∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-1 >水野籐兵衛忠栄 1/2

2007-03-15 22:27:25 | C-1 >小河氏系水野



●水野籐兵衛忠栄
〇日光川改修・尾張藩財政再建等の功労者 水野籐兵衛忠栄
 [生年]:不詳
 [名 ]:忠栄
 [字 ]:籐兵衛 冨次
 [没年]:天保二卯(1831)九月十二日病死、没年齢不詳
 [役職]:尾張藩士 普請奉行 勘定奉行 寺社奉行 用人
 [俸禄]:千弐百石
       内七百五十石御足高 
 [業績]:藩財政再建、米切手回収、日光川改修、公事訴訟改革
 [藩主]:尾張藩第九代徳川宗睦公
 [系圖]:小河水野忠政の子忠守四男守信の五男守直を祖とする籐兵衛五代目

 既投稿の桓武平氏水野氏系「水野千之右衛門」は、新川開鑿の功労者であるが、小河水野氏系の「水野籐兵衛忠栄」が千之右衛門の後継として勘定奉行を勤め、千之右衛門と供に日光川改修に貢献していることから、千之右衛門とともにこれを頌徳したい。
 このことについては「『尾張藩社会の総合研究《第二篇》』清文堂出版 第四章 尾張藩と水野氏 高木傭太郎著」に精しく著されており、その「第三節 天明の改革以降の尾張藩政と水野氏」の論文に、次のように解説されている(詳細は同書を参照されたい)――

 「尾張藩天明の改革は、直接的には宝暦以来の相つぐ領内の洪水被害のために起きた徒党と訴願激発状況への政治的危機意識に基づく藩側の対応であった。
 尾張藩は天明の改革において、
 ①洪水対策として新川分流と日光川付け替えの二大治水工事を財政難に苦しみながら実施すると同時に、
 ②尾張領内十箇所に所付代官所を設置し、城中の集中していた訴願審理を分割しかつ地域により密着した地方支配をおこない、
 ③細井平洲に村々に巡回講話を行わせて地域秩序の安定をはかった。」とある。

 尾張九代藩主 徳川宗睦の時代に、藩政の大改革があり、上述の二大治水工事、所付代官所(既投稿)を設置したほか、宗睦晩年からは、藩士で江戸中期の代表的学者天野信景(1661-1733)による「尾張藩兵学」の進言を受け容れ、寛政六年(1794)九月、「尾張藩の軍政改革」をも実施している。さらに宗睦は、官僚機構の統合集中を平行して進め、藩政初期以来、農政と藩が直接支配を行う蔵入地の管理が国奉行支配下にあり、財政と農政を総合的に統括する役所は長く存在しなかったことで、同寛政六年(1794)幕府に見習い勘定奉行中心の支配機構に変え、国奉行を勘定奉行と呼称する。同時に彼らを「地方懸り」に命じ「公事方」を兼務させた。
 これらの経緯については、下記の「稿本藩士名寄」に詳しいことから、「水野籐兵衛忠栄」の項を全文転載する。

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◆稿本(*1)「藩士名寄122 みノ1」の 翻刻本(*2)
        普請組寄合
          水野籐兵衛惣領 籐兵衛
                  水野冨次[忠栄]
 千二百石
  内七百五十石御足高(*3)
一 安政七戌(1778)三月朔日(*4)新規 御目見
一 天明八申(1788)五月十三日亡父同姓籐兵衛
  遺跡知行四百石之内三百五十石并
  居屋敷被下置御馬廻組被 仰付(*5)……………………(a)
一 寛政元酉(1789)三月二十九日  
  五郎太様小納戸被 仰付御小性(姓)兼可
  相勤旨
   御幼年之御事ニ付後々御為宣様
   御生立之御儀等 御側向之輩申合
   可相勤旨
一 同年(1789)九月朔日仍願御小性兼役御免
一 同四子(1792)十二月籐兵衛与改名
一 同六寅(1794)十月廿七日普請組寄合被 仰付
一 同六寅(1794)閏十一月十四日御目付被 仰付
一 同八辰(1796)六月廿九日御普請奉行被 仰付…………(b)
一 同十午(1798)七月廿九日御勘定奉行被 
  御勝手方可相勤旨仰付
  御役料米百五十俵被下置…………………………………(c)
一 享和三亥(1803)十一月七日是迄御勝手方
  地方懸り相分居候処已来右懸り□□(二字判読不可ママ)
  不相分一統打込取扱可申旨
一 文化元子(1804)三月十九日公事方(*6)懸り兼
  可相勤旨
一 同五辰(1808)十月廿四日公事方懸り御免
一 同七午(1810)十一月御勝手向往々御繰合筋立入
  遂勘弁都合能取調出来骨折候付時服一(*7)
  白銀三枚(*8)被下置………………………………………(d)
一 同八未(1811)十一月日光川汐入御普請出来之処
  悪水引落方宜相成候付白銀三枚被下置…………………(e)
一 同九申(1812)正月十一日久々出精(*9)相務候付時服一
  被下置 ……………………………………………………(f)
一 同九申(1812)九月廿九日御勘定奉行之儀地方
  御用筋ハ是迄之通一統打込取扱以来
  御勝手方公事方ハ懸り引分可取扱候
  依之御勝手方可相勤旨
一 文化十酉(1813)五月米切手(*10)減筋骨折取扱
   正金融通方追々模通宜相成候付時服壱
  被下置………………………………………………………(g)
一 同十酉(1813)十月十日御用人被 仰付…………………(h)
一 同日御足三百石被下之…………………………………(i)
一 同日寺社奉行兼役被 仰付………………………………(j)
一 同日寺社奉行専可相勤候御用人之
  御用向御免被遊
   御勘定奉行之勤向当分是迄之通
   可相勤候寺社奉行所之儀ハ追而
   申談候迄不及相勤候
一 同十酉(1813)十二月御勘定所御用向大道寺孫蔵江
  申継候上寺社奉行所御用可相勤旨………………………(k)
一 同十三子(1816)十月屋敷手狭ニ付谷田喜左衛門
  渡邊弥十郎屋敷家作(*11)とも被下置候
  是迄之屋敷家作とも可差上候……………………………(l)
一 文化十四丑(1817)二月年来滞候公事等取扱
  相済役所内取締も行届且打捨居候
  留冊仕立方等致裁許格別骨折候付
  拝領物被 仰付時服壱被下置……………………………(m)
一 文政二卯(1819)正月十一日御足弐百石被下之………(n)
一 同四巳(1821)四月水野内蔵(*12)叔父同姓三郎助伜
  房吉儀養子ニ致知多郡野間大御堂寺大坊
  弟子ニ差遣度願之通済
一 同十亥(1827)正月寺社奉行久々相勤候付
  拝領物被 仰付時服壱被下置……………………………(o)
一 同十亥(1827)三月九日年来御用多之御役々
  御模通宜相勤候付御足弐百石被下之
  御役高ニ被成下……………………………………………(p)
一 天保二卯(1831)五月四日御馬廻頭格被
  仰付(*5)年来要路之御役儀格別出精
  相勤候付格段之
  御沙汰(*5)を以御足百石御加増知ニ
  被成下………………………………………………………(q)
一 同日勤向無之候付御普請役可相勤旨
一 天保二卯(1831)九月十二日病死

[翻刻文註]
*1=こうほん。原稿・写本など“手で書かれた文書”。
*2=ほんこくぼん。写本や刊本を、そのままの内容で、新たに木版または活版で刊行した本。
*3=たしだか。江戸幕府の職俸制度の一。家禄の低い者が役高の高い役職に就いた場合、在職中に限りその差額を支給する制度。また、その支給される補足高。1723年、八代将軍吉宗のときに財政再建・人材登用の目的で定められた。
*4=ついたち。一日。
*5=「被 仰付:被と仰の間の「一字分空白=欠字(けつじ)」。律令で定められた公文書の書式の規定の一。天皇・貴人に関係した称号や言葉の上に、敬意を表すため一字または二字分の余白をあけること。欠如。また称号や言葉を改行し先頭から書き始めることを平出(へいしゅつ)または擡頭(たいとう)という。
*6=くじかた。江戸時代、裁判関係の事務を扱う役。特に幕府では、勘定奉行およびその下での裁判関係担当者。
*7=じふく。朝廷・将軍から、毎年、春・秋(または夏・冬)臣下に賜った服。時服を数える単位は「襲(くだり」で、装束などのそろったものを数えるのに用いた)
*8=はくぎん。江戸時代、白紙に包んで贈答用に用いた楕円形の銀貨。通用銀の三分にあたる。白銀一枚は銀四十三匁。銀六十匁で金一両。銀を直径10cm位の楕円形に延ばし薄い板状にしたもの。白銀三枚は金二両強にあたり、一両を現在の二十万円とすると約四十三万円に相当する。また一両を現在の二十三万円程度とすると概ね五十万円相当となる。
*9=精を出すこと。物事に励むこと。
*10=こめきって。江戸時代、諸藩の蔵屋敷が出した入札済みの蔵米の引き渡し証。
*11=かさく。(1)人に貸して収入を得るために持っている家。貸し家。
(2)家を作ること。また、その家。
*12=河和水野家第八代当主水野康民。「叔父同姓三郎助」については不詳。

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◆[日光川改修ほか治水工事関連と水野千之右衛門・水野籐兵衛忠栄の事蹟年表]
♦天正十四年(1586)六月廿四日……日光川は古名を萩原川と称して、往古尾張部木曽川の本流であったが、同日の大洪水により、突如として現在の木曽川を構成し、葉栗(愛知県一宮市)・中島(同県稲沢市)・海西(同県海部郡・岐阜県海津市)の三郡を二分し、美濃部の本流境川および尾張部本流萩原川を全く廃川同様にしてしまった。
♦慶長十二年(1607)……藩祖徳川義直が尾張藩に移封される。
♦慶長十七年(1612)……名古屋城大天守が完成。
♦寛文六年(1666)三月……日光川は、尾張藩国奉行山本平太夫、小山市兵衛、小山傳十郎、目付役本多久兵衛(設計)、普請奉行江崎清左衛門、水奉行鈴木覚太夫、三浦文太夫の手によって海東郡勝幡村(愛知県愛西市勝幡町)から同郡宇治村(愛知県津島市宇治町)津島街道上まで、川幅十間(18m)に開鑿し完成。
♦寛政七年(1667)……次いで、同所から日光新田堤防まで幅員二十間(36m)、同地から蟹江新田(愛知県海部郡蟹江町蟹江新田)まで幅員二十八間(50m)、河口落口幅員五十間(91m)の開鑿完了。
♦享保九年(1724)四月二日……水野千之右衛門生まれる。
♦寶暦三年(1753)十二月……江戸幕府の命により薩摩藩が、木曽川・長良川・揖斐川の三川分流工事を着工。
♦寶暦五年(1755)五月……三川分流工事完工。死傷者多数が出た難工事で、工事を監督した薩摩藩士平田靱負も完工後切腹(寶暦治水事件)。
♦安永八年(1779)……尾張藩主は勘定奉行水野千右衛門ら四人に庄内川の治水工事を命じる。千右衛門は普請奉行となる。
♦天明四年(1784)……新川開鑿工事が工区200箇所以上で一斉に着工。
♦天明五年(1785)……日光川は、当初三宅川と合流して津島川に入り、佐屋(愛知県愛西市佐屋町)の北で佐屋川に注いでいたが、佐屋川の河床が隆起し、出水の際には佐屋川の水が逆流して、萩原・三宅両川が氾濫したことから、津島神主を始め地元民の願いにより、藩参政人・人見弥右衛門と普請奉行水野千之右衛門らにより日光川の改修工事を着工した。萩原川を足立川上流部の中島郡下起村(愛知県稲沢市平和町)と西光坊(同)との間から下へ掘割り、三宅川に落とすこととした。
♦天明六年(1786)閏十月……過小な工事積算が発覚し、藩参政人である人見弥右衛門と普請奉行水野千之右衛門は責を問われ降職・謹慎となる。
♦天明六年(1786)十一月……千之右衛門は謹慎一ヶ月後には許され再び任に付岐阜奉行 に挙げられる。
♦天明七年(1787)……四十万両の巨費を投じた新川が完工。
♦寛政四年(1792)五月……千之右衛門は、普請奉行に再任され日光川の改修に当たる。
♦寛政八年(1796)六月……千之右衛門は、日光川改修の費用不足で成らず仕事半ばで再び職を解かれ小普請頭に降格される。
♦寛政八年(1796)六月廿九日……“水野籐兵衛忠栄”は、千之右衛門に替わり普請奉行拝命。
♦寛政十年(1798)七月廿九日……藩主宗睦が病気がちとなり、五月一日水野忠友が将軍の使者として、一橋家から養子として斉朝を尾張に入れる意を伝えるため、江戸の尾張藩邸に赴いた直後の七月に“水野籐兵衛忠栄”は、勘定奉行・勝手方を兼務する。
♦寛政十一年(1799)十二月廿四日……藩主宗睦薨去。
♦寛政十二年(1800)一月廿九日……斉朝が宗睦の跡を継ぎ藩主となる。これと共に幕府の尾張藩政への介入が強化される。
♦享和三年(1803)十一月七日……“水野籐兵衛忠栄”は、これまで勝手方と地方懸りが分離されていたが、藩組織改革によりこれを一体とし、地方支配をも勤める。
♦文化元年(1804)三月十九日……“水野籐兵衛忠栄”は、公事方懸りも兼務。
♦文化五年(1808)十月廿四日……“水野籐兵衛忠栄”は、公事方懸りを免じられる。
♦文化七年(1810)十一月……“水野籐兵衛忠栄”は、勝手向の遣り繰りおよび筋道を立て、遂に藩政を建て直した功労により時服一ツ、白銀三枚を賜る。
♦文化八年(1811)七月……水野千之右衛門は、これらの治水事業が賞せられる。その後は長囲炉裏番の役を仰せ付けられ自由出仕の待遇を受ける。
♦文化八年(1811)十一月……“水野籐兵衛忠栄”は、普請奉行として、日光川改修工事で排水が改善された功績により白銀三枚を賜る。
♦文化九年(1812)一月十一日……“水野籐兵衛忠栄”は、永続勤務を賞され時服一ツを賜る。
♦文化九年(1812)……日光川の改修工事竣工。
♦文化九年(1812)九月廿九日……“水野籐兵衛忠栄”は、勘定奉行の地方御用の筋はこれまで通りに取扱い、お勝手公事方は分かれていたが、これを勝手方と兼務する。
♦文化十年(1813)五月……“水野籐兵衛忠栄”は、米切手を回収し減らすことに骨折り、金融を改善した功により時服一ツを賜る。
♦文化十年(1813)十月十一日……“水野籐兵衛忠栄”は、御用人に昇格。足三百石。同時に、寺社奉行兼務。寺社奉行に専任するため同日用人の用向きを免じられる。但し勘定奉行は続勤し、寺社奉行は沙汰があるまで勤めなくて良しとなる。
♦文化十年(1813)十二月……“水野籐兵衛忠栄”は、勘定所の仕事を大道寺孫蔵に引継ぎ、寺社奉行所の御用を勤める。
♦文化十四年(1817)二月……“水野籐兵衛忠栄”は、長年滞っていた裁判事を済ませ、また役所内の取締も行き届き、永年手付かずの決裁書類を決裁し格別尽力したことで拝領物、時服一ツを賜る。
♦文政五年(1822)二月十六日……水野千之右衛門没。行年八十九歳。
♦文政八年(1825)十月七日……大老(老中の誤りか)水野出羽守忠成が京都所司代交替(松平周防守康任)に立ち会うため朝廷に参内した帰途、先祖の菩提寺である愛知県知多郡東浦町緒川の乾坤院に御廟参で立ち寄った際、村から乾坤院までの道筋を乗り物で通行出るよう、乾坤院から寺社奉行に対し道普請を願い出た。“水野籐兵衛忠栄”は、小河水野の末裔で忠成とは同族であったことから、乾坤院当主を直接呼び出し、丁重に応対するように申し渡すと共に、道普請は勿論のこと、諸堂の襖の張り替え・畳替え・壁の上塗りから、便所・供侍休憩所・墓所玉垣に至るまで普請取り繕いを実施した。御成前日には、寺社方吟味役以下諸役人を警固のために派遣した。また当日は大老ほか総勢八百人余の供侍に対し行き届いた接待が成された。(『東浦町誌本文編』272P 幕府大老の御成り)(『公徳辨 坤』(P459))
♦文政十年(1827)一月……“水野籐兵衛忠栄”は、寺社奉行を永年勤務したことで拝領物、時服一ツを賜る。
♦文政十年(1827)三月九日……“水野籐兵衛忠栄”は、長年御用多く御役目も手本となるほどに勤めたことで、足弐百石加増される。
♦天保二年(1831)五月四日……“水野籐兵衛忠栄”は、馬廻頭格を仰付られ、長年重要な地位のお役目に格別勤勉であった事を賞して足百石を加増された。
♦天保二年(1831)九月十二日……“水野籐兵衛忠栄”病死。没年齢不詳。

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                                                                つづく

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