goo blog サービス終了のお知らせ 

gooブログはじめました!

写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

戦争の終わらせ方 10 スターリングラードの絶滅戦  「神曲」の比喩

2022-06-06 21:26:17 | 日記
A.独ソ戦の山場
 第2次大戦の山場、独ソ戦の天王山ともいうべきヴォルガ河畔の都市スターリングラード攻防戦は、1942年8月からドイツ軍の「アオサギ作戦」の空爆にはじまり、第六軍による壮絶なソ連軍との市街戦は、「ネズミの戦争(ラッテンクリーク)」と呼ばれた。ドイツ軍に占領されたスターリングラードの奪回をはかるスターリンの赤軍は、11月19日に反攻を開始した。目標はドイツ第六軍の包囲殲滅である。ソ連軍がとった天王星作戦の基礎には、日露戦争の敗北および第1次世界大戦以来、ソ連の軍人・軍事思想家たちが独自に完成した「作戦術(アビラーチヴノエ・イスクーストヴァ)」があったという。戦争目的を定め、そのために国家のリソースを戦力化するのが「戦略」であるとすれば、「作戦術」は戦争目的を達成するために、戦線各方面に「作戦」あるいは「戦役(キャンペーン)」を、相互に連関するように配していくものだという。そのなかで個々の作戦を実行するに際して、生起する戦闘に勝つための方策が「戦術」である。用兵思想として、戦略次元の下部、戦略と作戦を重ねたところにある。従来の戦争計画は、軍中央による大きな戦略があり、それに基づいて個々の作戦を実行するとだけ考えて、あるいみ短期的な作戦の積み重ねて勝利に至ると考えていたものを、ソ連軍の「作戦術」はその中間に、時間的・空間的に各軍の充分な連携と、有機的な配置を用意するものだった。そして、当初負け続けていたソ連軍が、本格的な反攻に出るのがこのスターリングラード攻防戦だった。包囲されてもヒトラーに死守を命じられたドイツの第六軍が、ソ連軍の降伏勧告を拒否し、追い詰められた司令官パウルス元帥が敗北を認め投降したのは1月31日。5か月にわたる攻防戦は、スターリンの名を冠した人口60万の大都市を廃墟にした。

 「ともあれ、このように、1942年末から1943年春までのソ連軍冬季攻勢は、いくつもの作戦(戦役)を有機的に組み合わせていた。作戦術の観点から説明すれば、ドイツB軍集団の中核である第六軍の撃滅を目的とする「天王星」、南部ロシアのドイツ軍すべての壊滅を企図する「土星」、中央軍集団の主力第九軍の包囲を狙う「火星」、続いて中央軍集団の撃滅をめざす「木星」(「海王星」)が、戦略の観点から配されている。
 これは、単なる作戦の段階分けではなく、ドイツ軍諸部隊の撃滅、予備兵力の拘束、戦略的な要点の確保などのさまざまな機能が、相互に作用するかたちとなっていた。「バルバロッサ」や「青号」が示したように、作戦・戦術次元ではソ連軍に優越していたドイツ軍であったが、こうした、戦略に沿ったかたちで作戦を配置するということは、ついにできなかった。ドイツ軍指導部には、作戦次元の勝利を積み重ねていくことで、戦争の勝利につなげるとの発想しかなかったのだ。したがって、ソ連軍は、人的・物的資源といったリソース面のみならず、用兵思想という戦争のソフトウェアにおいても、優位に立っていたのである。
 なお、この時期以降のジューコフの経歴をみると、「赤軍参謀総長代理」の補任が目立つ。これは、互いに連関する諸戦役を実行する各正面軍の調整にあたるもので、そうした点からも、ソ連作戦術が機能し始めたことを読み取れるだろう。
 もはや、スターリングラードの第六軍に危機が迫っていることは、ヒトラーの眼にも明らかであった。11月20日、ベルヒテスガーデンの山荘で凶報を受けたヒトラーは、レニングラード攻略の準備をしていた第11軍司令官エーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥を、スターリングラード救出の指揮を執らせるために、南へ向かわせた。
 同日、ヒトラーは、空軍参謀総長ハンス・イェショネク上級大将を呼び寄せる。英本土航空戦の失敗以来、面目を失っていた空軍総司令官げーリンクは、ヒトラーとの会見を避けるようになっており、この日も不在だった。代理となったイェショネクは、第六軍が包囲されても、空輸補給でその戦力を維持できるかとのヒトラーの問いかけに、致命的な答えを返す。輸送機で必要な物資を運び、第六軍を支えることができると断じたのだ。そのため、マンシュタインが救援作戦を成功させるまでのあいだ、空から第六軍に補給することができると考えたヒトラーは、11月21日、パウルス第六軍司令官に現在地の死守を命じた。だが、第六軍の最低必要物資が一日あたり500トンと定められたのに、同軍が降伏するまで、この目標数値が達成されることはなかった。
 おそらく、第六軍が包囲された直後、11月24日までに突囲していれば、大幅な退却になったとはいえ、同軍が壊滅することはなかっただろうという点では、多くの戦史家が一致している。しかし、ヒトラーは固守命令を出し、第六軍の陣地を「スターリングラード要塞」と称した。これは、あくまで外から救援されなければならなかったのである。
 11月22日、マンシュタインはスターリングラード内外の戦域を統轄するため、新編されたドン軍集団の司令官に任命された。第四装甲軍、第六軍、ルーマニア第三軍が、この軍集団の麾下に入った。11月28日、マンシュタインは、最初の救援計画を完成させた。装甲部隊が、スターリングラードまでのおよそ130キロを踏破し、第六軍を解放するというものだ。「冬の雷雨(ヴィンターゲビッター)」の秘匿名を付された反攻作戦は、12月12日払暁に開始され、当初は順調な進捗をみせた。だが、続々と増援されるソ連軍の前に、攻撃のテンポは鈍る。赤軍大本営代表として、スターリングラード方面に派遣されていたヴァシレフスキーは、南部ロシアのドイツ軍撃滅を企図する攻勢作戦「土星」よりも、スターリングラードの解囲を阻止するほうが優先されるべきだと決断していた。ゆえに、「土星」作戦用の兵力の一部が割かれ、「冬の雷雨」拒止にまわされたのである。そのため、ロストフ・ナ・ドヌーをめざす雄大な作戦だった「土星」は、ドン川流域にあったドイツ軍のホリト軍支隊とイタリア第八軍を包囲撃滅することを企図した「小土星」に縮小された。この作戦は12月16日に発動され、イタリア第八軍の戦線を突破、ドイツ軍にさらなる圧力をかけている。
 こうしたソ連軍の対応にもかかわらず、12月19日、ドイツ軍の前に、一筋の光明が差した。「冬の雷雨」の先鋒となっていた第六装甲団が、スターリングラードにいる味方部隊より50キロの地点に到達したのだ。このとき、包囲された第六軍の一部からは、救援軍が放つ砲火の射撃光が目撃されたという。
 ただ一度だけ、訪れた好機ではあった。が、マンシュタインが放った救援部隊は、もはや戦力の限界に達している。ここでソ連軍の包囲を解くためには、包囲環の外からのみならず、内部からの圧力が必要だった。マンシュタインは、早くも12月18日に、第六軍に突囲を命じる権限を与えてくれるよう、総統大本営に請願した。
 しかし、ヒトラーは、第六軍の突破を許可しなかった。結局、第六軍はスターリングラードから動こうとせず、「冬の雷雨」に投入された救援部隊も、ソ連軍の反撃を受けて、12月末までに攻勢発起線に押し戻されたのである。
 核て、1943年初頭の東部戦線の状況は、ドイツ軍にとっては、悪夢にひとしいありさまとなった。
 第六軍は包囲され、救援される見込みもないまま、消耗しつつある。ドイツ軍の補助役を務めていたルーマニア軍、イタリア軍、ハンガリー軍の諸部隊は、ソ連軍の攻撃を受けて、雲散霧消してしまった。南部ロシアのドイツ軍戦線は無数の地点で寸断されたのだ。
 もっとも、中央軍集団の戦区では、1942年11月から1943年1月の戦いで、ドイツ軍は激しく抵抗し、ソ連軍の「火星」作戦を挫折させ、より大きな戦果を狙う「木星」、もしくは「海王星」作戦を未発に終わらせている。また、「冬の雷雨」作戦の圧力により、「土星」が「小土星」に格下げになったことは、すでに述べた。このように、必ずしも完璧に達成されたわけではなかったにもかかわらず、作戦術にもとづくソ連軍の連続攻勢は、ドイツ軍、とくに南部ロシアとコーカサスの諸部隊を、崩壊一歩手前まで追いつめていたのである。
 しかし、ヒトラーは、前年冬のモスクワ前面の危機を救ったのは、自らの死守命令だったと信じ込んでおり、今度の冬にも同じ処方箋を書くつもりだった。一例を挙げれば、コーカサスに突出していたA軍集団は、きわめて危険な状態にあった。もし、ソ連軍が予定通りに「土星」を発動し、ロストフ・ナ・ドヌーを奪回していたなら、A軍集団は退路を断たれ、ドン川流域とコーカサスのあいだで殲滅されていただろう。つまり、同軍集団を撤収させることは喫緊の要であったのだが、ヒトラーがそれを認めたのは、1942年12月29日であり、それも一部の撤退を許しただけだった。その結果、A軍集団麾下にあった第一装甲軍がドン川を越え、ドニェツ中流域に再結集を開始するのは、1943年1月にずれこんだ。
 スターリングラードのドイツ第六軍もまた、ヒトラーの死守命令に従ったがために、崩壊に突き進んでいた。戦闘による損害、補給不足、極寒によって、第六軍の戦力は減殺される一方だったが、司令官のパウルスは、1943年1月9日のソ連軍による降伏勧告を拒否したのだ。以後、ソ連軍は、第六軍撃滅を企図した「輪」作戦を推し進めた。1943年1月24日、パウルスは、スターリングラード「要塞」は保持不可能で、生き残り部隊を少人数のグループに分けて、突破脱出させる許可を求めた。が、総統大本営から返ってきたのは、その決定はヒトラーに留保されるとの回答だった。同日ソ連軍は、第六軍を南北に分断した。
 1月30日、パウルスは元帥進級の辞令を受けた。プロイセン・ドイツ軍の歴史において、元帥が降伏したことはない・元帥となったパウルスも最後まで戦うだろうと、ヒトラーは信じたのである。けれども、スターリングラードで必要とされていたのは、栄誉ではなく、パンと銃弾だった。
 1月31日、パウルスとスターリングラード市南部のドイツ軍は、ソ連軍に投降した。2月2日には、市北部の部隊も降伏する。パウルス降伏の報を受けたヒトラーは、彼はなぜ自決しなかったのかと激怒したという。捕虜となったのち、パウルスは、ヒトラーとナチス批判に傾斜した。ついには、投降した将兵を以て「ドイツ革命軍」を結成するとの案を出したが、ソ連側が、この計画を顧慮することはなかった。」大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』岩波新書、2019年、pp.157-164.

 戦争を指導し実施するのは、誰なのか?ふつうはその国のトップ指導者、強力な権力者だと思うが、軍人であるか軍人出身の指導者は、ナポレオンをはじめいろいろいるが、民主的な選挙で選ばれる指導者には軍人ではない政治家が多い。戦争を実際に行うのはプロの軍人だとすると、独裁的政治指導者と軍中央との関係は一体とは限らない。日本は軍人が実権を握って戦争をやったので、大元帥・天皇は戦争の指導はやれないしできない。でも、ナチス・ドイツは軍人ではないヒトラーが、実際の作戦の指示や将軍の人事まで取り仕切っていた。ヒトラーは「万能の偉人」とされていたからだが、戦後、敗北の責任はすべてヒトラーのせいにして、軍人たちは責任逃れをしたことは確かだろう。


B.詩のもつ独自性
 詩人吉野弘氏が、高校生のために書いた詩論『詩の楽しみ』(岩波ジュニア新書)で、吉野氏は「詩とは“言葉で、新しくとらえられた、対象(意識と事物)の一面である”と定義する」と言っています。詩は誰でも書くことができるが、それが小説や論文などほかの文章と違うのは、言葉というものの不完全性を逆手に取っていることにあるという。
 海を一度も見たことがない人に、海をどう説明するか?いろいろ言葉を考えてみても、海を見ていない人には海という言葉だけではじゅうぶんではない。また、現実の海がもつ多様性、たとえば太平洋と日本海の印象の違いまでは、言葉で説明するのは難しい。しかし、一度海を見てしまえば、それぞれの具体的イメージははっきりする。そして、言葉はそれが名指したものを個々のイメージから切り離し、ひとつの集約した像として描き出す。たとえば、犬とか猫という言葉は、実際には多様な個性をもつ犬や猫を、ひとつの抽象的概念として、表現してしまう。そういうことを意識的に、言葉を使って新しく覚醒させる、それが詩だと言っている。
 詩はこの作用を効果的に達成するために、比喩というテクニックを使う。

 「ダンテ(1265~1321、伊。詩人)の『神曲』が比喩の宝庫です。その中から一つご紹介します。『神曲』は地獄編・煉獄編・天国編の三つから成っていますが、この地獄編のある箇所に、自殺者の罰せられている風景が出てきます。自殺者は「自分自身に暴力を加えた」罪で罰せられているのですが、彼等は地獄で木に姿を変えられています。木といっても葉は緑ではなく黒ずみ、枝もすらりと伸びているのでなく、ねじれ、ふしくれだち、木の実はもちろんなく、毒を含んだ刺があるだけ。そういう木が森をなしており、森にはアルピエという人面の怪鳥がいて、木の芽を啄(ついば)んでいます。
 ダンテはヴィルジリオ(紀元前70~19、ローマの詩人)という師の案内で地獄をめぐっているのですが、この森ですすり泣きを聞き、それが木から発せられていることがわかりません。不審そうな顔で説明を求めるダンテに、ヴィルジリオが「手近の小枝を手折(たお)ってみなさい。事情がわかるから」と言います。
 ダンテが言われた通りにしますと、折り取られた小枝の付け根から血と声とが一緒に噴き出て、こう叫びます。「なんというひどいことをする。お前には哀れみの心がないのか、わたしは今、このような木に姿を変えられているが、元は人間なのだ。」
 ダンテは驚愕のあまり小枝を取り落とす。ヴィルジリオはダンテに代わって木に詫びるのですが、折り取られた小枝の付け根から血と声とが一緒に噴き出たという描写の鮮烈さは、どうでしょう。
 この情景をダンテはこんなふうに描いています。

 たとへば生木(なまき)の一端(かたはし)燃え、一端よりは雫(しずく)おち風声(かぜこえ)を成してにげさるごとく
 詞(ことば)と血と共に折れたる枝より出(い)でにき、
             (岩波文庫、ダンテ『神曲』・山川丙三郎訳)
 この頃の都市生活では、物の煮炊きに薪を使うことがほとんどなくなってしまいましたから、燃えている生木の切り口から樹液が小さな風を伴って噴き出してくる様子など、今の若い人は知らないでしょうが、私が子どもだった頃は、カマドで米を炊き、お汁を作るのが普通で、燃料も薪が普通でした。米を炊くときは途中で火勢を弱めると、炊きそこないの、シンのあるご飯になるので、上手に薪を継ぎたしてゆくのがカマド番の子どもの役目だったのです。薪の中には乾きの不充分な生木もまじっていて、そういう生木をカマドに入れると、熱せられた生木の断面から樹液が泡状に沸騰して出てきます。珍しくない日常の光景でした。
 ダンテはこの光景を、地獄で罰せられている自殺者の或る情景描写に転用したわけです。『神曲』は架空の物語ですから、比喩は、地獄・煉獄・天国でのことを“目に見えるように”書くという目的で多用されているのですが、詩における比喩の力をあまり重要に考えない人でも、ダンテの比喩の、こういう例にふれると、少しは考えを変えてくれるものではないかと思われます。」吉野 弘『詩の楽しみ 作詩教室』岩波ジュニア新書、1982年。pp.156-158. 
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 戦争の終わらせ方 9 ヒト... | トップ | 戦争の終わらせ方 11 スタ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事