フェリ、ボッレ&フレンズAプログラム。予想以上に白熱した濃厚な舞台だった。一部と二部はコンテンポラリーで、マウロ・ビゴンゼッティ振付の「カラヴァッジォ」、ナタリア・ホレチナ振付の「フォーリング・フォー・ジ・アート・オブ・フライング」、プティ振付「ボレロ」、休憩をはさんでマルセロ・ゴメス振付(!)「アミ」、ウェイン・マクレガー振付「クオリア」、プティ「アルルの女」と続く。ボッレの肉体美は「カラヴァッジォ」から神々しく、相手役の英国ロイヤル・バレエのメリッサ・ハミルトンも今が旬のときとばかり輝いている。二人が舞台に立つと、神話の世界が見えるようだ。アッツォーニ&リアブコのハンブルクの黄金カップルは「フォーリング…」と「アルルの女」二演目で観られた。もはや何も言うことのない究極のコンビ。
プティ版の二人で踊るボレロは初めて見た。レスリングのショーを思わせる-冒頭のライト、上野水香さんとゴメスのタンゴのような、格闘技やサーカスも彷彿させる、奇矯でエネルギッシュなダンスにプティの鬼才を思った。水香さんはベジャールの「ボレロ」も素晴らしく踊るが、生前のベジャールとプティの両方を魅了した稀有な日本人ダンサーだった。大理石の彫刻のように無駄がない、研ぎ澄まされたダンスで、息が上がりそうな動きの後に信じられない静止の瞬間が何度も続く。ゴメスが両性具有的な雰囲気を醸し出していたので、プティ版「ボレロ」には、男女の性の役割交換のような意味合いもあるのではないかと深読みしていたが、柄本弾さんと水香さんが踊られたときにはそのような雰囲気はなかったとのことである。一部のラストを飾ったこの作品で一気に客席はヒートした。
ゴメス振付の「アミ」が傑作だった。リアブコとゴメスによる男性デュオで、ショパンのノクターン13番に乗って緊張感のあるムーヴメントが重なり合っていく。エンディングはどこかユーモラスだ。Aプログラムの全作品が「ふたりのダンサーによる振付」だったが、この統一は素晴らしい効果を上げていたと思う。男と女、男と男、それぞれが対等の力で対峙し、異質さをぶつけあったり、一体化したりする。コンテンポラリーでこれだけの豊かさが感じられるのは凄い。ゴメス作品の秀逸さは新しい発見だったが…新しいバレエ作品というのはあまりに多く作られすぎ、玉石混交なので、プロデュース的な観点がしっかりしていないと客席から見てアンバランスな舞台になってしまう。この夜のプログラムは秀逸だった。ベテラン・ダンサーの円熟の境地がまた、振付を深遠なものにしていた。
アッツォーニとリアブコの「アルルの女」はプティの代表作だが、二人が踊ると改めて振付の良さが際立つ。カップルの愛を破壊する「その場にいない、見えない」アルルの女の猛威が、アッツォーニの悲嘆とリアブコの狂気から伝わってきた。ラストの身投げまでのリアブコの狂騒的な動き、盲目的な回転、出口なしというパントマイムのようなジェスチャーは、バレエにしか存在しない次元のもので、逸脱した精神がダンサーの技術と身体の美しさによって表現される。二部のラストにこの演目が配されたことで、さらに興奮が増した。リアブコ演じるフレデリの狂気は、三部の「マルグリットとアルマン」のアルマンの、嫉妬に狂った愚行へとつながるのである。
三部では、いよいよフェリの登場。この日はオペラグラスを忘れていったため、フェリの姿をクローズアップで見るということがなかった。56歳のバレリーナは2007年の引退前と同じように美しく、柔軟で、マルグリットの19世紀風のドレスもよく似合っていた。アシュトンの「マルグリットとアルマン」を前回生で見たのは、2003年のギエムの「三つの愛の物語」で、相手はムッルだったかジョナサン・コープだったがそれすらも記憶に曖昧だが、大いに感動したということは覚えている。ロイヤルバレエのバレエのピットの常連であるピアニストが、コンチェルト編曲版のリストのロ短調ソナタを弾き、音楽も最高だった。今回の音楽はピアノソロで、フレデリック・ヴァイセ=クニッターが責任あるピアノ演奏を担当したが、プレッシャーが大きい役目を最後まで頑張って果たしてくれた。
ボッレのアルマンは今まで見たどのダンサーより美しく、その高貴な美しさには言葉を封じるような威力があった。ダンサーという生き方に対して、軽々しい言葉は言えない…という気持ちになった。1975年生まれのボッレは、今でも20代後半のような美しさだが、それは人生の200%をバレエに捧げているからであり、そのような生き方を間近で見るというのは改めて特殊なことに感じられた。アルマンの若さ、情熱、美、死に瀕したマルグリットに強烈な生への未練を与える存在感が、この上なく優美なアラベスクによって浮き彫りになった。大きな白鳥のようなボッレが羽搏くたびに、空気が振動する。フェリは、いよいよ大胆で危険を顧みない演技を見せ、20代の彼女が踊ったジュリエットと比べても遜色がなかった。92年のABTの来日公演で、ボッカと踊ったロミジュリを上野の文化会館の五階席で見て、魂を抜かれたことを思い出した。
アシュトンでもマクミランでも、フェリが見せる個性はどこかコンテンポラリー的だ。このプログラムで初めて気づいた。彼女がある動きからある動きへと突然シフトしていくときの電撃性は、クラシック的ではない。物語を鮮烈にする効果があるが、他のバレリーナにはない鮮烈さがあった。それは、身体の教養としてフェリが、あらかじめクラシカルな演目の中にコンテンポラリーの前衛性を忍ばせていたからではないか。それが、「マルグリットとアルマン」では最高度に生かされていた。嫉妬したアルマンがマルグリットに札束を投げる場面、オペラでは合唱とジェルモンが若者を非難する。バレエでは、誰もマルグリットを守らない。血が凍るような孤独感。フェリの演技が光っていた。豹変したアルマンの残酷さも、見事なものだった。
マルグリットの忌のきわの二人の再会シーンは、フェリとボッレのカップルの真骨頂で、ここでまた新たになるフェリの印象があった。どんな宿命の女を演じているときも、彼女の中にはミステリアスな「少年性」のようなものがあり、アルマンの中の少年性、未成熟な部分はマルグリットの一部であったという解釈が私の中に生まれた。ボッカと踊ったジュリエットも、思い返すとそうだったのだ。43歳で引退したまま、フェリが踊り続けていなかったら気づかなかった。肉体という衣装をまとってダンサーが見せてくれる究極の姿を、フェリは見せてくれたのだ。
二度の休憩と終演後、ロビーを往来するお客さんたちが「贅沢だ、贅沢だ」と口々につぶやいているのが聞こえた。これは本当に…蓋を開けてみるまで分からなかったが、文字通り奇跡のステージであった。ベテラン・ダンサーが達した、魂の真実の境地を丸ごと見せてもらった。Bプログラムの準備のためにノイマイヤーとハンブルクのダンサーも待機していると聞いたが、両プログラムを見られる観客は世界でも稀有な幸運を目撃することになると思う。