小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京都交響楽団×エリアフ・インバル『第九』(12/25)

2023-01-04 13:23:54 | クラシック音楽
2022年の12月は読響(鈴木優人指揮)、東響(秋山和慶指揮)、東フィル(尾高忠明指揮)の第九を鑑賞。同じ第九でここまで指揮者は異なる世界観を顕せるのかと改めて感動したが、都響とインバルの上野での演奏会には特に強烈な印象を受けた。12月の都響&インバルはブルックナー4番、フランクのニ短調と名演が続いていたが、通底している感情というか衝動というか、指揮者の見ている景色が一貫していることに驚愕した。インバルはこの3つのプログラムでひとつのことを言っているように思えてならなかったのだ。

演奏会は客観的な事象であり、速さ、音量、バランス、編成、クリティカルエディション等々について緻密に論証・計測するのが鑑賞者の絶対義務だとは考えていない。そうした立場は貴重で、むしろ多数派になっている感もあるけれど、鑑賞する位置や鑑賞者の様々な条件はバラバラで、絶対零度の演奏会の真実というのは測るのが困難だと思う。つねに実存に訴えてくるのがクラシック音楽だという確信が自分自身にはあり、インバルはその期待に毎回見事に応えてくれる。「お前が望んでいたのはこういうことだろう」という回答を、オーケストラを通じてぶつけてきてくれる。こういう感触は関係妄想的で狂気すれすれなのかも知れないが、自分にとって答えはひとつしかない。外には正解はなく、自分の中にしかない。

インバルの音楽はすべて言語に感じられる。2022年12月の演奏会は過去にもましてそうだった。ブルックナーの4番は、作曲家の年代記作者の言葉をすべて裏返すような世界で、ブルックナーは信心深い神の僕ではなく、いつでも自分が神になれると信じている万能者として立ち現われた。ラスト近くの奇想天外と思われる打楽器の強打から「今生きて、望んでいる者の強さ」が伝わってきた。神と人とを対等に結ぶインバルの魔法が爆発。クラシック音楽は学問であり、テキストの背景を虱潰しに丸暗記せよ、という強制感に、哄笑を浴びせかけるような、野太く揺るぎなく、自由闊達な意志の顕れだった。

フランクの交響曲は洞察的で、演奏によっては陳腐になりかねない熱血漢なシンフォニーから、情動を超えた「芯」を引き出していた。インバルという飄々とした雰囲気のマエストロが内面に秘めた渇望感、挫折感、寂寥感といったものも裏色に見えた。速さや音量に奇抜な印象は全くないが、フレーズとフレーズの、楽器間のダイアローグが笑ってしまうほど鮮烈で、驚くほど言語的だった。フランクは率直なほど、ベートーヴェンの弁証法的な動機の止揚に倣っており、そこには諧謔やもってまわった洒脱や小細工はない。「神はいるか?」とある小節は問いかける。「いるとも」と次の小節が返す。「本当にか?」「本当だ」「何度でも答える」「君の直観は正しい」ニ長調のフィナーレ楽章は、眩しいほどの祝祭感に溢れ、神的なものを疑わずにはいられない人間の弱さが肯定され、神の意志がそれを包み込み勇気づける対話が描かれた。リハーサルでそんなことは語られていたはずもない。本番の音の衝撃から、神と人との対話が自分に入り込んできた。

クリスマスの第九は、超満員の上野で聴いた。翌日のサントリーも聴きたかったが、完売。短い序曲を前半に置くこともなく、休憩なしの第九が始まった。インバルの背中はますます元気いっぱい。逆にオーケストラが吸い取られているのかも知れない。音楽の始まりは毎回自然体で、日常との地続きのよう。インバルが「ただ生きている」時間から膨大な直観を得ているからだと思う。指揮者はすべての時間を愛している。
インバルの知性は、例えばムーティとは正反対で、ムーティが偉大なる自我から意志的な音楽を発しているのに対し、インバルは自分を囲みこむ世界のすべてから音楽のモティベーションを吸い取っている。地下茎的で放射状の知性で、ジャーナリスティックという言葉では足りない。歴史の中で今がどういう時間なのか、人間は退化と進化のどの方向に進んでいるのか、第六感的なインスピレーションから取材し、直観で正解を導き出していて、もしかするとコンサートでは毎回違うことが行われているのかも知れない。

インバルの時間感覚は円環的で、もしかしたら魂の中に旧約聖書のような記憶を持っているのではないか。
あまりに美しい3楽章には都響の素晴らしさに感謝が止まらなかった。3プログラムともコンサートマスターは矢部達哉さん。スケルツォ楽章から、ブルックナー、フランクと同じ対話が溢れ出した。人間的な迷いに対して、神の側から「望むなら力を与える!」と親愛の情をぶつけてくる。「本当に生きたいのなら、神の一部になっていい」というはっきりとした言語が伝わってきて、それは難聴が進んでいた作曲家が五線譜に向かっているときに聞いた言葉ではないかと思った。遺書を破り捨てて生きようと思った一人の人間の実存が、すべての響きに刻印されていた。バリトンソロの妻屋さんの最初の声が響き渡ったときは、心臓が止まるかと思った。
 ブルックナーもフランクもベートーヴェンも率直な音楽であり、神的なものと人間的なものがイコールで結ばれ、自由で未来的で、生きるための新鮮なパワーが溢れ出していた。いずれの公演もマエストロのソロカーテンコールがあり、ブルックナーのときは照れ臭そうに出てきたインバルは、第九の日には「すべてに感謝する」という、神のような人間のような表情だった。作曲家が地上に落とそうとしていた雷を、インバルというアンテナが受け取った。見事な12月の都響だった。