A.男優列伝Ⅲ 緒形拳3
緒形拳という人は、役者として様々な仕事を残し「日本を代表する男優のひとり」であったことは言うまでもないが、ほかにも多彩な技芸を示す人だった。とくに書は大胆かつ独創的な文字を書くことでも知られる。文章も味があるのだが、長い文章より詩のようなものが、この人の精神の形と気概を示していて素晴らしい。そのひとつを掲げる。
「恋慕渇仰〔れんぼかつごう〕:
役者、字を書くこと、やきもの、篆刻、絵。
腹を空かした蛙のように飛びついて、無我夢中になる。
どれも、満足できるものは、まだない。
自分に喝采をおくるには程遠い。
わが国では、この道一筋ふうの求道者めいた生き方を尊ぶ風潮がある。その中では軽蔑されかねない。中途半端な芸であれば尚更だ。
脇目もふらずに一芸を修めるのがホンモノなのだろうか。なら二流でも三流でもいい。
小器用にならず、とりあえず一生懸命である。遊びながら真面目なのである。
そんなふうにやってきて、いつも何かに挑みながら、楽しんだり苦しんだり、鼻歌を歌いながら悶々としているのだ。
島田、辰巳に魅了され、新国劇に入ったものの、離群性の強い癖のために劇団を離れた。
不埒、放埓の徒と映ったであろう。
そしてそれはその通りである。
笑うと純朴、素朴のように見える。
幾度その笑顔で騙してきたことか。
日常演技をしないつもりでも、フト演じているのかもしれない。」緒形拳『恋慕渇仰』東京書籍、1993. pp.116-117.
映画の中の緒形拳も多彩だが、いちいち触れるときりがないので、3つだけにする。一番目は、今村昌平「復讐するは我にあり」1979の中の殺人鬼、榎津巌。監督との差異の出会い。
「今村監督に「会いたい」と言われて会っただけで、そのときにはまだ何のために会うことになったのか分からなかった。
「今村さんの作品を見ていたので、もっと獰猛な人を想像していた。会ってみると、大学の先生みたいに温かくて、頭がよさそうで、でもちょっと詐欺師っぽくて、いろんなことをよく見抜いている。人の話を食い入るように聞くんだ。そのときに何を話したか忘れたけど、興奮して三時間ぐらいしゃべったんじゃないかな。映画監督ってこういう人のことをいうんだと思った。で、その日だったか次の日だったか、台本が送られてきたんだ」
今村昌平監督が『神々の深き欲望』(68年)以来、十一年ぶりに手がけた劇映画『復讐するは我にあり』(79年)は、佐木隆三が直木賞を受賞した同名ノンフィクションの映画化である。九州、浜松、東京で五人を殺害し一九六四年(昭和三十九年)正月に逮捕された西口彰の実話で、原作と映画では主人公の名前を榎津巌という架空のものに変えてある。榎津巌が史上最大といわれる重要指名手配をかいくぐった七十八日間の逃亡記録と彼の生い立ちを、映画はドキュメンタリー・タッチで再現している。
ぼくはこの作品を初めて見たとき、すごい衝撃を受けた。殺人を繰り返す榎津の不可解な残酷さに背筋が凍り、そんな人物に魅力を感じる自分にも驚いた。
緒形が演じる主人公の榎津は、相手の弱みにつけ込む術を身に付けている。そして殺される側にもそれなりの理由があることがよく分かる。人間のもつ欲の深さと罪の深さを感じさせ、人間って何だろうと考えさせる傑作である。
俳優たちのリアルな演技が素晴らしい。
三國連太郎が演じる父・鎮雄は熱心なカトリック信者だが、宗教に逃避する人間のずるさを感じさせる。倍賞美津子が演じる妻・加津子はそんな義父に好意を持ち、本音を押し殺して生きている。浜松で旅館を営む女主人ハルを演じる小川真由美は、男に頼りながら生きてきた女の色っぽさと哀しさがにじむ。そんなハルの母・ひさ役の清川虹子は、前科を持つ女の業を見事に演じている。
榎津が大根畑で最初に人を殺すシーンの生々しさ、競艇狂いのひさ乃が榎津に前科を告白するシーンのエロティシズム、そんなシーンの一つ一つに目をそらすことができない吸引力がある。
今村は知る人ぞ知る調査魔である。『復讐するは我にあり』の場合も、主人公となる犯人の実像を求めて出身地や犯行現場を取材して回った。特に浜松には二年間で十回ぐらい通って被害者の人間関係やキャラクターを調べ上げた。
脚本に時間をかけるだけでなく、映画作りが実に丁寧なのだ。俳優を集めて本読みをし、可能な限り実際に事件があった現場で撮影する。」垣井道弘『緒形拳を追いかけて』ぴあ、2006.pp.115-116.
緒形拳は、強烈な悪役をたくさん演じているが、他方で限りなく善良誠実な人物も演じている。榎津巌は悪役の白眉だが、たとえば「砂の器」の三木巡査という善人の手本のような役も忘れ難い。こういうことは、優れた役者なら誰でもできるというものではない。極悪に徹する榎津もよく見ると恐ろしいだけの人間にはしない。「復讐するは我にあり」では、愛人とその母と3人で食事をする場面で、「食欲がない」と言いながら、がつがつと貪るように食べる。「食欲がない」のならそれなりの演技をする所を、台詞とは逆の行為をしてみせる。このアイディアは現場で緒形拳が考え、今村がそれ面白いと採用したという。演出家の意図をそのまま反映するのではなく、俳優が独自の提案を出して画面に強い色合いを添える。山﨑努も三國錬太郎もそういう役者だった。それを知って監督はまた、一緒に仕事がしたくなる。
「肉体で演じる緒形さんも悩んでいたが、具体的な動作をやってみることで、ぱっと人物をつかむ瞬間があった。例えば、最初に人を殺して逃走した後、一息ついて手の血に気づく場面である。水道に行って洗うのは尋常すぎてしっくりこない。そこで小便をして手を洗えと指示した。彼は素直に従い、一物を元気に振りながら実際に手を洗った。その動きで何かが腑に落ちたようだった。こういう時、演出家はしめた、と思う。詐欺師などの知能犯が強盗殺人などを犯すことは稀とされていて、机上では理解しがたいこの男のありように、肉体で演じることで肉薄した緒形さんを見ながら、私も嬉しかった」(今村昌平「映画は狂気の旅である/私の履歴書」日本経済新聞社)
二番目は、これも今村昌平「楢山節考」1983の、誠実な息子。こちらは善人なのだが、母を捨てることの痛みをどう表現するか?日本が豊かな先進国になっていた1983年に、「楢山節考」を再度映画にした今村昌平は、この点を強く意識し、長野県小谷村真木という過疎の山村で茅葺き民家の集落にスタッフを閉じ込め、実写のロケでこの映画を作った。そこは、車で入ることができない、山道を歩く事1時間半の美しい村である。時代は江戸時代に設定されているが、街道沿いで12軒、90人が暮らし、昭和の始め頃には電気も通じ、分校もあったが、その当時は最後の住人が山を降り、廃村になった場所だった。
この作品は、カンヌ映画祭でグランプリを取ることになるが、日本の前近代的村落共同体のもっとも残酷な側面と、人間が生きていくことの極限にある痛みを伴った崇高さを炙り出している。おりんという女性を演じた坂本スミ子、息子の辰平を演じた緒方拳にとっても演技者として力を込めた特別な作品だったと思う。
物語は「楢山まいり」をめぐって展開する。70歳を迎えた冬には皆、楢山へ行くという掟であり、山へ行くことは死を意味し、おりんの夫、利平も母親の楢山まいりの年を迎え、その心労に負け行方不明となった。息子の辰平に嫁が来て、おりんはこれで安心して楢山へ行けると喜ぶ。おりんは嫁を気に入り、年齢と相反した丈夫な歯を物置の石臼に打ちつけて割る。晩秋、おりんは明日山へ行くと告げ、夜が更けて、しぶる辰平を責め立てて楢山まいりの途につく。楢山の頂上は白骨と黒いカラスの群れる禿げ山だ。辰平は母を背負って猛然と山を登り「おっ母あ、雪が降ってきたよう! 運がいいなあ、山へ行く日に」と言う。雪の中に置き去りにされるおりんは黙って頷き、早く戻れと手を振る。
ここで繰り返し描かれるのは、閉ざされた共同体でみんなが生きていくために、高齢者を山に捨て、掟を破るものは生き埋めにして抹殺し、新しい生命を生み出す性のエネルギーを、生存のために暴力でコントロールする残酷である。それは豊かになった日本では、もう失われた土俗的な秩序である。外部を遮断した共同体ではそれは善悪を超えた社会の掟である。歴史的にそのような現実が、ほんとうにあったかどうかはわからない。でも、かつて貧しい農村の生活を経験した人たちには、これは決して夢物語ではなく、「姥捨て伝説」は各地に残っていた。深沢七郎という人は、そういう江戸時代以来の共同体の記憶を文学にした稀有な作家だった。そして、今村昌平はこれを現代の日本への根源的な批判として、過激な映画作品にした。
豊かな社会日本に生きていたぼくたちは、これが架空の世界だと思いながらも、人間が生きていくとは結局こういうことなのかもしれない、と考える。そこでは、人の命も生活の喜びも、厳しい自然の条件の中でぎりぎりの決断を迫られる。元気すぎる高齢女性おりんはその共同体秩序を英雄的に毅然として引き受けて、自分の人生の知恵を若い嫁にしっかり伝授して、愛する息子に自分を背負って楢山に行くことを命じる。長い人生を決意を持って生きてきた女が、このように白骨の散らばる墓場で、降りしきる雪の中で命を終わることは、老人ホームで厄介者扱いされながら完備した医療に取り巻かれて死ぬことと比べて、どっちが豊かな死に方か、いやでも観客は考える。
映画の最後は、母を捨てるために背負って道なき道を必死で歩いていく息子の道行きをリアルにじっくり描く。ぼくらはこれを見ているうちに、自分が母を捨てに行く息子に同一化して、思わず涙が出てしまう。
三番目は、相米慎二「魚影の群れ」1983の、カツオ漁師房次郎。大間漁港のマグロ漁師を主人公にした吉村昭の小説が「魚影の群れ」で、相米慎二によって映画になっていた。舞台は下北半島の北端大間漁港。緒形拳は、孤独で苛酷なマグロの一本釣りに生命を賭ける男、小浜房次郎を演じた。一人娘トキ子(夏目雅子)が結婚したいという、町で喫茶店をやっている青年・依田俊一(佐藤浩一)に会うと、彼は養子に来て漁師になっても良いと言う。マグロ漁に命賭けで取り組んできた房次郎は、簡単に漁師になると言う俊一に腹を立てる。店をたたみ大間に引越してきた俊一は、毎朝、房次郎の持ち船(第三登喜丸)の前で待ち受け、マグロ漁を教えて欲しいと頼む。無視し続けた房次郎が、ついに一緒に船に乗るのを許したのは親友エイスケ(三遊亭円楽)の忠告だった。エイスケに指摘されたとおり、房次郎はトキ子が、家出した妻アヤ(十朱幸代)のように自分を捨てて出て行くのではないかと怯えていたのだ。
数日間不漁の日が続き、連日船酔いと戦っていた俊一がようやく回復した日、遂にマグロの群れにぶつかる。餌をほうりこんだ瞬間、絶叫がおきた。マグロが食いつき凄い勢いで引張られる釣糸が俊一の頭に巻きついた。またたく間に血だらけになり俊一は助けを求めるが、房次郎はマグロとの死闘に夢中だった。一時間後、マグロをようやく仕留めた房次郎が見たのは、瀕死の俊一の憎悪の目だった。数ヵ月後に退院した俊一はトキ子と一緒に町を出ていった。
一年後、津軽海峡を越えた北海道の伊布港に上陸した房次郎は、二十年振りに逃げた妻アヤに再会する。懐かしさと二十年の歳月が二人のわだかまりを溶かすが、アヤを迎えに来たヒモの新一にからまれた房次郎は、徹底的に痛めつけ、止めに入ったアヤまで殴りつけた。翌日伊布沖でマグロと格闘していた房次郎は、生まれて初めて釣糸を切られ、ショックを受ける。大間港に、すっかり逞しくなった俊一がトキ子と帰って来る。ある日、俊一の船、第一登喜丸の無線が途絶えた。一晩経っても消息はつかめず、トキ子は房次郎に頭を下げて捜索を依頼する。房次郎は、海に出て船を発見。俊一はやはり、三百キロ近い大物と格闘中だった。重傷を負っているのを見た房次郎は釣糸を切ろうとするが、「切らねでけろ。俺も大間の漁師だから」という俊一の言葉にマグロとの闘いを開始する。二日間にわたる死闘の末、大物は仕留められた。しかし、帰港の途中、来年の春にトキ子が母親になる、生まれた子が男の子だったら漁師にしたいと告げて、俊一は房次郎の腕の中で息を引き取る。港では待ちわびるトキ子が叫んでいた。
こうしてただ物語の筋書きを追っただけでは、この映画の真の価値はわからない。
特別な映画にしかできない表現というものがある。たとえば、房次郎が船べりで糸にかかった大物マグロと必死で格闘する場面、普通の映画なら俳優が用意された糸についたマグロを引いていかにも漁師らしく演技したところを船の側から撮影して、せいぜい1分間の映像で十分だろう。しかし、この映画では実際に大物マグロが釣れるところから誰もいない船の上で5分以上格闘するシーンを切れ目なしでえんえんと映す。これはもうやらせの演技などではできないことで、緒方拳は本物の漁師として格闘して、へとへとになっても本物のマグロはまだ暴れているのだ。しかもキャメラは船の側からではなく、海の側から漁師とマグロの動きをじっと追っている。緒方拳はこの撮影のために、実際に大間の漁師と一緒に船に乗って1か月以上生活したという。
また、北海道の港に入って宿の二階にいた房次郎が、雨の降る外を見ると逃げた妻のアヤがいるのを発見して追いかける場面。これも土砂降りの中を逃げる女と追いかける男を、望遠で髪振り乱して走ってくる姿をずっとカメラを据えて撮っている。偶然再会する因縁の男女の出会いという場面をどう撮るか。普通ならアップでカット割りして、せいぜい3分でいい。しかし、相米慎二はそんな月並みなことはしない。まるで陸上競技のようにびしょぬれ(たぶんここは消防車で放水させているはずだが)で十朱幸代を裸足で200mは全力で走らせて、最後は地面に仰向けに引っくり返らせる。
あらかじめ書かれた物語の叙述だけなら、こういう場面に長い時間をかける必然性はない。シナリオなら一行だけですむ。ストーリーの先を急ぐ気の短い観客は、なんでこんな場面に長々フィルムを使うのだというかもしれない。しかし、それが映画の生命なのだ。映像は物語や脚本に奉仕するのではなく、俳優はシナリオに沿って演技すればいいのではない。房次郎は実際に海の上で長時間マグロと格闘していなければならないし、アヤは捨てた昔の夫に出会って恐怖のあまり海岸をどこまでも逃げるのでなければならないのだ。これは人為的に組み立てたスタジオ・セットでは不可能なシーンであり、普通にスケジュールされた演技などでは通用しない、映画的な一回性の映像である。だから俳優は遠くから俯瞰しているカメラを意識しながらも、10分近くの長いシーンをまさにそこで生きている自分自身のように動き話さなければならない。
そのことは、この作品が映画デビューになった佐藤浩市と、若くして亡くなってしまうことになる夏目雅子という役者にとって、もっとも鮮明に刻印されている。どちらもこの作品に出ていなければ、おそらく映画を作るということの醍醐味を自覚することはなく、スクリーンの中の人間に実際に存在するリアリティを与える俳優という仕事のかけがえのなさを実感することもなかったのではないだろうか。この映画について「日本映画専門チャンネル」のロング・インタビューで佐藤浩市が振り返ってしみじみ述べていた。三國連太郎という圧倒的に巨大な俳優を父にもつ佐藤は、その父が現役で活躍している世界に自分が飛びこんで何かができるとは思わなかったし、家庭の父としての三國には敵意と憎悪しか抱いていなかったという。二世俳優として同じスター俳優を父に持つ中井貴一や高島政伸・政宏、寺尾聡などと話すとき、他の二世俳優はすでに自分が活躍するときには父は亡くなっていたのに、佐藤浩一は偉大な父は同じ土俵で活躍していることの重圧の違いを感じていたという。
偉大な父がもうこの世にいなければ、息子はその輝かしい名声と恩恵を享受してあとは自分の仕事を精一杯すればいい。二世であることはそのままメリットになる。でも、佐藤浩市にはいくら頑張っても生きて活躍している三國連太郎という存在が、常にのしかかっていた。自分はとうてい父を超えられない、と自覚した息子はふつう父とはまったく別の道を歩く。若い佐藤浩市もおそらくそう考えていた。しかし、彼はこの「魚影の群れ」に出たことで、俳優という職業に賭けてみようという気になった。映画に全身全霊をかけているスタッフ、東京では想像もできない下北の海に生きる漁師の生活、そして何よりも漁師になりきった緒方拳という役者の崇高なまでの姿と、自分の撮りたい映画を飽くことなく追求する相米慎二というカリスマ的監督に出会った奇蹟。
今となってみれば、佐藤浩市はいまや日本映画を代表するひっぱりだこの俳優である。この先を考えれば、まだまだ日本の映画史に残る作品で主役を務めるであろう。

B.75年前の大統領令
韓国では大統領が罷免され、南スーダンの自衛隊派遣のPKOが撤退することになり、昨日は東京大空襲72年、今日は東日本大震災6年、という節目だったが、75年前の出来事も記憶する価値がある。
「大統領令 75年前の教訓:風 ワシントンから 山脇岳志
「米国市民であろうが、まだ日本国籍のままであろうが、彼らは危険だ。日本人は、全滅するまで米国にとって懸念材料であり続ける」
ワシントンの中心部、スミソニアン国立アメリカ歴史博物館での特別展「不正を正す(Righting a Wrong)」の主展示室は、そんなパネルから始まる。
第2次大戦中の1943年、ジョン・デウィット中将が語った言葉である。デウィット中将は、米国西部で、日本人の強制収用を進めた責任者だった。
75年前の2月19日は、日系人の強制収用につながる大統領令9066号が発令された日にあたる。来年の2月19日まで特別展は続く。
戦時中、約12万人の日系人が全米10カ所の強制収容所に送られた。このうち約3分の2の日系人は米国生まれで、米国の市民権を持っていた。
米国人であろうがなかろうが、日本という国に関係しているというだけで、強制的に収容され、有刺鉄線の中で暮らさなければならなかった。その生活は最長では4年も続いた。
デウィット中将のパネルの向かいには、大統領令の原本と複製が展示されている。さらに進むと、収容所で撮影された当時の写真や、収容された人が作った手掘りの工芸品、兵士の無事を祈って作られた千人針などが展示され、収容所内の暮らしぶりが紹介されている。
博物館で、展示が開始された日、コロラド州などの強制収容所で暮らしたロバート・フチガミさんの姿があった。
収容されたのは12歳のとき。どこに行くのか知らされず、鉄道の駅に集合するように言われた。旅行に行くと思ったという。母は大切にしていた着物などをトランクに詰めて収容所に送ったが、到着したときトランクの鍵は壊され、中身はなかった。自宅や農場も失った。
フチガミさんが懸念しているのは、トランプ大統領が出した大統領令である。中東・アフリカ諸国の市民の入国を一時的に禁じた大統領令について「我々が過去に標的とされたのと同様に、いま、イスラム教徒の人々が標的にされている。イスラム教徒は危険だというプロパガンダが広められている」と語った。
展示室は、レーガン大統領と日系人たちが写っている大きな写真パネルで締めくくられている。1988年、レーガン氏は、日系人収容所の誤りを認め、1人2万ドルを補償する法案に署名をした。強制収容から半世紀近くたったとはいえ、誤りを公式に認めたことは、認めないよりもずっと良い。
館長のジョン・グレー氏は「最も重要な教訓は、過ちがおきた過去を調べ、理解することです」と話す。「それが未来における過ちを防ぐことにつながる」。自分自身が向き合いたくないことについても、調べようという意思を持つのが大事だとグレー氏は言う。
トランプ氏は、選挙中、日系人強制収容の是非について質問され、答えを避けた。この特別展は、トランプ大統領令にこそ見てもらいたいのだが。 (アメリカ総局長)」朝日新聞2017年3月11日。
第2次世界大戦でアメリカの敵国だったドイツ、イタリア、日本からは、20世紀の初めから北米移民がたくさん渡航していた。戦争が始まった時、ドイツ系、イタリア系移民とその子孫は、米国市民として出身国ドイツやイタリアに協力しないかぎり、強制的に収容所に送られるようなことはなかった。日系移民だけが、有無を言わさず砂漠の中の収容所に入れられた。日本に帰りたい場合は交換船で送還された。日本人は理解不能な天皇教信者で、危険なスパイ活動をするという根も葉もない偏見を大統領も信じたわけだ。アメリカは後に誤りを認めた。強制収用は批判されて当然だが、では当時の日本は公正で公平な移民政策・対外政策をとっていただろうか?と考えると決して褒められたものではない。占領地で敵国人や現地住民に何をしたか?戦争は非常時だから、いろいろあったのもしょうがない、とは言ってはいけない。
緒形拳という人は、役者として様々な仕事を残し「日本を代表する男優のひとり」であったことは言うまでもないが、ほかにも多彩な技芸を示す人だった。とくに書は大胆かつ独創的な文字を書くことでも知られる。文章も味があるのだが、長い文章より詩のようなものが、この人の精神の形と気概を示していて素晴らしい。そのひとつを掲げる。
「恋慕渇仰〔れんぼかつごう〕:
役者、字を書くこと、やきもの、篆刻、絵。
腹を空かした蛙のように飛びついて、無我夢中になる。
どれも、満足できるものは、まだない。
自分に喝采をおくるには程遠い。
わが国では、この道一筋ふうの求道者めいた生き方を尊ぶ風潮がある。その中では軽蔑されかねない。中途半端な芸であれば尚更だ。
脇目もふらずに一芸を修めるのがホンモノなのだろうか。なら二流でも三流でもいい。
小器用にならず、とりあえず一生懸命である。遊びながら真面目なのである。
そんなふうにやってきて、いつも何かに挑みながら、楽しんだり苦しんだり、鼻歌を歌いながら悶々としているのだ。
島田、辰巳に魅了され、新国劇に入ったものの、離群性の強い癖のために劇団を離れた。
不埒、放埓の徒と映ったであろう。
そしてそれはその通りである。
笑うと純朴、素朴のように見える。
幾度その笑顔で騙してきたことか。
日常演技をしないつもりでも、フト演じているのかもしれない。」緒形拳『恋慕渇仰』東京書籍、1993. pp.116-117.
映画の中の緒形拳も多彩だが、いちいち触れるときりがないので、3つだけにする。一番目は、今村昌平「復讐するは我にあり」1979の中の殺人鬼、榎津巌。監督との差異の出会い。
「今村監督に「会いたい」と言われて会っただけで、そのときにはまだ何のために会うことになったのか分からなかった。
「今村さんの作品を見ていたので、もっと獰猛な人を想像していた。会ってみると、大学の先生みたいに温かくて、頭がよさそうで、でもちょっと詐欺師っぽくて、いろんなことをよく見抜いている。人の話を食い入るように聞くんだ。そのときに何を話したか忘れたけど、興奮して三時間ぐらいしゃべったんじゃないかな。映画監督ってこういう人のことをいうんだと思った。で、その日だったか次の日だったか、台本が送られてきたんだ」
今村昌平監督が『神々の深き欲望』(68年)以来、十一年ぶりに手がけた劇映画『復讐するは我にあり』(79年)は、佐木隆三が直木賞を受賞した同名ノンフィクションの映画化である。九州、浜松、東京で五人を殺害し一九六四年(昭和三十九年)正月に逮捕された西口彰の実話で、原作と映画では主人公の名前を榎津巌という架空のものに変えてある。榎津巌が史上最大といわれる重要指名手配をかいくぐった七十八日間の逃亡記録と彼の生い立ちを、映画はドキュメンタリー・タッチで再現している。
ぼくはこの作品を初めて見たとき、すごい衝撃を受けた。殺人を繰り返す榎津の不可解な残酷さに背筋が凍り、そんな人物に魅力を感じる自分にも驚いた。
緒形が演じる主人公の榎津は、相手の弱みにつけ込む術を身に付けている。そして殺される側にもそれなりの理由があることがよく分かる。人間のもつ欲の深さと罪の深さを感じさせ、人間って何だろうと考えさせる傑作である。
俳優たちのリアルな演技が素晴らしい。
三國連太郎が演じる父・鎮雄は熱心なカトリック信者だが、宗教に逃避する人間のずるさを感じさせる。倍賞美津子が演じる妻・加津子はそんな義父に好意を持ち、本音を押し殺して生きている。浜松で旅館を営む女主人ハルを演じる小川真由美は、男に頼りながら生きてきた女の色っぽさと哀しさがにじむ。そんなハルの母・ひさ役の清川虹子は、前科を持つ女の業を見事に演じている。
榎津が大根畑で最初に人を殺すシーンの生々しさ、競艇狂いのひさ乃が榎津に前科を告白するシーンのエロティシズム、そんなシーンの一つ一つに目をそらすことができない吸引力がある。
今村は知る人ぞ知る調査魔である。『復讐するは我にあり』の場合も、主人公となる犯人の実像を求めて出身地や犯行現場を取材して回った。特に浜松には二年間で十回ぐらい通って被害者の人間関係やキャラクターを調べ上げた。
脚本に時間をかけるだけでなく、映画作りが実に丁寧なのだ。俳優を集めて本読みをし、可能な限り実際に事件があった現場で撮影する。」垣井道弘『緒形拳を追いかけて』ぴあ、2006.pp.115-116.
緒形拳は、強烈な悪役をたくさん演じているが、他方で限りなく善良誠実な人物も演じている。榎津巌は悪役の白眉だが、たとえば「砂の器」の三木巡査という善人の手本のような役も忘れ難い。こういうことは、優れた役者なら誰でもできるというものではない。極悪に徹する榎津もよく見ると恐ろしいだけの人間にはしない。「復讐するは我にあり」では、愛人とその母と3人で食事をする場面で、「食欲がない」と言いながら、がつがつと貪るように食べる。「食欲がない」のならそれなりの演技をする所を、台詞とは逆の行為をしてみせる。このアイディアは現場で緒形拳が考え、今村がそれ面白いと採用したという。演出家の意図をそのまま反映するのではなく、俳優が独自の提案を出して画面に強い色合いを添える。山﨑努も三國錬太郎もそういう役者だった。それを知って監督はまた、一緒に仕事がしたくなる。
「肉体で演じる緒形さんも悩んでいたが、具体的な動作をやってみることで、ぱっと人物をつかむ瞬間があった。例えば、最初に人を殺して逃走した後、一息ついて手の血に気づく場面である。水道に行って洗うのは尋常すぎてしっくりこない。そこで小便をして手を洗えと指示した。彼は素直に従い、一物を元気に振りながら実際に手を洗った。その動きで何かが腑に落ちたようだった。こういう時、演出家はしめた、と思う。詐欺師などの知能犯が強盗殺人などを犯すことは稀とされていて、机上では理解しがたいこの男のありように、肉体で演じることで肉薄した緒形さんを見ながら、私も嬉しかった」(今村昌平「映画は狂気の旅である/私の履歴書」日本経済新聞社)
二番目は、これも今村昌平「楢山節考」1983の、誠実な息子。こちらは善人なのだが、母を捨てることの痛みをどう表現するか?日本が豊かな先進国になっていた1983年に、「楢山節考」を再度映画にした今村昌平は、この点を強く意識し、長野県小谷村真木という過疎の山村で茅葺き民家の集落にスタッフを閉じ込め、実写のロケでこの映画を作った。そこは、車で入ることができない、山道を歩く事1時間半の美しい村である。時代は江戸時代に設定されているが、街道沿いで12軒、90人が暮らし、昭和の始め頃には電気も通じ、分校もあったが、その当時は最後の住人が山を降り、廃村になった場所だった。
この作品は、カンヌ映画祭でグランプリを取ることになるが、日本の前近代的村落共同体のもっとも残酷な側面と、人間が生きていくことの極限にある痛みを伴った崇高さを炙り出している。おりんという女性を演じた坂本スミ子、息子の辰平を演じた緒方拳にとっても演技者として力を込めた特別な作品だったと思う。
物語は「楢山まいり」をめぐって展開する。70歳を迎えた冬には皆、楢山へ行くという掟であり、山へ行くことは死を意味し、おりんの夫、利平も母親の楢山まいりの年を迎え、その心労に負け行方不明となった。息子の辰平に嫁が来て、おりんはこれで安心して楢山へ行けると喜ぶ。おりんは嫁を気に入り、年齢と相反した丈夫な歯を物置の石臼に打ちつけて割る。晩秋、おりんは明日山へ行くと告げ、夜が更けて、しぶる辰平を責め立てて楢山まいりの途につく。楢山の頂上は白骨と黒いカラスの群れる禿げ山だ。辰平は母を背負って猛然と山を登り「おっ母あ、雪が降ってきたよう! 運がいいなあ、山へ行く日に」と言う。雪の中に置き去りにされるおりんは黙って頷き、早く戻れと手を振る。
ここで繰り返し描かれるのは、閉ざされた共同体でみんなが生きていくために、高齢者を山に捨て、掟を破るものは生き埋めにして抹殺し、新しい生命を生み出す性のエネルギーを、生存のために暴力でコントロールする残酷である。それは豊かになった日本では、もう失われた土俗的な秩序である。外部を遮断した共同体ではそれは善悪を超えた社会の掟である。歴史的にそのような現実が、ほんとうにあったかどうかはわからない。でも、かつて貧しい農村の生活を経験した人たちには、これは決して夢物語ではなく、「姥捨て伝説」は各地に残っていた。深沢七郎という人は、そういう江戸時代以来の共同体の記憶を文学にした稀有な作家だった。そして、今村昌平はこれを現代の日本への根源的な批判として、過激な映画作品にした。
豊かな社会日本に生きていたぼくたちは、これが架空の世界だと思いながらも、人間が生きていくとは結局こういうことなのかもしれない、と考える。そこでは、人の命も生活の喜びも、厳しい自然の条件の中でぎりぎりの決断を迫られる。元気すぎる高齢女性おりんはその共同体秩序を英雄的に毅然として引き受けて、自分の人生の知恵を若い嫁にしっかり伝授して、愛する息子に自分を背負って楢山に行くことを命じる。長い人生を決意を持って生きてきた女が、このように白骨の散らばる墓場で、降りしきる雪の中で命を終わることは、老人ホームで厄介者扱いされながら完備した医療に取り巻かれて死ぬことと比べて、どっちが豊かな死に方か、いやでも観客は考える。
映画の最後は、母を捨てるために背負って道なき道を必死で歩いていく息子の道行きをリアルにじっくり描く。ぼくらはこれを見ているうちに、自分が母を捨てに行く息子に同一化して、思わず涙が出てしまう。
三番目は、相米慎二「魚影の群れ」1983の、カツオ漁師房次郎。大間漁港のマグロ漁師を主人公にした吉村昭の小説が「魚影の群れ」で、相米慎二によって映画になっていた。舞台は下北半島の北端大間漁港。緒形拳は、孤独で苛酷なマグロの一本釣りに生命を賭ける男、小浜房次郎を演じた。一人娘トキ子(夏目雅子)が結婚したいという、町で喫茶店をやっている青年・依田俊一(佐藤浩一)に会うと、彼は養子に来て漁師になっても良いと言う。マグロ漁に命賭けで取り組んできた房次郎は、簡単に漁師になると言う俊一に腹を立てる。店をたたみ大間に引越してきた俊一は、毎朝、房次郎の持ち船(第三登喜丸)の前で待ち受け、マグロ漁を教えて欲しいと頼む。無視し続けた房次郎が、ついに一緒に船に乗るのを許したのは親友エイスケ(三遊亭円楽)の忠告だった。エイスケに指摘されたとおり、房次郎はトキ子が、家出した妻アヤ(十朱幸代)のように自分を捨てて出て行くのではないかと怯えていたのだ。
数日間不漁の日が続き、連日船酔いと戦っていた俊一がようやく回復した日、遂にマグロの群れにぶつかる。餌をほうりこんだ瞬間、絶叫がおきた。マグロが食いつき凄い勢いで引張られる釣糸が俊一の頭に巻きついた。またたく間に血だらけになり俊一は助けを求めるが、房次郎はマグロとの死闘に夢中だった。一時間後、マグロをようやく仕留めた房次郎が見たのは、瀕死の俊一の憎悪の目だった。数ヵ月後に退院した俊一はトキ子と一緒に町を出ていった。
一年後、津軽海峡を越えた北海道の伊布港に上陸した房次郎は、二十年振りに逃げた妻アヤに再会する。懐かしさと二十年の歳月が二人のわだかまりを溶かすが、アヤを迎えに来たヒモの新一にからまれた房次郎は、徹底的に痛めつけ、止めに入ったアヤまで殴りつけた。翌日伊布沖でマグロと格闘していた房次郎は、生まれて初めて釣糸を切られ、ショックを受ける。大間港に、すっかり逞しくなった俊一がトキ子と帰って来る。ある日、俊一の船、第一登喜丸の無線が途絶えた。一晩経っても消息はつかめず、トキ子は房次郎に頭を下げて捜索を依頼する。房次郎は、海に出て船を発見。俊一はやはり、三百キロ近い大物と格闘中だった。重傷を負っているのを見た房次郎は釣糸を切ろうとするが、「切らねでけろ。俺も大間の漁師だから」という俊一の言葉にマグロとの闘いを開始する。二日間にわたる死闘の末、大物は仕留められた。しかし、帰港の途中、来年の春にトキ子が母親になる、生まれた子が男の子だったら漁師にしたいと告げて、俊一は房次郎の腕の中で息を引き取る。港では待ちわびるトキ子が叫んでいた。
こうしてただ物語の筋書きを追っただけでは、この映画の真の価値はわからない。
特別な映画にしかできない表現というものがある。たとえば、房次郎が船べりで糸にかかった大物マグロと必死で格闘する場面、普通の映画なら俳優が用意された糸についたマグロを引いていかにも漁師らしく演技したところを船の側から撮影して、せいぜい1分間の映像で十分だろう。しかし、この映画では実際に大物マグロが釣れるところから誰もいない船の上で5分以上格闘するシーンを切れ目なしでえんえんと映す。これはもうやらせの演技などではできないことで、緒方拳は本物の漁師として格闘して、へとへとになっても本物のマグロはまだ暴れているのだ。しかもキャメラは船の側からではなく、海の側から漁師とマグロの動きをじっと追っている。緒方拳はこの撮影のために、実際に大間の漁師と一緒に船に乗って1か月以上生活したという。
また、北海道の港に入って宿の二階にいた房次郎が、雨の降る外を見ると逃げた妻のアヤがいるのを発見して追いかける場面。これも土砂降りの中を逃げる女と追いかける男を、望遠で髪振り乱して走ってくる姿をずっとカメラを据えて撮っている。偶然再会する因縁の男女の出会いという場面をどう撮るか。普通ならアップでカット割りして、せいぜい3分でいい。しかし、相米慎二はそんな月並みなことはしない。まるで陸上競技のようにびしょぬれ(たぶんここは消防車で放水させているはずだが)で十朱幸代を裸足で200mは全力で走らせて、最後は地面に仰向けに引っくり返らせる。
あらかじめ書かれた物語の叙述だけなら、こういう場面に長い時間をかける必然性はない。シナリオなら一行だけですむ。ストーリーの先を急ぐ気の短い観客は、なんでこんな場面に長々フィルムを使うのだというかもしれない。しかし、それが映画の生命なのだ。映像は物語や脚本に奉仕するのではなく、俳優はシナリオに沿って演技すればいいのではない。房次郎は実際に海の上で長時間マグロと格闘していなければならないし、アヤは捨てた昔の夫に出会って恐怖のあまり海岸をどこまでも逃げるのでなければならないのだ。これは人為的に組み立てたスタジオ・セットでは不可能なシーンであり、普通にスケジュールされた演技などでは通用しない、映画的な一回性の映像である。だから俳優は遠くから俯瞰しているカメラを意識しながらも、10分近くの長いシーンをまさにそこで生きている自分自身のように動き話さなければならない。
そのことは、この作品が映画デビューになった佐藤浩市と、若くして亡くなってしまうことになる夏目雅子という役者にとって、もっとも鮮明に刻印されている。どちらもこの作品に出ていなければ、おそらく映画を作るということの醍醐味を自覚することはなく、スクリーンの中の人間に実際に存在するリアリティを与える俳優という仕事のかけがえのなさを実感することもなかったのではないだろうか。この映画について「日本映画専門チャンネル」のロング・インタビューで佐藤浩市が振り返ってしみじみ述べていた。三國連太郎という圧倒的に巨大な俳優を父にもつ佐藤は、その父が現役で活躍している世界に自分が飛びこんで何かができるとは思わなかったし、家庭の父としての三國には敵意と憎悪しか抱いていなかったという。二世俳優として同じスター俳優を父に持つ中井貴一や高島政伸・政宏、寺尾聡などと話すとき、他の二世俳優はすでに自分が活躍するときには父は亡くなっていたのに、佐藤浩一は偉大な父は同じ土俵で活躍していることの重圧の違いを感じていたという。
偉大な父がもうこの世にいなければ、息子はその輝かしい名声と恩恵を享受してあとは自分の仕事を精一杯すればいい。二世であることはそのままメリットになる。でも、佐藤浩市にはいくら頑張っても生きて活躍している三國連太郎という存在が、常にのしかかっていた。自分はとうてい父を超えられない、と自覚した息子はふつう父とはまったく別の道を歩く。若い佐藤浩市もおそらくそう考えていた。しかし、彼はこの「魚影の群れ」に出たことで、俳優という職業に賭けてみようという気になった。映画に全身全霊をかけているスタッフ、東京では想像もできない下北の海に生きる漁師の生活、そして何よりも漁師になりきった緒方拳という役者の崇高なまでの姿と、自分の撮りたい映画を飽くことなく追求する相米慎二というカリスマ的監督に出会った奇蹟。
今となってみれば、佐藤浩市はいまや日本映画を代表するひっぱりだこの俳優である。この先を考えれば、まだまだ日本の映画史に残る作品で主役を務めるであろう。

B.75年前の大統領令
韓国では大統領が罷免され、南スーダンの自衛隊派遣のPKOが撤退することになり、昨日は東京大空襲72年、今日は東日本大震災6年、という節目だったが、75年前の出来事も記憶する価値がある。
「大統領令 75年前の教訓:風 ワシントンから 山脇岳志
「米国市民であろうが、まだ日本国籍のままであろうが、彼らは危険だ。日本人は、全滅するまで米国にとって懸念材料であり続ける」
ワシントンの中心部、スミソニアン国立アメリカ歴史博物館での特別展「不正を正す(Righting a Wrong)」の主展示室は、そんなパネルから始まる。
第2次大戦中の1943年、ジョン・デウィット中将が語った言葉である。デウィット中将は、米国西部で、日本人の強制収用を進めた責任者だった。
75年前の2月19日は、日系人の強制収用につながる大統領令9066号が発令された日にあたる。来年の2月19日まで特別展は続く。
戦時中、約12万人の日系人が全米10カ所の強制収容所に送られた。このうち約3分の2の日系人は米国生まれで、米国の市民権を持っていた。
米国人であろうがなかろうが、日本という国に関係しているというだけで、強制的に収容され、有刺鉄線の中で暮らさなければならなかった。その生活は最長では4年も続いた。
デウィット中将のパネルの向かいには、大統領令の原本と複製が展示されている。さらに進むと、収容所で撮影された当時の写真や、収容された人が作った手掘りの工芸品、兵士の無事を祈って作られた千人針などが展示され、収容所内の暮らしぶりが紹介されている。
博物館で、展示が開始された日、コロラド州などの強制収容所で暮らしたロバート・フチガミさんの姿があった。
収容されたのは12歳のとき。どこに行くのか知らされず、鉄道の駅に集合するように言われた。旅行に行くと思ったという。母は大切にしていた着物などをトランクに詰めて収容所に送ったが、到着したときトランクの鍵は壊され、中身はなかった。自宅や農場も失った。
フチガミさんが懸念しているのは、トランプ大統領が出した大統領令である。中東・アフリカ諸国の市民の入国を一時的に禁じた大統領令について「我々が過去に標的とされたのと同様に、いま、イスラム教徒の人々が標的にされている。イスラム教徒は危険だというプロパガンダが広められている」と語った。
展示室は、レーガン大統領と日系人たちが写っている大きな写真パネルで締めくくられている。1988年、レーガン氏は、日系人収容所の誤りを認め、1人2万ドルを補償する法案に署名をした。強制収容から半世紀近くたったとはいえ、誤りを公式に認めたことは、認めないよりもずっと良い。
館長のジョン・グレー氏は「最も重要な教訓は、過ちがおきた過去を調べ、理解することです」と話す。「それが未来における過ちを防ぐことにつながる」。自分自身が向き合いたくないことについても、調べようという意思を持つのが大事だとグレー氏は言う。
トランプ氏は、選挙中、日系人強制収容の是非について質問され、答えを避けた。この特別展は、トランプ大統領令にこそ見てもらいたいのだが。 (アメリカ総局長)」朝日新聞2017年3月11日。
第2次世界大戦でアメリカの敵国だったドイツ、イタリア、日本からは、20世紀の初めから北米移民がたくさん渡航していた。戦争が始まった時、ドイツ系、イタリア系移民とその子孫は、米国市民として出身国ドイツやイタリアに協力しないかぎり、強制的に収容所に送られるようなことはなかった。日系移民だけが、有無を言わさず砂漠の中の収容所に入れられた。日本に帰りたい場合は交換船で送還された。日本人は理解不能な天皇教信者で、危険なスパイ活動をするという根も葉もない偏見を大統領も信じたわけだ。アメリカは後に誤りを認めた。強制収用は批判されて当然だが、では当時の日本は公正で公平な移民政策・対外政策をとっていただろうか?と考えると決して褒められたものではない。占領地で敵国人や現地住民に何をしたか?戦争は非常時だから、いろいろあったのもしょうがない、とは言ってはいけない。
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