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沖縄の自立:平田派国学について

2016-07-08 18:30:35 | 日記
A.沖縄の「悲哀」ではなく「自立」
 最近、沖縄に行っていない。6年前ぐらい前までは、年に3回は行って離島を回っていた。本島の方も、名護・本部から国頭まで南米移民に行った人たちを中心に話を聞いた。社会学としても興味は尽きないが、いうまでもなく現代の沖縄の米軍基地をめぐる諸問題は、なにも解決していないどころか日本政府や本土の多数派国民の態度は、むしろ悪化している。普天間移転問題はその象徴で民主党鳩山政権が誕生したとき、ちょうどぼくは沖縄にいたのだが、これで少しは状況が変わるのではと沖縄の人たちも大きな期待を抱いたことを記憶する。しかし、沖縄以外への基地移転という話がでたとたん、自民党はじめ本土の政治家たちがいっせいに何を言い出し、すべてアメリカの意向が優先されるという理由で、鳩山潰しに出たことは忘れられない。

「沖縄は日本の植民地か 普天間基地の20年:池澤夏樹「終わりと始まり」
 先日、『沖縄への短い帰還』という本を那覇の出版社から出したのを機に沖縄に帰った。
 ぼくはかつて十年に亘って沖縄に住んだが、それも今は昔、その後はいつ行っても短い帰還でしかない。
 来るたびに前と変わらないところ、大きく変わったところ、それぞれが目に飛び心(チム)に迫る。
 六年ぶりに辺野古に行った。
 たまたま今は工事が中断されている時期で、海はまことに静かだった。
 キャンプ・シュワブの前で普天間基地の移設に反対する人々に会った。人はある場所に居るだけで意思表示ができる。一日も欠かさずこの場所で二年という持続も強い意志の表現だ。
 橋本首相とモンデール駐日大使の間で普天間基地の返還が合意されてから二十年になる。しかし、基地は危険を承知で運用が続いており、この先も返還の実現は遠い。
 理由の第一は引っ越しのついでに大きな便利な基地をというアメリカ側の強欲。第二はこれに迎合する日本政府の卑屈な姿勢。揉み手で「アメリカさまの仰ること」と言わんばかり。第三に代替地として名乗りをあげる自治体が本土(日本から沖縄県を除いた一都一道二府四十二県)にないこと。
 第三の理由について話そう。
 普天間基地の周囲には小・中学校と高校、大学、合わせて十六校がある。普天間第二小学校・普天間第二幼稚園は校庭・園庭がフェンスで基地に接している。滑走路への進入コスから百三十㍍しか離れていない。着陸するパイロットの顔が見えるほど。
 そこに日に平均八十回、民間機よりはるかに騒音が大きくて事故率も高い軍用機が離着陸する。最近ではその三分の二が危ないオスプレイ。
 基地の主体は長さ二千七百㍍の滑走路である。これが東京にあるとしてみよう。青梅街道に沿って中野坂上から環七との交差点まで、市街地であって人口密度も中野区・杉並区と変わらない。
 中野区と杉並区のみなさん、日本中の市街地に住むみなさん、そういう事態を自分の生活に重ねてみて下さい。子供たちの目の前に重低音を発するオスプレイが飛び交うありさまを。そのたびの授業の中断を。
 ぼくは同じことをこの欄で何度も言ってきた。
 具体的に代替地を提案したこともある。五年前に鹿児島県の馬毛島という離島のことを書いたが、もともとは一九九七年に「週刊朝日」に書いたことだった。無人島で、南北四㌔、滑走路が作れるほど大きく、平坦で、種子島からは十二㌔と充分に遠い。個人所有で買収は容易。嘉手納からも岩国や佐世保からも一時間の飛行距離。
 今、ぼくは北海道の苫東は如何かと言っている。苫小牧の東に位置するこの地域は工業団地をめざして一九七〇年代に開発が始まったが、バブルに乗り遅れて完全な空振りに終わった。結果は空白のままで千八百億円の赤字。今もってがらんとしている。太平洋に面していて近くに人家は少ない。
 あるいは別海町の自衛隊矢臼別演習場もある。実はどちらもアメリカが提案したのを即座に日本政府がつぶしたらしい。
 なにがなんでも基地は沖縄という姿勢が透けて見える。だいたい内地のメディアはこういうことを報道しない。執拗に調査報道を続ける琉球新報と沖縄タイムスについて、安倍政権に近い百田尚樹氏は「沖縄の二つの新聞社は絶対につぶさなあかん」と言った。報道の自由を強権で奪う。どこの国の話かと思うが、これはまさしくこの国のことだ。
 日本国は沖縄県をあからさまに植民地と見なしている。どんな迷惑施設を押しつけてもかまわない二級の国土。
 二十年間、普天間基地をめぐる状況はちっとも変わらないと言いそうになるが、そうではない。緊迫の度はいよいよ高まっているのだ。
 その思いを伝えるのが六月の県議会議員選の結果であり、アメリカ軍属による女性殺害に抗議するために六万五千人が集った県民大会である。
 大会で「安倍晋三さん、本土に住む皆さん、今回の事件の第二の加害者はあなたたちです」、と二十一歳の玉城愛さんは訴えた。被害者は二十歳だった。人ごとではないのだ。
 この論法は矛盾していると自分でも思う。騒音や犯罪、事故の危険など既知の問題を訴えれば訴えるほど、そんな危ないものは御免だと本土の人は言う。では沖縄はどうすればいいのだ?
 今もって沖縄の経済は基地の収益に支えられているという誤解がある。それならば結構、地代と一緒に基地を差し上げる。早々に引き取っていただきたい。
 ぼくは本土に住むあなたを敢えて挑発しているのだ。」朝日新聞弐〇壱六年7月6日夕刊。3面文化欄。

 池澤氏は沖縄の声に寄り添う具体的な提案を、ずっと前からさまざまな形で述べていることは知っていたが、どれも本土のメディアによって無視されてきた。もはや、残された可能性は、沖縄の独立という道しかない、と思い詰める事態になってしまった。ぼくの古い友人、ウチナンチュウの農村家族研究者も、昨年病を得て亡くなってしまった。辺野古の問題を中心にそれを沖縄の「悲劇」の継続と呼ぶのは、ヤマトンチュウのぼくとしては反転して、「自立」への契機と考えたい。



B.平田派国学のエッセンス
 本居宣長の国学は、「日本人の心」というものを理念として考える時に、ひとつのよりしろを形成したものと考えてよいだろう。それは、中華文明から派生した朱子学的政治思想を、国家統治の哲学とした江戸時代の武士階級のもので、それとは別の選択肢を構造したともえなくはない。でも、幕末の緊迫した状況で国学が熱狂した尊王攘夷のイデオロギーとして機能したのは、宣長ではなく平田篤胤の言説だった。篤胤自身は、ペリー来航(1853年6月)を見ることなく、亡くなっていたのだが、平田国学の影響は尊王攘夷運動によって炎上した。

平田篤胤(1776-1843年)は、みずから宣長学の正統を継ぐものと任じたけれども、いくつかの点で宣長と見解を異にする独自の所説を展開した。宣長が市井の私的な学者としての立場を意識的に保ち続けようと努め、その意味で飽くまで未知の学問的究明そのものに主たる関心を注いだのに対して、篤胤はむしろ道の現実的な実践性と有効性とに深い関心を抱いた。「物のあはれ」の見地から宣長が尊重した『源氏物語』についても、篤胤は「淫乱」の書という観点からしか理解できず、「此を古学の要用なる書のごと云ひ、此の物語なくては、物の哀れは知られざる如く云ひて、髭くひそらし男道なくも、読ふける人あるは、真のます荒男の読べきふみ、為すべきわざの、多かる事を得知らず」(『たまたすき』)と述べているが、現実から浮遊した「雅情」とか、和歌的抒情の世界とかは、篤胤にとって親しみ薄いものであったのである。
 したがって宣長の場合には、欲と情とを区別し、(「哥は情の方より出来る物」)で、「かの財宝をむさぼるやうの思ひは欲といふものにて、物のあはれなるすぢにはうときゆゑに哥はいでこぬなるへし」(『石上私淑言』下)といっているように、宣長は「人欲もまた天理」と肯定しながら、欲望をつねに感情として昇華し純化する方向をとったが、これにたいし篤胤は、「親ヲ敬ヒ、妻子ヲメグミ、富貴ヲネガヒ、悪ヲイヤガリ、善ヲ好ム」現実的な人情を「真ノ心」と考え、そこを出発点とした。「極楽よりは此の世が楽みだ。夫はまづ、暮(くらし)の相応にゆく人は、美濃米を飯にたいて、鱣(なら)茶漬、初鰹魚に、劔菱の酒を呑み、煉羊羹でも給(たべ)ながら、山吹の茶を飲んで、国分の煙草をくゆらして居らるゝ……」(『伊吹於呂志』下)。こういう現実の満ち足りた世界こそが、篤胤の求めるものであった。
 篤胤学の中核をなす神道も、このような現実の人情に対応して形づくられた。例えば宣長の場合では「黄泉国」を「きたなくあしき」死後の世界と解し、善悪をえらばず「死ぬれば必ずゆかねばならぬことに候故に、此世に死する程悲しきことは候はぬ也」(『鈴屋問答録』)と宗教的安心を否定していた。そして「先づ下たる者は只上より定め給ふ制法のまゝを受て其如く守り、人のあるべき限りのわざをして、世をわたり候より外候はねば、別に安心はすこしもいらぬことに候」(同上)と、まことに割り切った現世主義に徹した。しかし安心を求める現実の人情を問題とした篤胤にとっては、「その安心なきぞ、吾が古道の安心」とする宣長の態度に甘んずることはできなかった。その点では、こうした人情を考慮に入れて儒仏の説を巧みに採り入れた従来の「俗神道」は、「妄作神道」にはちがいないが、宗教的安心を人々に与えることに成功している、と篤胤は考えた。「わなみ古へ学びする徒は、この心の安定(しづまり)におきては、かへりて、彼等に劣て、怯(つたな)きものゝ有らむかと、かへすかえす口惜し」(『霊の真はしら』下)。
 こうして篤胤は、『古事記』『日本書紀』その他の古典を大胆に取捨して神道の宗教化を推し進めた。彼が、幽冥界は現世をつかさどる神々の世界、よみの国は汚く悪しき死後の世界とした宣長の説を否定し、幽冥界こそ現世のいたる所に鎮座する死後の世界であり、よみの国とは月のことであるとしたのも、死後における霊魂の安住の地を保障せんがためであったし、それはとりもなおさず現世において「大倭心を太く高く固め」んとする実践的要請に応ずるものであった。しかも篤胤は、安心を得たいというこの世間普通の人情を、神道の規範性の根拠に導き入れた。すなわち「霊の行方」に彼は一つの関門を設け、死後幽冥にはいった霊魂は、幽冥事を支配する大国主神の審判を受けねばならないとしたのである。ここでは現世における行為が余すところなく糾問される定めであるから、人は現世において文字どおり陰ひなたなく神の道を実践しなければならない、というのが篤胤神学の論理であった。
 その点で、宣長がこの世の邪悪は悪神(禍津(まがつ)日(ひの)神(かみ))の所業であるとする見解は、現世の悪にたいする個人の責任を追及する根拠を弱め、神道の規範的実効性を妨げるものとなっていた。篤胤が、この悪神は世の中に汚れた悪事があったときに怒り荒(すさ)ぶのであって、「汚穢(けがれ)たる事のなければ、荒び給ふ事もなく、幸ひを賜ふなり」(『霊の真はしら』上)として、これを善神と解し、悪事の責任を個人に帰したのも、神道の実践性を強化するためであった。
 さて篤胤は、その著書『伊吹於呂志』の冒頭で、「世の古学者等の、教導いたす様子を見まするに、古事記、書紀、万葉集など、其外の古書を、講釈して聞せ、また歌を詠(よま)しめるなどして、導きまするが、拙者の思ひまするには、夫は上等の人の、しかも書物も余程読み、かつ隙もある人を導くの手段で、……」と述べ、これにたいして自分は「世にたんとある無学の人」に代わって学びえた道を諭し聞かせるのだと語っている。このような篤胤学の教学への成長と社会的働きかけの積極化は、門人層の拡大と社会への浸透を促進したが、それにともなって「道」の内容も具体化し日常化する方向をたどった。たんに「其時々の公の御定め」「世間の風儀」という一般的規範のみならず、「五倫五常の道」という儒教的身分道徳が積極的に取り入れられ、「忠臣孝子」の道や「武勇」の徳が強調されたのはその例である。このような動向は、幕末および維新初期における国学とくに平田神学のあり方を予示するものとして注目される。
 また篤胤学における現実的な志向性は、宣長の神道論が古典にもられた古代人の心を古語の解明を通して再現することに基礎をおいていたのにたいし、むしろ篤胤は「すべて古へ学する徒は、何事も、神代の事実より及ぼして、今を考へ」(『霊の真はしら』下)と、後世の知識や理論、いわゆる「現(うつつ)に見えたる理り」を広く取り入れて古伝の解釈を行なった。彼がその神学を形成するにあたって、オランダの天文地理学をはじめとする自然科学的知識を吸収すべきことを説き、キリスト教の説に注目し、その他、中国、インド等の古伝をも参照して独自の構成を行なったのはそのためである。そして彼は、天(あめの)御中主(みなかぬしの)神(かみ)、高皇産(たかみむすび)霊神(のかみ)、神皇産(かみむすび)霊神(のかみ)の三神を天地創造の造化神と解し、日本の古伝を中心に諸国の古伝を解釈し位置づけることによって、神道に世界宗教的性格を付与するに至った。
 このような神道の世界宗教化が、「皇国は、万の国の本つ祖国」「日ノ神ノ御本国」と、日本に対する神秘的な優越性を導き入れ、自国と諸外国との「尊卑美悪ノ差別」を強調して、華夷内外の区別を説く儒教的名分論と思考方法において全く癒着する方向を推し進めるに至ることはもはや誰の目にも明らかであろう。こうして国学は篤胤学を踏石として、庶民の日常生活の道として次第に広く深く浸透すると同時に、迫りくる外圧を前にして、内に「大倭心を堅む」べきイデオロギーとして尊攘志士の登場を待つこととなる。だがここでは、宣長が明確に区別し使い分けた、学問としての文学論(歌道)、被治者のための神道論(臣道)、為政者のための神道論(政道)という理論的視座は、篤胤による神道の壮大なる世界宗教化とともに解体してしまった。すなわち宣長が為政者にたいしては、「すべて何にても、心よく帰服してする事にあらされは、末とほりかたく、永くは行なわれぬものなり。さてその下下を心より帰服せしむることは、皆上よりのはからひ、仕方によるそかし」(『秘本玉くしげ』上)と、「上よりのはからひ」や「工夫」を説き、また「儒を以て治めざれば治まりがたきことあらば、儒を以て治むべし。仏にあらではかなはぬことあらば、仏を以て治むべし。是皆、其時の神道なれば也」(『鈴屋答問録』)と、政治を特定の原理から解放してこれを状況的な思考と手段の選択に委ねた、このさめた政治の英知は、もはや篤胤には見出すべくもなかった。篤胤による神道の世界宗教化とともに、神道は同時に政治の理念、政治の原理となった。「御祭事、御政事は、元より一ツにて候。是則神国と奉称候、御いはれに有之候。今の俗人は、政の字につきて、神祭と、国を治る事とを、別のやうに心得候は、大なる誤にて候」(『大道或問』)。いわゆる祭政一致の論が、ここでは頭をもたげている。
 こうして篤胤によって追及された神道の現実志向への道は、後に、幕末維新期の復古主義の風潮が文明開化のそれにとって代わられるとともに、そのあまりの合理性のゆえに衰退を余儀なくされる運命をたどることとなる。しかし、国学の成立過程に見られたその思惟構造上の特質は、国学そのものの盛衰をこえて、その後の日本思想の体質に沈殿し、天皇制国家の思想構造を形づくる一要素として生きつづけることとなるのである。」松本三之助『天皇制国家と政治思想』未來社、1969.pp.53-57.

 水戸学も平田派国学も、明治維新の発火点であれほど志士たちを熱狂させていたにもかかわらず、明治維新が倒幕を実現する頃にはすでに、現実に対する現実性も有効性も失っていた、というのは歴史の皮肉であり、そこに身を投じた人たちの犠牲は結局、愚かな試みとして終わったかに見えたが、その後も現在までことあるごとに呼び覚まされ、奇妙な形で蘇る。なにが足りなかったのか?
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