小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

錦織健テノール・リサイタル「日本の歌だけを歌う」(5/17)

2021-05-20 03:51:05 | クラシック音楽

錦織健さんがオペラシティで「日本の歌だけ」を歌ったリサイタル。これまでハープ奏者と共演されたり、ピアノの河原先生とエアーテニスをしたり、クイーンをたくさん歌ったりと様々な試みを行ってきた錦織さんだが、同じことは二度とやらない。この日のリサイタルも、新しいアイデアに溢れていた。ピアノは多田聡子さん。一部は日本古謡「さくらさくら」滝廉太郎「荒城の月」山田耕作「この道」「待ちぼうけ」「からたちの花」小林秀雄「落葉松」武満徹「死んだ男が残したものは」「小さな空」宮沢和史「島唄」が、いつもの楽しいMCを交えて歌われた。珍しくカジュアルな装いで、ますます若返った錦織さんは2階席からは20代の若者に見えた。

一部の「死んだ男が残したものは」の曲紹介のとき、「二部では『私が死んだら、私が死んだら』という歌詞が続きますので、『死んだ男が残したものは』などはまだ控え目なほうです」と語られ客席からは笑いが起こったが、真剣な歌と面白いMCのギャップは錦織さんの定番で、お客さんは歌手がどれだけ密に準備して本番に臨んだかを分かっている。わざわざ深刻ぶるのは粋ではないのだ。

二部の「独唱とピアノのための組曲『遺言歌』」では、本当に「私が死んだら」が歌詞で連発された。衣裳はクラシックの黒い正装となり、MCもなし。なかにし礼さんの作詞(1970年作)で、全6章の中で死についての内観が痛々しいほどに掘り下げられている。プログラムには錦織さんご自身の言葉で、1993年にこの歌を歌うように作詞家のなかに礼さんに指名されたこと、「ケン坊」と呼ばれて可愛がられていたエピソードなどが語られていた。この公演は1年前の5月に予定されていたが、なかにし礼さんは昨年末に亡くなられた。

「日本語だけで歌う」リサイタルは、この組曲を中心に組み立てられていたのだ。普段考えないようにしていた生きることと死ぬことの深遠が、自己憐憫として伝わるのも恐れずに、ストレートな日本語で表現された。錦織さんの歌い方も、今まで聴いたことのない激しい表現だった。ヴェリズモ的、などという様式さえも軽々と超えた、ハイリスクで、ひょっとしたら喉を酷使しているかも知れない歌い方だ。父母に、故郷に、友に、愛する人に、自分自身に、すべての人に、全6章にわたる遺言がつづられている。どういう旋律だったのかあまり覚えていない。歌詞の鋭さと、錦織さんの火の玉のような歌声だけが引っ掻き傷のように記憶に残った。

平日の昼間のコンサートということもあり、評論家やジャーナリストは少なかったが、これは大変重要な音楽会だった。錦織健さんという芸術家がジャーナリスティックに正当な評価を得ていないのではないか、というフラストレーションがある。人気がありすぎるから? 若い頃からメジャーだったから? だとしたら、声楽家は何を表現しているか、ちゃんと見ようとしていないのだ。

芸術家は影響力が生命だ。紅白に出たか出ないか、ではなく聴き手の人生にどれだけ深く関われるか、大切な思い出として残るか。聴衆の静かな様子が、饒舌だった。歌手は混じりけのない自分の魂を表現し、客席はそれを感謝して聴いていた。声楽のコンサートで貴重だと思うのは、どんなアクロバットを何回やったかではないのだ(実際、錦織さんは凄いアクロバットをやっていたが)。プロの歌手の日常というのは想像を絶する。「プロの地獄」というものが存在すると思う。そこで新しい、寛大な神のような価値体系が誕生する。よそよそしい採点方式の批評は、そうした精神に最初から敗北している。

錦織さんが、ご自身のプロデュース・オペラの座長として脇役を歌われていた姿も見てきたが、世界的な芸術家の多くがそうであるように、錦織さんも「あの世」にもうひとつ銀行を持っている。この世の銀行は半分、どうでもいいのかも知れない。経済効率や損得や、くだらない資本主義など、すぐに屑になる。音楽が、表現する人と受け止める人との間で一体化することが重要だ。何を一番大切にしているか、音楽は一瞬ですべてを伝えてくる。

何だか少し頭に血が上ってしまい、自分には優しさが必要なのだな…と思っていたら、三部の「歌謡ショー」(Ⓒ錦織さん)は、優しさの凄まじい奔流だった。「花」「蘇州夜曲」と続き、「この曲をさださんのトリビュートアルバムに参加したときに発見した」と紹介されたさだまさしの「奇跡~大きな愛のように~」では、歌手の騎士精神が爆発した。男性として生まれて、この貴重な騎士精神を持っている人は本当に僅かなのだ…さださんのオリジナルは知らなかったが、錦織さんのための歌のように思われた。「本物の男とは、こういうときに立ち上がるのだ」と胸が熱くなった。日常が日常でなくなり、人間の本質が却って鮮明になってきている。人間である以上、当然誰でも矛盾は抱えているが、舞台の上で表される「至高の善」は、ますます宝石のように輝いている。歌手への感謝しかないコンサートだった。