緑の街の水先案内人

都城市で緑の街の水先案内人として移る日々を写真と日記で綴ります。

祭りの出会いは楽しいものThe thing that the encounter of the festival is pleasan

2010年11月17日 18時15分06秒 | 民俗芸能
11月17日(水) 

 朝からすっきりと晴れ渡った秋の空、気分も爽やか、体調も万全、それにしても朝の仕事始めから車で走り回りお客様とお会いして目が回ると言えばオーバーですが、仕事を一通り終えて午後三時過ぎには頭の中はすっかり飽和状態、それに反してネットへの筆力はすっかり空っぽ、パソコンの前に座り込みどっかと一息入れます。


今朝の水辺で観察したササゴイ

半日を振り返りますと記憶の中には刈り入れを終えた耕地の広がり、飼料となる稲ワラをパッケージ化する作業が現場では続いています。農夫はほんの少人数、これで作業が捗るのかと思いますが、後は機械の力。こうして幹線道路を避けて広域農道を使い日常の中でふんだんに農地を眺めますと、この広がる盆地が放棄農地で埋まるとはとてもとても絵空事の極みだと思います。印象に残るのは豊かで恵まれた秋の風景です。



常日頃、関心事の一つに日本の稲作はどこまで遡れるのでしょうか?毎度書くことですが、城盆地の稲作は横市川添い河岸段丘の坂元B遺跡で、二千四百年まで遡っていますので次の遺跡発掘は何処であろうかと関心を引くテーマであります。火山灰土壌層その下層の遺跡発掘で南方系稲作民の存在が確認できるのか?止むことのない関心事です。農業者とはその地に長年住み着いている人々の子孫ですから、様々な角度で学ぶことが数多くあります。口の重い人々でもあり気長にお付き合いする機会を探します。



稲の収穫を終えますと五穀豊穣を祝う秋祭り、地方紙には各地の祭りに関する記事が掲載されてあります。県北へは東九州自動車道が西都ICまで延びましたので祭り見物もかなり楽になりました。今日の紹介記事に西都市尾八重神楽の練習光景が写真付きで紹介されております。今月二七日夜から翌朝まで三三番を尾八重神社境内で行われると。銀鏡神楽と比較対象すべきと思っておりますが、両神楽の関連性は山伏の鎮魂動作がポイントか、が、まだ仕事に追われる年が続きます。



取り敢えずは近々、隣市曽於市住吉神社の流鏑馬が二三日午後一時より神社境内で開催されます。昨年は女射手二名と小学生一名の三人が主役となり、華麗できびきびした手綱さばきと弓の巧さを観衆が一心となり堪能しました。大隅半島で鎌倉時代に盛んに催された流鏑馬が九百年も神事として継承されているのは恐れ入るのみです。肝付町四十九所神社でも流鏑馬が催されており、十月第三日曜日が毎年開催日とあり、来年こそは!です。こうして周囲を眺めますと秋の関心事は民俗芸能で埋まってしまいます。



こうして祭りに思いを馳せますと人々の穏やかな思いが伝わってきます。祭りとは出会いの場でもあったのであり、新たな出会いがあるのもこれからも同じでしょう。どのような出会いがあるか?県北の夜神楽には寝袋持参で出掛けましょう。



月末金曜日に想うこと

2010年10月29日 18時27分53秒 | 民俗芸能
10月29日(金) 

 五時近くになり夕日が辺り一面を照らしています。空には青空も見えてきて、白い雲と高千穂峰の蒼いシルエットがほんのひとときではありますが、台風ががもたらす大空の名作です。先ほどまで風の音が聞こえていましたが、今は収まっています。どうやら台風十四号は日向灘沖の更に東側コースを通過中で、南九州は奄美大島の強風が嘘のような静けさに包まれようとしてます。妹を出向えに宮崎空港まで車を走らせた愚妻より電話がありました。無事に東京からの便は着陸したと、これで月末の休日は静かな行楽日になります。


新装の市議会場を見学に訪問した立川市役所(撮影:2010.10.25)

月末の金曜日、午前中は仕事で時間が詰まっていましたが、これも無事に予定通りに完了して何事もなし。一息入れて午後からの作業に取りかかりますに、立ち止まって考えます事は四年前の地価問題、つまり、市中心部の住宅街地価がかなり下落しており、四年前と関わりがあるだけに数時間で解決出来る問題でなくなりました。交渉に時間を費やす案件です。来週を目一杯使って成就させなければならず、その為には心のリフレッシュが大切、週末休日を心の洗濯に必要とします。


市議会事務局前ロビー

では行き先はいずこか?古い革製の登山靴、靴底の張替修繕に出した外国製はまだ手元に返って来ておらず、えびの高原の紅葉を満喫するには足下が心許ない。二年間はご無沙汰しています霧島登山、その中で一番長いコース、時間で五時間半でしょうか、峰から峰を歩く霧島縦走コースが目に浮かびますが、来月の登山に成るでしょうか、成り行きに任せましょう。えびの高原池めぐりもあります紅葉も見事ですが、これも登山靴の帰還しだいです。


市議会傍聴席入り口

遊び心が沸き上がりますと、早く来い祭りの季節、日向国山間の夜神楽に始まり来年一月下旬の比企神社師走祭りと心躍らせる感謝祭が続きます。夜神楽も親子の対面伝説師走祭りも秋の収穫へ感謝する心が元になった日向国版カーニバル、古い事を申しますと薩摩藩とはちっぴり別な世界があり、日向人の心が浮かんできます。


市議会場内

人間の歴史はその地に於いて天変地変がない限り連綿と続くものです。そして、そこには尋ね人をほろりとさせるものが有ります。夜神楽一つとっても北は青森県から南は薩摩藩の神舞までありますから、これぞ古来から日本人の精神的支柱、中身を覗きますと如何にご先祖様がユーモアあふれる方々でおわしたか理解出来ようと言うものです。


市民相談コーナー

とは言っても、宮崎県から出向いて地域社会の古典芸能を鑑賞に出向きました事はほとんど無しか。その僅かな機会は山形県櫛引町黒川春日神社の黒川能、地元民が舞う黒川能、なんとも幽玄世界と申して良いのやら。夜もふけますと幽玄にも変化が現れて、地元爺様の赤ら顔が酒樽と伴に登場して観客への振舞酒になります。この機になりますと観客席から緊張感がほぐれていきます。ご先祖様は芸能への創造意欲がたっぷりであった事を夜もふけた山間の郷で知る事になります。さて、明日はどちらへ出向きましょうか?


三階から一階ロビーをながめる

 佐仁で感じたこと

2010年09月21日 18時51分49秒 | 民俗芸能
9月21日(火)

 二泊三日の奄美佐仁行きで何を見聞したか?何とも複雑というか、どのように表現すれば現地で感じた事をブログ読者に伝えられるか、しばし、沈思黙考の日時が必要であります。表現したいものは、宇宙の中で太陽との引力で惑星が軌道を回転して、なおかつ、地球は自転に伴う一日の繰り返しで一周三六五日か、それに連れ添って人間も老いて行く様を、旅先で悟らせて頂く何とも言えない人様との御縁でしょうか。



九月の奄美大島は南九州に比較しても一段と暑くて、なるほど、この気温であれば夏場は午睡が必要であると感じて、自ずと奄美と九州は生活様式も微妙な点で異なって来るはずです。その辺がかっては相互に情報不足となり認識不足へと繋がって行きました。何処でもあるパターンです。何とも表現に気を遣いますが、祭りのシバサシは夕方から始まり午後十時頃で最後の訪問先での唄と踊りを終えてお開きとなります。




昼間は気づかず夜には鮮明に分かる事は空家が目立つ事です。家に灯りの点らない居宅、庭の草取りは丹念にされており、空家にしてはこざっぱりとしています。思った以上に集落の過疎化が進行しております。半農半漁の集落、佐仁の戸数で百戸を数えるでしょうか?これと言って産業の無い島嶼の集落、別な見方をしますと、長年の土木工事で島全体にトンネルが完備して今では奄美市名瀬を中心にして南端の瀬戸内町古仁屋よりも北端の笠利町佐仁が遠くなったと言います。トンネルがストロー現象を起こして周辺集落を過疎へと拍車をかけております。



振り返りますと、奄美佐仁の唄と八月踊り連が参加しました城市民会館で開催の「第三回・南のうたとおどり」が一九九〇年十一月二五日です。「奄美佐仁の唄と八月踊」の他に出演団体は「国立城高専の棒踊・都城市」「狭野神社のベブガハオ・高原町」「坊津町泊の十五夜踊・坊津町」「日吉町諏訪神社の笹踊り・日吉町」「高原町の婚姻儀礼」「南の唄くらべ・宮崎県鹿児島県」と続き、当時の豊かさがイベントから伝わり、今では懐かしさのこみ上げる民俗芸能が連なっております。



その後の二〇年間は日本経済の低迷が主な国内話題になり、ややもすると停滞の様が日本経済の常態となった感があります。なるほど中心部から離れるほど過疎というやっかいな人の移動が始まるのを知りました。その中で懐かしき良き時代に良き人々と出会って、毎年とは言いませんが、この二〇年間に佐仁の民俗芸能の移ろう様を拝見させて頂いて、気づきました時には老いてもなおかつ穏やかな笑顔の人々です。十五名ほどの出演者であったと記憶しますが、島人の心の広さ、有る面で小さな事にこだわりを持たない、感じ方の違いかもしれませんが、それがある故に二〇年間も佐仁の風景が住み着いてしまいました。



アラセツとシバサシの祭りを中心にして、人々が集まるわけは、元気な子ども達が里帰りのうれしさを体一杯で表現しております。子ども達を眺めていますと踊りの手振りもさすがにサマになっております。何か別な軸があるように思えてなりません。こうして一飛び海を渡りますと微妙に心を打つ世界が延々とあります。

佐仁(さに)八月踊りの前日

2010年09月18日 18時25分56秒 | 民俗芸能
9月18日(土)     

 南西諸島の民俗芸能の縁は「南の唄と踊り」に由来して、かれこれ二五年は優に過ぎてしまいました。徳之島の芸能大会に城からも出演して現地で奄美大島笠利町佐仁の八月踊り連に出会って佐仁集落を訪問して民俗芸能の本質を教えて頂く機会を得ました。それと同時に人の世の移ろい、二五年前ですから、六〇歳の還暦夫婦も八五歳ともなりますと、どちらかが欠けたりして訃報も届きます。


鹿児島空港

奄美大島、鹿児島空港を飛び立ち開聞岳を後にしますと、やがてトカラ列島を右舷に見て、一息つく間もなく程なく着陸体勢、久しぶりに空から眺める島影、干潮なのか珊瑚礁がよく見えます。サトウキビ畑も刈り入れが始まっており、緑の稜線とコバルト色の海原が良くマッチしており、何とも言えない郷愁でしょうか、亜熱帯の島、遠いようで手の届くところある不思議な島になってしまいました。


トカラ列島上空

空港前でレンタカーの手配をして、田中一村記念美術館を見て回ります。改めて画家が見つめた奄美のカオスを眺め入ります。色彩豊かな生物が今でも生き生きとしており、何であろう絵画から浮き上がるものは?です。


奄美市笠利町界隈

ふと、気づいて招待者の老婦人へ電話しますと、「待っているのよ」と磯の手料理がテーブルに並んだ姿が浮かび上がります。何とも二五年を経ても老婦人の心遣いまでたどり着きません。この辺の気の長さ、救われる場面です。島人の生き方、何処かで気づく場面が無ければ永久にすれ違いのままです。


田中一村記念美術館

お会いしますと、昨年にご主人を亡くされて、やはり何処か元気がありません。集落全体で八月踊りが盛んな頃が昨日のようですが、出会って二五年も経っているとは、その場面を経ないと自分に感じるものが涌き起こりません。


亜熱帯のシンボル樹ガジュマル

アラセツに続いてシバサシの二日間は明日と明後日です。アラセツが旧暦八月の最初の丙(ひのえ)、丁(ひのと)の日で、シバサシはその後の壬(みずのえ)、癸(みずのと)の日であると言いますから、大陸文化を色濃く受け継いだ奄美大島の八月踊り、様々な歴史が刻み込まれておるのでしょう。


佐仁の海辺

こうして、老婦人の歓迎を受けて故人の思い出や唄と踊りにまつわる話しを伺いますと、何と表現すれば良いのか、時空を超えるとでも申しましょうか、どうにもならない、そう何とも言えない切なさがこみ上げてきます。

動画とtwitter

2010年03月09日 17時45分37秒 | 民俗芸能
3月9日(火) 

 午後、河野和明講師に出張講義をお願いして、永いこと使わなかった故にすっかり失念しました動画編集を一からお復習いしました。動画編集には二つの方法をマスターしていましたが、その一つはユーチューブを利用したものと、次はブログgoo の編集を利用したものです。数ヶ月も使わないとすっかり頭の中は空白状態になっております。

goo方式はどうにかマスターしましてアップする事が出来ました。ユーチューブはメインテナンス中で作業が中断しまいました。この二つの特徴を申しますとユーチューブ方式は画像が鮮明で操作も馴れて来ますと手順がスムーズに捗っていきます。goo 方式は画面が携帯電話の転送を念頭に置いたのかかなり荒くなっております。





どうやら、ユーチューブのメインテナンス時間も終了したみたいで、登録作業に取りかかりました。四五分ほどアップ時間を要します。今日の写真は動画二つを掲載して両方の比較をしてみるのが本日の本題です。

それと、登録時間に四五分間も要することで、その間に今流行りのtwitter の手ほどきと「緑の街の水先案内人」twitter を作成して貰いました。このツイッターとは何ぞや?ここから何が生まれるか?どんな文化が育ちうるか?オイオイ昼の日中からつぶやいていてどうする?と思っておりましたが、最近、民主党の現閣僚間で流行っておると聴きました。はまり込む要素があるのかな?

本日から開始したtwitter アカウント名はhigasimay でURLは http://twitter.com/higasimay
まだ、twitter について確かな知識も認識も持っておりませんが、やってみますと何かが現れるでしょう!しかし、ホームページやブログやツウィッター等を駆使して広く人々の意見を述べられるとは有り難い世の中です。現職閣僚とは若手が多かったと認識しておりますが、政治家が自分の考えを述べる一つの道具になるかもしれません。今からでも遅くはない!twitter の世界へ足を踏み込みましょう。

鹿児島神宮初午祭り

2010年03月07日 18時05分26秒 | 民俗芸能

3月7日(日)    朝から霧雨模様の天気で大地の芽生えに水の恵み天の恵み。愚妻に雨の喜びを話しますと「これからの季節は草が生える」と男のロマンなど実も蓋もありません。実家に二週間滞在した次女と孫娘、すっかり家族の一員になりましたが、本日は父親の待つ千葉へ帰る日で、親子共々リフレッシュして新たな生活へと向かいます。空港まで見送りが大人三人も付き添いますので名残りの惜しさもまた格別。また帰って来いよ孫娘。 二週間の成長経過は手足を使ったハイハイ歩きの次ぎにソファーに捉まりどうにか立ち上がるところまでは行きます。二足歩行の伝い歩きがまだ出来ません。祖父母を見て笑顔が出るようになったのも成果の一つ。こうして見ますと通り過ぎた人生の過程とは言え育児とは親の気力と体力を使うもので並大抵ではありません。若い時は何事にも霧中だったのかなあ! さて、本日は鹿児島神宮の初午祭り、春の目覚めに景気よく水田農耕の主役となる農耕馬とテコシャンセンで馬踊りを集落のみんなで踊って元気の良いところを見せるか!その辺りが初午祭りジャンカン馬祭りの起源でしょうか。薩摩の人は何事につけ大らかで先の見通しも良い。昔の農作業は牛馬も人手も限りなく必要としました。秋の収穫期までは永い月日。霧雨模様なら祭りが流れることはありません。 カメラはバッグへ、雨衣を着込み用意は万全、鹿児島神宮より一キロほど離れた空地へ駐車、ずらりと車が並んでおります。大らかなものです。どなた様の空地か?駐車料を取るような気配もありません。行きは線路と農地を横断してあぜ道経由で鹿児島神宮へと向かいます。向かいの山沿いに山桜があちらこちらと咲いており桜の花見も間近か、今年も梅見に続き桜の花見も出来そうだなあ! 境内に入りますと順番待ちの馬踊り連が一の鳥居前で踊っております。昔から唄われた歌も、まあ洗練されたものではありませんが、地声の唄で歌詞も生活感がこもっており聴き慣れて来ますとユーモアが随所に込められており、この歌詞は何歳頃から聴いていたでしょうか!「夕べ来たニセドン(青年)な良かニセドン、相談掛けたらハッチコソナ(飛んで行きそうで頼りない)ニセドン」、娘衆のニセドンに対する期待感も込められているのかな。 本殿に参拝して馬踊り連の晴れ舞台が一望に見える場所に陣取り、カメラも望遠レンズ付きでしっかりと準備。少々の小雨模様で人出が減る祭りではありません。にぎやかなものです。丁度、地元大企業の踊り連が入ってきて、さあ、初午祭り、ジャンカン馬踊り、若い踊り衆と若いお母さんかな!二人の唄者がノーマイクで声を張り上げて境内一面に届けよとばかりに歌い上げます。馬も良く踊ります。

 
 

このように祭りの光景を眺めていますと身も心も晴れて来て感激がこみ上げて眼が潤み、何とも言えぬ感涙で胸が一杯になります。祭りの良さはこれだなあ!ある場面で感動の涙が止めどもなく流れる!男なら体内に宿るY染色体にしっかりとご先祖様が乗っていなさる。ある波長でご先祖様の血が揺れ動き出す。何と幸せなひとときを頂いたことか、祭りとは感動の涙を頂くご先祖様からの授かりもの。


志布志市田之浦山宮社の夜神楽

2009年11月29日 17時00分33秒 | 民俗芸能
11月29日(日)

昨夜は自宅より車で三五分程の距離にあります志布志市田之浦山宮社の夜神楽見物へ出かけました。神楽は午後四時から神事があり五時には祭りが始まります。演目は一番幣舞から二五番十二神剣舞まであり午後十一時には全てを終えるとあります。到着したのが七時前で九時過ぎまで鑑賞しました。夜神楽の雰囲気を三〇枚の写真で紹介します。




























































住吉社流鏑馬二ノ射手

2009年11月25日 16時30分34秒 | 民俗芸能
11月25日(水) 

今朝は深い霧、柳川原川のコガモは人家の直ぐ近くに定住し始めたようです。川藻も多くて餌には事欠かないようでアオサギが同じように近くで定住しております。河川に流れ込む家庭雑排水が減少してきたのか透き通る流れで川底が見えており、百年前は町水路源流として六〇年前は水田用水路として、三〇年前は下水道として、現在は盆地伏流水の水路として河川の役目も時代と伴に変化していきます。野鳥が身近に生息しているなんてサマになります。河川を清掃する人々、河川にゴミを投げ込む人々、水辺にもう一工夫ありますと街が落ち着いて見えるのかな?水辺は街の住環境に彩りを添える天からの贈り物。





午前中は書類作成ですっかり時間を取られて身動き出来ません。朝から夕方までぎっしりと予定が詰まってしまい住吉社の流鏑馬に想いを馳せる時間がありません。一時間ほど空いた時間で二ノ射手を務めたうら若き娘さんの写真を調整して上手く仕上がりました。射手の緊張した気持をどのように伝えるか写真と動画とでは感覚が異なります。やはり写真の一瞬の美しさに心惹かれてしまいます。動画はやはり映画をイメージして映画監督の世界だなと独りで納得してしまいます。動画に打ち込むには時間のセンスと英知が必要だな。片手間では上手く表現出来ないだろうと勝手に想像します。



今は流鏑馬について何も詳しいことは知りません。むしろ曽於市住吉社の流鏑馬が入口で射手の緊張した表情、鏑矢が的を上手に射当てた瞬間の感動か!射手と観客が一緒になる瞬間です。流鏑馬が南九州では知る範囲ですが宮崎市宮崎神宮・肝付町四十九所社・曽於市住吉社と比較的多いのも起源は何であろうと?五穀豊穣、悪疫退散、国家安泰と人々の暮らしのやすらけきを願う事が時代と伴に変化して行ったのだろうと想像します。




流鏑馬をインターネットで調べますと社団法人大日本弓馬会まで存在しており、かなり流鏑馬とは奥行きがあることが分かります。今年は時間の都合がつかずに肝付町四十九所社の流鏑馬見物は敵いませんでした。とりあえずは近くの住吉社と四十九所社の流鏑馬をたっぷりと堪能するのように心掛けます。どうやら住吉社の射手は女性が務めるのは臨時ではなくて昔からなのかもしれません。それなりに根拠があるのでしょう。




また、社務所前にテントを張り甘酒とコンニャクが振る舞われます。なんとも素朴な味で寒さのの中でひととき暖まります。後から声を掛ける男性がおり振り向きますと同じSG21会メンバーで曽於市は私の故郷と流鏑馬見物に来て頂いた事に嬉しげです。晴れの日は外から来て頂くことが何とも嬉しいものです。これは幼い日の記憶かな。



こうして地域社会で流鏑馬神事を含めた民俗芸能が次世代へ継承される事は子供に大きな影響を与えます。核家族時代、親が子に掌を返してどうするのだ?と思う時があります。子供教育は言葉だけではありますまいに。まるで動物を躾けるような言葉の連続で子供の拠り所は何処にあるのでしょう。射手の真剣な眼差し、危険は隣り合わせ、射手と観客が一体となる場面、何とも言えない故郷の郷愁を感じます。

雨の日は流鏑馬を思い出して

2009年11月24日 18時39分16秒 | 民俗芸能
11月24日(火) 

昨日の上天気がまるで嘘のように朝から雨、朝の散歩時には傘持参で歩きましたが、小雨も降らずに濡れもせず。仕事時間になりますと降り出した雨、終日降っております。一昨日、コガモの群れを都城市運動公園近くの柳川原川で十羽ほど見かけました。小さい体型と牡鳥の目元模様がコガモであることを現しております。朝の散歩で久しぶりに姫城川バイパス水路に出向いて見ましたが、あいにく鴨の姿を見ることが出来ませんでした。冬の日本、鴨から見ますと水草や水藻が豊富で絶好の餌場、野鳥観察も永年続けますと一羽一羽が話しかけて来る場面があります。そんな場面が楽しみで自然と目は野鳥へ向かいます。


志布志湾の漁船

仕事始めの時間、朝一番で住吉社のある曽於市へ出向き、流鏑馬一の矢を務めた射手まなぶ高等学校へ昨日の射手姿で最も映える写真を額縁に入れて一の矢射手へお渡して頂きますようにお願いしました。まとめて射手四人分を預かってもらいました。昨日は流鏑馬が始まってまもなく人出に驚いた馬が射手を振り落とす場面がありましたが、こうして写真で見ますと振り落とされた小学生は何事もなく射手見習役を務めております。流鏑馬も神事とは言え危険と隣り合わせで有る事に変わりありません。



雨の中、終日市内を走り回っていた感があり、無事に交渉事も済みましたが、運転に注意、事故起こすなと独りで戒めておりました。午後三時前に帰社してようやく一安心、その後に書類作成が待っており資料片手に取りかかります。電子化時代とは便利な世の中で、どうにか振り落とされもせずにパソコン駆使して書類作成も中半を通り越して残りは明日の作業となります。電子化の波に乗ればそれだけ作業もスピーディーになります。お客様とはこの時節柄、意外と気が短いものです。スピードで特徴を付けましょう。


こうして見ますとコサギも風格があります

結局、この電子化の波を上手く波乗り出来ますと仕事も継続するのだと確信します。その代償は右手の腱鞘炎が激しくなります。毎日を新たな事に挑戦する、ヒマがありますと自ら進んで何かをこなして行く、その事で脳が活性化して物事が見えて来ると、現場の第一線感覚が磨かれます。その辺が上手く心と体とに繋がりますと百寿者への道が見えて来るかな!です。


眼光するどいゴイサギ

仕事一筋とは言え相手様の事を書く訳にもいかずに、はて印象に残った場面は何でありましょうか?女性陣の真面目な勤務姿でしょうか。なるほど肝付町四十九所社の流鏑馬は少年が射手を引き受けますが、ここ曽於市住吉社の流鏑馬は乙女子が射手となります。女性陣の真面目な勤務姿に通じるものがあるのでしょうか。



さて、明日は二の矢射手を務めました娘さん栄えある場面を選んでブログ掲載します。終わってみますと、流鏑馬とは一瞬の神事、走る馬上から弓矢で的を射抜いて、来年の豊作を願う。農業が続く限り住吉社の流鏑馬も続くと見ますと故郷とは祭りを通して神への願いを織り込んでいるものだと気づきます。


戦時中の内之浦臨時要塞十五糎加農砲上段四門中で現存する掩体壕

感激は長寿の花

2009年11月03日 17時36分42秒 | 民俗芸能
11月03日(文化の日) 

本日をホゼと言うは放生会のことかな?甘酒が美味しかった日、そろそろ冬支度が始まる頃か!六〇年前の話。最近になって近郷でもさまざまな祭りが復活してにぎわいがもどって来た感があります。山之口町と曽於市岩川の同じ弥五郎どん祭り、大隅半島先住民熊襲族隼人族に関わりがありそうですが、残念ながら弥五郎どんについては深くはわからない。征服された側の歴史伝承は抹殺されるのが常であります。その弥五郎どんの舞台となった山岳地大隅半島を尋ねて車を走らせます。



今日の主行事は鹿児島県肝付町岸良の平田社参拝とその先にあります湯の谷温泉で一風呂浴びること、それに帰路で岸良海岸に立って周囲の景観を確認することであります。例えどんな小さな事柄でも目的地があることは車を走らすに心ウキウキします。今日の目的地は縁もゆかりもありませんが、まだ見ぬ祭り「夏越し祭り(ナゴシドン)」の主催者となる平田社とは如何なる処かグーグルアースで天上から眺めますと小さな集落のほぼ中心部にあります。



地方の社に出向いて感じますことは、かっては公民館の役目を果たしていたのが社ではないかと思います。集落の人々が集まりやすい位置、それに集落という共同体を維持して行くにはさまざまな今で言う会議を重ねる必要があり会議室と諸作業を行う境内が必要でありました。そんな目にで眺めますと村社と言われる社はその役割が良く理解出来ます。一千年二千年と役割を果たしてきたの社かなと思います。



収穫の季節を終えますと唄と踊りはつきもので社がその中心的な役割を果たしてきました。当然、若者たち集団見合いの場でもありました。大隅半島ではと夜神楽が神舞(カンメ)になり伝承されて来たとありますが若者姿が消えた今、どの社も継承に難儀している様が見てとれます。平田社を後にしてその先にあります湯の谷温泉で一風呂浴びます。この温泉は今も現役、ウルグワイラウンドと言う日本農業に関係する政策がありましたが、その政策の補助で美事な施設に様変わりしております。この辺は薩摩の国です。この温泉は大隅半島最高峰甫与志(ほよし)岳登山の一泊基地になります。



さて、帰路に岸良海岸に出向き、海の蒼さとすっかり秋晴れとなった大空につい見とれてしまいます。今日の収穫と言いますか、この二つの青さを求めて岸良海岸まで出向いてきました。否、自然がプレゼントとして授けてくれた青さです。

感激した時は詩でも詠めばと、友人は言います。
詩が詠めないほど感激した時はどうするのかな?
そんな時は後から詩が浮かぶ上がるものよと、言います。



沖合には貨物船が二隻南へ進路をと何もない水平線に彩りをつけております。この海の色合いと言い、集落の雰囲気は南島の香りに繋がるものがあります。九州の色合いに黒潮の色合いが重なっております。照葉樹林が背景にあるせいでしょうか。



帰路はすっかり満足気分です。日本文化の最南端、海幸彦山幸彦の神話は青島が主舞台かと思っておりますが、どうやら南九州海岸全域が神話舞台になっております。現地に出向きますと、山人と海人とがお互いに住み分けていた時代があったと、空想が広がる空間があります。これで一日さっぱりした気分になりました。

田中錦容の詩吟

2009年09月26日 18時45分38秒 | 民俗芸能
9月26日(土)

尺八:中西鋭山氏(名古屋市)
日時:2006年11月6日午前11時
場所:自宅
録音:1時間10分25秒

まだ作業に不馴れな点がありますが、VoiceTrekで録音しました音声ファイルを
ファイルバンク(http://www.filebank.co.jp)を活用して公開してみます。

田中錦容詩吟61106.WMA ダウンロード

手順
1. 田中錦容詩吟61106.WMA ダウンロード をクリックします。
2.リンク先中段の中ほどにあまり目立たない・・(ダウンロード)・・をクリックして下さい。
3.次は・・・{「開く(O)」・・・「保存(S)」・・・「キャンセル」}・・・の中で・・・「保存(S)」・・・を押して下さい。
4.ファイルを落とすダウンロード先の場所(例えばDeskTop等)を決めて下さい。
5.このファイルはダウンロードに約15分かかります。
6.ダウンロードしたファイルをクリックしますと素朴な詩吟が流れて来ます。




ひっ飛ん行こごたい

2009年08月10日 19時36分09秒 | 民俗芸能
8月10日(月) 

土曜日の祭りの夜に人との出逢い、そして日曜日の都城音楽祭、慌ただしいながらもまだくっついて行ける時間の早さです。頭の中で何かが整理されて充足したものがあります。はてそれは何なのか?やはり始まりは祭りです。祭りとは人が集まり心豊かになる空間、そんな意味で言いますと関西から里帰りしたまち子ちゃんの言葉をかみしめています。


地方紙に掲載「南のうたとおどり」きっかけのイベント、今は亡き人に黙礼。

そもそも女性が二〇数年ぶりに尋ねてくるとは、何かしらこれもご縁か巳年のご縁。或いは宿題を置き忘れて思い出して集まった五人が回答を解き明かす時間でもありましょうか。美味しいご馳走を酒の肴にしてにぎやかに歓談するのは祭りの夜にふさわしいものです。まち子ちゃんのおおらかな顔が昔と変わりません。どっしりと芯の強さが伺えますね。また、ロックで割った薩摩焼酎二五度がぴったりと合います。

東南アジアラオスのラオ酒ラオラオが海を渡り沖縄で泡盛になり、やがて泡盛が南九州に上陸して焼酎となりました。そもそもラオ酒を祖父とする焼酎は当然に匂いもきつくかなり独特な味がします。元もと暑さに強い蒸留酒ですので比較的に簡単な道具で蒸留したエキスが集められて四五度と言うかなりきつくて甘い酒となります。南九州大隅半島の人々はその流れをくんで二五度の焼酎にこだわります。むしろ上品な味わい、つまり臭味のない焼酎よりもやや辛口を好みます。これはラオ酒ラオラオを祖父に持つ酒であれば致し方のないこと。



大隅半島の男衆にしてみれば、何処でも同じで酒に飲まれることもありますが、酒が生活の重要な部分でそれなりの役割を果たしてきました。都城市も広く眺めると大隅半島の一部、それがまち子ちゃんの言葉に出ていました。幼い頃の思い出に祖父や父親の教訓がすり込まれており、独り立ちして世の中の荒波を乗り切るに、その言葉をコンパスとして針路を決めて子育てもして来たと見ます。

酒席で彼女が人生の教訓として述べた言葉、さて、だんだん楽しさと酔いが回る頭には紙と鉛筆が必要、さてそれも億劫になり見渡しますと記憶力の旺盛な友人が隣にいて、失礼ながら彼の頭脳を黒板代わりにして貰います。さて翌日に友人より引き出したまち子ちゃんの言葉は?

「まあ 良かがね 飲まんか 語らんか。今夜は まこち良か晩じゃ ひっ飛ん行こごたい。」

志布志湾の広がる柏原海岸を散歩後に、大崎町アスパルの湯船にたっぷりと浸かり汗を流して、そこで出逢う人々の顔が浮かんできます。



おいおい、この言葉は毎晩実践している事柄です。毎晩、晩酌して良か気分の夜を過ごしております。関西人とはまるでかけ離れた大隅人の言葉であり生活であり行動様式であります。祭りの日に故郷にこの言葉を求めて帰省したくなるはずです。翌日に訪ねて来た彼女にラオ酒ラオラオと南方圏のひろばを進呈して、「また逢いましょう」がさよならに替わる言葉になりました。

のぼりましの舞

2009年01月26日 19時48分23秒 | 民俗芸能
1月26日(月) 

二日間不在しますと拙宅の野鳥も食糧事情が深刻な状態で、輪切りのミカンはほぼ食べ尽くされており、新たなミカンを与えますとメジロ二羽がどこからともなく飛来してミカンにへばりついて離れません。その時間の早いこと!警戒心も薄れてひたすらミカンの蜜を吸っています。その様子はどこか大麻覚せい剤撲滅運動標語「ダメ!ゼッタイ!!」にあります様に似ていると勝手な想像を巡らします。






人目のつかない場所のミカンはヒヨドリが瞬く間にミカンを食べ尽くして内側の白い皮だけが残っています。朝の散歩路にはイカルの群れがまるでさ迷うように葉の落ちた桜の上を飛び回っています。そろそろ街路樹クロガネモチの赤い実も無くなる頃かな。樹木に新芽が顔を出すにはまだ日数があります。いつもの水辺にはコガモが帰ってきており水流の下には生えた水藻をあさっています。人間の足音に気づく様子はありません。今の時期、野鳥と距離を狭めるに最も良い季節かもしれません。






さて、師走祭りの写真を二百枚ほど撮影して、これも師走祭りの各場面が焼き付いてしまい、そのままサーバーと言うお蔵に仕舞い込むには勿体なくて、どのように活用しようかと考えますが、とりあえず我流で表現してみましょう。





日向灘の荒波が打ち寄せる日向市金ヶ浜でミソギを済ませた比木社御神体福智王御一行、まず最初に訪問される先は日向市東郷町山陰中瀬にあります塚「だごみや」です。時間は午前十時半前後でしょうか、ここはその昔に王族一行が入村のおりに一行の女性が赤ん坊を生んだ地と言われております。その折に王族一行が地元民にお世話になったことが神事と神楽奉納から伺えます。




地元の世話役は甲斐善重郎氏でこまめな迎え役をこなされて神事と神楽が終わりますと見物客まで酒肴やおにぎりや豚汁や甘酒が振る舞われます。大鍋の豚汁、おにぎりも一軒一軒味が異なり人々の素朴な心情が伝わってきます。おそらく年月はこの素朴な人々を変えることは無かったのだなと独り合点します。







一行が到着前に迎え火の野火が放たれて、その中を一行はしずしずと塚へと進むなか、多くのアマカメラマンに混じってシャッターを押すに夢中になり、それとたいまつの竹が弾く音や白いけむりや炎が青空の下ページェントを否応でも盛りあげて、いつしかカメラマンから観客へと古代ロマンの世界に吸い込まれて行きます。この場面を堪能しますと洗い清められる心境になり、どこか一段落します。神事と神楽奉納と地元民と団らんのひととき、一時間ほどか、全てが滞りなく終えますと一行は再び送り火の野火のもと次の訪問先坪谷社へと向かいます。







こうして何故かしら心なごむ場面を体験しますと、何にわが心が和んだのか?小さな事か!最初は男が舞など舞うものか?神楽との出逢いは疑問符とやや一歩引いた心から始まりましたが、しかし、年月を越えて塚の前で舞われる神楽舞を拝見しますとわが心境も段々に変化して行きます。若い神職の舞が優雅な古代王朝人の舞にも思えてきます。人間の生きる様は手間ヒマかけて自分なりに納得して解決するしかないな!と思うようになります。芯から幸福な心境です。



師走祭り迎え火

2009年01月25日 17時58分33秒 | 民俗芸能
1月25日(日) 

帰宅しても師走祭りの余韻がまだ残っており迎え火の光景が目に浮かびます。第一日目(のぼりまし)午後六時に神門社一の鳥居から前面に広がる田圃には二九基の迎え火が準備されます。迎え火の櫓は杉の葉や燃えやすい材木を使った三角形をしており、高さ四米ほどか、作るには一日がかりです。この迎え火の櫓に順次火がつけられて行きます。




時刻が来ますと櫓に火をつける伝令が現れて、比木社と神門社のご一行が通る直前に火付けは始まります。今回の二九基におよぶ櫓は町内の企業や職場団体、親睦団体などから構成されています。櫓に近くにはその団体の団らんの火が別枠で設けられてそのまわりに椅子や長板と箱で臨時の席が四角形で設営されます。




当然、小丸川の対岸道路には飛び火を用心して、一定間隔で見張り番の車が並んでいます。消防車も要所要所に配置されて、山火事など飛び火がもたらす災害には万全の体制が取られています。田圃で火を使うわけですから土中の微生物も一部は灰となるので秋の収穫に影響がありそうですが、毎年同じ場所に迎え火の櫓は組まれています。




数年前に同行しました画家が声かけて親しくなりました第一号櫓の処に出むきますと親方さんとその知り合いの方がドラム缶の火の準備をされておられて今年で三回目の挨拶をします。隣の第三号櫓ではすでに準備も整い、早々と火と酒の準備が進み夕方の冷え込みが増すなかを炭火が暖かそうです。お誘いを受けて第三号櫓の仲間入りをさせて頂きます。




寒さの中で火を囲むことは話が始まることでもあります。林業関係の会社みたいで素朴な言葉が印象に残ります。どこでも同じでしょうか、田舎には中年以降が残っているみたいで話題がぼつぼつと出てきます。家族が夜のご馳走を準備されています。カメラを提げた熟年組も火の仲間になります。




火はあらゆる場面に活用されるものだと独り合点します。百済王族が九州山地への逃亡に使ったのも野火ですし、その野火がご縁で一千年以上続くと言われる百済祭りの迎え火、南郷区神門で所帯数四百戸でしょうか、その大半の人々が百済祭りに参加されて一夜を楽しんでおられます。祭りの本来持つ役目が充分に成されています。




とにかく他郷の祭りとは何回か通うことです。数年がかりで祭りを堪能することです。三日間におよぶ師走祭り、舞台となる美郷町南郷区神門には西の正倉院もあり、古代を偲ぶに充分な宝物もあります。ぐっすりと休息できる宿も天然温泉もあります。心身ともに祭りを堪能しますとあらゆるストレスが発散します。これこそが祭りが持つ本来の効能です。人生幸福の秘訣は楽しみの祭りを持つこと。田舎で間に合えばこれにまさるものはありません。








師走祭り

2009年01月24日 12時28分21秒 | 民俗芸能
1月23日(金) 


三日間の旅の無事を祈願して神事が朝七時三〇分からとりおこなわります

今日から三日間、木城町比木社を出発点にして旧南郷村神門社まで福智王一行が行列を連なって父君禎嘉(テイカ)王にお会いに行く旅が始まります。いつの頃からか一行はバスで出むきますので夕方には神門へ到着します。その福智王一行を迎える旧南郷村神門の迎え火が山村の夜空を焦がし何とも言えない風情があります。風情に魅せられて今回の追っかけは四回目。朝六時三〇分に自宅を出発して比木社へむかいます。旧南郷村神門では頼みの機器がネットに届きません。一日遅れの配信になりますが、祭りの様子を写真で紹介します。


神職五名、総代五名、氏子八名総勢十八名の師走祭りへの旅がはじまります。福智王の御神体中ほどの白い布に覆われております


ご先祖が遭難打ち上げられたと伝えられる日向灘金が浜の海岸


おごそかなミソギの行事が総勢六名、福智王御神体を掲げて行われます


逃避行の途中で赤子が生まれたと言われる日向市東郷町山陰中瀬の卸児へ


往事をしのんで孟宗竹で作られた松明三本の下でおごそかな神事が行われます


神職による舞が奉納されます


第一日目のクライマックス、美郷町南郷区神門で二九基の櫓に火がつけられて火の祭典が繰り広げられます


こうして現地で師走祭りを堪能しますと祭りの持つ意義が自ずと理解できるようになります