40歳台のころ、ある本を読んでいたら、苦悩という言葉について説明がなされていた。自分の力ではどうにもならない問題に遭遇し、思い悩む・・・そんなことが書かれていたように思う。自分ではどうにもならない・・・
その本は、哲学の本ではなく、単なる実用書であったが、その言葉の意味について、あれこれ考え、知人とお酒を飲んだ時に語り合った記憶がある。自分も苦悩していた時であった。初めて本格的な苦悩に直面したときだったかもしれない。
生き甲斐の心理学で考えれば、理想と現実のギャップが極めて明確にあり、理想の壁、現実の壁に立ち往生する感覚。そのギャップから生まれる暗い感情は、どんどん不安、怒り、身体症状、鬱、錯乱へと下降していくようだ。
当時の私も、その壁の中で、どんどんストレスを高めていたようだ。
そんな時、いったい何が自分を立て直していったのだろう。一つあるのは、自分の苦悩を聴いてくれる身近な人の存在だ。
新約聖書に、ヤコブの井戸で昼間一人水を汲みにくる、わけありの女性の話。サマリアの女の話がある。このサマリアの女にイエス・キリストが出会い、ほんの数分の会話で、サマリアの女を癒し、生き甲斐に気づかされてくるシーンである。
U先生から教えてもらったが、欧米では、心理療法家の間で、このシーンは話題になるそうだ。
露骨に批判するのでもなく、しっかりと丸ごと理解し、深い愛で包んでくれる。そんな信じられないような素晴らしい傾聴のなかで、人が生まれ変わっていく。
本当になるほどだと思うが、自分の場合も、身近な人の存在は大きかった。
傾聴は、6条件とか、あるいは受容・共感・純粋と一致、などがポイントと言われる。傾聴とは何か・・・今日はもう一度考えてみたい。
<今更人に聴けない「生き甲斐の心理学」 11/12>
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