全4回の来日コンサートを終えたロッテルダム・フィルの初日のミューザ川崎での公演。ラハフ・シャニは2016年の読響との共演を聴いているが、当時の記憶は薄れてしまった。ロッテルダム・フィルは2013年のヤニック・ネゼ=セガンとの来日公演が印象に残っており、その後間もなくフィラデルフィア管との来日公演で魅了されたネゼ=セガンの輝かしい手腕を、このオケで先取りして実感していた。
1989年生まれのラハフ・シャニは2018年からロッテルダム・フィルの首席指揮者を務めている。史上最年少でのシェフ就任(当時29歳)だったというが、2025年の来日公演では2008年から10年間首席を務めたネぜ=セガンに劣ることのない統率力(オケからの真の信頼)をみせた。最近はオーケストラ公演でもオペラグラスを使ってステージを観察しているのだが、見えてくるものは面白いものばかり。楽員はベテランが多く、ネゼ=セガンの前任のゲルギエフ時代から活躍している奏者も多いと思われた。その中で、若々しい風貌のラハフ・シャニは、信じられないほど洞察的な音楽をオーケストラから引き出した。
ワーヘナール:序曲『シラノ・ド・ベルジュラック』は金管奏者11名がずらりと並ぶ華やかな曲で、ラハフ・シャニにはオペラ指揮者の才能があるのではないかと直観した。シャニのプロフィールにはオペラのキャリアは記されていないが、15分間のこの曲でプッチーニ風の響きや描写的な面白いサウンドが雨あられと飛んできて、指揮者の劇音楽への好奇心や音色への研究心が伝わってきたのだ。このオケで修業を積んだネゼ=セガンがMETの音楽監督のポストを得たことも、そうした連想を引き起こした原因かも知れない。
プロコフィエフ『ピアノ協奏曲第3番』では人気のピアニスト、ブルース・リウが登場。この日の聴衆の何割かは彼のファンだったように見えた。ピアノはファツィオリだが、この楽器特有のきゃぴきゃぴした(?)音は飛んでこず、やや地味な印象。ブルース・リウの技術は完璧だが、普段若き日のアルゲリッチの爆演(?)をCDで聴いているせいか、随分控えめな演奏に感じられた。途中から、ソリストがあえて目立つことを避け、オケのアンサンブルに溶け込むタッチを選んでいるのだと理解。プロコフィエフのPコン3番は個人的に大好きな曲だが、3楽章のコロコロ変わる調整やムードなど、随分エキセントリックな世界観だなと印象が新たになった。大自然を連想させるオーケストラの合奏は全楽章が素晴らしく、指揮者から最も遠い場所にいる管楽器の真剣さに心を打たれた。アンコールは指揮者とソリストによるブラームス「ハンガリー狂詩曲第5番」の連弾で、会場は和やかな雰囲気に包まれた。
圧巻だったのは後半のブラームス『交響曲第4番』で、聴き慣れたはずのこの曲が、まったく手垢のついていない深遠で神聖な音楽に聴こえた。ブラームスが生涯独身を貫き、孤独な日常の中で作曲を続けていた、特異な生き様が何より感じられた。1楽章から4楽章に向かった積み上げられていく貴重な音の重なりが、まるで神との対話のようで、ルネサンスから近代までの音楽を研究し、図書館学的な知識の中で創作を行っていたブラームスの「生きていた時間」をともに体験する心地だった。すべてが作曲家のオリジナルで、剽窃などひとつもない。現代という時代は歴史までもが手軽でカジュアルな情報となり、大阪万博のマークのような由々しいものが歓迎される。
ブラームスの時代は今より「光学的に」暗かった。24時間蛍光灯がついているコンビニもなければ、インターネットもなく、高速の移動手段もなかった…そんな中学生のようなことを考えつつ呆然とした。知識情報が安易なものとなった現在、指揮者がヒントとするものも容易に手に入る。
ラハフ・シャニの指揮は神秘的というより他なく、彼の音楽への着想はブラームスの精神の聖性とダイレクトに繋っていた。俗世と一線を引いていた作曲家の諦めの境地や、言葉ではなく譜面という暗号じみたものでしか語り得なかった迂遠な愛が、一秒一秒心に突き刺さった。
木管奏者の見事な演奏を聴きながら、その前の列のグレイヘアのチェロ奏者がじわじわと仲間のいい音を受け取っている表情をしていた。全員がお互いの音をよく聴き、神的な音塊の中にいる自分たちを幸せだと感じている。現実はそんな生易しいものではないと言われるかも知れない。最近では、音楽家がステージで感じている幸福感こそが、客席にいる自分の感動とつながっていると感じる。
ラハフ・シャニは特別な指揮者で、ブラームスの神の次元を聴かせた。指揮者の才能とは経験や訓練にも増して、生まれ持った魂に由来するものなのかも知れない。一種の運命論的なものも感じずにはいられなかった。

1989年生まれのラハフ・シャニは2018年からロッテルダム・フィルの首席指揮者を務めている。史上最年少でのシェフ就任(当時29歳)だったというが、2025年の来日公演では2008年から10年間首席を務めたネぜ=セガンに劣ることのない統率力(オケからの真の信頼)をみせた。最近はオーケストラ公演でもオペラグラスを使ってステージを観察しているのだが、見えてくるものは面白いものばかり。楽員はベテランが多く、ネゼ=セガンの前任のゲルギエフ時代から活躍している奏者も多いと思われた。その中で、若々しい風貌のラハフ・シャニは、信じられないほど洞察的な音楽をオーケストラから引き出した。
ワーヘナール:序曲『シラノ・ド・ベルジュラック』は金管奏者11名がずらりと並ぶ華やかな曲で、ラハフ・シャニにはオペラ指揮者の才能があるのではないかと直観した。シャニのプロフィールにはオペラのキャリアは記されていないが、15分間のこの曲でプッチーニ風の響きや描写的な面白いサウンドが雨あられと飛んできて、指揮者の劇音楽への好奇心や音色への研究心が伝わってきたのだ。このオケで修業を積んだネゼ=セガンがMETの音楽監督のポストを得たことも、そうした連想を引き起こした原因かも知れない。
プロコフィエフ『ピアノ協奏曲第3番』では人気のピアニスト、ブルース・リウが登場。この日の聴衆の何割かは彼のファンだったように見えた。ピアノはファツィオリだが、この楽器特有のきゃぴきゃぴした(?)音は飛んでこず、やや地味な印象。ブルース・リウの技術は完璧だが、普段若き日のアルゲリッチの爆演(?)をCDで聴いているせいか、随分控えめな演奏に感じられた。途中から、ソリストがあえて目立つことを避け、オケのアンサンブルに溶け込むタッチを選んでいるのだと理解。プロコフィエフのPコン3番は個人的に大好きな曲だが、3楽章のコロコロ変わる調整やムードなど、随分エキセントリックな世界観だなと印象が新たになった。大自然を連想させるオーケストラの合奏は全楽章が素晴らしく、指揮者から最も遠い場所にいる管楽器の真剣さに心を打たれた。アンコールは指揮者とソリストによるブラームス「ハンガリー狂詩曲第5番」の連弾で、会場は和やかな雰囲気に包まれた。
圧巻だったのは後半のブラームス『交響曲第4番』で、聴き慣れたはずのこの曲が、まったく手垢のついていない深遠で神聖な音楽に聴こえた。ブラームスが生涯独身を貫き、孤独な日常の中で作曲を続けていた、特異な生き様が何より感じられた。1楽章から4楽章に向かった積み上げられていく貴重な音の重なりが、まるで神との対話のようで、ルネサンスから近代までの音楽を研究し、図書館学的な知識の中で創作を行っていたブラームスの「生きていた時間」をともに体験する心地だった。すべてが作曲家のオリジナルで、剽窃などひとつもない。現代という時代は歴史までもが手軽でカジュアルな情報となり、大阪万博のマークのような由々しいものが歓迎される。
ブラームスの時代は今より「光学的に」暗かった。24時間蛍光灯がついているコンビニもなければ、インターネットもなく、高速の移動手段もなかった…そんな中学生のようなことを考えつつ呆然とした。知識情報が安易なものとなった現在、指揮者がヒントとするものも容易に手に入る。
ラハフ・シャニの指揮は神秘的というより他なく、彼の音楽への着想はブラームスの精神の聖性とダイレクトに繋っていた。俗世と一線を引いていた作曲家の諦めの境地や、言葉ではなく譜面という暗号じみたものでしか語り得なかった迂遠な愛が、一秒一秒心に突き刺さった。
木管奏者の見事な演奏を聴きながら、その前の列のグレイヘアのチェロ奏者がじわじわと仲間のいい音を受け取っている表情をしていた。全員がお互いの音をよく聴き、神的な音塊の中にいる自分たちを幸せだと感じている。現実はそんな生易しいものではないと言われるかも知れない。最近では、音楽家がステージで感じている幸福感こそが、客席にいる自分の感動とつながっていると感じる。
ラハフ・シャニは特別な指揮者で、ブラームスの神の次元を聴かせた。指揮者の才能とは経験や訓練にも増して、生まれ持った魂に由来するものなのかも知れない。一種の運命論的なものも感じずにはいられなかった。
