chargeのブログ

人のブログを見て真似して書いていきます。似たブログを見つけたら教えてください。

昨晩の食事

2014-01-30 19:51:00 | 日記
 私は昨晩、コンニャクの白和えを自分で作って食べた。
 なかなか美味しいと自分では思ったのだが、すり鉢がないので、よくすりおろすことができず豆腐があまり細かくならず粗い感じの白和えになってしまった。

 私としては白和えは比較的美味しい料理の方だと思っているのだが何割か知らないが白和えはあまり好きでない若い人が多い。それは味や臭い、見た目が原因というより白和えに附随するイメージがなにか悪いのではないかと考えている。なぜなら味が大して濃いわけでなく、フランス料理で食べた煮凝りのようなものと大した変わらない味と食感だったからだ。
 私の祖母は時々、白和えを作るが、老人ホームに行ったときも白和えが出てきて老人たちがウマウマと入れ歯で苦労しながら食べていたがその光景が原因かも知れない。しかし、老人であることと白和えを食べようとすることは時代背景以外にパンやご飯を老人が食べる以上の関連性はない。老人たちは年をとったから白和えを食べているのではなく若い時に白和えを食べて美味しかったから食べているのである。おそらく、老人が噛み切れないのに白和えを食べているのをみてその食物になにか忌避感を持ったりした人がいるような気がする。私自身そんなことがあった気がするのだがよく覚えていない。おそらくその忌避感を感じた人はご飯を食べるのも少し嫌なのではないかと経験から感じている。そんなところからの連想で海外でステーキの人気がそれほど高まっていない理由は実は白和えと同じく老人が噛み切れず見た感じで美味しく感じられなくなってきたからではないかと感じたのだがどうだろうか。
 正しい発想でないが、昨日の晩飯を食べていて感じたのは以上のようなことである。

どうして今だに解決できない数学の問題があるのか

2014-01-30 00:28:27 | 科学っぽい思考
  リーマン予想とかナビエストークス方程式の解とか多くの人の目に触れているのに解けていない問題というのがいくつかある。多くの人が理解に挑み、世界最高峰の数学的能力を持つ人物が全力を出しても今だに解決していないということは帰納的に考えると既存の方法ではほぼ解決不可能と言える。しかし、もし、これらの問題が解決する条件というものがあるとしたらどのような状況なのか考えてみる。
 私は未解決の問題の解決には新しい定理が発見されることが早道であると考える。なぜなら、新しい定理を発見したということはその定理が含まれた未解決の問題があってそれが解決されたとほぼ同意であるわけで数学上の定理がほぼ出尽くされているはずの現況において、残された未発見の定理を発見するというのはその定理が含まれている問題は今まで未解決であったわけで、未解決問題の解決策が見つかったことと直結する可能性が非常に大きいからである。定理というのは一般化された問題の証明を経た結論を全般にみなして良いのでたくさんある気がしたのだが組み合わせが多いだけで案外に少ない。見つけようと思うこと自体が日本人の感性に合わない気がするのだがやっている人は世界にはたまにいる。
 私は数学の達人でないので、未解決問題に挑戦することは労力と時間をかけても割に合わないのでやらないが、解決してみたいという願望は持ってしまう。人間が未発見の定理を発見する時というのはどのような時かと空想してみると、今まで発見された定理をほとんど全て書き込んだ複雑すぎる多要素を扱うベン図で誰も見つけなかった要素の組み合わせの問題を見つけた時に起こりそうだと思っているのだが実際にやりだす気力はほかの勉強に取られて今のところない。


正四面体の構造を持つ極性の低い物質

2014-01-29 17:46:21 | 科学っぽい思考
 昨日、ネオペンタンという9.5度ぐらいで沸騰する分子量72の物質を見ていたが、正四面体で電荷が釣り合っていて極性を打ち消しあうようになると特殊な性質を持つようになるらしいという経験則をテトラカルボニルニッケルとの比較から手に入れた。そのような物質は他にも正八面体である六フッ化硫黄や常温ではないが56度で昇華する六フッ化ウランなどいろいろあるのだが、分子量が大きくても全体で極性を打ち消し合えば意外に大きな分子量のものでも常温で気体になるはずである。
 前にこのブログでサリンよりも毒性の多い物質は数多くあるがほとんどが常温で固体であって毒ガスにはならないといった趣旨のことを書いた記憶がある。そこで、正四面体構造で低分子であり毒性の強そうな物質というものを構想してみたのだがテトラシアノニッケルという想像力に欠けたものが考えついた。
  通常、鉄やニッケル等とシアン化物の錯体の毒性は金属原子とシアン化合物の結び付きが強くシアン化物イオンがあまり電離しないため低いがテトラシアノニッケルは水中でゆっくりと電離して毒性を生ずるはずである。電離したシアンというのは塩化物イオンチャネルなどを通して細胞内に流入するわけだがテトラシアノニッケルは水がほとんど配位しないため塩化物イオンより見かけ上の大きさは小さくなると考えられ、細胞膜への溶解を通じて浸透したりして直接シトクロム中心と入れ替わったりしてしまうだろうと考えられる。また、極性を打ち消しあって安定しているためにシアン化合物としては融点が並外れて低く蒸気圧も高いであろうという予想はできる。また、極性を持たないため鼻の匂いの受容体と結合せず青酸よりは匂いを感じないはずである。体に入るとどうなるかわからない。テトラカルボニルニッケルより毒性は低いかも知れない。ただ、体に良いことなどひとつもないとは言えそうである。
 
 
 先ほど、アビアントKの発売元である祐徳薬品工業をWikipediaで見ていたのだが、その会社は祐徳稲荷神社という神社に社名が由来するらしい。あの香りも仏教とか神道の儀式に使う香に由来する感じがするし何か思いが込められているかもしれない。

『いなり、こんこん、恋いろは。』を読んで思ったこと

2014-01-28 09:44:37 | 日記
 気になったので、『いなり、こんこん、恋いろは。』を買ってきた。一巻を読んでから、表紙を見返して気になったことはこの著者である『よしだもろへ』というペンネームの苗字の部分が実名で京都出身だったら吉田兼好という徒然草の著者や京都の吉田神社と何か遠からぬ関係がありそうだと直感したことだった。伏見神社について扱っているが、おそらく左京に近いところに住んでいて、家から吉田神社も伏見稲荷もそう遠くないはずだと思われた。
 実際に神社に勤める神主や巫女になる人も明らかに普通に学校に通ってきて、普通に部活動やったり、教室で雑談したりしている。この作品はその感覚で書かれているので意外にも本物に接近した人物という感じが本当にするのだ。昔、そのままの状態を保存しようとするのは良くないのは確実であるというのは本当に保存することを行っていた人物に近い人に意外に多い感想なのだが、私にもそういう記憶がないわけでもない。私は仏教に反しているが肉も含めて栄養のバランスよく食事を取ったほうが良いと考えているし、建築を行うときに神道で祈願したからといって土地には祈願したひとの心境変化はあっても物質的な変化はないことは常識な感じがしたのだが少し昔の本職の人は絶対受け入れなかった。修学旅行で神社に行ったときに正式な礼拝の方法である二礼・二拍手・一礼を行ったらカルト宗教と同じ扱いを受けたり、なぜか、雑談で『さなぶり餅』について話したら後で離れていってしまったりしたことがある。習慣が違うということは礼儀作法を心得ていないのと同じであり、日本の正式だった旧習慣というのは神棚や仏壇が置いてない家に住んでいることが多い大抵の人にとって、もはや違っている誤ったものであって、あまり違いを見せてはいけないものだと心得たほうが良いと感じる。
 そんなことはさておいて、『げんしけん 二代目』の大野さんが宇迦さまのコスプレをするにも髪の毛が邪魔なので切るとかヴィンランドサガのトルフィンが髪を切ってヒゲを剃っていたりとかいうストーリーを漫画喫茶で昨日読んできたので自分も今日は床屋にいってこようと思う。そういえば以前の職場の所長も髪の毛を切ってきていた気がする。
 

発展の限界

2014-01-27 21:57:06 | 科学っぽい思考

 人間の発展の限界というのはいずれやってくると考える。自然科学の発展が限界に達するまでもなく産業にやってきて経済にやってくるはずである。なぜならば、人間のしている作業を全自動化するのに量子コンピュータやカーボンナノチューブは不要であるはずだからで、人が働かなくて良いということは生身の人間に給与を払う存在は居ないわけで給与がなければ人は納税したり商品を購入したりはできないからである。
 先ほどNHKの番組であるクローズアップ現代において『あしたがみえない~深刻化する”ガールズ・プア”~』という特集が組まれていたが、高校卒業の女性の正規雇用の率が低下しており、高校を卒業した男性の正規雇用率も下がっているというようものだったが、実際には大卒もあんな感じである。実際の正規雇用の人物でも正社員型派遣になったり、試用期間で理由がついて解雇されたり、職を移動せざるを得ずに転職歴が多くなったりで統計データ上は見えていないが若い無傷の人は年を追うごとに少なくなっていく。おそらく、この現象は産業の効率化が急速に発展して人が何かをすることが必要なくなった部分が大きくなった結果であろうと思われる。あの雇用されない人物は昔だったら会計するところや技術を覚えて手作業で製品を作っていたところに配置されていたはずである。
 競争原理による発展が限界を迎えても技術的な発展でなく、消費者の状況を変化させることによって消費を生み出すファッションやお菓子メーカーのような戦略をとるのは個人的に好きでない。なにか有害な感じがする。人間のいざこざの根源そのものではないだろうか。
 そこまで行ったら何か共産主義に似ているが配給という仕組みも考えなければいけないと私は考えている。それと本当に働く必要のない働ける人間というものに適切な新たな価値基準をいまのうちに検討する必要を感じる。
  自然科学が発展し尽くしてある時点から後の人間のしていることはほぼ完全に正しい状況というのが発生した時に人間が正常に成長するのかも知りたいことである。人間は明らかに何も知らずに今後も未来永劫生まれてくるし、長い時間、成長しても考えていることは完全に事実を反映したものであるはずがない条件で生きていたわけで、なにか礼儀作法で人と違うことをしたり、間違えたことを言ったり書いたり絶対にするはずで、そのことが大抵の場合は違いとはみなされず絶対に誤りである状況で議論の余地もないとされるときにどう理解したり試行錯誤するのかがよくわからない。


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