佐倉哲:殺せ!と神が命じるとき 宗教殺人について
■殺せ!と神が命じるとき
2014/10/20(月) 午後 5:52
https://blogs.yahoo.co.jp/henatyokokakumei/39334280.html
▼殺せ!と神が命じるとき 宗教殺人について
佐倉 哲
95年12月9日 公表、99年11月20日更新
http://www.j-world.com/usr/sakura/other_religions/divine_murder.html
「被告人として裁かれている信者・元信者たちには、私が知るかぎり、交通事故などの過失犯を除いて、ほとんど前科がない。オウムに関わる前は犯罪とは無縁であり、むしろ人を傷つけることを恐れるタイプだった彼らが、いくら教祖の命令とは言え、どうして殺人まで犯すことができたのか。」 (江川紹子『オウム真理教 裁判傍聴記(2)』「はじめに」より)
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神が殺人を命じるとき
神が殺人を命じるとき、わたしはどうしたらよいのだろうか。殺人は明らかに悪であり善なる神がそんなことを命じるわけがない、これは何かの間違いに違いない、そう考えて、わたしはこの命令を無視するだろうか。それとも、神の意思こそが何が善で何が悪かを決定する絶対基準であるから、不完全な人間の眼には不合理な命令と見えるかもしれないけれど、自分の勝手な意見にではなく、神に従うことこそが正しいのだ、そう考えて、わたしはこの命令を実行するだろうか。
イスラエルのラビン首相暗殺事件も、オウム真理教の一連の殺人事件も、イスラム教原理主義のテロ活動も、すべてこの困難な問題を抱えている。例えば、ラビン首相を殺害した敬虔なユダヤ教徒の青年イガル・アミル氏は、判事の前で、「神の律法によれば、ユダヤ人の土地を敵に渡してしまう者は殺すべきことになっている」と証言した。また、オウムの殺人事件に関与した信者は、「生かしておくと悪行を積み、地獄へ落ちてしまう人はポアした方がいい」という麻原彰晃教祖の救済思想に従っていたと言われている。また麻原はかれの殺人命令をシヴァ神の命令として弟子達に伝えていたという。
聖書における神の殺人命令
一般に彼らは「過激主義」とか「偽宗教」あるいは「邪教」の名を与えられているが、問題の重大さは、実はこのように殺人が神の命令となる教えが、「ある奇妙な新興宗教」だけのものではないところにあります。ユダヤ教とキリスト教の聖典である聖書をひもとくと、聖典の教えもまた例外ではないことが明らかにされるからです。
例えば、神がイスラエルの民に与えたとされるカナン人の土地への侵略に関するモーセの教えと彼の後継者ヨシュアの実践を示す部分は、聖書において神が殺人と略奪を命令するもっとも典型的な例と言えます。
あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを導き入れ、多くの国々の民、ヘテびと、ギルガびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、およびエブスびと、すなわちあなたよりも数多く、また力のある七つの民を、あなたの前から追い払われる時、すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らと何の契約もしてはならない。彼らに何のあわれみも示してはならない。 (申命記7章1~2節)
ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい。もしその町がそれを受諾し、城門を開くならば、その全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。だだし、女、子供、家畜、および町にあるものすべてあなたのぶんどり品として奪い取ることができる。あなたは、あなたの神、主が与えられた敵のぶんどり品を自由に用いることができる。このようになしうるのは、遠くはなれた町々に対してであって、次に挙げる国々に属する町々に対してではない。あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国民の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。
(申命記20章10~17節)
七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。「ときの声をあげよ。主はあなたたちにこの町をあたえられた。町とそのなかにあるものはことごとく滅ぼしつくして主にささげよ。(中略)金、銀、銅器、鉄器はすべて主に捧げる聖なるものであるから、主の宝物蔵に収めよ。角笛が鳴り渡ると、民はときの声をあげた。民が角笛を聞いて、一斉にときの声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼしつくした。
(ヨシュア記6章16~21節)
主はヨシュアに言われた。「おそれてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。アイの王も民も周辺の土地もあなたの手に渡す。(中略)その日の敵の死者は男女合わせて一万二千人、アイの全住民であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼし尽くすまで投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。
(ヨシュア記8章1~26節)
ヨシュアは命じた。「洞穴の入り口を開け、あの五人の王たちを洞穴からわたしたちの前に引き出せ。」彼らはそのとおりにし、エルサレム、ヘブロン、ヤルムト、ラキシュ、エグロンの五人の王を洞穴から引き出した。五人の王がヨシュアの前に引き出されると、ヨシュアはイスラエルのすべての人々を呼び寄せ、彼らと共に戦った兵士の指揮官たちに、「ここに来て彼らの首を踏みつけよ」と命じた。彼らは来て、王たちの首を踏みつけた。ヨシュアは言った。「恐れてはならない。おののいてはならない。強く雄々しくあれ。あなたたちが戦う敵に対しては主はこのようになさるのである。」ヨシュアはその後、彼らを打ち殺し、五本の木にかけ、夕方までさらしておいた。
(ヨシュア記10章22~26節)
ヨシュアは全イスラエルを率いてマケダからリブナへ向かい、これを攻撃した。主がこの町も王もイスラエルの手に渡されたので、剣を持って町を撃ち、その住民を一人も残さなかった。(中略)主がラキシュをイスラエルの手に渡されたので、二日目には占領し、剣を持って町の住民を全て撃ち、リブナと全く同じようにした。(中略)ヨシュアは全イスラエルを率いてラキシュから更にエグロンへ向かい、陣を敷いてこれと戦い、その日のうちに占領し、剣を持って町を撃ち、全住民をその日のうちに滅ぼし尽くし、ラキシュと同じようにした。(中略)ヨシュアはさらに、全イスラエルを率いてエグロンからヘブロンへ上り、これと戦って、占領し、剣をもって王と町全体を撃ち、全住民を一人も残さず、エグロンと同じようにした。かれはその町とその全住民を滅ぼし尽くした。(中略)ヨシュアは、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地を含む全域を征服し、その王たちを一人も残さず、息のある者をことごとく滅ぼし尽くした。イスラエルの神、主の命じられたとおりであった。(中略)ヨシュアがただの一回の出撃でこれらの地域を占領し、すべての王を捕えることが出来たのは、イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。(中略)これらの町々のぶんどり品と家畜はことごとく、イスラエルの人々が自分たちのために奪い取った。彼らはしかし、人間をことごとく剣にかけて撃って滅ぼし去り、息のある者は一人も残さなかった。主がそのしもべモーセに命じられたとおり、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりにした。主がモーセに命じられたことで行わなかったことは何一つなかった。
(ヨシュア記10章29節~11章15節)
神はモーセとヨシュアに殺人と略奪を命令し、モーセとヨシュアがその命令に従順にしたがって、殺人と略奪をおこなったことが、ここには誇らしげに記録されています。これらの例は、キリスト教とユダヤ教の聖典であり、また「神の言葉」として現在も多くの信者に崇められている、「永遠のベストセラー」聖書の神の殺人命令のほんの一部にすぎません。
現代のクリスチャン
このような聖書における神の殺人命令は、現代のクリスチャンに少なからぬ困惑をもたらします。そこで、あるクリスチャンはつぎのような正当化を試みます。
モーゼの時代には、戦争をして相手を殺さねばイスラエル人が殺される状況だったのである。
このクリスチャンは聖書を自分の目で読まれたことがないのかもしれません。出エジプト記や申命記やヨシュア記や民数記を読めば明らかなように、そもそも、先住民カナンの人々の土地を、「神がわれわれの先祖にに与えると約束してくださった土地」などという手前勝手な理由で侵略したのは聖書の神の命令にしたがった「神の民、イスラエル」だったのであり、自己防衛を強いられたのはイスラエル人に侵略されたカナンの地の人々だったというのが、繰り返し繰り返し語られている聖書の記述だからです。
それに加えて、たとえば、つぎのような記述をみれば、聖書の神の殺人命令が自己防衛などではなかったことは、あまりにもあきらかと言わねばなりません。
モーセは、戦いを終えて帰還した軍の指揮官たち、千人隊長、百人隊長に向かって怒り、かれらにこう言った。「女たちを皆、生かしておいたのか。ペオルの事件は、この女たちがバラムにそそのかされ、イスラエルの人々をヤーヴェに背かせて引き起こしたもので、そのためにヤーヴェの共同体に災いが下ったではないか。直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。」 (民数記 31章14~18節) このペオルの事件というのは、モーセに率いられたイスラエル人たちがシティムという所に滞在していたとき、その土地のミディアン人の女性たちが、イスラエルの民たちを食事に招いて、その地方の宗教であったバアル神を拝む儀式に参加させたことに端を発しています。イスラエル人がこのようにして他宗教の神を拝んだので、聖書の神ヤーウェは怒り、モーセに対して、イスラエルの「民の長たちをことごとく捕らえ、主の御前で彼らを処刑にし、白日の下にさらしなさい」と命じ、モーセは裁判人に対して、「おのおの、自分の配下で、ペオルのバアルを慕ったものを殺しなさい」という厳しい粛正を命じのです。この粛正事件で、2万4千人のイスラエル人が処刑されたと記録されていますが、それが、ペオルの事件でした。(民数記25章) このため、イスラエルの神ヤーヴェは、モーセに次のように命令します。「ミディアン人を襲い、彼らを撃ちなさい。彼らは、おまえたちを巧みに惑わして襲い、ペオルの事件を引き起こした」からだ。この神の命令に従って、モーセが、「あなたたちの中から、戦いのために人を出して武装させなさい。ミディアン人を襲い、ミディアン人に対してヤーヴェのために報復するのだ」(民数記31章1~3節)、と命令して起きたのが、この戦争だったのです。
昔も今と同じように、軍隊というものは女や子供を殺すことには躊躇したのでしょうか、モーセの軍隊は女や子供は殺さないで帰ってきたのです。ところが、そのために、「女たちを皆、生かしておいたのか」とモーセは大変怒ったのです。それで、「男と寝ず、男を知らない女」は自分たちのために捕虜にし、他はすべて、女も子供も殺せ、と再命令したのでした。
そして、最後に分捕り品が山分けされます。
モーセと祭司エルアザルは主がモーセに命じられたとおりにした。分捕ったもの、すなわち兵士が略奪したものの残りは、羊六十七万五千匹、牛七万二千頭、ろば六万一千頭、人は、男と寝ず、男を知らない女が全部で三万二千人であった。戦いに出た者の分け前は、その半数であって、羊の数は三十三万七千五百匹、その羊のうち、主にささげる分は六百七十五匹、・・・人は一万六千人、そのうち主にささげる分は三十二人であった。・・・部隊の指揮官である千人隊長、百人隊長がモーセの前に進み出て、言った。「・・・わたしたちは、めいめいで手に入れた腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなど金の飾り物を捧げ物として主にささげ、主の御前に、わたしたち自身のあがないの儀式をしたいのです。」モーセと祭司エルアザルは、彼らから金の飾り物をすべて受け取った。それらはよく細工されたものであった。・・・モーセと祭司エルアザルは、千人隊長と百人隊長から金を受け取り、臨在の幕屋に携えて行って、主の御前に、イスラエルの人々のための記念とした。 (民数記31章31~54節) このような戦争は、生存のための自衛の戦争ではなく、宗教的情熱によって正当化された宗教戦争であり、強欲な略奪戦争としか考えられません。
キリスト教史
このように、キリスト教の聖典である聖書の神自身が殺人や戦争や略奪を命令するのですから、キリスト教史において、いかに殺人や戦争や侵略が宗教的に容易に正当化されてきたかを知っても、驚くには値しません。十字軍戦争はもとより、ローマ法皇が、当時の強国ポルトガルとスペインに対して世界を二分することを許したことはよく知られている事実です。南米大陸で、東側(ブラジル)がポルトガル言語圏となり、西側(ブラジル以外の国)がスペイン言語圏としておさまっているのは、そのためです。
また、北米大陸へ移住してきたピューリタンたちは、先住民たるアメリカン・インディアンたちを虐殺して、合衆国を建設してゆく過程のなかで、しばしば自分たちをモーセやヨシュアに率いられてカナンに侵入していったイスラエル人になぞらえて、自分たちをあたらしい神の選民「新イスラエル人」と自称して、新国家建設(先住民文明壊滅)にいそしんだのでした。
主はわたしたちの神であり、主の民であるわたしたちのなかに臨在されることを喜ばれ、わたしたちの行く手に祝福を与えられるのだから、今まで以上にわたしたちは主の知恵と力と善と真理を見るであろう。わたしたちのうちの十人が、千人もの敵を相手にすることが出来るのを見るとき、また、わたしたちの植民地の成功を見て人々が「主よ、ニューイングランドのようにして下さい」と賛美と栄光を表白するようになるとき、わたしたちはイスラエルの神がわたしたちのなかに臨在されることを見いだすであろう。なぜなら、わたしたちは「丘の上の町」だからだ。全世界の人々の目がわたしたちに注がれていて、もし始められたこの仕事に関してわたしたちの神に不忠実であれば、神はわたしたちから去ってしまわれるのであり、わたしたちの物語は世界中に言葉によって知られるようになるからなのだ。 (ジョン・ウインスロップ、マサチューセッツ・ベイ植民地の初代総督) わずか十人で千人の敵(先住民)をやっつけることができるとき、神が自分たちの中に臨済していることがわかるであろう、そこに、「主の知恵と力と善と真理」を見るであろう、というわけです。アメリカ合衆国の国造り(先住民文明壊滅)の始まりです。 キリスト教史における頻繁な宗教殺人や宗教戦争は、しばしば、「本来のキリスト教の教えに背いて行われた」などと、言い訳がなされますが、キリスト教の聖典である聖書の神自身が殺人や戦争を命令するのですから、それはおかしいと言うべきでしょう。キリスト教史における頻繁な宗教殺人や宗教戦争は、聖書の教えに背くどころか、むしろ聖書の教えに忠実であったがゆえになされたと考えられるからです。
[世界の悪は]、 我々が、それに全力で反対するよう、聖書と主イエスに命じられている。 (ロナルド・レーガン、米国大統領)
宗教殺人の本質
しかし、キリスト教は「愛と平和」の宗教なのではないか、右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ、という非暴力の宗教なのではないか、「汝の敵を愛せよ」という無条件の愛の宗教なのではないか。確かにそのとおりです。そこにキリスト教の魅力の一つがあるわけです。しかし、まさに、そのことゆえに、宗教殺人の問題の深さがあるのです。つまり、宗教殺人の本質は、たとえそれが、「敵をも愛せ」という愛の宗教であっても、その殺人が神の命令によってなされるときは「正しい殺人」であると見なされる、という事実にあります。
モーセがエジプト人を殺したという事実は、神の摂理を知らない人は誰でも悪だというであろう。しかし、復帰摂理の立場で見ればそれは善であった。そればかりでなく、イスラエル民族が何の理由もなくカナンの地へ侵入して数多くの異邦人を全滅させたという事実も、神の摂理を知らない立場から見れば悪であるといわざるを得ない。しかし、これもやはり、復帰摂理 [神の救済史観] の立場から見れば善であったのである。カナン民族のなかに、イスラエル民族よりももっと良心的な人がいたとしても、当時の彼等はみな一律にサタンの側であり、イスラエルは一律に天の側であったからである。 (『原理講論』542頁)
時は西暦前1473年です。光景は最も劇的で、スリルに満ちています。モアブの平原に宿営を張ったイスラエル人たちは、約束の地カナンに入る態勢を整えています。ヨルダンの対岸のその地域には、無数の小王国があり、それぞれが自ずからの軍隊を擁しています。それらは相互に反目し、多年にわたるエジプトの腐敗した支配によって弱体化しています。それでも、イスラエルの国民にとって、彼らの抵抗は手ごわいものがあります。その地を従えるためには、エリコ、アイ、ハツオル、ラキシュなど、城壁で防備を固めた都市を取らねばなりません。前途には難しい時期が控えています。決定的な戦いを行ない、しかもそれに勝たねばなりません。エホバご自身がその民のために強力な奇蹟をもって進んで行かれます。それは、彼らをその地に定住させるというご自分の約束をなし遂げるためです。疑いもなく、ご自分の民に対するエホバの数々のご処置のなかでも特に際立ったこれら興奮させる出来事はどうしても記録にとどめなければなりません。
(『聖書全体は神の霊感を受けたもので、有益です』42頁) この二つの例は、それぞれ、前者が「世界基督教統一神霊協会」(統一教会)、後者は「エホバの証人」という、現代新興キリスト教の教派がおおやけに発表している教理です。彼らは、よく知られているように、他の既存のキリスト教信者から異端視され、極度に嫌われながらも、むしろそのことに誇りさえ持っているような人たちですが、おそらくそのため、彼らの教えが一般社会の人々に受け入れらやすいかどうか、というような考慮から比較的自由な立場で発言することができるのでしょう、神による殺人命令という、一般の日本人にとっておそらくきわめて不人気な聖書の教えでさえも、このように正直に公言しています。 ところが、一般信者を躓かせはしないかどうか、社会からつまはじきにされはしないかどうか、というようなことに気を使う既存のキリスト教会の聖職者(牧師や神父)たちは、とくに日本ではそうであろうと思われますが、聖書のこの部分を語りたがりません。つまり、この部分が誰かによって問題として取り上げられない限り、彼らが自分たちから率先してこの部分を語ることは決してないのです。それは、彼らの書く聖書入門書や解説書に、この神の殺人命令に深く言及するものがないことから明らかです。最初は、聖書の魅力的な部分だけに注目させておき、聖書を否定できないほどの心理状況、つまり、自分の救いは聖書の教え以外にはないという状態に信者がなったあと、もし必要ならば、しかたなくそのことに言及する、というのが、現代キリスト教のこの問題に対する処理の仕方と言えるでしょう。
しかし、問いつめられれば、伝統的クリスチャンも、やはり、モーセやヨシュアに対する殺人命令を神の命令として認めざるをえません。たとえば、米国ノースカロライナ州のサザン・エバンジャリカル神学校の二人の学者、ノーマン・ガイスラー博士とトーマス・ハウイ助教授による最近の共著『When Critics Ask(聖書批判に答える)』という本で、彼らは、カナン人の住むエリコの町をヨシュアたちが完全に壊滅させたことが道徳的に許されるか、という批判に答えて、次のように述べています。
ヨシュアとイスラエルの民は、神の直接の命令に従って行動したのであって、自分勝手な行動をしたのではありません。確かにエリコの壊滅はイスラエルの軍隊によってもたらされました。しかし、イスラエルの軍隊は単なる正義の道具にすぎないのであって、そこに住んでいた人々の罪を罰するために、全地上の最高裁判官である神によって使用されただけなのです。従って、彼らのやったことの正当性を疑う者は神の正義を疑うことになるのです。 (Norman Geisler and Thomas Howe, When Critics Ask, SP Publications, p138)
信仰者にとって、善悪の基準が先にあって、その規準に従って善なる神があるのではなく、むしろ、神が先にあって、その神の命令が善悪の基準となります。したがって、信仰者にとって、神の殺人命令が善となるのは論理的必然です。クリスチャンはしばしば、神の殺人命令には、人間にはわからない深い神の理由があったに違いない、と正当化しますが、まさにその「普通の人間にはわからない深い神の理由」によって、オウムの信者は殺人命令を実行したのです。
殺人は一般社会では犯罪であり、許されないことですが、かならずしも教義上では許されない行為ではありませんでした。麻原の心は「四無量心」そのものであって、すべて見切ることができるが故に、「真の愛」「真の哀れみ」を発揮できる、それ故いかなる時代でも、いかなる社会でも、それに束縛されない「普遍の善」を実践できるということだったのです。 (林郁夫『オウムと私』402頁) どんなに自分では殺人は良くないことだと個人的には思っていても、信仰者は、信仰者であるがために、ありとあらゆる方法を考えて、かならず「神の言葉」(と彼らが信じている超越的な権威)の方を正当化しようとするものです。「敵を愛せよ」と教えるクリスチャンが、聖書の神の殺人命令を否定することに、いかに非力であることか! その事実に宗教殺人の本質を理解する鍵があります。信仰の原理、すなわち、人間的な判断よりも上位にあると考えられている神の意思を先行させる考え方、その信仰の原理が神の殺人命令を正当化するのです。
オウム真理教は偽宗教か
こうして、神が命令するとき殺人が正義となることは、昔も今も、キリスト教のような伝統的宗教においても、疑う余地のない明白な事実といわねばなりません。したがって、「殺人を犯すような宗教は偽宗教である」と信じたがる多くの日本人は、まったくの宗教音痴としか言えません。すなわち、オウム殺人事件は、オウム真理教が偽宗教であることを決定する判断基準にはならないのです。逆に言えば、もし殺人の教えが偽宗教であることの判断基準の一つであると信じるならば、そのひとはユダヤ教もキリスト教も、またその聖典である聖書も偽宗教であると判断する一貫性を持たなければならないでしょう。しかも、キリスト教のおこなってきた異端狩りや宗教戦争や新大陸侵略にくられべれば、オウムの破壊活動など、ほとんど取るに足らないものです。聖書における神の殺人命令を否定することのできないクリスチャン、もっと一般的にいえば、人間的判断より神の意思を先行させる信仰原理を信奉する者には、麻原の命令にしたがって殺人を犯したオウム信者を根本的に批判することはできません。
道徳は宗教を必要とするか
「不死(や神)がなければ、善もないわけであり、したがってすべてがゆるされる」とは、ドストエフスキーの有名な言葉です。哲学者カントも、神の存在は証明することはできないが、神の存在は道徳的に要請される、と主張しました。神や不死を認めなければ、人間の社会は道徳的無法状態に陥らざるを得ない、という意味でしょう。
しかし、オウムの事件や聖書の記述は、ドストエフスキーもカントも間違っていたことを示したと言えるでしょう。なぜなら、それらの宗教における善とは、「人間の浅はかな判断」や「人間の小賢しい知恵」によるのではなく、超越的権威である「神の意思」や「神の言葉」によるものとされており、しかも、その神が殺人や略奪を命令するからです。神や不死(死後の世界)を信じる世界観の中でも、やはりすべてが、殺人さえも、ゆるされるのです。
私たちが地下鉄にサリンをまくことで、強制捜査のホコ先をそらせば、オウムが守られて、真理が途絶えなくてすむのだから、サリンで殺され、ポアされることになった人たちも、真理を守るという功徳を積むことになるので、誰であろうと、殺された人は最終解脱者・麻原によって、高い世界に転生させられて、真理を実践できるようになるのだ。誰も無駄死にということにはならないのだ。だから、私は真理を守るために、心を込めて実行しさえすればいいのだ。 (林郁夫『オウムと私』432頁) このように、もし、神や不死が存在しても、すべてが(殺人さえも)ゆるされるなら、「道徳は宗教を必要とする」とか「宗教は道徳の根本である」というポピュラーな宗教思想の説得力は喪失します。
オウム殺人事件の意義
オウムの事件は単なる凶悪なテロではありません。それはまた単なる凶悪集団の問題でもありません。なぜなら、オウムの事件は
被告人として裁かれている信者・元信者たちには、私が知るかぎり、交通事故などの過失犯を除いて、ほとんど前科がない。オウムに関わる前は犯罪とは無縁であり、むしろ人を傷つけることを恐れるタイプだった彼らが、いくら教祖の命令とは言え、どうして殺人まで犯すことができたのか。 (江川紹子『オウム真理教 裁判傍聴記(2)』「はじめに」より) という困難な問いをわたしたちに突きつけているからです。この問いは、「愛と赦しと平和」を説く柔和なクリスチャンが、いったいなぜ、聖書における神の殺人命令を否定できないのか、という問いとまったく同じものです。 そして、その答えは、これまで見てきたように、信仰の原理、すなわち、人間的な判断よりも上位にあると考えられている神の意思を先行させる考え方にあります。信仰者は、常に、自分の「人間的浅はかな判断」や「おのれの小賢しい知恵」を捨てて、信仰の対象としての超越的な権威(聖書や教祖の言葉)に従うことを正しいとするのです。だから、信仰者にとって、信仰者であるかぎり、神の殺人命令を否定することはほとんど不可能であると言えます。
もし殺人命令でさえ信仰者は神(聖書や教祖)の命令を否定できないとしたら、洗脳(伝道)、金集め(寄付・布施)、政治活動、その他諸々の神の命令を信仰者が否定できるわけがありません。ましてや、宣教命令が、困った人々を助けるボランティア活動のような、一見誰も文句を言えない善意活動を通じてなされることになれば、その命令を疑ってみる心さえ浮かばないかもしれません。
それゆえ、不幸中の幸いというべきか、オウム殺人事件は、はたして、わたしたちが「人間的浅はかな判断」や「おのれの小賢しい知恵」を捨てて、信仰の対象としての超越的な権威(聖書や教祖の言葉)に従うことを「正しい」とする判断が、本当に賢哲な判断かどうか、それを考えさせる機会を与えてくれたことにおいて、大きな意義があると思われます。 |
松本サリン 本質知るすべは失われ… 恐怖・悲しみ四半世紀
https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20190627/KT190626ATI090037000.php
オウム真理教松本支部道場を巡る訴訟が行われた地裁松本支部(左下)と、サリンが噴霧された松本市北深志の住宅街(右上)=地権者などの許可を得て小型無人機で撮影
オウム真理教幹部らが松本市北深志の住宅街で猛毒の化学物質「サリン」を噴霧し、8人を殺害、約600人に重軽症を負わせた松本サリン事件は、27日で発生から25年。教団を率いた松本智津夫元死刑囚(教祖名・麻原彰晃)は公判の途中から口を閉ざし、昨年7月、実行犯を含む幹部ら12人とともに死刑を執行された。事件の本質を知るすべは失われたが、無差別殺人の恐怖は今も人々の心に影を落としている。
「(ここを)通るたび事件を思い出す」。26日、散歩中の市内の男性(77)は犯行現場の駐車場でそう語った。長男が事件後、目の不調に陥ったという近くの70代女性は、事件のことを孫に話しているが「(教訓として)何をどうやって引き継いだらいいか」と表情に戸惑いを浮かべた。
死亡した会社員伊藤友視さん=当時(26)=の母洋子さん(79)=千葉県=は「25年でも30年でも悲しみは生きている限りずっと続く。死刑は一つの区切りだがあまりに遅かった。これで終わりになってはいけない」と強調した。
教団は1992年、松本市南部に松本支部道場を建設。地裁松本支部で係争中だった道場の土地明け渡し訴訟を妨害するため、北深志の裁判官官舎を狙ったとされる。道場を覚えているという同市野溝東の40代女性は13人の死刑執行を「当然な気がする」とする一方「何とも言えない嫌な気分。その人たちが亡くなっても被害に遭った人はどうにもならない」と口にした。
(6月27日)
松本サリン25年 社会のゆがみを直視する
https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20190628/KP190627ETI090006000.php
富山県出身の安元三井(みい)さんは早稲田大卒業後に入学した信州大医学部で学んでいた。命を奪われた時、29歳だった。それから22年後の2016年、医師だった父が81歳で亡くなっている。
「娘が1人でいたところに夫が行ってくれた」。26日付の本紙で語られた82歳の母の言葉は、痛みとともに長い時間が遺族に流れたことを静かに伝えている。
1994年6月の夜、裁判官官舎を狙って松本市街地で猛毒サリンを噴霧したのはカルト教団・オウム真理教だった。死者8人、重軽症者約600人を出した組織的な大量殺傷事件は翌年の地下鉄サリン事件へとつながる。
昨年7月、松本智津夫(教祖名・麻原彰晃)ら死刑囚13人の刑が執行された。
教団の後継団体による損害賠償は今も10億3千万円が未払いのままだ。服役後に社会復帰した元信者もいるが、公安調査庁によると後継団体にはなお約1650人の信者がいる。裁判で明らかにならなかった真相はまだ解明されていない。
事件から25年。社会の「ゆがみ」は広がったのではないか。
<「安全」と引き換えに>
主要事件は殺人罪を中心に立件されたが、当時の警察当局は教団組織の解明のため、あらゆる法と罰則を駆使して多くの信者を逮捕した。人権上問題があるとされる「微罪逮捕」「別件逮捕」だ。メディアはこの時、緊急避難的な対応として強く批判しなかった。
ここが踏み台になり、捜査権限を拡大して個人の情報や動きを把握する流れが加速する。海外のテロ事件も背景にあった。
政府は97年に破壊活動防止法を適用した教団の「解散の指定」が棄却されると、99年に無差別大量殺人行為を行った団体を監視する団体規制法を作った。「通信の秘密」に抵触しかねないと批判が強い通信傍受法など「組織犯罪対策3法」を成立させている。
近年は政府情報の漏えいに重罰を科し、関係者の身辺調査を進める特定秘密保護法が施行され、実際に犯罪を行わなくても計画しただけで処罰の対象となる共謀罪法が成立した。通信傍受法は改定で対象犯罪が広がり、捜査の縛りも緩和された。
思想や良心、信教の自由、プライバシー、知る権利など憲法が保障する人権を侵しかねない捜査権限の拡大は、時にオウム事件が必要性の根拠とされてきた。
共謀罪法の審議で安倍晋三首相は「当初は宗教法人として認められた団体だったが、犯罪集団に一変した」と引き合いに出した。
「安全・安心」のために権力に人権の一部を差し出してもいい―。事件後の私たちはこんな考えを安易に認めていないか。それは本当に安全で、安心なのか。
<独善は形を変えて>
サリン事件のころ、信者らについて近親者を取材すると「真面目」「純粋」との評判をよく聞いた。バブル経済に浮かれた80年代後半から、生きる意味を求めて入信する者が多かった。
彼らの一部は「救済のための殺人」(ポア)という異常な教義を無批判に受け入れ、罪を重ねていく。
自分たちの考えだけが真理であり、その実現のためには何をしても構わない―。こうした極端な考えは事件後も社会からなくなっていない。むしろ標的を弱者に向けながら、膨張しているようにさえみえる。
尋常でない執拗(しつよう)さで在日コリアンを攻撃するヘイトスピーチは、16年に対策法が施行された後も手を替え品を替えて繰り返されている。同年に相模原市で19人の障害者を殺害した男も、極端で身勝手な思考に取りつかれていた。
社会から孤立した個人が無差別な殺傷事件を企てるケースが近年は目立ってきた。人生に絶望し、無関係の人々を巻き込むような自滅的な凶行が全国各地で相次いでいる。
オウム事件と時を重ねて、バブルが崩壊した。その後も社会の格差は広がったままだ。個人がつながりあい、生きる道に迷わぬ社会を目指さなければ、独善的な言動や犯罪はこれからも形を変えて続いていく。
<教訓は生きたのか>
作家の半藤一利さんは14年、本紙インタビューで戦後の日本人について語った時、真っ先に松本サリン事件を挙げた。
「(第1通報者の)河野義行さんをマスコミも警察も社会も、一斉に犯人視した。『ああこれは同じだ』と思った。戦前の日本人は催眠術にかかったように同じ方向に雪崩現象を起こすことが多かった。調子がいい時は楽観的で、悪くなると被害妄想的に熱狂する」
衝撃的な出来事に直面すると過剰に反応する国民性は、事件を教訓に変わっただろうか。SNSの発達で情報が拡散する速度も範囲も以前とは桁違いだ。
この四半世紀で広がったゆがみ、消えないゆがみ。いずれにも目を向けねばならない。
(6月28日)
■藤永茂『アメリカ・インディアン悲史』朝日新聞社、1974年第1刷、1994年第15刷
頁28──
感謝祭(サンクス・ギビング)はアメリカの国定祝日の一つである。通常、秋11月の最終木曜。この日、親切なアメリカ人の家庭に招待されて、七面鳥や、パンプキン(かぼちゃ)パイ等のご馳走になった経験をもつ人も多いことであろう。
1621年11月、アメリカで最初の感謝祭がマサチューセッツ州プリマスで祝われた。1年前の1620年11月にメイフラワー号でアメリカ大陸に着いたイギリスからの移民の一団は、プリマスの地をえらんで新世界での開拓生活をはじめたが、その冬はことのほか厳しいものとなり、疾病、食糧欠乏にさいなまれて、総員101人のうち、その半数が春を待たずに死んで行った。大部分が野外農耕生活の経験をもたぬ都市生活者であったことも致命的だった。春の到来とともに、生き残りの人々は、森をひらき、畑をととのえて、農作物の種子をおろした。苦難の労働にあけくれた夏もすぎ、やがて豊穣の秋を迎えた。わずか数十人の開拓民たちにとって、その最初の感謝祭は感無量のものがあったであろう。祝宴には、近くから多数のインディアンが加わった。当時の記録によれば、「多数のインディアンがやって来たが、なかでも、かれらの偉大な王、マサソイトは部下90人を率いて祝宴に加わり、我々はかれらを3日間にわたって歓待した」。インディアンたちは、森から5匹の鹿や野生の七面鳥などをたずさえて野外の宴に参加し、白人たちとともに、みのりの秋の好日をたのしんだのであった。
農耕にほとんど経験のない白人たちに、とうもろこし、じゃがいも、かぼちゃ等の栽培法を教えたのはインディアンであった。魚のとり方、さらには、あまった魚や海草を肥料にすることを教えてくれたのもインディアンであった。
* * *
当時、マサソイトの直接の影響下にあったインディアンは、優に1000人をこえ、プリマスの一握りの開拓民達の命運は、まさにマサソイトの手中にあった。ピルグリム・ファーザーとよばれるこの白人の一群が、あとにつづく侵入者の尖兵として新大陸に辛くも橋頭堡を確保したのだという認識にマサソイトは欠けていたといえよう。ともあれ飢えた旅人には、自らの食をさいてもてなすというインディアン古来の慣習にしたがって、彼はピルグリムを遇した。しかし、ピルグリムたちの「感謝」は、インディアンの親切に対してではなく「天なる神」へのみ向けられていたことが、やがて痛々しいまでに明らかになる。
* * *
プリマスの町では、そのマサソイトの立派な銅像と、メイフラワー号の復元複製を見ることができる。ところで、去る1970年11月のサンクス・ギビングの日に、一群のインディアン達が、マサソイトの銅像の石台の上に立ってアジ演説を試み、またメイフラワー号の帆具に登ってデモを行い、ついに警官の出動にまで及んだという。簡単な新聞の報道からは、彼等が何を叫んだか知る由もない。しかし、ここには、インディアン350年の怨念がある。1971年はプリマスで最初の感謝祭が行われてから350年の記念の年にあたる。インディアン達は忘れない。マサソイトの後をついだ、その子のキング・フィリップが、侵略者としての白人達の、際限のない横暴に対して乾坤一擲の反撃を試みて一敗地にまみれた時、プリマスの白人達は、彼の死体を分断し、その首級をプリマスの街頭にさらして、そのまま25年に及んだことを、インディアン達は忘れない。
■蓮見博昭『宗教に揺れるアメリカ』日本評論社、2002年第1版第1刷
頁7──
・・・アメリカはもともとヨーロッパで宗教的・政治的な差別や迫害を受けた人々が移民してきて建国したことは広く知られている。植民地時代には、ニューイングランド地方などでピューリタン(清教徒)たちが、新大陸にキリスト教国家を建設するため、政教一致の政治(「神権政治」「神政政治」)を行い、政治と宗教が一体となっているのは当たり前のことだった。
ピューリタン指導者でニューイングランドにマサチューセッツ湾岸植民地を建設、初代総督になったジョン・ウィンスロップ(1588~1649年)は、1630年に移民船上での説教で、「平和の絆において霊の一致を保つことができれば、主はわれらの神となり、われらを神の民として、われらの間に喜んで住み給うであろう。(中略)われらは丘の上の町となり、あらゆる人の目がわれらに注がれると、考えねばならぬ」と強調していた。「丘の上の町」(新共同訳聖書では「山の上の町」)とは、イエス・キリストが有名な「山上の説教」の中で使った言葉で、丘の上にある町は常に、四方八方から見られるように、キリスト教徒も模範的な「地の塩・世の光」になるように教えられたものである。ウィンスロップは、ニューイングランドをこの「丘の上の町」にたとえることによって、選民によるアメリカ建設のイメージを表現したものと考えられてきた。
『ニューイングランドの宗教と社会』を著した大西直樹によれば、マサチューセッツ湾岸植民地では「教会の会衆を前にして、自分がいかに救済されたという恩寵の経験を告白し」て認められた「教会員」だけが、選挙権などの公民資格が与えられた。また、同植民地における教会設立には議会の承認が必要とされ、植民地政府の枠組みの中に教会が組み込まれていたことになる。
頁54──
先住民の武力制圧を正当化
旧約聖書によれば、ヤハウェの神に選ばれた「契約の民」とされる古代イスラエル民族(ユダヤ民族)は、紀元前13世紀頃エジプト王国で奴隷状態に置かれていた。しかし、神の召命を受けた指導者モーセに率いられてエジプトを脱出、40年間荒野を漂流した後、ようやく「約束の地」カナン(現在のパレスチティナ)に到着、当時すでにそこに住んでいたカナン人を武力で「全滅」させて同地を占領、定住するにいたったといわれている。
くだって16~17世紀にアメリカ大陸へ移住して植民地の建設を進めたウィンスロップなどピューリタン指導者たちには、自分たちの運命を古代イスラエル民族の出エジプトやカナン定住と重ね合わせて考える者が多かった。このため、彼らより前にアメリカ大陸に住んでいた先住民(「インディアン」)たちをキリスト教に改宗させようと努力して、あまり成功しないことがわかると、古代イスラエル民族がカナン人に対して強行したのと同様の武力制圧に転じた。しかも、これは、神から与えられた使命の一環であると主張したのである。当時のピューリタン指導者の一人ジョン・メーソンなどは、「こうして神は、われわれの敵を滅ぼして彼らの土地を遺産としてわれわれに与えることを喜ばれた」と述べ、先住民たちから土地を取り上げて移動させるための宗教的正当化のパターンをつくったとされている。
その後かなり経ても、憲法修正第1条の信教の自由保護規定が先住民の宗教にも適用されるとは、明らかに解釈されていなかったという。先住民の政治結社、宗教的慣習、土地所有などが本格的に認められるようになり始めたのは、1934年の「インディアン再編成法」の成立以後であり、宗教的な差別がほぼ完全になくなるのは、1978年の「アメリカ・インディアン宗教的自由法」制定まで待たねばならなかった。
頁55──
神からの明白な使命
19世紀になると、アメリカは西部開拓をさらに積極的に進め、「帝国主義的」とも呼べる領土拡張政策を推進していった。これらについても宗教的な正当化が行われ、アメリカ人の使命感が強められた。メキシコ領だったテキサスを1845年に併合する時、このようにアメリカが領土を拡張していくことは、神によってアメリカに与えられた「明白な使命」(Manifest Destiny)であると主張されたことはあまりにも有名である。この言葉は、当時の新聞『ニューヨーク・モーニング・ニューズ』の記者ジョン・L・オサリヴァンが最初に使ったものだが、すでにアメリカに広まっていた国民的信念を代弁したにすぎないともいわれている。
アメリカはその55年後の1900年にスペインとの戦争の結果フィリピンをも併合するが、当時のアメリカ共和党上院議員アルバート・J・ベヴァリッジは、同年フィリピン訪問から帰った後、次のように演説し、フィリピン併合を正当化していた。
「神はわれわれをば、混沌とした世界に一つの体制を樹立すべき支配的組織者とされたのである。(中略)われわれが野蛮人や古い無力な民族を統治するよう、神はわれわれにすぐれた統治能力を与えられた。このようなわれわれの力がなかったならば、この世は野蛮と闇夜に陥ってしまうであろう。しかも、全人類のなかでも、神はアメリカ人を選ばれ、この世界の救済において先立ちをする選民とされたのである。」
これは、前述した宗教的な奴隷制擁護論にも相通じるものがあるといえよう。どちらも、内外の違いはあれ、弱者に対する強者の自分勝手な論理にほかならないからである。