緑の街の水先案内人

都城市で緑の街の水先案内人として移る日々を写真と日記で綴ります。

銀鏡神楽を鑑賞して

2010年12月15日 17時58分59秒 | 民俗芸能
12月15日(水) 

 銀鏡神楽が始まって奉納者を晩餐へ招待する時間が午後八時から始まり社務所の大広間が晩餐会場となります。この時間になりますと、見物客もほぼ出そろった感があります。神殿を背にして観客の座り込んで見物出来る神楽殿は右手で、晩餐会場は左手にあり、二つの建物の中央部に神楽舞台があります。そこへ開宴時間を待って、隣席の年配カメラマン氏と一番乗りで出かけてタタミに座り込み、一段落して神楽舞台を眺めますと、丁度、式四番花の舞(結界)が十名の少年達で舞われております。



解説書に寄りますと「烏帽子をかぶり素襖を着し背に小幣を十時に差し、右手に鈴、左手に扇子もって舞う。」「現在は四人で舞うが古くは二人舞である。結界とも言われ、小中学生の年少者(古くは十二、三歳の正常な乙女が神にお供えする神楽)によって舞われる。この神楽は結界と献饌をかたどった神楽である。」とあります。結界と献饌とは日常用語として使われなくなっておりますが、神楽の格調を高める事と、後継者である子ども達に集落の芯を体で教える最初の舞とでも解説しましょう。



この花の舞に最初に出会いましたのは、二十年前でしょうか、椎葉村大藪神楽見物に出掛けた折りに、集落集会所を神楽宿にして小学生少女が色紙を刻んで冠状にした飾りを頭上に頂いて神楽舞を舞う姿が印象に残りました。当時、同じ年齢の娘たちを同行させたのか、記憶も定かでありませんが、神楽で女子が舞う姿を初めて体験したのか、なるほど、古色蒼然とした郷土の民俗芸能と思い込んでいた神楽舞が、子ども達の教育にも一役買っている事に気づきました。



神楽で舞う花の舞は前回は四名であったと記憶しますが、十名の少年達は何処から銀鏡に出向いてきたのか?僻地と過疎に悩む集落の小中学校へ山村留学した全国の少年達と後で分かりました。銀鏡神楽が大藪神楽と同じく子供の情操教育に一役買っているのは、何も珍しいものではなくて、時間を超えたものがあります。



師走中旬のウイークデイに仕事を放り投げて、車で二時間の距離を、それも五〇分間は道路整備が整いつつあるとは言えカーブの多い山道をものともせずに、訪問する動機は何であろうと思います。今回、銀鏡で知り合った臨席の年配カメラマン氏は二〇数回訪問していると告げます。晩餐会場でも神楽舞台が気になるカメラマン氏、同じ質問を投げ掛けてみました。返答で返って来たものはにこやかな笑顔です。



晩餐会場から少年達の舞う「花の舞」を眺めていますと、今年のビッグテン、人生を明るく楽しみの心で、生きて行くに大いに励ましとなるイベントの一つ、それが銀鏡神楽である事に気づきました。今更、神楽の解説を求めても、それは今までの事です。九州山地の川沿いの小さな集落で延々として神の舞を継承して幾年か?一千年や二千年は続いているでしょう!毎年鑑賞できるなどと世の中には楽しい事が多いものです。





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