∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-1 >小川村と布留山城跡 1/2≪考証≫

2006-10-10 12:01:45 | C-1 >小河氏系水野




小川村と布留山城跡 1/2≪考証≫
  長野県上水内郡小川村古山    Visit :2006-08-10 13:00

◎小河氏水野の祖 小河三郎重房の後裔として、房については「C-1水尾邑」に、また雅經については「C-1水野雅經」にそれぞれ投稿済であるが、その後貞守に至る九代については殆ど触れてこなかった。雅經から五代の正房とその子信忠が後述のように土岐氏に滅ぼされ、また六代の信安が知多郡小河から追放され、その後三代が居住した信濃の小川村に、今夏漸くにして採訪することが出来た。
 同村の資料などを基に「小川村における水野氏」を考察してみることにする。


◆『新訂寛政重修諸家譜』巻第三百二十八――から抜粋
清和源氏 満政流
  水野
 家祖[の]重房[は]尾張國知多郡英比郷小河(或いは小川または緒川)に住し、小河を稱號とす。其子重[は]同國春日井郡山田庄[水野村]にうつり、これより水野にあらた(改)む。寛永系圖に重房父子の事を題下(題目のもと)にしるして、又三郎某(今の呈譜房)より系をおこし、六代にして小河下野又次郎某(今の呈譜正房)にいたり、これより貞守までそのあひだ(間)數代中絶せりといふ。今の呈譜に、寛永のとき呈せしは系譜疎漏(手落ちのある)おほ(多)きがゆえ、なを訂正してたてまつるといひて、重が(の)子を房とし、六代の孫正房より貞守まで七代世系連續して、名字年暦等頗(すこぶる=たいそう)そな(備)われり。しかのみならず、貞守以下代々の兄弟等寛政譜にみえざる者、今の呈譜にことごとくこれを載て、その分流を記せり。

 重房-重=房-雅経-雅継-胤雅-光氏-正房-信忠-信安-信義-信重-忠義


◆『太平記』五 巻第三十五 「尾張小川、東池田が事」から抜粋
 さる程に[延文五年(1360)]、小川中務丞[正房]と、土岐東池田[土岐頼の息子]と引き合いて(手を結んで)、仁木[畠山と対峙した仁木(にっき)義長]に同心(味方)し、尾張小川の庄[愛知県知多郡東浦町]に城を構へてたて籠りたりけるを、土岐宮内少輔[は]三千余騎にて押し寄せ、城を七重、八重に取り巻きて、二十日余り攻めけるが、にわかにこしらへたる城なれば、兵粮(将兵の糧食)忽ちに尽きて、小川も東池田も、共に降人に(降参した人が)出でたりけるを、土岐[は]日頃所領を論ずる(爭う)事ありし宿意(恨み)によりて、小川中務をばすなわち(ただちに)首を跳(は)ねて京都へ上らせ(送り)、東池田をば一族たるによって、尾張の幡豆崎(はずがさき=知多半島南端)の城へぞ送りける。

[注]土岐宮内少輔は頼忠の弟で、また直氏が伊予守宮内少輔であり、一門で争っていた。仁木に協力した諸將は相次いで没落した。小川氏は土岐直氏に滅ぼされ放浪苦難の時代へ。正房の子信忠も父と共に害せられる。 


◆小川村の背景
 ――『小川村誌』中世社会前期――をもとに編集
 仏教の隆興と共に当時普及した山嶽信仰の対象地として開かれた戸隠山は、天台宗の修行地であり全国有数の霊場として発達した。嘉祥三年(850)(*1)奥院、泰平元年(1058)(*2)宝光院、寛治元年(1087)中院が建設されたことで戸隠三院と通称された。小川村は、この戸隠三院の支配下にある荘園の一つであり、数多くの信濃の荘園内でも最も古い荘園であるといわれている。戸隠一山はこの地方を領有することにより、多数の修験徒や僧兵等の食料を確保する事が出来たことで、領民に対してはその生活を保障し、争乱時代においては、苛烈な戦禍から住民を守護した。
 小川庄を荘園として掌握したのは戸隠顕光院であり、時代に対応する荘園維持の手段として、小川庄を寄進荘園として荘園経営を行った。その小川庄に対して清原兼嗣および平維継が介入したが、維継は伊勢大神宮領である仁科御厨の庄司職と考えられており、時代毎に南北接点の地としての歴史経過があった。
 荘園中期の天養二年(1145)、院の下文(くだし文)が小川庄の役人に通達された文書がいわゆる「天養文書」であって、長野県に存在する古文書中では最も古い文書であると伝えられ、荘園小川庄の古さを立証するものとなっている。
 小川庄の年貢については、都から遠隔の地にあることから交通の制約があり、米による納入は皆無であったようで、重量が少なく輸送しやすい特産品の麻布、苧(からむし)、絹などの白布が主となり、越後の縮に次ぐ特産物として中央貴族の生活必需品となっていた。しかし鎌倉以降になると次第に銭納化されていったと推考されている。
鎌倉時代、小川庄は依然戸隠の統治下にあったが、安曇の仁科氏の影響を受けており、木曽力壽丸を庇護した仁科氏は、その後仁科城主となりその治世によって仁科圏は発展し、建武時代(1334-1338)になると宮方に属し更に南北朝時代には南朝派であった。幕府による信濃の最初の守護は、源義光から五代にあたる源氏の加賀美遠光であり、源氏旗揚げに逸早く参加し頼朝に与力した。遠光の子長清は甲斐の地頭となり、甲斐小笠原に居住して以来小笠原氏を称し、足利時代には世襲にわたる信濃守護の家系となった。中世小川史に重要な役割を果たす大日向(おびなた)氏は、この小笠原氏の出である。
加賀美氏に継ぐ守護は、比企能員であり、鎌倉幕府二代将軍源頼家を擁立する権力の立場から、北条時政と対立し頼家とともに滅んだが幕府における比企勢力は御家人中の筆頭であった。その後幕府権力は北条氏に移ったが、北条氏もまた信濃守護には側近を充てた。
建武時代に政治が瓦解して以降、六十年に及ぶ抗争が続く南北朝時代となるが、信濃の武士達も宮方の南朝派と、足利幕府の武家方の北朝派に分かれて対立した。信濃の南朝派の中心には、先述した安曇の仁科氏が居り、承久の乱の発端といわれた天皇側近であり、さらにその領国が糸魚川沿いの要路にあったことことから、仁科氏は南朝派最大の武将であった。これに対する北朝派には守護小笠原氏を惣領とする小笠原一族が居り、所領は信濃では中南信の四カ所だけであったが、全国ではその所領は十カ国にわたる十数カ所におよぶ領地を有する全国有数の豪族であった。両派にはその支配下に多くの小領主が組み込まれていた。これら小領主である武士達はそれぞれに自らの保全のため時には盟約を結び、また時には対立するなどの中で展開する戦いに命運を懸けていた。
 足利政権は尊氏・直義の二頭政治が分離し抗争となり、一時は南朝が優勢に立ち長らく続いたが、やがて尊氏により直義が葬られたことで南朝勢力の衰退となり、正平十年(貞治元年1362)(*3)、桔梗ヶ原において一戦が行われ南朝方の敗北を持って終わり、これにより信濃の南朝派はのみならず全国の南朝方の勢力は急速に衰えた。その後、足利幕府権力の増大により義満によって南北朝が統一されたが、南朝派の武士は幕府側の武士によってその傘下に統合されるか、または分解離散の途を選らばなければならなかった。

◆小川左衛門の伝承
 ――『小川村誌』中世社会前期、および「同村の資料」――をもとに編集
♦小川左衛門入村の背景
 元中九年(明徳三年1392)、小川左衛門尉貞綱(*4)は、[南朝に属していたことで]無実の罪により尾張知多小河(*5)から、布留山に貶(へん=官位を下げて追放)せられた。
同年、将軍足利義満は南北朝の合一を計って、南朝の後亀山天皇および南朝の元号である元中を廃して、後継の天皇を北朝の後小松天皇とし、年号は以降北朝の明徳とし、南北朝和睦を図った。このことから勘案し、南朝に属していた小河城主小川左衛門は、信濃の山中に追放されたと判断できるとしている。
 追放による入村に対し、当時の村に受け入られる素地があったか否かについての考察については、七年後の應永六年(1399)、守護職小笠原長秀の統治に反対する大塔合戦(*6)が起きており、当時は北信藩の情勢は守護といえども在地武士の連帯によって、同合戦のような抵抗を受けており、小河城主[地頭識]であった小川左衛門が、かつての地位などでは北信濃の在地武士の服従は不可能であったとみなけければならない。当時の安曇から水内山中におよぶ在地武士の周辺は、安曇の仁科氏を中心とする南朝支持の共同体で結ばれていたことから、信濃山中に追放された南朝所属武士の庇護という点では共通するものがあったと考えられる。従って小川左衛門受け入れの場合の主たる庇護者は仁科氏であり、香坂・春日氏等は仁科氏と共同の立場であったとみることができるとしている。
♦『小川郷昔記録』(*4)に記載された小川左衛門の抜粋
 小川左衛門尉貞綱は[、]三河国小川刈谷(ママ*5)城主小川左衛門重房(ママ*7)の男[息子]也しが[、]元中九年明徳三年(1392)壬申[、]南北朝和睦のせつ無実の罪にて信濃国布留山へ貶せられ[、]綱義、貞宗と三代布留山城に住み[、]天文二年(1533)同じく三年(1534)春二月[、]村上顕国の籏本大日向(おびなた)彈正長利[は、]村上の指図にて小川左衛門をせめ[、]小川左衛門は三州小川刈谷へ逃げ帰り貶居ゆるされたり[。]後姓を水野と改め水野忠政に至り徳川に随いし(仕える)と云う。
小川左衛門貞綱は無実の罪をたとへ子孫なりとも晴らさんと深く菅原の神をまつり信仰し給い[、]後必ず子孫に至る、大日方長利にせめられたれども無実の罪晴れ[、]水野忠政の代になり徳川につき大名の一部となりしなり。
小川家則ち水野家[は、]布留山に居住せること三代七十八年[、]水野忠政は小川左衛門重房(ママ)より七代目(ママ*8))に当たるなり。
應永の頃は[、]小川庄内には布留山に七軒[、]根山に三件[、]那津和(なつわ)に四軒[、]竹生に三軒[、]椿峯に寺とも六軒[、]馬曲に三軒[、]久幾(ひさぎ)に四軒[、]立つ矢城の越に二軒[、]桐山に二軒ありしと云う。後[、]布留山近方二ケ村と申す是天和年中(1681-1684)の事なり又別れて瀬戸川村と唱へ来たり候。
 小川左衛門は[、]又日知里(ひじり)山の大龍神を諏訪明神と申し霧山神楽岡に移し給う。文政二(1467)丁亥二月二十九日なりと云う。又神楽岡のがけくずれて沢の宮へ引、小根山諏訪社は天正元(1573)癸酉九月沢の宮より分社すと申事なり。
小根山御射山は小川左衛門[が、]日知里山[の、]大龍神を霧山に移す時[、]諏訪明神なるにつき勧請せしものなりと云う。
[中略]
 明徳四(1393)癸酉年[、]青木村に穴住して居たる夷(えみし)の残賊ありて、小川左ヱ門[が]討退き[、]青木経塚が峯に金時母子の霊をまつり京の字は悪魔の去る位の文字に付、字京原と云う地を置きたりと云う[。]後又[、]氏神を虫倉山に移し申と云う事なり。[中略]
 小川左衛門の菩提所光明寺と申す真言宗あるなり墓は南ひら(*9)にあると云う。
立矢城(*10)は[、]小川左衛門の一家老の城にてあり、後大日方長利家来[の]村越主膳之に居ると云う。
[中略]
小川左衛門の法名
 「小川院聖山龍興大禅定門」と申來るなり。
是小根山清水頭の墓地石塔有りて明白なり。(*11)
[中略]
小川左衛門の開くにしたがい[、]村に庄屋と申す役人置き取りしまり致し候と事。
小川左ヱ門貞綱の辞世は
 「おちついて見れば影ある朧月何時秋こんとまちもありけり」
[中略]
 文政三(1820)庚辰年二月
♦小川左衛門の系譜
 『新訂寛政重修諸家譜』では、前述の通り――
 重房-重=房-雅経-雅継-胤雅-光氏-正房-信忠-信安-信義-信重-忠義 と
「信安-信義-信重」の三代が小川村に移り住んでいたことになるが、上述の『小川郷昔記録』では
「小川左衛門貞綱-綱義-貞宗(定綱)」と記されている。“小川村に実在した人物の名前”としては、現地の口伝に基づいた『小川郷昔記録』の方がより信憑性が高いと思われるが、各系譜にみられるように一人が幾つもの名前を使っていたことは枚挙に遑がないことから、この三名についても各々二つ以上の名前を使用していたとも推考できる。年代と前後の経緯からみて同一人物でなければ整合性はなく、またこれを否定する論拠も見あたらないことから、新たな証拠が出てくるまでは、同一人物として扱っていくことにする。

                                                                               (つづく)





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