら語り継ぐのは簡単ではない。ましてや加害の過去を胸に刻むのは大きな痛みを伴う。それでも避けて通れない道であろう。愚行を将来、繰り返さないためには。」朝日新聞2017年7月9日朝刊1面「天声人語」
 
 真珠湾攻撃をはじめ太平洋でのアメリカ相手の戦争や、東南アジアでの戦争は日本映画でも外国の映画でもそれなりに題材として描かれているが、その前に長く続いた日中戦争、太平洋の戦争の原因となった中国大陸での泥沼化した戦争のことは、いまだに日本映画でちゃんと描かれたことがあったのだろうか?おそらく中国ではたくさん作られただろうし、その内容は基本的に侵略者日本がいかに非道で残虐なことを中国の民衆にしたか、という点を強調したものであっただろう。
 そのような映画を日本で公開することは、思いだしたくない記憶を呼び覚ますだけでなく、両国間に刺激と緊張をもらたすことがわかっているから、日本ではそういった映画は目に触れることがない。たまたま国際的な映画賞のような評価を得たものだけが、こっそり上映されることはあっても(たとえばチャン・イーモウの「赤いコーリャン」やチァン・ウェンの「鬼子来了!(鬼が来た)」など)。しかし、これではいつまでも不毛な誤解が訂正されない。日本映画であの日中戦争を事実に即してリアルに描く作品が出てこないものか?かつての小林正樹監督作「人間の條件」は、原作に沿って日本の軍隊が中国大陸で何をやったかを日本人を主人公にして描いていた貴重な映画だったが、あれはおもに満州が舞台で、同じ五味川純平の原作「戦争と人間」ももっぱら満州だった。もちろん満州も中国大陸で日本の関東軍の支配地域だったことから歴史的に重要だが、第2次世界大戦参戦の直接の原因をなしたのは、盧溝橋事件以降の日本軍の「支那」侵略戦争にあるわけだから、これをなんとかして掘り起こして映像で何があったのかを、見せる意味はいまも大いに必要だと思う。

「「核の傘」に頼る唯一の被爆国:「橋渡し役」かすむ日本:北朝鮮がこんな状況なのに、(米国など)核保有国の存在を認めない条約には絶対、反対だ」。採択を受け、日本外務省の幹部は語気を強めた。
 日本は3月の交渉会議の初日に不参加を宣言。「核兵器国と非核兵器国の対立をいっそう深め、両者の協力を重視するわが国の立場に合致しない」(岸田文雄外相)として、反対の立場を貫いてきた。
 日本は安全保障を米国の核抑止力に頼る。北朝鮮が核・ミサイル開発を加速させるなか、「核の傘」の重要性は以前にも増して強調されている。日本政府関係者は「日本の核抑止政策が核保有国の核を前提としている以上、核禁条約は基本的に相いれない」と話す。一方で日本は唯一の戦争被爆国として核廃絶を訴えてきた。被爆地・広島選出の岸田外相も当初は「交渉に積極的に参加し、唯一の被爆国として主張すべきはしっかり主張したい」と強い意欲を示した。
 その後、米国で核戦力の増強を示唆するトランプ政権が誕生。ドイツなど、米国の「核の傘」に頼る国々も続々と不参加で足並みをそろえ、日本も消極姿勢に傾いた。国際原子力機関(IAEA)元幹部のタリク・ラウフ氏は「日本政府は米政府への忠誠と、自国民の核軍縮への思いとの間で板挟みになっている」と指摘する。
 核保有国と非核保有国の「橋渡し」としての日本の存在感はかすんでいる。(下司佳代子)」朝日新聞2017年7月9日朝刊、2面総合2面。

 これも毎度、日本政府のダブルスタンダードというか、対米従属路線の強化が核軍縮をただのお題目化することに日本政府がきわめて積極的であることを示す例だろう。アメリカの核に守ってもらっている以上、世界の全ての国が核をなくすのでないかぎり、核禁条約など交渉する意味はないとする態度を「唯一の被爆国」日本がとることの、本音と建て前の矛盾は、だれが見ても明らかだ。外務省が考える「国益」とは、アメリカ合衆国に絶対に嫌な顔をされないこと、だけなのだろう。だったら閣僚の靖国参拝なども外務省は待ったをかけたほうがよいと思うのだが。
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