A.「慰安所」と「遊郭」のちがい?
「慰安婦」問題を日韓関係の政治的対立という局面からすこし離れて、一般的な「性暴力」という角度から考えてみると、問題の焦点の一つは、「売春」の概念と合法性に関係する。「従軍慰安婦」の犯罪性を否定する歴史修正主義者の言い分は、昭和戦前の日本では遊郭などの営業を公認された管理売春施設が存在し、そこで行われていた売買春は合法の範囲内だったことから、戦時の日本軍占領地などでの「慰安所」も、業者と慰安婦との雇用契約で営業していたのであり、その限りで違法性はなかったとする。つまり韓国などが主張する「強制的売春」(あえて言えば「強姦」の延長に等しい)ではなかった、ということにする。いまこの「売春」とその禁止を、法律上はどう考えるかを確認してみよう。
1956年5月に施行された法律118号、これが「売春防止法」で、その第二条において、「『売春』とは、対償を受け、又は受ける約束で、不特定の相手方と性交することをいう」と規定している。これは、お金などの見返りを得ることを約束して、客となる人と性行為をすることを「売春」といい、「買春」とは、「売春」の相手方つまり客となることを指す。一般に男性が女性側に対価を払って「買春」するように思えるが、法律上は、男女に区別はない。また、戦前からあった特定の女性を「囲い者」として金品などを提供する関係になることは、「売春」が法律上「不特定の相手方」と規定されていることからすれば、一定期間性行為をしたとしても、「売春」には当たらないことになる。第一条に、「この法律は、売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものであることにかんがみ、売春を助長する行為等を処罰するとともに、性行又は環境に照して売春を行うおそれのある女子に対する保護更生の措置を講ずることによつて、売春の防止を図ることを目的とする」(下線引用者)とあるように、「売春を行うおそれのある女子」を「保護更生」しなければならないと考えていた。
なお、売春防止法では、第三条で、「何人も、売春をし、又はその相手方となってはならない。」と規定され、「売買春」行為を禁止しているが、罰則規定はないという。したがって、仮にAさんとBくんがその場で契約して「売買春」をしたとしても、それだけでは逮捕などの刑事処分をされることはないということになり、犯罪として刑罰を科せられるのは、「売春」をするように勧誘したり、周旋したりすること、つまり「売春」行為をした者ではなく、売春を組織的に営業する業者を取り締まる。したがって、1956年に、全国の遊郭(女郎屋)は廃止・営業禁止となり、そこで働いていた女性たちは、転職を迫られた。しかし、売防法以後も、売春業者は「トルコ風呂」「ソープランド」「風俗店」などと名を変えて実質的売春営業は、続いてきたことは知られている。
少なくとも戦争に駆り出された男たちの日常感覚の中で、「女郎屋」の存在は「金を出して女を買う」という行為は合法的な選択の中にあり、戦地の「慰安所」も「女郎屋」と区別していなかったと思われる。彼らはそこで働く女性たちをどう見ていたのか。
「では、一般の兵士たちは「慰安所」をどのように見ていたのだろうか。兵士たちの回想録中、「慰安所」を示す言葉で最も多いのは、「ピー屋」で、これは兵士たちの間で広く通じる隠語である。次いで「娘子軍」「陸軍遊郭」「パンパン屋」という語が使われているが、南部仏印(フランス領インドシナ)ナトラン(ニャチャン)の「慰安所」で、「白昼堂々立ち並んで順番を待つ者の鼻先へ、コトを済ませ、半袴の紐も締め終わらぬまま次々出てくる姿」を「コンベヤーシステム然と進行する儀式」と感じた南原幸夫(少尉)は、「慰安所」の本質をズバリ突いて「公の生理調節機関」(南原1983:202)と表現している。兵士間では、「共同便所」という表現も使われている。軍上層部が兵士の性犯罪防止の目的で「慰安所」を設置したように、回想録を読み進めるなか、兵士自身も性欲の「はけ口」が必要だというレイプ神話を強固に持っていたことを痛感する。次はその代表例である。
性のはけ口は必要――「済んだ後の顔つきが違う」
憲兵として「慰安所」巡回をしていた竹河進は、「兵士の性は、過ぎても無くても具合の悪い、作戦のバロメーター」ととらえ、「慰安所」を利用する兵士たちの様子を、「用事前と、済んだ兵隊の顔付はまるで違うのだ」と観察している(竹河1959:101-113)。ラングーンへ行く途中見かけた「慰安婦」たちが甘言に騙されて連行されてきたことに触れつつ、濱村幾三郎は、「若い盛りの、しかも明日という日の保証されない身だから、もし欲望のはけ口を絶たれたらなにを仕でかすか」、「それを避けるためにも慰安婦という存在は必要だと思える」と記している(濱村1987:103-104)。また、「慰安所」に殺到する兵士は次のように、彼女たちの「労働」の過酷さへはまったく思いが及ばない。「待ちに待った外出だ。俸給は上陸以来溜まっていた五か月分を貰い〔……〕、それ行け、やれ行けでピー屋の前は各入口長蛇の列〔……〕。初日の彼女等一人の受け持ちが多いのになると六〇人以上とか、相手は皆ゴム張りだ、たまったものではない。数日の内に彼等は次々とダウンして仕舞った」(青木1979:191)。
「命の洗濯」「エネルギーの発散」「戦争の潤滑油」
応山の城内で「慰安婦」たちの検診を担当した軍医の稲垣照相は、「慰安所」が「押すな押すなの盛況」になったのは、討伐に出動する前と、戦闘から帰還したときであるとして、「慰安所」を「明日の命すら計り知れない戦場においては、命の洗濯」、「有り余る若さのエネルギーを発散させる場」であるという(稲垣1969:47)。
マレー作戦に参加した直井正武は「戦争と性欲とは切っても切れない間柄」とし、「戦場で「ものの用に立つ」働きをするためには、常に健全な肉体条件と猛り立つ精神」が必要で、「性欲の処理は肉体と精神の調和剤で、戦争の潤滑油」であるとして、最後に「妻よ許し給え」と結ぶ(直井1973:111)。
「男同士の絆」の確認
「慰安所行き」は、仲間同士で連れ立っていく場合が多く、それは性欲、というより「男同士の付き合い」という面が強い。東満洲国境の駐屯地で諏訪弥佐吉は、外出の帰りに「女のいるところに寄ろうと言い出した伊藤の提案にも、私はつき合わないわけにいかなくなり」行った(諏訪1980:189)。小沢一彦も「まだ女を知らないという同期生の原田少尉をむりやりにひっぱりだし、守安少尉、吉田少尉同道で「つた屋」に出撃した」(小沢一彦1979:7)。
兵士たちは、同じ「慰安婦」と関係することで、男同士の絆を確認している。兵士たちの雑談の中で同じ「慰安婦」の馴染みになっていたことが分かり、「意外なる兄弟が二人も三人も現れる結果となり」。大笑いをした(河野卓1973:273)。外出日に兵士たちはお目当ての「慰安婦」へ「一番乗りを競:」い、「先陣を切った」者は、夜の兵舎での会話で「お前は俺ときょうだいだ、それで今日は俺の方が兄貴だ」と言いあって「笑い転げるのが毎度のことであった」と書いている(捜三十二会1978:175)。
ともに「慰安所」を利用する際に、男同士の悪ふざけのような言辞も交わされている。外出日の隊長の訓示には、「ゴム製品を裏返して二度使っては駄目だ」という注意があり、皆で大笑いしたというエピソードを多くの兵士が書いている(佐藤貞2004:129)。
「軍紀の縄を解かれていく」
「慰安所」行きを「性欲」とは違った意味でとらえている例もある。ラバウルのココボに派遣された岡本信男(一等兵)は外出日を「自由の身になれる日」ととらえ、「女性に会えるということを思うと、私の身体から軍紀の縄を解かれてゆくようだった」と感じている。しかし当時を振り返って、こうも付け加えている。「いま回想すると、自由を束縛された兵隊の私が外出という自由を与えられ、私達よりも更に不自由で屈辱の連続の女性に、欲望をとげるため接触するということは、なんという皮肉なコントラストか」(岡本1962:110)。
「慰安所行きは、強制」
ごく例外的だが、上官や古参兵が「慰安所」へ兵士を向かわせることを「強制」だと感じた兵士がいたことに注目したい。「古兵の引率外出で、自由を与えられなかった私たちは、強制的に童貞を汚れた女たちに奪われなければなりませんでした」と書く黒田一一(警保主任)は、「私たちが軍隊で教わったことは、人を殺す技術を教え、酒を飲み、女を買うことでした」と結んでいる(黒田一一1956:68)。
兵士の回想録を読んでいると、兵士にとっての「ピー屋」(「慰安所」)の範疇の広さを痛感する。最前線で「慰安所」前に列をなす状態も、後方の都会で「兵隊さん遊んでいけ」と誘われる場合の「慰安所」も、彼らにとっては「ピー屋」なのである。後述する久田二郎が、中支の都会で見た光景――「慰安婦」たちが日本兵の帽子を奪っては「慰安所」へ駆け込む――は、他の多くの兵士たちにも共通する。堀江督三は漢口市街の「慰安所」の前を過ぎたとき、「軍帽をピーヤにもぎとられ止むなく登楼」した(堀江1970:26)。このような体験が、「慰安婦」問題が浮上したとき「彼女らは、単なる売春婦」として多くの元兵士たちが否定的な態度をとった背景にあると考えられる。「慰安婦」問題が議論されるとき、研究者や支援者は軍直営や軍指定の「慰安所」を想定している。しかし、兵士たちが「私娼窟」と呼ばれるような民間の売春施設も含めていることを踏まえれば、「慰安所」を、レイプセンターから売春「稼業」のグラデーションの中で考える必要があるのではないだろうか。
「戦地での唯一のうるおい」「戦場の花」「オアシス」
海軍軍属としてベンガル湾のニコバル島に徴用された河東三郎は、「内地から慰安婦が四人きた」というニュースに沸き立つ兵士の一人として、外出(海軍では「上陸」と称した)の日の様子を次のように書く。三人を除いて班員全員が「上陸」を希望し、広場に集合した兵士に中隊長から慰安券と鉄カブト(コンドーム)と消毒液が配布され、一台のトラックに五〇人ずつ分乗して「慰安所」へ向かった。三軒の小屋の前に三、四十人の列ができた。「四号さん」の列に並んだ彼は、後ろからせっつかれ、「慰安婦」に「あとがつかえているのよ、急いでよおじさん」と言われた途端、「元気も消えて、わが意はとげられなかった」。経営者は日本人の老夫婦。後に「慰安婦」たちとの会話で、彼女らが「戦地では無試験で看護婦になれる」と騙されて従軍したと聞き、「特殊看護婦」という名の欺瞞性に気がついている。しかし、「命をかけて戦っている兵士や軍属には、慰安婦はなくてはならない役割をしていた」とし、「将校であろうが、下士官、兵卒であろうが、戦地の生活で、何が一番ほしいかと聞かれたら、正直にいって「第一は女である」と、誰でも答えるだろう」と書く(河東1989:114)。
この他、「慰安婦こそは戦場の花」、「戦場のオアシス」などという情緒的美化が多く見られる。作家の伊藤桂一は、拉孟・騰越まで龍兵団に連行された「慰安婦」に対し、「兵隊と同じく運命を甘受」していたとし、いかに「戦場慰安婦――というものの存在が素晴らしいものであるか。それがいかに砂漠でオアシスをみるように、目と心と身体にしむものであるか、は、長く荒涼とした戦場に身を置いた者ほどよく知っている」と述べている(伊藤桂一1971:1-2)。このような男性の側からの独善的な「慰安婦」への一体感は、後に触れる秋元実の証言にも見られ、多くの下級兵に共通している。
朝鮮人「慰安婦」への視線――「内地」女性の代替
「朋友会」という戦友会の事務局長をする吉川秀雄は、安徽省貴池県の駐屯時代の手記(吉川1980)を読んで連絡をしたわたしに長い手紙で答えてくれた。彼は池州の「蓬莱館」で部屋ごとに、一番・政子、二番・富子、五番・桃子、十五番・美代子、十七番・梅子、二十一番星子と名付けられた朝鮮人「慰安婦」の許へ通った。その心理を、「鴻毛の兵士、いっときを慰めてくれる彼女らの存在は、大和撫子に代わる存在とも思えた」と書いている(1995年2月7日付)。松本良男(独立飛行第103中隊飛行隊長)は、ニューギニアのニューブリテン島の将校クラブで出会った日本人「慰安婦」の許へ頻繁に通う理由を「戦闘でずたずたになった神経を休める、憩いの場として行く」とし、だから「私にとって由紀子は母親であり、姉であり、恋人であり、友人であった」と書いている(松本1989:176)。
一方、南京攻略戦へ向かう揚州駐屯地で、軍が管理運営する「慰安所」の「支那姑娘」・「内地人」・「朝鮮人」のうち、朝鮮人「慰安婦」が兵士たちに「献身的」であったと回想する林為之(通信兵)は、それは日本兵への好意ではなく、「慰安婦の立場として、日本内地の女には負けたくないとする民族的な面子があったから」だとし、「彼女たちの心底には、本能的、無意識的に日本への憎悪と抵抗があったのである」と見ている。同時に「朝鮮の女たちが慰安婦として機械的にはきわめて良質であったことを兵隊たちは知っている」と平然と記す(林為之1971:118)。
「日本人」慰安婦への視線
日本人「慰安婦」は主として将校用で、不特定多数を相手とする多民族の「慰安婦」より相対的に「優遇」されていた。そのため、下級兵士には高嶺の花的存在で、ビルマのトングー、メイミョー、マンダレー、ラングーンの「慰安所」へ通った秋元実(野戦重砲兵、初年兵)は、日本人「慰安婦」を「金のない兵士を軽視している」と感じた(秋元1988:7)。一方、貧困により身を売るビルマ人「慰安婦」には、社会の底辺にある者同士、「無意識の連帯感」があったと語る。また、朝鮮人「慰安婦」たちは「けっして唇を許さず、それが意識的な抵抗であったかもしれない」と語った(1995年1月24日、2012年2月12日聴き取り)。
秋元のような心情は多くの兵士にも共有され、ラバウルで海軍飛行士をしていた市川靖人は、「ハイヒールにドレスを着て日傘をさした二人連れの女」が目の前を通り過ぎ、「あれが士官用のパン助か!わたしはお前さん達下士官兵と寝る女ではないんだよ、と言わんばかりの顔をして、可愛げない女だ」と記している(市川1989:46)。将校用の豪華な「慰安所」として有名なのは、メイミョーの清明荘とラングーンの翠春園である。インパール作戦で敗走し息も絶えだえにビルマ中部にたどり着いた軍司令部のもとに、清明荘の日本人経営者が「慰安婦」五〇人を連れて乗り込んできた。作戦の指揮をとった牟田口廉也中将の配下にあった第三十三師団(弓一)の歩兵将校・神谷重雄は、清明荘の管理に当たり、彼にインタビューした千田夏光に次のように話している。
「ある日、高級参謀が馬で管理部に乗りつけ、「俺の部屋にカーテンを作れ」とどなった。生地を持って寸法を計りに行くと、「首の白いお化け」がいて、「もっとよい生地はない?」。高級軍人が囲い込んだ「慰安婦」に神谷は当番兵士同様に扱われ、「慰安婦という概念とは全然違った種類の女をそこに見ました」(千田1978:65-78)。
北ボルネオ海軍司令部付の軍医であった田中保善は、この地に着いた翌日、上陸を歓迎する国防婦人会の襷をかけた「慰安婦」たちの病院訪問を受けた。九州の大村、長崎、天草などから「遠征している大和撫子で、勇敢なる娘子軍であった」とし、商魂たくましく下士官へ「慰安所の場所を書き込んだ名刺を置いて行った」と書いている(田中保善1978:86-87)。
グアムで「玉砕」戦を体験した吉田重紀(軍医)は、兵士とともに敗走する沖縄出身の「慰安婦」が銃撃で負傷したので、米軍に投降して治療してもらうように手紙を持たせようとしたが、彼女は「私も日本の女です。捕虜になるぐらいなら、今ここで殺してください。私は靖国神社に行きたいのです」と答えた。兵士たちも、「慰安婦という特別な目で見るようなことはしなかった」「むしろ女とはいえ、潜行グループの同志であり、ともにジャングルで生き抜く仲間」と位置づけている。薬で死ねるなら殺してください、との訴えに応えて、吉田は彼女にモルヒネの注射をし、頸動脈を絞めて眠らせた(吉田重紀1981:246)。
日本人「慰安婦」は将校に独占される場合が多かったので、下級兵士からは疎まれがちであったが、前線近くに配置された場合は、兵士とともにジャングルの中を敗走し、「日本人」としてのアイデンティティゆえに死を選んだりした。大都市の「慰安所」では、業者は計算高く、「慰安婦」に国防婦人会の襷をかけて、内地女性に模させた。地域や戦線、時期によって日本人「慰安婦」の体験は異なるが、「戦死すれば靖国神社に入れる」というナショナリズムを支えにしていたと考えられる。」平井和子「兵士と男性性:「慰安所へ行った兵士/行かなかった兵士」(上野千鶴子・蘭信三・平井和子編『戦争と性暴力の比較史へ向けて』岩波書店、2018年所収).pp.119―127.
いまのぼくたちは、売春防止法以前の「遊郭」があった時代を知らないが、昭和のある時期まで、若い男たちは「男になる・女を知る」という言葉を隠語として聴いて使っていたし、そういう店が盛り場に行けばあり、あるいは夜の街で男を誘っている女性を見ることができた。あるいは今も、いろいろ形を変えて売買春が営業されているという話も聞く。30年ほど前だが、バンコクのホテルで出会った東京の大学生は、ぼくに「ここには女を買いに来たんです。いくらでもやれる」と笑いながら言った。それが「男の常識」だとは言いたくないが、金を払えば「女が買える」ことを疑問だと感じない精神が、日本に限らず「男の文化」のなかにあったことは認めざるを得ない。あの頃の「男の文化」を今現在も肯定したままで、「慰安婦」を考えるのと、それは過去の過ちであって今は通用しないといってすませるのも、ダメだと思う。「売春」はなぜ否定されねばならないか、はもっと根柢的に考える必要がある。(この項つづく)

B.陸前高田の気仙町のこと
大震災後、被災地をぼくもあちこち訪ね、福島県田村市都路地区や宮城県南三陸町歌津地区では、学生を連れて行って仮設住宅での被災者の方々への調査も行った。それぞれの土地には、独自の歴史と文化があったけれど、津波や放射能は大きな破壊や被害をもたらしたことも目に見えてわかった。
そのときいろいろな記録や文献も見たのだが、なかでも印象深かったのは、津波被災地のひとつ陸前高田市の気仙町で生まれ育った写真家・畠山直哉さんの、被災直後に撮影された写真集『気仙川』の震災前のおだやかな風景と津波が襲った直後の無残な瓦礫の対比だった。同じ場所が、徹底的に破壊されている。声も出ないほど…。そこで生まれ育った人は、どう感じるだろうと思いを馳せてみた。そして、現地も3度訪ねて、その気仙川添いの風景が、無人の曠野になり、さらに復興という名の大規模なコンベア建設という人工的激変がまったく風景を変えてしまったのも、この目で見ていろいろ考えた。東日本大震災から今日で10年。メディアでは10年という節目で、いっせいに震災後の各地の現状を報道しているが、畠山さんの文章も新聞に載っていた。
「今を生きて 明日も続く命 津波からの10年 「イッセーの」で話そう 僕らの忘れやすさとか
被災した故郷を撮る写真家・畠山直哉:岩手県陸前高田市出身の写真家・畠山直哉(62)は、2011年3月11日の津波で、その日が84歳の誕生日だった母親と実家をなくした。直後に東京から現地に入り、その後も継続して故郷を撮ってきた。シャッターを切ることで記憶を刻んできた畠山にこの10年について聞いた。
震災からしばらくは、月に1,2回、その後も2カ月に1回ぐらいは陸前高田に通って、写真を撮っていました。それが、昨年9月を最後に、先月末に訪れるまで行けていませんでした。理由は、コロナです。
岩手県は長く感染者が出ていませんでしたから。いつもは姉の家に泊まっていたのですが、7月と8月はホテルに宿泊しました。姉の顔を見たり墓参りをしたりも含めての撮影でしたので、どうしたらいいんだろうという気がしました。
この10年はどうだったかと聞かれると、難しいですね。ここしばらくは東京にずっといたので、自分の撮った写真を見返したり、書いたものを読み返したりして、考えるしかありませんでした。ある程度努力しないと、過去の記憶って戻ってこない。だからこそ記録をして思い出す必要がある。僕の写真も含め、「人間は忘れてしまう」ということを思い出させる刺激が必要なのかもしれない。
僕の場合は、震災後半年ぐらいは、出来事の生々しさが圧倒的すぎて、それに引きずられて撮っていました。しかし次第に片付いてくると、何もない地面が現れ、工事が始まり、それまで地面だったところに土が盛られる。そうすると、もう元の地面は撮れない。思い出も消える。なんでこんな目に遭わないといけないんだという運命の残酷さを感じながらとっています。
僕は、自分という人間が複雑になったように思います。世の中では、「これは面白いね」「こちらは面白くないね」という風に、はっきりと割り切る話がたくさんありますが、そう簡単には判断できなくなりました。一口で言えば面倒くさい人間になりました。
行政やボランティアの行動、報道関係者の行動と、一瞬のうちに現れる膨大な数の行動に対し、これは良いことなのか悪いことなのか、と考えてしまった。
一生懸命やっても、うまくいかなかったりします。そういうことがあまりに多かったので、やっぱり複雑になりますね。
津波に襲われ、復興したという北海道の奥尻島に行ったことがあります。陸前高田の未来があるかもしれない、と思ったからです。そこには、淡々とした静かな日常がありました。
未来というと、子どもの笑顔があって活気あふれる商店街があって、という姿を連想しますが、落ち着いた未来というのもあると思う。見た目は静かでも、人々の心の中は幸せかってこともあるかもしれない。
巨大な防潮堤を写真に撮る海外のアーティストがいるんです。人間は自分の身を守るために、とんでもないものを造ってしまう、というような鑑賞態度を求めてくる。そうしたことが、文学的、美学的な主題になるのは分かるんですが、でも陸前高田で生まれ育って、あの防潮堤を見ている人間としては、その表現には何の提案もないと思う。
僕は分析や批評ではなくて、提案の言葉を無性に聞きたい。自分としても提案の形でものを言いたい。でも今のところそれができていないのが、悔しい。
17年ごろから、津波に襲われても生き残った樹木の連作写真を撮っています。きっかけは、気仙川の近くで出会った1本のオニグルミの木です。半分生きて、半分死んでいるような木です。人間の知性とは全く異なる、問題解決能力を秘めているように感じました。
色々あっても僕らは生きている。樹木に感じるのは、生命力というより、そんな平然とした感じ。今も生きていて、明日も続く。
すべて、津波をかぶった木です。津波の後の時間が想像できると思う。
アートと文学にも、人間に働きかける方法があると思う。命が助かるだけじゃない、何か人生が豊かになるような。そういうことのためにも何かできないかな、と思います。
今、人々の心配といえば、コロナですよね。震災から10年ですが、被災地の人々も、震災のことをコロナと分けて話したり、考えたりするのが難しくなっている面があると思います。
コロナのために、お葬式も簡略にする傾向があると聞きました。思い出すことに大変さを感じている人も多いと思います。でも、何も思い出さなくなる人がほとんどになるのは、あまり見たくない未来です。
津波から現在までの時間の意味は、一人一人異なっています。「イッセーの」でみんなで思い出し、話し合いをすればいい。僕らのこの忘れやすさについてとか。10年という区切りには深い意味があると思う。
先月末には、実家のあった地区の慰霊碑の除幕式に合わせて陸前高田に滞在しました。慰霊碑には、母の名前も刻まれていました。今月も頑張って行こうと思っています。3月11日に合わせて。(聞き手 編集委員・大西若人)」朝日新聞2021年3月9日夕刊、3面。
海添いの道路を車で走れなくなった畠山さんの気持ちは、あの過去の故郷のすべてが掻き消えた気仙川を知るとさらに痛切に響く。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます