己れをむなしくするということを
いいかえますと、光ばかりになる─という
ことであります。
余分なもの、とらわれやこだわりや、
背のびや、無理強いといったものから
とき放たれた真実の自分があらわれてくる
ということであります。
人は誰しも、真実の自分というものを
求めて旅をしております。
はせお(※)は、月日は百代の過客にして
ゆきかう歳もまた旅人なりと申しました。
このはせおの言葉は、実に私の心に
沁み渡るものがありますが、全く、我々
人間は、百代をとしても、真実の自分を
見極めたいと思うものでありましょう。
人生は、我々のこうしたおもい、願い、
祈りをこめた旅路であり、我々は旅人
であります。そうして、真実を申します
なら、我々は、百代、二百代をかけて、光
そのものの真実の自分に出会う旅を、一人
のこらずしているのであります。
これは、事実であり、また真実
なのであります。
光ばかりになる、そういう自分に
なるには、先ず、神様の、我々に対する
愛をおもってみることであります。
神様の、私どもに対する愛は、何の
計らいもありはしない。ちっぽけな
おもわくなどというものをはなれた無限の
愛であります。
愛して愛して愛し抜いている、そういう
愛であります。この愛のなかには、
やさしさと、真(まこと)がみちている
のであります。
やさしさというものは、あくまでも、
自分を、人を活かしてゆくものであります。
丁度塩が、ものの味をひきしめて、しかも
やわらぎを与えるように、やさしさという
ものは、我々すべてを活かすのであります。
そして、このすべてを目守り、すべてを
活かすというのが、神のやさしさであり、
愛であって、この愛とやさしさは、私どもの
なかにも流れこんでいるのであります。
気持ちがやさしくなっている時、
私どもは、ただ、そのやさしさのなかに
溶け込んで、余分なことを考えたりは
致しません。この瞬間、私どもは光に
なっているのであります。一分釈迦、一分
キリストと、かって申しましたように、
そういう瞬間がつづけばつづく程、
私どもは、光である自分自身に出会う
のであります。
そうして、この光をいっぱいにあびる
のが、世界人類が平和でありますように
という世界平和の祈り言なのです。
この祈りを唱える時、すべてのとらわれ、
こだわりが消えて、私どもは光そのものと
なるのであります。
なぜならば、この祈りは、神の愛
そのものをあらわした神の祈り言だから
であります。
これまで地上に降りて下さった聖者方と、
聖者方を守護なさった守護の神霊たち、
その聖者方を送られた大神の、宇宙神の、
人類に対する絶えざる愛の祈りであり、
また、この宇宙神、神から分けられた
私どもの本心本体─光身の祈りであります。
ですから、
世界人類が平和でありますように
と唱えます時、宇宙神(大生命)と、
私ども(分生命)とは一体になる
のであります。
かたちとしては、この地球世界に適応
するために、肉体となっておりますが、
いつも申しますように、この世の
あらわれは、すべておもいが源になって
おりますのでこのおもいを澄ませ、大元
である愛へと回帰到します時、私どもは、
光そのものの自分に出会うのであります。
世界平和の祈りは、その自分、真実の
自分に出会うための道しるべであり、
神の杖なのであります。
この祈りをつづけて参ります時、
私どもはいつ知らず、愛とやさしさに
満たされて参るのであります。
すべてを神にささげ、神にまかせて、
愛とやさしさにこの身をとかして
ゆくために、光そのものの自分と
なるために、ほがらかなやさしい生命を
生きるために、日々、世界平和の祈りを
唱えて参りましょう。
世界人類が平和でありますように
合 掌
昌 久
(※)・・・(919年)紀長谷雄(きのはせお)
いいかえますと、光ばかりになる─という
ことであります。
余分なもの、とらわれやこだわりや、
背のびや、無理強いといったものから
とき放たれた真実の自分があらわれてくる
ということであります。
人は誰しも、真実の自分というものを
求めて旅をしております。
はせお(※)は、月日は百代の過客にして
ゆきかう歳もまた旅人なりと申しました。
このはせおの言葉は、実に私の心に
沁み渡るものがありますが、全く、我々
人間は、百代をとしても、真実の自分を
見極めたいと思うものでありましょう。
人生は、我々のこうしたおもい、願い、
祈りをこめた旅路であり、我々は旅人
であります。そうして、真実を申します
なら、我々は、百代、二百代をかけて、光
そのものの真実の自分に出会う旅を、一人
のこらずしているのであります。
これは、事実であり、また真実
なのであります。
光ばかりになる、そういう自分に
なるには、先ず、神様の、我々に対する
愛をおもってみることであります。
神様の、私どもに対する愛は、何の
計らいもありはしない。ちっぽけな
おもわくなどというものをはなれた無限の
愛であります。
愛して愛して愛し抜いている、そういう
愛であります。この愛のなかには、
やさしさと、真(まこと)がみちている
のであります。
やさしさというものは、あくまでも、
自分を、人を活かしてゆくものであります。
丁度塩が、ものの味をひきしめて、しかも
やわらぎを与えるように、やさしさという
ものは、我々すべてを活かすのであります。
そして、このすべてを目守り、すべてを
活かすというのが、神のやさしさであり、
愛であって、この愛とやさしさは、私どもの
なかにも流れこんでいるのであります。
気持ちがやさしくなっている時、
私どもは、ただ、そのやさしさのなかに
溶け込んで、余分なことを考えたりは
致しません。この瞬間、私どもは光に
なっているのであります。一分釈迦、一分
キリストと、かって申しましたように、
そういう瞬間がつづけばつづく程、
私どもは、光である自分自身に出会う
のであります。
そうして、この光をいっぱいにあびる
のが、世界人類が平和でありますように
という世界平和の祈り言なのです。
この祈りを唱える時、すべてのとらわれ、
こだわりが消えて、私どもは光そのものと
なるのであります。
なぜならば、この祈りは、神の愛
そのものをあらわした神の祈り言だから
であります。
これまで地上に降りて下さった聖者方と、
聖者方を守護なさった守護の神霊たち、
その聖者方を送られた大神の、宇宙神の、
人類に対する絶えざる愛の祈りであり、
また、この宇宙神、神から分けられた
私どもの本心本体─光身の祈りであります。
ですから、
世界人類が平和でありますように
と唱えます時、宇宙神(大生命)と、
私ども(分生命)とは一体になる
のであります。
かたちとしては、この地球世界に適応
するために、肉体となっておりますが、
いつも申しますように、この世の
あらわれは、すべておもいが源になって
おりますのでこのおもいを澄ませ、大元
である愛へと回帰到します時、私どもは、
光そのものの自分に出会うのであります。
世界平和の祈りは、その自分、真実の
自分に出会うための道しるべであり、
神の杖なのであります。
この祈りをつづけて参ります時、
私どもはいつ知らず、愛とやさしさに
満たされて参るのであります。
すべてを神にささげ、神にまかせて、
愛とやさしさにこの身をとかして
ゆくために、光そのものの自分と
なるために、ほがらかなやさしい生命を
生きるために、日々、世界平和の祈りを
唱えて参りましょう。
世界人類が平和でありますように
合 掌
昌 久
(※)・・・(919年)紀長谷雄(きのはせお)