シオニスト・ナチの蛮行問題 ナチスと同じ人種主義者のシオニスト
★ベンヤミン・ネタニヤフ:「ハマスは新しいナチス」/「アマレクがあなたにしたことを思い出してください」(申命記25:17)。 私たちは思い出し、戦います。
旧約聖書:サムエル記上:15章: 3節 今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも皆、殺せ。
★ラビ・メイル・マロズはイスラエルチャンネル7に「もし彼ら(ガザ住民)が人間だったら、私たちは彼らに人道援助を送っただろう…しかし、これは動物に関することだ」
★ガラント国防相は10月9日、ガザ地区を完全封鎖するとし、「動物のような人間」との戦いだと述べた。
★イスラエルのイツハク・ヘルツォグ大統領:ガザでアドルフ・ヒトラー『我が闘争』(アラビア語版)が見つかった(BBC放映)
★エルサレム問題・遺産相アミハイ・エリヤフ:ガザへの核使用は「選択肢」
★元法相アイェレット・シャケド(殉死したパレスチナ人家族について)「息子の後を追わせるべきである。これこそが正しい処置であろう。邪悪な蛇を育てた家を焼却したのと同じように、親、兄弟姉妹、親族を全部消滅させるべきだ。さもないと次々と新しい蛇が誕生する」と公言。
★エルサレム副市長アリエ・イツハク・キング:「彼らは人間でもなく、ひいては動物でもない。人間以下の存在なので、それにふさわしく接しなければならない」
★メトゥーラ評議会の議長であるデイビッド・アズライ:すべてのガザ人をレバノンの難民キャンプに送り、ガザ全体を平らにしてアウシュヴィッツのような空の博物館にすることを提案した。
これらの発言は、主に、シオニスト・ナチがガザ強制収容所でのパレスチナ人の民族浄化を行う過程で発せられた言葉だ。
よってシオニズムと人種主義の歴史を少し振り返って見よう。
■レニ・ブレンナー『ファシズム時代のシオニズム』芝健介・訳、法政大学出版局、2001年
頁72──
第5章 ドイツ・シオニズムのナチズムへの協力申し出
ドイツ・シオニズム運動の指導者のひとり、ヴェルナー・ゼナートアは、かつて以下のように述べたことがる。シオニズムは活動している国の政治に同化するものだ、と。ドイツ・シオニスト連合による、新しいナチ体制の理論と政策への同調ほどに、彼の右の言葉を裏書きするものはない。シオニズム運動とナチズム運動のイデオロギー的類似性(リベラリズムに対する軽侮のの念、共通の民族至上主義的レイシズム〔人種差別主義〕、さらには自明のこととして、ドイツがユダヤ人の祖国にはけっしてなりえないという共通の確信)によってナチスにシオニストを支持する気をおこさせることができると、ドイツ・シオニスト連合の面々は信じたために、アードルフ・ヒトラーの政権掌握後、ヒトラーによる後援を一度ならず何度も繰り返し懇請した。
ドイツ・シオニスト連合の目標は、「整然たる退却」になった。すなわち少なくとも若い世代のユダヤ人がパレスティナへ出国できるようにナチスに支援させるというのが目標になった。かくしてシオニストたちは早速、ナチ組織内部のさまざまな分子との接触を追求するようになった。シオニストたちは、ナチスが民族至上主義的なシオニズム理解をベースに、そうした妥協に関心があるものと思い込んでいたのである。シオニスト連合執行部のひとり、クルト・トゥーフラーは、親衛隊のレオポルト・イッツ・フォン・ミルデンシュタイン男爵を説得し、ナチの新聞に親シオニズム的な論稿を書いてもらった。フォン・ミルデンシュタインは、はじめてパレスティナへ旅する条件に同意し、ヒトラー政権誕生から二ヶ月後に二人はそれぞれ夫人を同伴してパレスティナへ向かった。帰国して論稿を書くまでの六ヶ月間、ミルデンシュタインはパレスティナに滞在した。
■レニ・ブレンナー『ファシズム時代のシオニズム』芝健介・訳、法政大学出版局、2001年
頁88──
ナチスの先をこしてドイツ・シオニズム運動は孤立したブルジョアの政治的祭儀になった。左翼が街頭で褐色の制服のナチ部隊と闘っていた時にシオニストたちはパレスチティナ植樹基金集めに忙しかった。1933年になると突如この小グループは自らを歴史によってまさに聖別されたものとみなし、ナチスと秘密裡に交渉し、ヒトラーに抵抗することを望む膨大な世界ユダヤ人大衆の願いに逆らい、ただもうパレスチティナでの国家樹立のためにシオニスト大衆に対する敵の支持を獲得することしか期待しなかったのである。スモラーや他の地域のシオニストたちの批判は、ドイツ・シオニスト連合の態度を単に臆病とみなしていたが、その判断は見当ちがいであった。ナチスに屈服したという降伏説はどれも、シオニズムの人種論がヒトラー以前に亢進していたことを何も説明できないし、世界シオニスト機構がそうした構えを承認していたことも説明できない。臆病というよりもっと悲惨だったというのが真実なのである。ドイツ・シオニストたち自身、ナチスに降伏したとは思っておらず、むしろきわめて政治家らしい妥協獲得気分で独りよがりにナチ・パートナーになれたと思い込んでいたのがありのままの真実であった。彼らは全く瞞着されていたのである。ナチ・ドイツ下、他のユダヤ人に対して勝ち誇れるようなユダヤ人はいなかったはずである。ヒトラーとユダヤ人との間に妥協は全くありえなかった。いったんヒトラーがドイツ国内で勝利すれば、ユダヤ人に希望はなかった。彼らに残された唯一の道は亡命であり、亡命先から闘い続ける以外になかったはずである。多くのユダヤ人、なかんずくシオニストはアードルフ・ヒトラーのパトロネージをえられるものと夢想し続けたのであった。ヒトラーが権力の座に就く以前も、シオニストは闘わなかった。ヒトラーの政権掌握前ならば彼を打倒するチャンスはなお存在した。しかし彼らはチャンスを生かさなかった。臆病からでは全然ない。ヘルツルから受け継いできた最も強い確信、すなわち反セム主義に勝つことはありえないという確信から、ヒトラーとも闘わなかった。すでにヴァイマル共和国期に抵抗できず、あらかじめ自ら人種論を展開している状況があればナチスのイデオロギー的手先になりおわることは不可避であった。
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ネオナチ政権のウクライナでは、ユダヤ人のゼレンスキーが大統領。ユダヤ人オリガルヒのイーホル・コロモイスキーがネオナチ組織を創設。かようにナチスとユダヤ人の共犯関係は今でも通常のこと。
シオニスト・ナチ国の熱烈支持者の佐藤優はこう言う──反ユダヤ主義者にユダヤ人が協力することは、それほど珍しい事例ではありません。ナチス・ドイツとも、当時のドイツのエスタブリッシュされたユダヤ人は、「取り引き可能」と考えました。
さらにラウール・ヒルバーグ(以下は『記憶 ホロコーストの真実を求めて』(徳留絹枝・訳、柏書房 1998年)より。『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』が代表作)は──
ユダヤ人評議会について書いたときには、私はドイツの組織が彼らからの協力にどれだけ依存していたのかを強調した。評議会の協力的な政策は破滅的結果をもたらした。しかし、私には問題はもっと深いように思えた。評議会は、ドイツにとっての道具だっただけではなく、ユダヤ人社会における機関でもあったのだ。彼らの戦術はユダヤ人が何世紀にもわたって実行してきた適応と順応の延長だった。私はユダヤ人指導者と一般のユダヤ人を別々に見ることはできない。指導者たちは、ユダヤ人によって長い間受け継がれてきた危機に対する反応の基本的姿勢を代表していたからだ。
■レニ・ブレンナー『ファシズム時代のシオニズム』芝健介・訳、法政大学出版局、2001年
頁413──
シャミルのテロリストとしての過去に対して関心が集中したことで、自ら望んでアードルフ・ヒトラーの同盟者になろうとした人間でもこのシオニスト国家の首相になれるのだというもっとグロテスクなイメージが曖昧にされてしまうことにもなった。ベギンがシャミルを外相に任じ、シュテルンの肖像を刷った郵便切手を発売することでシュテルンの功績を讃えた時、ベギンは二人の過去を完全に知っていてそうしたのであった。シオニストとファシストおよびナチスとの馴れ合いの遺産とその基礎をなす哲学が、現在のイスラエルに貫徹しているのだということを、この事実ほどによく示す証拠はないであろう。
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というわけだから、シオニスト=ナチス=ファシストと考えてもほぼ正しいのである。よって入植者植民地主義のアパルトヘイト国イスラエルの蛮行は、言葉の正確な意味を込めて、シオニスト・ナチの蛮行と呼ぶべきなのだ。