この間読んだ「『日本人』という病」(河合隼雄・著)に書いてあった話。
欧米人の目から見ると、夏目漱石の「こころ」に出てくる主人公と“先生”はホモ・セクシュアルの関係に見えるんだそうだ。
へぇ~、そうなーん?
もし自分が欧米人にそんなことを言われたら、「そりゃあなた、三島の読みすぎですよ」と言っちゃうもしれない。
日本人で夏目漱石の研究をしている文学者は多いが、そんな考え方をする人は一人もいないだろう。
そういえば、映画「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンとモーリス・ロネは精神的なホモ・セクシュアルの関係である、と喝破していたのは故・淀川長治先生。
その映画評を読んだとき、やっぱりへぇ~、そうなーん?と思ったもんだが。
その伝で行くと、唐沢版の「白い巨塔」の財前と里見も思いっきり精神的ホモっぽかったな。
特に最終回なんか観ると、財前が愛してたのは、ケイ子でも杏子でも又一でもなく、さらに言えば地位でも名誉でもない・・・・里見だったんだな・・・・とつくづく思い知ったもん(笑)
欧米人の目から見ると、夏目漱石の「こころ」に出てくる主人公と“先生”はホモ・セクシュアルの関係に見えるんだそうだ。
へぇ~、そうなーん?
もし自分が欧米人にそんなことを言われたら、「そりゃあなた、三島の読みすぎですよ」と言っちゃうもしれない。
日本人で夏目漱石の研究をしている文学者は多いが、そんな考え方をする人は一人もいないだろう。
そういえば、映画「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンとモーリス・ロネは精神的なホモ・セクシュアルの関係である、と喝破していたのは故・淀川長治先生。
その映画評を読んだとき、やっぱりへぇ~、そうなーん?と思ったもんだが。
その伝で行くと、唐沢版の「白い巨塔」の財前と里見も思いっきり精神的ホモっぽかったな。
特に最終回なんか観ると、財前が愛してたのは、ケイ子でも杏子でも又一でもなく、さらに言えば地位でも名誉でもない・・・・里見だったんだな・・・・とつくづく思い知ったもん(笑)