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人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

短 信(三十六)

2012-03-26 10:12:48 | スピリチュアル
  神様の器になる、器をみがくということについて
申し上げますと、人間というものの生かされている
本来の目的が、神様の光を、この肉の身のままに
素直に受けてかがやかせるということ
なのであります。

 それは、その人が意識するしないにかかわらず、
またすべての境遇によらず、この世の年齢によらず、
すでに一人一人は、神様の愛を、光を、地上に結ぶ
役割を果たしているのであります。また、
果たしつつあるのであります。私達の肉体は
それを知らなくても、私達の霊身は、それを知って
いるのであります。

 そこで、神様の器になるということは、どういう
ことかということを、もう少しくわしく申しますと、
それは、神様に素直になるということであります。
 人間にはさまざまなおもいがある、このおもいを、
想念を、やさしさでいっぱいにする、光で
いっぱいにするということであります。

 何も、特別に、神様神様とおもわなくていい、
ひたすらに求めるというのと、自然に求める
というのとはちがっている。神様からきている生命、
預けっ放しの、お任せのいのちなのですから、
ずーっと神様のところへ放っておいても
心はむかってゆくものなのであります。イヤダ
といっても、守護霊さん守護神さんが連れてゆく
ものなのであります。

 さて、神様というのは、何かと申しますと、
それは、無限絶対の愛であります。ですから、
神様から分かれてきた分生命(わけいのち)、
分霊(わけみたま)である人間は、愛を
植えられてつくられている。愛とやさしさ、
そして、この二つのものを育ててゆくつよさ、
これこそが、人間のいのちを生かしている大元
なのであります。

 神様は、人間をやさしくつくった。ですから、
何もその人が、思い悩まなくても、やさしさを
持って人に接する時、そこに、神の愛が、
光が、ともにあって、放射されてゆく
のであります。神様の器になるということは、
ですから、本人が意識するしないにかかわらず、
自らのなかにやさしさを盛るということが
第一歩なのであります。

 ところで、人間は、神様の愛によって
つくられた存在でありますから、心をしずめ、
心をすませて参りますと、生きているという
ことの不思議、生命の不思議について
思いをめぐらさずにはいられなくなるのである。

  どんな人も、生命の親である神に眼をそそぎ、
神様というふるさとへの旅をはじめて参る
のであります。それが人間の本来のすがた
なのであります。

 私達の世界平和の祈りは

 世界人類が平和でありますように

 日本が平和でありますように

 私達の天命が完うされますように

 守護霊様ありがとうございます

 守護神様ありがとうございます

 という、誰にでもわかるやさしい祈り言葉
によって、神の大愛のなかに、すべての人を
抱きとろうという大神様のみこころが結集した
祈りなのであります。これまで、地球界に
降り立ったすべての聖者方の祈りがあつめられた、
結集した祈りなのであります。

 特に
 世界人類が平和でありますように
 という第一句は、現在宗教信仰によって
いる人もそうでない人も、すべての人の心の
なかにある人類共通の祈り心を呼び覚ます祈り言
なのであります。この祈り言を思い唱える
ことによって、一個の人間としてはそのまま、
世界人類という大河のなかにある自分を経験する
のであります。世界人類のなかにある自分を
観じてゆくのであります。それは、何かといえば、
愛にほかなりません。愛と祈りに他ならない
のであります。

 こうして、我々は、我々のなかにある何物にも
しばられぬ自由な祈り心を、静かな祈り心を
見出し、神という絶対無限の大愛へと連なって
参るのであります。

 信仰を持っている人は信仰を持ったままで、
この祈りを唱えて参りますとき、その人の
持っている光は、よりつよくやさしくかがやいて
ゆくのであります。

 すべての信仰、すべての祈りは、神への
みちしるべでなければなりませんが、生命の
不思議に思いを到し、世界平和の祈りに
触れた人は、一人のこらず、神の愛に
とらえられるのであります。守護霊が、守護神が、
ぐんぐんと神様の方に、一人一人を
引っぱってゆく。ですから、神というものを
抜きにしては、その人は、この生命を
考えられなくなるのであります。そうして、
段々に祈りを深くし、唱えて参りますと、
何よりも、神に素直になることが大事なのだ
ということがわかって参ります。

 いわゆる運命というものにも、宿命という
ものにも、動かされない自分になって参ります。

 我々がしたがうのは、運命ではなく、神なのだ
ということ、神は、善でも悪でもなく、限りない
愛なのだということが理解されてくる
のであります。どんなことがありましょうと、
神は、我々のいのちのすこやかさを奪う方
ではないのであります。しかも、このいのちは、
永遠永生であって、神とともに、宇宙の
けいりんをなしてゆく何百生にもわたる我々への
神のいつくしみであり、ゆるしであることを
おもいますとき、我々にのこされたものは、ただ
神への感謝であり、愛であり、この神に素直な
いのちとなって生き徹すということ
なのであります。

 しかも、我々のいのちは、神によって、守護の
神霊によって、また、この世にともに生き愛する
人々のこころによって支えられ、守られて
いるのであります。いのちはじねんほうに。
 ただ、神に預け、神に任せ、肉の身の生死を
朗らかにこえていきるいのちとしらされますとき、
我々は、神の器となってゆくのであります。
                     合 掌
                       昌 久