小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

クリーヴランド管弦楽団 プロメテウス・プロジェクト

2018-06-03 11:38:38 | クラシック音楽
フランツ・ウェルザー=メスト率いるアメリカの名門オーケストラ クリーヴランド管弦楽団のベートーヴェン・ツィクルスが6/2にサントリーホールではじまった。「プロメテウス・プロジェクト」と名付けられたこのシリーズでは、ベートーヴェンの神髄を音楽面からだけでなく、作曲家が生きた時代や曲に託された思想・哲学から読み解こうとする試みで、プログラムにはウェルザー=メストの力のこもった声明文と、演奏される全曲についての指揮者自身の解説が掲載されている。このプロジェクトを彼は「善のための戦い」と呼んでいる。2018年は楽団の100周年に当たり、プロメテウス・プロジェクトはこれを記念する演奏会なのだ。

5日にわたる来日演奏会では、一体どんなに難解なことが行われるのかと思っていたら、一曲目『プロメテウスの創造物』序曲から、素晴らしく優美で壮大な透明感のある響きが溢れ出した。ホールが緑の森になり、そこに棲むあらゆる生物たちのダンスが始まった。本当に、アメイジングな瞬間だった。指揮者の真面目な後姿が、オーケストラの無限の自由を引き出し、窮屈な規律など微塵も感じさせないのに完璧な調和があった。この演奏会のためのシンポジウムにも足を運んでいたので、演奏会ではどんなにお堅いことが起こるのだろうと構えていたが、音楽には晦渋なところがひとつもなく、見事な呼吸感と宇宙的なスケールに陶酔するばかりだった。

『交響曲第1番 ハ長調』では、初源の光とでも呼びたい霊感的なフレーズが冒頭で数回鳴り、それが脅かしの大言壮語に終わらず、瞬く間に次の霊感が訪れて曲を成長させ、リズムと旋律の生命力を増幅させていく。渦巻きのようなエネルギーが巻き起こり、音楽の脈拍の鼓動が伝わってくる…その瞬間に「すべては呼吸だ」と思った。音楽会でこまごまとした事実を頭で確認するよりも、それを聴いて自分自身がどのように変容したのか…ということが最近では自分にとって重要に思える。ベートーヴェンは多くの書物を読み、啓蒙思想時代を生きた芸術家に相応しく、既成の権力についても疑いを持っていた。そのベートーヴェンの思想を、学究的に忍耐強く追い求めることも重要なのだが、凡庸な自分ではベートーヴェンにははるかに及ばない。尊敬するしかないものに対しては、愛を抱くしかない…というのが最近の結論だ。

昨年藝大で行われたこのプロジェクトのためのシンポジウムでは、音楽学者のマーク・エヴァン・ボンズ氏も登壇し、ベートーヴェンの時代に初めて音楽を聴くということが哲学的行為となったこと、この時代に天才と言う概念が生まれ、ベートーヴェンの特異性は自分を天才だと信じて疑わなかったこと…などが語られた。ベートーヴェンは自分を天才と認識することで、尊大な人間になったのだろうか…ずっとそのことを考えていたが、ふっと頭に浮かんだのは、突拍子もないが「イエスは神の子で人の子」というひとふしだった。人間は克己心と精神力によって、神と人間をつなぐ神的な存在となるのだ、とベートーヴェンは教えてくれる。それは凡人にとっては突拍子もないか考えだが、「それは可能なのである」と考えたことが天才が非凡であるゆえんなのである。

ベートーヴェンの「人間的」エピソードについては枚挙にいとまがない。金銭に抜け目がなかったとか、癇癪持ちであったとか、部屋を片付けられないので膨大な荷物を残したまま次の住居に転居ばかりしていたとか。現実はゴミ屋敷でも、芸術家にとっては理想をもつことが枢要なのだ。理想とは…一言で語るのが難しいが、本気の建前、命がけの綺麗ごとのようなものではないかと思う。それを失ったら、人間は無限に堕落してしまう…というような概念だ。

ウェルザー=メストが指揮者として、ベートーヴェンの音楽に「善」という明快な志向性を与えようとしたのは正しい。指揮者とはそのような責任を負う存在でいてほしいし、世界を美しくするために存在していてほしい。利己的な音楽家やビジネスライクな音楽家にはもう興味がないし、「相手にも人生がありこちらにも人生がある」とクールに割り切ってしまわなければならない音楽家との関係は、とても寂しい。その瞬間にどんなにいい演奏をしてくれても「じゃ、さよなら」という音楽はどうでもいい。コミュニケーションのためには相手の自己犠牲や、日々どんなに命をすり減らしているかということが大事なのだ(そこまで求められても返せない、という音楽家もいていいし、当然だとも思う)。

後半の交響曲第3番『英雄』では、ベートーヴェンの「巨大化することを恐れない」着想に度肝を抜かれた。馬車の時代に飛行機を飛ばすような、助走なしに一気にテイクオフするような…そんなサイケデリックな発想が見えた。その巨大さを指揮者も受け止めて、楽想は木星のように巨大化し、勇敢でスタイリッシュで、大編成のオーケストラは混沌に溺れることなく論理的に膨張していった。恐れを知らないということが、神に対する返答なのだろうか。クリーヴランド管のベートーヴェンは一貫して肯定的で、凄い知性を持っているのにフレンドリーで、オーケストラ全体が微笑んでいるようだった。可笑しな言い方かも知れないが、男性のあるべき愛の姿が音楽で表されていると感じた。それが、女性の愛より公平で雄大で、力強い愛に思われたのだ。そういう愛に対して、抵抗できる尊大さを自分は持たない。
数列前の白髪の紳士が、エロイカの間中嬉しそうに頭を左右に振っていた…けして周囲の迷惑にならない程度に、しかしどうしようもなく内側から溢れ出るものを隠せないという雰囲気だった。男性がベートーヴェンやブルックナーに魂の底まで魅了されるのは、大きな神と通じ合う小さな神を心に宿しているからではないか。「光の音楽」ということを考える。

神的な愛を伝えるためには、あれこれどんなお芝居をしようかなどと考える必要はないのだろう。ウェルザー=メストは何も隠さず、勇敢で知性的で、素晴らしく高貴で貴族的だった。オーケストラは若々しさと洗練された知性を持ち、ステージ全体が微笑んでいるように思われた。プロメテウス・プロジェクトは6/3.5.6.7もサントリーホールで行われる。

(この日は天皇皇后両陛下のお目見えとなったが、聴衆から今上天皇へ向けられた拍手は嘘偽りなく感動的なものだった。あらゆる党派を超えて、陛下の生き方は「人の子で神の子」だったと思わずにはいられない。忍耐強い愛の灯を灯し続けた方だと思う)