人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

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短 信(三十二)

2012-03-22 09:32:58 | スピリチュアル
 自分を役立たせたい、お役に立ちたい
という気持ちは、実に尊いものであります。
 ありがたいことでありますが、あまりに、
この気持ちに熱をおびさせますと、やはり
我(が)の世界へと引き入れられる
のであります。

 私達は、余程ここのところをしっかりと
見極めねばなりません。

 私達が、お役に立ちたいとおもう時、
それは具体的には、私達の知っている
誰かに対してーということが多い
のであります。たとえば、友達が病気で
苦しんでいる、どこかいい先生はいないか
と言う時に、一生懸命世話をする、また、
自分の知っているお医者さんに連れてゆく、
それでようやく治ってみると、自分が
思った程には友達が感謝してくれない。
 こういうことはよくある話であります。

 これはなぜこうなるのかと申しますと、
苦しんでいる友達をみて一生懸命に
動いたその時には、お役に立ちたい
という気持ちが、純粋に働いていたわけ
であります。むしろ、この気持ちによって、
心がもえたということがいえるかも
知れません。

 お役に立ちたいという心、愛念が、
その人を突き動かしたわけであります。
 この時には、ただもう友達の苦しみが
取れればという気持ちだけでありまして、
そのほかには何ものぞんでいないのです。

 それで、色々動いて、その結果、元気に
なってきますと、本当によかったと思う。
 ところが、すっかり元気になって、その
友達にお礼はいったのでしょうが、その
お礼の言い方が、動いた方としては、何か
あっさりしていて、物足りない。そして、
物足りなさを感じているうちに、今度は、
自分があれだけ動いてやったのに、
友達はわかっているのかしらという
気持ちになってくる。

 こうなると、もう「お役に立ちたい」は
どこかへ行ってしまっている。

 お役に立ちたいという気持ちは、
汚されない、純なものであります。
 この人も、そのはじめには、純な
気持ちから出発したのであります。それが
おかしくなったのは、自分が目の前の
友達のために一生懸命動いたという
気持ちにとらわれたからなのであります。

 人間というものは、神様の光なのだ、
光の一筋なのだということは、つねづね
申し上げていることでありますが、お役に
立ちたいという気持ちをじっとみて
いますと、それはただ、光が光にむかって
働きかけているということなのであります。
 つまり、私達は、具体的には、自分の
知っている誰かを通して、光として動く、
光明を発揮しているということになる
のであります。

 ですから、お役に立ちたいというのは、
本来、誰かのために動くとか何とかという
ようなものではないのでありまして、
それでいいますなら、神様のために、この
いのちを、幾分かでも働かせていただいた
ということなのであります。

 要は、あまり、お役に立ちたいと
思いつめず、ふんわりと、神様に
その気持ちを伝えていらっしゃれば、
一番いい方法で、神様が、あなたを使って
下さるということなのであります。

 のんびりと、ふんわりと参りましょう。

 世界人類が平和でありますように
                 合 掌
                   昌 久