chargeのブログ

人のブログを見て真似して書いていきます。似たブログを見つけたら教えてください。

ドクターヘリはどこから来たのか

2014-01-13 20:57:42 | 日記
 この前の事故の時にドクターヘリがやってきてくれたが、獨協医科大学からやってきたことは分かっても、どこに着陸してどこに飛んでいったかはわからなかった。おそらくそのへんの農道に着陸したのだと思うがヘリが西から来たのを遠巻きに見ただけで確認していない。
 獨協医科大学では2010年からドクターヘリを運用しているようで月に60回ぐらい出動するらしくそんなにヘリコプターで運ぶ人がいるのに驚くが、僻地では頻繁に呼ばれるのがその出動回数の理由のように考えているがどのように運用されているかの詳細は知らない。ヘリは壬生町から真岡市には10分以内で到着するとのことだが、ヘリコプターがいきなりエンジンをかけて飛び立てるようになったのは結構最近のことであるように記憶している。
 獨協で運用しているユーロコプターのEC-135というヘリコプターはテールのファンがフェネストロンというものでなかに埋め込まれている訳だが実物を見たのはこの前の事故が初めてである。フェネストロンにすると静かになり接触事故が減るということで医療用途に多く採用されているらしい。このヘリコプターはエンジン温めのための低速回転をしなくても飛べるのかもしれないと思うと昔のヘリコプターのイメージがあった私にはすごく高性能に見える。
 
     

歴史を科学的に考える

2014-01-13 10:56:46 | 科学っぽい思考

  歴史というものを科学的に考えることは案外古くからおこなわれていて、古代ギリシャでは過去の文献と暦法の照らし合わせが時々行われていたようである。そのことは科学的とは一般的には言えないように思われるがそのように一定の尺度で計測して記録し続けたものやそれを用いた考察はすべて科学的記録・考察の一つとみなすことができると考えられる。なぜならすべての科学に用いられる計算や考えにおいて重要なのは個数や比と長さ・重さ・時間の区切りであってその区切が設けられていて正確に記帳がなされている記録は記録者が捉え間違いをしても必然的に科学的な考察の一部と言ってよい状態になるからだ。その点でいうと、異なるものを交換する通貨の価値というのは大昔から根本的には正しい記録ではないのだが今でも仕組みを崩すことができない問題の一つになっている。

 科学の目的の一つが歴史すなわち過去を明らかにすることにあるということは科学が世界全般の事象の在り方をとらえるためにすべての時間軸の方向に探求の方向が向っているわけだから明らかである。しかし、同じ科学でも一般的に自然科学と歴史のような人文科学の分野は離れていて、歴史は調査の段階で自然科学的手法を用いることはあっても関係は薄いと認識している人が多いように私の見聞きする限りでは感じられる。実際に歴史の教科書を見ると結果として出てきた結論のみが記載されておりどのような経過をたどってその事が明らかになったのかは資料集にも書いていないことが多く、研究の方法も高度な科学を用いたものは少ないのでそう思われているのではないかちょっとだけ考えたが、本当にそうかは人によって違う気がしていて大体どんな捉え方をされているのかは未だに人の口から聞かせてもらったことは無い。

 歴史を自然科学と同様には考えることが難しいもう一つの理由は同じ条件を再現すればどこでも同じことができていることを中心として扱うのでは無く、逆にある場所でしか起こらなかった他の場所での再現性の低く、考察しづらい事象を中心に扱っている事にもあると考えられる。しかし、歴史も科学の一つである人文科学であってそれが出来る部分には要求されていて、実際に行われている。文系・理系の区別はあるのだが歴史というのは文献調査をするが、どちらかというと科学の一分野だということは高校生の時点で進路を決めるうえでも明確な概念として持っていると人によっては助かるかもしれない。

 歴史というものには場所や時間などの制約によって、大抵は室内にいて実験による僅かな帰納によって演繹的に歴史的事実が浮かび上がるということはほとんど無いわけですごく手間がかかるのだが、歴史というものが何かという概念を正しいものにすることは容易である。なぜなら部屋にいても身の回りに物体が配置されているということはその物体には置かれた経緯があるわけで、その経緯を考えることは歴史を考えることと等価な実験であるからだ。そのことを私は試しにテレビで行ってみたことがある。実家には今はAQUOSというLED液晶のテレビが今おいてあるのだが、そこにそのテレビが置かれた経緯を父に聞いたところ三菱の93年製ワイドテレビが壊れたので変えに買ったのだという。私はその事は事実ではないかと思っているのだが、そのテレビの周りをいくら見回しても、少し持ち上げてみても父が買ってきて置いたという証拠と言えるものは乏しい。そのことによって、目の前にテレビがあってそこに現在テレビがあって誰かが購入して運んできたことは事実だが父の証言はその置かれた経緯としてつじつまが合っているということであって、時々電気配線の修理を頼んでいる旭電機が持ってきてくれたことを自分の手柄にしようと両親が内緒にしている可能性も考えられなくはない状況なのだ。自分で試してみると分かるがコップの中に小言を吐いた後に三回回してテーブルに置いたコップをテーブルに置き、どのようにテーブルにコップを置いたか判って正確に答える人は見た人以外は皆無であるはずである。父が嘘をついている可能性は私としては低い感じがするわけだが人間は後でわからなくなる事に気が付いて利用して頻繁につじつま合わせを働いてきた経緯があるので父が忘れん坊だったり嘘つきでないと私が絶対に言うことができないように、歴史のところどころにそういう行為がなされた場所や時期がある可能性は高い。そんな考察が出来たわけだが案外に重要なことであるように思われた。

 最近、礼儀作法で注意されることがあったが、礼儀作法がかなりの勢いで変化しているのに気が付いた。『もしもし』と言わないことや年賀状が若い人には失礼なこと、あいさつをすると人によっては嫌われるなど発生するはずがないように思われたことが発生している気がした。大抵、違った動作をして違った反応を示す人が色々出てくるときというのはその物事は必要が薄い感じがあるのだが時によってはそれが運命の分かれ目になる。昭和60時代と平成26年の日本の人間の様子はものすごく変わっているわけだが礼儀作法が当時以前から完成されいて、かつ、同じ方法である必要のあるものだったら物理法則がその当時と大きく異ならないのと同じように今のようにならなかったのではないかと時々感じている。

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 先ほど、先週の事故現場に行ってきたが花があがっていて血痕があるだけで私が電話したり、小さい子供の発見が1分ぐらい遅れていたり、頭が変形していて動かせないのにかろうじて微妙にマウトゥーマウスで人工呼吸をしたりしていたことなど全く分からない。報道にも私は出てきていないわけだが記録というのは大体はそんなものだと感じている。

           


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