江戸時代、「徳川御三家」と呼ばれた3つの家といえば、水戸家、紀伊家と何家でしょう?
・清水家
・田安家
・尾張家
・一橋家
→ 尾張家
「御三家」とは徳川家康の九男義直、十男頼宣、十一男頼房をそれぞれ祖とする尾張家、紀伊家、水戸家の総称です。将軍に継嗣がない場合は将軍家を相続する権利を有していました。
なお、東京・四谷駅、赤坂見附近くの紀尾井町は、次のとおり、中屋敷の後を一つの町名にしてできています。
地名はこの地にかつてあった紀州徳川家中屋敷、尾張徳川家中屋敷、彦根井伊家中屋敷に由来しており(それぞれ紀州家、尾州家、井伊家と呼ばれた)、各家の文字を1文字ずつとって町名とされました。
紀州徳川家の中屋敷跡は、現在のグランドプリンスホテル赤坂・清水谷公園。
尾張徳川家の屋敷跡は、現在の上智大学。
井伊家の屋敷跡は、現在のホテルニューオータニ付近です。
では、御三家の水戸徳川家の中屋敷跡は、東大農学部のある弥生キャンパスです。
水戸徳川家の上屋敷だった場所は、TOKYOドームで、庭園だった場所は、現在の都立小石川後楽園です。
水戸徳川家の二代藩主・徳川光圀は藩主時代、この場所の水戸徳川家上屋敷に暮らしていました。
回答案にある、清水徳川家、田安徳川家の跡地は、現在の北の丸公園です。
徳川御三卿の一つ田安徳川家の上屋敷は、日本武道館の西側半分、第3駐車場、ザ・フォレスト北の丸、芝生広場、小川と池、千鳥ケ淵沿いの森など、だいたい北の丸公園の西側一帯です。
徳川御三卿の 一つ清水徳川家の上屋敷は、日本武道館の東側半分、日本武道館へ通じる道路、吉田茂像がある広場など、だいたい北の丸公園の東側一帯です。
一橋徳川家の上屋敷は、皇居の北端、平川門交差点の近くです。
のち徳川15代将軍となる徳川七郎麻呂が養子に入ったのが、一橋徳川家です。(徳川七郎麻呂 → 一橋慶喜 → 徳川慶喜)。
一橋徳川家の屋敷跡地の碑は、丸紅本社ビルの敷地に建っています。