∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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B-1 >光壽山 阿弥陀寺 半鐘≪考証≫

2007-03-04 07:50:00 | B-1 >水野太郎左衛門系
光壽山 阿弥陀寺 半鐘 ≪考証≫
  愛知県清須市土器野343 Visit :2007-02-21 11:15
 


●光壽山 阿弥陀寺
 [宗派]:真宗大谷派
 [本尊]:阿弥陀如来立像
 [開基]:恋阿上人(寛延二年 1749 歿)
 [寺傳]:元龜二年(1571)織田信長が比叡山攻撃の際、一僧がこの像を背負い兵火を遁れて中山道を経て当地に至り、元和二年(1616)小宇(*1)を建てこれを祀った。その後愛知県中島郡馬寄村(愛知県一宮市今伊勢町馬寄)の某氏が偶然この地を通り、茅屋(*2)に仏像が安置されているのを見て、いたくこれを嘆き一宇を建立して阿弥陀堂と称し、謙蓮社恋阿上人(寛延二年(1749)七月寂)を招して天台宗から浄土宗鎮西派に転属させた。しかし当地は浄土真宗の信者が多く、また本尊阿弥陀如来は下品下生(*3)の真宗所依(*4)の仏故、寶暦年間(1751--1764)真宗東派に改めたとある。また『尾張徇行記』には「延享四年(1747)中島郡戸狩蓮人寺建立す」とある。本尊については、元は天台宗であったことから最初は舟後光であったが後に輪後光に改めたと伝える。幕末の頃、一時住職はなく同派に属する外町浄休寺・勝幡應寺の住職がその留守居役を務めた。元治元年(1864)、京都烏丸今出川の光明寺住職法潤(明治十七年(1884)寂)が入り阿弥陀堂藍寺となり、幕末の動乱に際しては、よく民衆を導き当寺を信仰の道場として護持(*5)を全うし、更に明治十二年(1879)六月十日、寺号の公称を許された。この後住持は法顕、顕正、法順と続いている。



●元治元年(1864)甲子三月 水野太郎左ヱ門 藤原政義作(世代等不詳) 半鐘
 半鐘(高さ53.5cm 径40cm)

◇銘文[翻刻白文]
――[第一区]――――――――――――――――――――
  尾州春日井郡土器野新田
       阿弥陀堂鐘

    銘并序
  張 城 之 西 有 一 精 藍 號 曰 阿
  彌 陀 堂 安 無 量 壽 佛 霊 軀          
  傳 浄 土 真 宗 法 燈 其 堂 有 古
  鐘 一 朝 撞 破 響 不 清 越 是 歳
  季 夏 現 住 柳 公 募 縁 再 雇
  鳧 氏 而 九 乳 新 成 矣 夫 鐘

――[第二区]――――――――――――――――――――
  叢 林 之 寶 器 也 梵 誦 之 起 止
  講 演 之 早 晩 必 鳴 之 以 警 衆
  □C1□C2 蒲 牢 一 吼 則 魔 軍 倒
  戈 嶽 王 減 罪 龍 神 三 執 苦 頓
  息 天 衆 五 哀 憂 忽 消 矧 又
  興 行 刑 場 隣 故 臨 刑 者 聞
  之 免 八 大 虚 報 也 昔 吒 王
  脱 千 頭 苦 唐 主 出 五 木 厄
  其 妙 用 大 哉 仰 冀 宗 風 之
  盛 興 鐘 共 鳴 不 朽 也

――[第三区]――――――――――――――――――――
    銘曰
  鯨 乳 再 鐘 甬 衡 共 全
  夕 吼 月 下 晨 鳴 風 前
  下 震 冥 界 上 徹 梵 天
  一 音 □C3反 普 解 倒 懸
  寛 政 九 年 歳 次 丁 己 季
  冬 望 日
    稲 葉 山 沙 門 大 信
       二 十 有 四 歳 撰

――[第四区]――――――――――――――――――――
施 主   當 堂 講 中
  願 主   住 持 春 柳
 元治元年(1864)甲子三月
  冶 工
      水野太郎左ヱ門
          藤 原 政 義
――――――――――――――――――――――――――


[銘文文字註]
C1=「正」の下に「勿」
C2=「加」の下に「之」
C2=「耳」偏に「竹」の旁



◇銘文[読下文]
――[第一区]――――――――――――――――――――
  尾州春日井郡土器野新田
       阿弥陀堂の鐘

    銘ならびに序(前書)
  尾張城の西に一つの精藍(寺院)があり阿弥陀堂と号し
  無量壽佛(阿弥陀仏)の霊軀(仏像)を安んずる。
   其の堂は浄土真宗の法燈(教えを)を伝える古鐘を有す。
  ある朝[鐘を]撞き破り響は清からず、是の歳を越えた夏季
  現住(職)(春)柳公は、縁(寄付)を募り
  再び鳧氏(鋳物師)を雇い、而して九乳(鐘の異称)新しく成る矣。
  夫れ鐘は

――[第二区]――――――――――――――――――――
  叢林(寺院)之寶器也。梵誦(読経)の起(始まり)と止(終わり)、
  講演(経典を講じ仏法を説く)之早晩(朝晩)は必ず鳴らす。
  之以(これをもって)警衆(人々に前もって注意す)。
  □□蒲牢(不詳)一吼(ほえ)則ち魔軍を倒す(*6)、
  戈嶽王(十王か* 7)は罪減じ、龍神は三執苦頓(不詳)
  息天衆五哀憂(不詳)忽消矧(はぐ)又
  刑場隣で興行故、刑者は之を聞いて臨み、
  八大虚報(不詳)を免ずる也
  昔吒王(以下不詳)脱千頭苦唐主出五木厄
  其妙用大哉仰冀宗風之
  盛興鐘共鳴不朽也

――[第三区]――――――――――――――――――――
    銘曰
  鯨乳(鯨鐘・九乳(鐘の異称))再鐘甬衡共全
[以下は改鋳前の半鐘の銘文を転写したもの]
「 夕に月下に吼(ほえ)、晨(あした=朝)に風前に鳴く
  下は冥界に震え、上は梵天に徹す
  一音□C3反(不詳) 普(あまね)く倒懸(非常な苦痛)を解く
  寛政九(1797)年歳次丁己季
  冬望日(陰暦十五日)
        稲葉山沙門大信
            二十有四歳撰 」

――[第四区]――――――――――――――――――――
施主 當堂講中(こうじゅう=参詣や寄進などをする信者の団体)
  願主 住持春柳
 元治元年(1864)甲子三月
    冶工
       水野太郎左ヱ門
           藤原政義
――――――――――――――――――――――――――


[註]
*1=しょうう。小さな建物。小寺。
*2=ぼうおく。かやぶきの家。みすぼらしい家。
*3=げぼんげしょう。〔仏〕 九品(くほん)の最下位の段階。下下生。
*4=しょえ。〔仏〕 頼るところ。よりどころ。宗派・教義の根拠。
*5=ごじ。大切にまもり保つこと。尊んでまもること。
*6=蒲牢(ほろう)とは、中国神話の怪物。形状は龍に似ている。龍の子である「竜生九子(りゅうせいきゅうし)」の一つ。 吼えることを好む。蒲牢は、外見が曲がりくねる龍の第四子とされ、一生吠えたり鳴いたりすることが出来る。蒲牢の生活基盤は主に海岸で、ふだん最も恐れたのがクジラであり、しばしばクジラが襲撃すると、びっくりして大声で吠える。そこで人々は、蒲牢の本性である「鳴くことが出来る」という特徴を生かし、全ての鐘に大きな音をさせたいとの思いから、蒲牢の形を鑄造し、鐘の釣り手として梵鐘の上に設置した。その鐘をつく長い撞木はクジラの形を成し、撞木で鐘をついて大音響を発することを欲した。
また、魔軍(まぐん)とは、悪魔の軍勢。仏道を妨げる一切の悪事のたとえにいう。
*7=じゅうおう。冥土にいて死者を裁く十人の王。秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・泰山王・平等王・都市王・五道転輪王の総称。死者は初七日から七七日までの各七日、百箇日、一周忌、三回忌にそれぞれの庁をめぐって来世の形態を定められる。中国、唐代末に道教の影響で成立し、平安中期以降日本にも移入された。
当寺宝である、開基恋阿筆「十王図」掛軸十幅が現存しており“罪を得て処刑されたものへの供養のため”の制作といわれている。
 また、『新川町史 資料編1自然・文化財・民族 』(平成十八年三月三十一日 発行)によると、「銘文には、刑場に向かう処刑者の減罪を念じて鋳造したとある」と著されている。
 上記銘文からも当寺が刑場の隣にあったことが窺われる。


◆水野太郎左衛門 藤原政義 ≪考証≫
水野太郎左衛門家系譜については、既投稿「水野太郎左衛門家系譜」に記しているが、
この系譜は、第十三代水野太郎左衛門正宣までしか公表されていない。正宣は天保十三年(1842)久米若狭の実子鎗一郎として生まれ、安政元年(1854)当家に養子に入り、文久三年(1863)養父第十二代水野太郎左衛門政寛の死去に伴い、21歳で家督相続し、大正三年(1914)に没している。
阿弥陀寺半鐘は、第十三代正宣が家督相続した翌年の元治元年(1864)3月に、政義により鋳造されているが、十三代正宣は大正三年(1914)に没するまで当主であった。
 このことから、政義は第十二代水野太郎左衛門政寛の庶子か、または甥に当たる人か、政寛の弟か、あるいは政義の諱は、十三代正宣の別称で同一人物であるのか、さらには十三代正宣が家督相続当初は政義を名乗っていたのかなど、いくつもの可能性が推察されるが、第十四代とは考えがたい。
 代々水野太郎左衛門の菩提寺である寶泉院をお尋ねして御住持様に「政義」をお調べいただいたが、御位牌および過去帳にも記されていないことが判明した。また御住持のご紹介により、水野太郎左衛門家第十六代御当主様にご照会いただき、御当家の資料をお調べいただいたが、やはり「政義」の諱は未詳とのことであった。また御当主のお話しから、実際に水野太郎左衛門を名乗り鋳物師であったのは第十三代正宣までであると判明した。



水野太郎左衛門家系譜

彗岳山 寶泉院


☆旅硯青鷺日記
 この冬は観測史上最も温かな冬になるだろうと予測されており、採訪日も麗らかな日差しに誘われて、冬眠からようやく目覚め久方ぶりに採訪してきました。
 愛知県清須市発行『新川町史 資料編1 自然・文化財・民俗』(平成18年3月発行)の「第一節 寺院 1光寿山 阿弥陀寺 真宗大谷派(東町)」に、水野太郎左衛門作の半鐘が記載されていることが判り訪ねることにしました。
この史誌については、2005年7月愛知県西春日井郡新川町が隣接する西枇杷島町、清洲町の三町と合併し清須市となった後も、従前から進められてきた町誌編纂を継続することとなり、上述の 「資料編1」が刊行されました。「資料編2」は引き続き編纂中であり2007年5月頃に刊行の予定です。
 当寺を訪れ御庫裏で許可を得て半鐘の撮影をしました。第四区の銘文は撮影できましたが、他の区は撮影困難な設置状況にあったことから、新川町史編さん室を訪ね、銘文の古文書写真を入手できました。其の後当寺に再訪しその旨のご許可を頂きました。
現地取材後、「政義」の諱が不明であったことから、後日水野太郎左衛門家菩提寺の寶泉院の御住持様をお訪ねしたところ、また新たな取材ができました。更には御住持のご紹介で、念願でありました水野太郎左衛門家御当主とも電話でお話しすることが叶い大変に幸せな時が過ごせました。
 末筆ながら、取材にご支援をいただきました皆様、ほんとうにありがとうございました。




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