∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-1>大給松平家臣水野氏

2007-11-25 10:58:10 | C-1 >小河氏系水野



●大給松平家臣水野氏
『西尾市史』古代中世近世 上 二―― 大給松平家臣団
松平(大給おぎゅう)真乗の長男和泉守家乗が、美濃恵那郡の岩村に、二万石を領したときに始り、嫡男和泉守乗寿が継ぎ、大坂の陣の功により遠江浜松へ移封。後3万5千石に増録され老中となり、上野館林へ六万石に加増され、さらに下総佐倉、肥前唐津、志摩鳥羽へ転封。乗邑は八代将軍吉宗に抜擢され老中として活躍。次いで伊勢亀山、山城淀、下総佐倉と転封を繰り返し、三河西尾に至る。

[歴代大給松平家]
  美濃岩村藩 六代家乗(いえのり)・七代乗寿(のりなが)                   2万石
-遠州浜松藩 七代乗寿(のりなが)                                 3万5千石
-上野館林藩 七代乗寿(のりなが)・八代乗久(のりひさ)                    6万石
-下総佐倉藩 八代乗久(のりひさ)                                 6万石
-肥前唐津藩 八代乗久(のりひさ)・九代乗春(のりはる)・十代乗邑(のりさと)        6万石→7万石→6万石
-志摩鳥羽藩 十代乗邑(のりさと)                                 6万石
-伊勢亀山藩 十代乗邑(のりさと)                                 6万石
-山城淀藩 十代乗邑(のりさと)                                  6万石
-下総佐倉藩 十代乗邑(のりさと)・十一代乗佑(のりすけ)                   6万石
-出羽山形藩 十一代乗佑(のりすけ)                                6万石
-三河西尾藩 十一代乗佑(のりすけ)・十二代乗完(のりさだ)・十三代乗寛(のりひろ)
          十四代乗全(のりたけ)・十五代乗秩(のりつね)                 6万石


◆松平西尾藩分限帳
 西尾藩松平氏の分限帳は現在四種類保存されており、最も古い分限帳は、西尾市在住新家信一氏蔵の明和元年(1764)のもので、十一代松平和泉守乗佑が、出羽山形藩から三河西尾藩に転封された当時のものの写しである。この分限帳写しは前半が欠失し、更に主な役職を記すに留まったことから、百二十九名の記載があるのみである。次は弘化三年(1846)分限帳の写しで、同市在住の榊原秀四郎氏蔵のものである。この分限帳も惜しむらくは後半が省略されている。また同市盛厳寺蔵の二種の分限帳の内、古い方は、記年はないものの嘉永年間(1848--1854)に成ったものと推定されるものがあり、これは完全な形で残されている。もう一種のものは、明治二年(1869)版籍奉還前に成った最も新しい明治分限帳である。記載形式は異なるが内容はほぼ同じものが西尾市立図書館にも所蔵されている。盛厳寺蔵の二種の分限帳の構造は、藩士の賞罰的な加封・減封などに応じて、貼付したり加除したり出来るカード式となり、諸般の変化に対応しやすいものに変形していったことが窺われる。
職制においては、後出「水野各氏」の年寄というのは、藩内の訴訟、賞罰、貢租、内政等を統括する要職で、家柄や経験を重んじられる職であり、ほとんどの政務は年寄の合議制により執行されていた。従って当藩では家老は常時置かれていたのではなく、六代家乗から十三代乗寛までの八代のうち、家老任命の記録があるのは十二代乗完の明和七年(1770)だけである。同十月二日付には、(今井)嘉兵衛、(杉戸)次郎右衛門、(水野)主米介、(今井)数馬の四名で、向後家老(*1)という名目を仰せ付けられ、これによって、その外の年寄が列座するときは、間を明けで着座する決まりであった。
 馬廻については、明治分限帳では、馬廻三十三名中、年寄の水野織衛組が十四名矢野雲八組が十一名に分けられ、番頭を兼ねる年寄水野織衛と矢野雲八とに統率されている。両組にはそれぞれ馬廻組頭が一名ずつ配置され、水野組は二十五人扶持の水野善次兵衛と記されている。
中小姓については、馬廻と同様な任務を果たしており、明治分限帳では水野組十七名、矢野組十九名で、それぞれ中小姓組頭を戴いており、水野組頭は、六石三人扶持の乙部要人が勤めている。
知行取りについては、当藩では頭階を二十二段階に分け、頭階1が禄種千石で、禄高は千石である。本来ならば石高千石の領地を宛行われ、実権はそこからあがる貢納米であるが、その原則が当時は擬制化(*2)、形骸化して、実際では米で給付されていた。藩では四公六民(*3)を建前としていたことから、千石の知行取りの実収入はその四割の四百石となる。これが蔵米取(*4)と異なるところで、名目と実質が甚だしく相違する藩士に極めて不利な禄高制度となっており、これは二十二段階全てに一率であった。後出水野織衛の場合については、高千石で実禄四百石取りとなるが、財政に苦しむ藩では、藩士の封禄の減額支給を行っていたので、実際の収入は手取り六十四石余であったという。
 扶持米取りについては、知行取りに対して下級職や新参者に与えられる給与方法であり、壱人扶持は一日五合の割合で、一年一石八斗余となり、切り上げて二石を支給される。最高の三十人扶持は六十石にあたり、知行百五十石に相当するから、二十人扶持以上の扶持米取りは相当高級職に就いていたことになる。高禄は医師のような特殊技術者で、しかも主従関係の比較的薄く、譜代的でないないもの、重役の隠居者などであり、段階1の三十人扶持は、医師と隠居の二名に留まっており、一人扶持の段階11までがある。後出の水野省恩の三十人扶持がその例であり、段階2の、二五人扶持水野善次兵衛は、新参か家格の低いものの抜擢とみられている。
 以下は各分限帳から「水野氏」のみを抜粋したものである。


「弘化三年分限帳」写しの年寄(1846)
年寄 一〇〇〇石  水野宗右衛門
    二〇人扶持  水野主米助

「嘉永分限帳」(1848--1854)――年寄八名中二番目に書かれている
 砲術武芸掛り 武器掛り   高 一〇〇〇石  年寄 水野宗右衛門

「明治二年の分限帳」(1869)――年寄八名中四番目に書かれている
 武芸諸芸掛 軍備掛りの心得 高一〇〇〇石  水野織衛

三〇人扶持  隠居          水野省恩
二五人扶持  馬廻組頭        水野織衛組 水野善次兵衛


 年寄水野宗右衛門の三男である水野鯉庵庸順は、武士でありながら医を志し、医師として下総佐倉藩八代乗久の代から仕えたことから、藩士の分家では特異な例として挙げられている。


◆大給松平家臣水野氏
 前述の通り大給松平家の現存する最も古い分限帳は、明和元年(1764)のもので、十一代松平和泉守乗佑が、三河西尾藩に転封された当時のものの写しであるが、この分限帳写しは前半が欠失し主な役職を記すに留まったことから百二十九名の記載があるのみであり、 『西尾市史』では、この分限帳の中に水野氏が記載されてるのかどうかについては、残念ながら言及していない。従ってこの資料から松平家臣水野氏として分限帳に現れるのは「弘化三年分限帳写し」に始まる。明和元年以前から大給松平家の臣下であった可能性も高いが上記歴代藩主のどの代からなのかは不明である。当初美濃岩村に六代家乗が入封し、岩村が水野の故地近くであることから立藩当初から臣下となっていたことも充分に考えられるが、現在のところ資料が見当たらないことから検証はできない。
『西尾市史』には、「大給松平家は、大坂冬の陣に軍功を立てて大幅な加増に浴した七代藩主松平和泉守乗寿の代や、享保の改革に老中職を勤め、内政に手腕を認められ一萬石の加増を受けた十代藩主松平乗邑の代には家臣の新規採用が目立っている。」と記されていることから、上野館林藩および肥前唐津藩の時に採用された可能性も考えられる。いずれにしても当家臣名については、官途のみしか記載されておらず、諱が不明であることから、その出自を推し測ることは困難であるが、唯一「水野鯉庵庸順」として「庸順」の諱らしきものが書かれていることから、水野氏で「庸」を通字(*5)として代々踏襲してきたのは河和水野系であり、桓武平氏水野系には散見されないことから、現時点に於いては便宜上「小河水野系」の何れかの系統と捉え分類しておく。後日何らかの確かな史料が得られ誤りであることが判明した際には修正を加えたい。


[註]
*1=向後(こうご)とは、「これからのち。今後。」の意であるが、家老職に附けられた 意味については不明。
*2=擬制(ぎせい) 〔法〕相異なる事実を法的には同一のものとみなし、同一の法律的効果を与えること。
*3=四公六民(しこうろくみん)とは、江戸時代の年貢率。田畑の収穫量の四割を租税(年貢)として納め、六割を個人(農民)の収入とするもの。
*4=蔵米取(くらまいとり)とは、 江戸時代、知行地でなく蔵米を給与された幕臣や藩士。初め下級者であったが、知行制の改定の結果多くの藩では上級者にまで及んだ。切米取(きりまいとり)。
*5=通字(つうじ)とは、平安時代中期、漢字二字からなる名が一般的になってから後、「通字」あるいは「系字」といい、家に代々継承され、先祖代々特定の「一字」を諱(実名)に入れる習慣があり、現在でも継承されている家がある。


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