小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

フェスタサマーミューザ2019 東京フィル×ダン・エッティンガー(8/11)

2019-08-18 02:33:46 | クラシック音楽
 8/12まで開催されていたフェスタサマーミューザ2019は、例年にも増して熱気にあふれた名演が多かった。中でも忘れがたいのは東フィルとダン・エッティンガーの「リユニオン」共演(8/11)だ。後半のチャイコフスキー『悲愴』ではロマン派音楽の究極の演奏を聴いた。コンサートマスターは三浦章宏氏。
 ダン・エッティンガーが東フィルの常任指揮者を務めていた2010~2015年の東フィルの定期をそれほど多く聴いていなかった。2009-2010年の新国でのリング四部作も聴いていない。この日の演奏を聴いて、当時の凄いケミストリーを想像した。オペラのライブ配信などで聴くエッティンガーの指揮は、どれもが好きというわけではなかったが、東フィルとの相性は卓越している。ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕前奏曲は、快速なのに重みがあり、個性的な楽劇の登場人物を想像させる快活な音楽だった。東フィルは弦も管も本当にうまいと思う。木管のクオリティがどんどん上がっている。合奏全体の生命力が素晴らしく、野暮ったいところがない洗練されたワーグナーだった。
 モーツァルト『フルート協奏曲第1番』では、ソリストの高木綾子さんが目の覚めるような至芸を聴かせた。技巧的な曲をエレガントに、正確に演奏された。オペラ座の愛らしいエトワール、アマンディーヌ・アルビッソンが踊るシルフィードを連想した。詩人の求愛をかわす空気の精は、目にもとまらぬ速さで森を横断していく。フルートというのはモーツァルトのオペラのタイトルの通り「魔法の笛」なのだ。オーケストラとソロの優雅な対話を楽しんだ。

 チャイコフスキー『交響曲第6番《悲愴》』では、芸術家の死に至る逆境ということを演奏から深く感じた。作曲家の最後の交響曲であり、音楽には暗い暗示が含まれている。チャイコフスキーの死因は、ロシア当局の弾圧(同性愛者であるかどの)の他、レストランで生水を飲んでコレラに罹った説などあるが、振付家のバランシンがインタビューで語っていた説を信じている。弾圧は確かにあり、チャイコフスキーは絶望して危険な生水を飲んだ。実質的な自殺だったという説だ。
 第1楽章から絶望を思わせる響きで、東フィルのサウンドのボディを作っている厚く豊かな質感、臓腑に直接響くメランコリーの表現に感銘を受けた。テンポは激しく揺れ、崩壊しそうな加速も加えられるが、絶対に崩壊しない。人懐こい民謡風のフレーズはロシアの夕焼けのようで、管楽器同志の掛け合いは虹を幻視させ、チャイコフスキーがプティパと創造したバレエの夢の世界を連想させた。信じがたいほどの霊感に溢れたモティーフが堰を切ったように次から次へと登場する。雷鳴のような打楽器と、この世の終わりの嵐のような展開。これを書いていたとき、チャイコフスキー眠れていたのだろうか。異常な精神状態を感じた。ピツィカートが血のしたたりのようで、悲愴は血で書かれたシンフォニーだと思った。
 第2楽章のワルツは、サンクトペデルブルクへの愛だ。『エフゲニー・オネーギン』の最終幕で、グレーミン公爵が朗々と歌い出すあの広間の場面を思い出す。シャンデリアと夜会服、貴族たちの社交の世界。チャイコフスキーにはそういう世界こそ相応しかった。この魅惑的なワルツから、チャイコフスキーの生への未練を確かに感じた。美しいサンクトペテルブルクの街への別れを嘆いているようだ。
 ダン・エッティンガーはどのようにチャイコフスキーを「読んだ」のか、散文的な質問をして答えてくれる人なのかどうか知らない。明らかな天才を感じた。天才が天才の視点から音楽を見ている。形而上的な世界で想像力を羽ばたかせている作曲家が、同時に形而下の世界に足をひっぱられている…同性愛は当時の(そして今でも?)ロシアでは重罪だった。チャイコフスキーは自己矛盾に引き裂かれ、法という人間の作った枠組みに収まらない自分の生き方に苦悩していた。
 自己矛盾と天才が分かちがたく結びついていた場合、芸術家はどう生きたらいいのだろうか。ロマン派の作曲家は狂気に蝕まれたり、うまい具合に病気で早死にしたりしたが、チャイコフスキーは最後まで麻酔なしで精神の逆境に耐え、その苦痛の全部を音符にしたと思う。第3楽章のトリックスターの踊りのような軍隊行進曲は、生きることすべてへのアイロニーのようだ。厭世観を知らぬ者、譲歩や美徳を知らず、生をただ貪る者たちを戯画的に描いている。マーラーの9番と何と酷似していることか。閉所に追い込まれるような感覚にところどころ襲われた。各パートが鮮やかで、ひとつひとつの音が狂気を帯びている。
 第4楽章は、弦のグロテスクな音が素晴らしい。既に生命を失いつつある、絶望した精神の声に聴こえた。低弦は音程も狂っている。わざと奇矯な音を出しているのだ。音楽としてぎりぎりの実験をして、作曲家の転落を描き出している。死の灰のような楽章であり、歪んだ字で書かれた遺書のような最終章だ。同時にチャイコフスキーは、自分が間もなく行く天国の扉を開ける瞬間を夢見ているが、自分の入る墓の穴を掘っているのは、紛れもなく彼自身だということも知っている。
そのような音楽が、高貴な人間性、騎士的精神によって書かれていることが悲しくてやり切れなかった。音楽会は楽しいものであるとは限らない。ある特別な精神の辿った道を理解するための、神聖な儀式でもあると思う。
 ダン・エッティンガーの曖昧さのないクリアなヴィジョン、コンサートマスターの三浦さんの見事なレスポンス、楽員の方々の信じがたいほどの献身に感謝したい奇跡的なコンサートだった。ホールの響きはいよいよ成熟し、この深淵をしっかりと受け止めていた。