小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

パリ・オペラ座バレエ団『オネーギン』(3/6)

2020-03-08 11:11:38 | バレエ

パリ・オペラ座バレエ団来日公演、Bプログラム『オネーギン』ユーゴ・マルシャン&ドロテ・ジルベール組を鑑賞。決定版だと思っていた「本家」シュツットガルト・バレエ団のフリーデマン・フォーゲル&アリシア・アマトリアンに匹敵する素晴らしい上演で、新しいドラマが見えてくる鮮烈な内容だった。ドロテ・ジルベールのタチヤーナの解釈が深く、踊りも細部に至るまで卓越していた。今のドロテを観られることは奇跡で、10年前から素晴らしいバレリーナだったが、こんなふうに成長するとは予想していなかった。バレエの女神のようなオーラを放っていた。

ジョン・クランコの『オネーギン』は、振付家が64年にボリショイ・オペラが上演したチャイコフスキーのオペラ映画を観たことに触発されて作られたもので、当初はオペラの編曲をそのまま各場面に当てはめて振付が行われる予定だった。このアイデアを却下したのは劇場側で(ロイヤル・オペラハウスとシュツットガルト歌劇場)、既存のチャイコフスキーの楽曲をクルト=ハインツ・シュトルツェが編曲・再構成して作られた。物語はオペラの台本がそのままバレエに移し替えられていて、冒頭の女性の抒情的な三重唱は、テーブルを囲むラーリナ夫人・乳母・オリガによって視覚化されている。

オペラでもバレエでも、同じ演出・振付のもとで演じ手が自らの采配で決定する事柄に一番興味がある。ドロテ・ジルベールのタチヤーナはシュツットガルトのアマトリアンとも、前日に踊ったアルビッソンとも全く違っていて、とても落ち着いていて大人びていた。その様子を見て、彼女がこのバレエでやろうとしていることが何となく分かりかけて興奮した。タチヤーナは陽気な人の輪に入らず、ずっと本を読んでいるが、夢見がちなのではなく、形而上学的なのであり、田舎の村の人々が踊ったり集ったりして「重力のままに」生きていることを退屈に思っている。

 そこにオネーギンが現れる。身長190センチのユーゴ・マルシャンは颯爽としていて、恐らく本人も似た性格をしているのだろう。理想が高く、ちょっとしたことに苛立ち、いつも最高のものを探している若者といった風情だ。タチヤーナがオネーギンを最初に見つめる場面でも、ドロテは冷静で「ずっと待っていたものが現実に現れた」ということを嬉しそうに認識していた。素晴らしいのは、オネーギンが散歩の途中にタチヤーナの読んでいる本を手に取ったあと踊り出す長いソロを見つめる場面で、「この世界で自分を満足させるものなど何もないのだ」ということを語る若い男に対して、微かな憐憫の表情を浮かべていたことだった。これは、初恋の衝撃に全身が砕けそうになる「本家」のアマトリアンと対照的だ。その憐憫ゆえに、タチヤーナは「自分の分身である」オネーギンを支えてあげたいと思い、将来の伴侶としての未来を思い描くのだ。

レンスキー役のポール・マルクは次期エトワール候補と噂の高いダンサーだが、これが初来日。丁寧な踊りで、オネーギンと対照的な牧歌的なムードもよく出ていて、ナイス・デュボスクの若々しいオリガとも好相性だった。華やかさにおいては、3/5のエトワール・カップル(ジェルマン・ルーヴェ&レオノール・ボラック)が勝っていたが、こちらのキャストも難しい振付をよくこなしていた。デュボスクは婚約者をからかってオネーギンとはしゃいで踊る場面も良かった。

タチヤーナが寝室の鏡から現れるオネーギンの幻影とともに踊る1幕の最後は、息を呑む出来栄えで、ドロテの身体表現は今まで観たことのないレベルに達していた。マクミラン版のバルコニーのシーンも凄いが、オネーギンの鏡のシーンはさらに官能的で危険な領域に踏み込んでいる。パ・ド・ドゥの奇跡を立て続けに見せられ、ダンサーの肉体の神秘に度肝を抜かれた。バレリーナの二本の脚が空間を断ち切る鋏の刃のように思えたのは初めてのことだった。オネーギンの色気も凄まじく、踊り終えた後に冷酷に鏡から抜け出していく様子は「薔薇の精」を思い起こさせた。

ドロテの演劇プランでいくと、タチヤーナがオネーギンに手紙をびりびりに破かれる場面ではどういう芝居になるのか興味があったが、ここも個性的だった。手紙を突き返そうとするオネーギンに対して、冷静に「これは受け取るべきだ」という表情を見せる。「若いあなたがどう思おうと、私はあなたの不完全な心も愛している」という意志に思えた。ユーゴのオネーギンは自信に溢れたタチヤーナに、反抗期の子供のような反応を見せる。手紙を破かれたタチヤーナは振付通りに両手で顔を覆って泣くが、同じ所作なのに前後が異なるとやはり違う意味に見えるのだ。ドロテの解釈は最後までスリリングだった。

ポール・マルクが決闘前に踊るソロは、オペラでいうレンスキーのアリア「青春は遠く過ぎ去り」だ。若くして自分は死んでしまうのだ…という未練と無念を、ダンサーは踊りで顕す。テノールの詩情をまとって身体で歌うのだが、ポール・マルクは真剣な表情で「辞世の舞」を踊った。追いかけてくるタチヤーナ&オリガ姉妹が、どちらがどちらか分からないコスチュームで決闘前の男二人に絡む振付は何度見ても素晴らしい。クランコは本当に天才だったのだ(彼もまたレンスキーのように「夭折」した芸術家だった)。

オーケストラは『ジゼル』に続いてこちらも東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団がピットに入ったが、シュトルツェの編曲はプレイヤーへの負担が大きく、立て続けに演奏すると管楽器の息がもたなくなってしまう。巨匠ジェームズ・タグルの指揮も、バレエのドラマにあわせて思い切り煽るので、クラシックの演奏会とは違う表現になる。ミシェル・ルグランの映画音楽のような、少しばかり通俗的な「濃さ」がバレエの振付を面白くするのだが、弦はともかく金管にとっては針の筵だっただろう。これを録音でやってしまっては味気ない。オーケストラには心から感謝するしかない。

 3幕のサンクトペテルブルクのシーンでは、幕が開いた瞬間にパリ・オペラ座バレエ団のダンサーの見事な静止ポーズに大きな拍手が湧いた。バレエが素晴らしいことと、この公演で特別感じる感動というものがあった。全員、この特殊な状況下で全力を出し切って献身的に取り組んでいる。面白いことに、『ジゼル』と『オネーギン』には類似した美しいシーンが何度か出てきて、一幕の村人たちが横列になって棒状に回転するように踊る群舞や、オネーギンが腕を輪にしてタチヤーナの頭からつま先まで包み込むマイムなどがそれだ。この来日プログラムにはとても粋な意味があるような気がした。

タチヤーナの夫グレーミンは、『ジゼル』でヒラリオンを踊ったプルミエ・ダンスールのオドリック・ベザールが好演し、オペラのバス・バリトンの渋いアリアを思わせる落ち着いた存在感を見せた。聞いたところによると、パリではベザールもオネーギンを踊っているらしい。シュツットガルトのロマン・ノヴィツキーも二度の来日公演でオネーギンとグレーミンの二役を見せてくれて大変良かったが、演劇的に大いに深まる経験なのだろう。ドロテは、1幕から3幕にかけて「田舎娘から貴婦人への大変身」はせず、衣装や設定は変わるが、最初から一貫して変わらないタチヤーナの内面を見せた。やはり、途轍もなく独自で画期的な役作りだ。タチヤーナがオネーギンに向けて書いた手紙の内容を知っているからだろう。プーシキンの原作によれば、それは決して夢見る乙女のものではなく、同質の魂をもつ「同志への」呼びかけで、勇ましく高潔なものだった。

 みじめに追いかけてくるオネーギンと踊る最後のパ・ド・ドゥは一幕の幻想シーンにも増して官能的で、未成年には見せられないと思うほどだが、「過去に振り切った男を必死で拒絶する」踊りではなく、ドロテの解釈ではここで新たな愛が、爆発的に生まれているはずなのである。最初の出会いのとき、微かに感じていたこの男への「憐み」が今やすべてとなり、自分自身のどうしようもなさ、閉じ込められた内面の逃げ道のなさと溶け合って、水爆級の情熱となって燃え盛っている。「私の直観は正しかったのだ…!」というタチヤーナの心の叫びが、ひとつタイミングを間違うとダンサーを大怪我させてしまうようなあのアクロバティックなパ・ド・ドゥから聴こえてきた。オペラでは「オネーギン、あなたを愛しています」という明確な歌詞によって歌われ「幸せはすぐそばにありましたのに」という言葉が続く。この二人は紛れもなくソウル・メイトで、生きるために時計の針を進めた女と、時計の針が止まったままの男の「ズレ」が悲劇的なラストに雪崩れ込む。あんなことやこんなことを舞台でやりながら、見事オネーギンを「撃退」するタチヤーナの最後の表情は、ダンサーによって見事に違う。もうあそこでは、何も隠せないのだろう。泣き崩れる寸前の心で、ドロテは「この世界では理性が勝つ!」という演技をしていたように思う。

    隣の席にいらしたダンスマガジンの編集部の方に聞いたところ、パリに残ったカンパニーは現在ストライキ中なのだそうだ。ルーヴル美術館の職員もストライキを起しているらしいし、観光都市としての機能の何割かはストップしている。東京もさらに酷い状況にあるが、現実には二種類あるのではないかとも思う。ダンサーの選択に「演出された役」と「内面から演じる役」の二つがあるように、社会と実存の異なる次元が存在する。『ジゼル』上演期間中に芸術監督のオレリー・デュポンに取材をしたとき、なぜ2017年に東京公演でユーゴ・マルシャンのエトワールに指名したかを聞いた。彼女は凛として「オペラ座が尊敬する、最も大切な観客がいる国だから」と答えてくれた。両者が重ねてきた歴史が実現させたこの奇跡的なツアーは、大成功に終わろうとしている。


photo:Julien Benhamou/Opera National de Paris