まず、最初に読んでいたエッチな本は幼稚園生の時に読んだ「ふしぎの海のナディア」であった。ナディアの服が全体的に露出が多いのもさることながら、最後の方でエレクトラさんのお腹が大きくなっていた事が非常に気がかりで何か心配であったように思われる。
次に読んだのは小学5年生から中学生にかけて読んだ石ノ森章太郎の「マンガ 日本の歴史」であり、特に縄文時代の描写における婚姻形態の解説における漫画の描写がかなり気に入っていた。本当にそうであったのかについては石ノ森章太郎の推測であろうと思われ正しいと言ってはならないと思うのだが、自分はかなり本当の事であろうと信じて読んでいた。「マンガ 日本の歴史」を読んでいるとかなり違った感じの性描写がちらほら出てくるのだが、自分の好みを当たってみると原点はここであるように思われ、似たような男女を確かに見たような記憶があり、自分の中で一番信ぴょう性が高く人が好むものであるように感じられた。自分と異なる性についての考え方をする人間を見つけると排斥したりする人間はかなり多いのであるが、お見合いをしなければならないと思ってそのような描写を排斥している人は多いと感じる。しかし、お見合いの描写や話題まで挫く人間は多く、自分は日本の歴史のその性描写がお見合いの結果によるものである事を無視して批判すると確かに結婚できないような感覚を覚える。 今朝、NHKで漫画家が商業的に適切な笑いを浮かべて排斥しないように訴えていたが、本当にコミュニケーションをやろうとしたり結婚させたいならば実際にそうした方が良かろうとおもわれるし、その漫画化の意図に反して、今まで書いたもので十分なので新しく書いて発表するのを控えて、人間の習性そのままに日本神話にあるような過去の安心・安全な描写のものを持ち出してイメージを変えつつ何回も煎じるのが共通認識らしきものが出来て良かろうと思われる。
それ以降よんだ漫画も色々あるのだが他の作品を読まなくても十分だったのではないかと最近感じているがあらかた読んだからであるような気がする。読んで良い人と良くない人がいて、自分は後者であるようだが、実際にそれが出来ない人間ややらせたくない人間がそれを読んだ時にそれを言われるのであって、自分の様な境遇にあるもの以外は気にしなくて良いのかもしれない。
最近、子供の数が少ないという話を聞いているが、それ以上にに子供どうしで遊んでいる状態が少なく見えるのは気のせいだろうか?憶測だが、連絡をとれていないのではないかと思っている。携帯電話を教えて良い事になっているが事実上自主規制でダメであったり、自分で連絡できる連絡網を作っていなかったり、休みに塾に通っていたりで暇がなかったり様々な要因があるのかもしれないが、とにかく、金を持っていないはずの中高生が少人数できれいな格好でただ歩いている描写が不自然に見える。自分は宇都宮や新宿などの街中でかくれんぼや鬼ごっこをしたことがあるが、そういうのがふつうであると錯覚していたのかもしれないが、一番自然に感じるものである。